2008年6月 1日 (日)

Time Up:エピローグ

 五月二十八日、安永重蔵(じゅうぞう)内閣官房長官、私見とした上で平壌の黄副主席狙撃関与を示唆。
 五月二十九日、北朝鮮政府、狙撃は魚前人民武力部長の支持勢力の仕業とし、首謀者ら魚派要人を粛清。
 同日、紀尾井町のロシア料理店「ゴバック」店主ヨシフ・イヴァノヴィッチ・アレーエフ、失踪。
 五月三十日、台湾の董毅(とうき)元総統、来日。
 五月三十一日、入江一郎・外務省アジア大洋州局北東アジア課長、執務中に急死。死因は急性心不全。
 六月二日、都内滞在中の台湾・董元総統、パーティーの席上で「二つの中国」について言及。中国政府はこれに不快感を表明、同時に日本政府へ善処を要請。
 六月五日、安永官房長官、董元総統は私的な訪日との理由から、中国の要請への対応は困難とコメント。
 六月七日、米国政府、ホノルルにCIA関係者を派遣、黄沢究副主席の亡命受容れを前提に事情聴取を開始。
 同日、ニューヨーク郊外のモーテルに米国民主党ジョシュ・ゲッパーズ上院議員と、馴染の売春婦の情死体。
 六月十三日、在日朝鮮人安智鉄、射殺体で発見。
 六月十六日、狙撃関与の疑いがある在日朝鮮人申広秀(シングァンス)、潜伏中の都内・代々木の雑居ビルで警視庁捜査員が発見、銃撃戦の結果射殺。この際、同行出動した公安部管理官・小坂井寛晃(こざかいひろあき)警視が殉職。
 六月十九日、水口嘉子外務大臣、一身上の都合を理由に辞任。マスコミは黄副主席狙撃事件による実質的な更迭と報道。
 六月二十二日、小坂井警視長の警察葬、青山葬儀所で厳かに執行。
 同日、佐々木篤警察庁長官、健康上の理由で退官。
 六月二十八日、在日Jリーガー・安智平とその家族、アメリカ大使館に保護を申請。館内での記者会見で「祖国はもうない」と語る。
 六月三十日、米国民主党ビル・ケイン上院議員、自宅で拳銃自殺。
 七月三日、金総書記の三男・金正云、留学先のモスクワから失踪。
 七月六日、第三国経由を含める北朝鮮への入出国および物資の送付・受取り、無期限で全面禁止。

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Time Up:十四.守るべきもの(下)

 五月二十五日。
 小田は、横浜市西区みなとみらいの警友病院に入院中の工藤を見舞った。
「処分が決定したんですね」
 小田が無言で渡す書類を工藤は受け取り、一読して驚きに目を見開いた。
「県警警備部管理官……横滑りですか」
「それのお蔭じゃないか?」
 小田が指した右腕の包帯を工藤は見た。もしあのナイフに毒でも仕込まれていたら、二階級特進だったかもしれない。だが、それをカウントして横滑りということは……
「まあ、解釈は自由だが、今の警察に人材を遊ばせる余裕はない。競技場に銃を隠した人物、当日西スタンド席を買った朝鮮人……君達もずっと寝ていられては困るんだ」
「我々……そう言えば所轄の斉木巡査……」
「復帰したよ。今日は競技場警備の筈だ」
「ああ……今日から再開でしたね」
 工藤は競技場の方角に視線を向けた。背後の窓外では、西日を受けたベイブリッジが朱色に輝いていた。
「井出さんは色々動いていたらしい。亡くなったのはショックだろうが、それで君も助かったんだよ」
「わかりました。本日はご足労さまでした」
 照れ隠しか工藤の厄介払いに苦笑をこらえた小田は、しかしドアに手をかけたところで呼び止められた。
「何だ?」
「そのポーカーフェイス、やめたらどうですか?」
 振り向いた小田は微苦笑を返し、敬礼を交わして廊下に消えた。

 横浜国際総合競技場周辺は一週間ぶりに賑わっていた。一ヶ月余り中断したJリーグの再開初戦で、サポーターが列をなす開門間近のゲート前では手荷物検査。北ゲート担当の斉木にとって、私的観戦はお預けということでもあった。
 背後の声に振り返った斉木は、サポーターの一団が中央に掲げた三浦達哉の遺影に胸が詰まった。抱える川上貴子が長髪を肩の所でばっさり切っているのが、痛々しかった。
「あなた達……ごめんね、お葬式にも行けなくて」
「知ってます。ニュース見ました。大変だったんでしょう?」
 そこへ非番で現れた中川に気づき、斉木は姿勢を正した。
「どうした?……あ、その写真……」
 中川の反応に、川上が怪訝そうに首をかしげた。
「あの、こちらは?」
「三浦君の敵を討ってくれた刑事さん。お礼を言いなさい」
 斉木の言葉に若者達も姿勢を正す。川上は目を潤ませていた。
「ありがとうございます。彼も喜んでくれると思います」
 中川は咄嗟に返す言葉が浮かばず、曖昧に頷き返した。
「僕だけじゃない。彼女も活躍して、今度昇進が決まってるんだ」
「おめでとうございます」
 今度は斉木が照れる番だった。彼女には巡査部長の内示が下りている。事件の後始末はオフレコとて説明するわけにもいかず、曖昧にうなずいた若者達は、入場を待つ列へ去っていった。数人が去り際に残した敬礼に応えて見送り、二人はしばらくそこにたたずんでいた。
「あ、あの、ご苦労様です」
「ああ。怪我はもういいのか?」
「はい、だいぶ」
 斉木は制帽を脱いで見せた。派手に包帯を巻いていた額にはコースター大の絆創膏が貼ってあった。
「なるほどね。あ、そうだ、このたびは昇進おめでとう」
「ありがとうございます。あの……実はSITに誘われてるんです」
「……そうか。伊東君は知ってるの?」
「はい。希望してできる任務ではないし、引き受けるべきだって……でも本心じゃないってくらい、わかります。あたし自身、今回の任務も全然想像してなかったし、それに……」
「『氏名削除』か?」
「それはSATです。それよりあたし、怖いんです。また人を撃つのが。今回も、凱通訳の発砲で反射的に彼女から銃口を逸らしてしまって……あたし、今度銃を握れるかどうか自信ない。SIT以前に警察官失格ですよね」
「気持ちはわかる。俺も、辞めようかと思ったが……あの後加藤に言われたんだ。やり逃げは許さんってね」
「……」
「全部終わったわけじゃない。俺が今後何ができるかわからないが、今辞めたら早紀にも、尚子にも顔向けできない気がするんだ。誰かが果たすべき任務に指名されたなら、全力を尽くすべきだろう」
「ありがとうございます……よく考えてみます」
 狙撃発生後の数日間は、その後の急展開もありマスコミが先を争って事件を追跡、早紀の悲しい正体に関する緘口令がなければ、今はひっそり悲しみに耐える片桐家、浮田家、松嶋家は餌食になっていた筈だ。
 斉木には守るべきものがある。守られるというべきか。加藤が今後誰かとやり直せるか否かは加藤次第だが、中川が今後何を守っていくべきか、早紀がそのヒントを遺したのではないか。
 一階北スタンド席の座面裏にはビデオテープ大の空洞。捜査の結果この座席はJリーグ中断前最後の試合時に破損、修理を依頼していたと判明、業者に捜査員が急行したがもぬけの空だった。
 当日、一味からチケットを受け取った早紀は拳銃を手に西スタンドで待機。北スタンド席も使ったのがカモフラージュか、当初西スタンド席が手に入らなかったのかは不明。去年のチケットは不注意と上層部は見ていたが、中川は早紀がわざと落としたと確信していた。保土ヶ谷への車中では「信じてる」と言っていたが、既に状況は察知していた筈ではああ言うしかなかったのか、それとも一縷の望みだったのか。
 メールにあった訓練所だが、元拉致被害者の証言では敵地工作地という区域があり、他の区域と厳しく隔離していたと言う。訓練と言えば凱通訳も、相当に具体的な指令を受けていたと見られており、鄭の遺志に反し早紀を守りきれなかった捜査員の、静かな憤りをかきたてていた。朝鮮人、安智鉄が入手したチケットもゲートでの半券回収を確認。関与は疑いなく口封じの可能性も大だが、首謀者を摘発し根を絶つまで、斉木に語った通りこの事件に完全解決と言う名のタイムアップはない。彼が退官を断念した、それが一番の理由だった。
 午後五時、定刻通り開門。オレンジや青、緑のライトアップで夕闇に浮かび上がった競技場が行列を飲み込んでいく。それを見届けた中川は斉木の敬礼に見送られ、駅の方へと戻り始めた。

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2008年5月30日 (金)

Time Up:十四.守るべきもの(中)

――酒井です。
「田村です。ご無沙汰しています……井出さんが急死されましたね。心臓発作との発表でしたが……」
――……実は稲生課長補佐のルートに名前が出てね。問題は情報を独断で稲生氏に流したことと、試合前夜、急に総聯幹部、それもあの魚珍禹派の人物と接触したんだ。
「よく察知しましたね。警察のスパイでもいたんですか?」
――いや、今回は先方がリークしてきたんだ。近年の日朝関係悪化、本国の経済破綻などに乗じ在日社会の一部を日本側が抱き込んでいて、その中の外事ルートに通報があった。尤もこの外事ルートだが厳密には警察じゃない、外務省国際情報局だ。
「国際……情報局?」
――国際情報局分析第二課(アジア・アフリカ・中近東担当)。情報収集が専門で省外の人材も受け入れていてね。肩書はあくまで外務省なので相手の警戒も緩く、警察では得にくい情報も……それによると近年相次ぐ後妻の病死や高官の事故死も全部謀略でもおかしくないそうだ。黄副主席は総書記の三男・金正云(キムジョンウン)の後ろ盾だったらしいし。
「お家騒動ですか」
――異母兄の金正南は、人妻に金正一が手をつけたという生い立ちも災いし、人望はなくてね。金正一はそれを承知で後継者に考えているが、貸しを作り、スターリン批判や四人組裁判のように自分の業績が抹殺されるのを防ぐためだろう。
 ただ、政府も極秘処理するらしい。内通者の存在の他にワシントンも絡んでいてね。
「本当ですか?」
――サロメと盧通商部副部長の直接接触をセッティングしたのは、実は民主党のジョシュ・ゲッパーズ……
「ビル・ケインが出馬した、前回の大統領選挙参謀……?」
――そう。敗北直後に解任されたがその後側近に復帰、次期選挙での雪辱を期していると言われている。
「しかしまさか?確かに民主党は親朝的ですが……」
――同性愛経歴問題で度を失ったかな。もしゲッパーズの独断でないとなれば、ボスのケインも終わりだろうが。
「アメリカが知っていたとすれば、当然周辺諸国も?」
――そう、それぞれ手は打ちながら、ね。北の数倍もの韓国警備陣然り、北京の盧康徳急死然り。
「そう言えば徳田信枝へのリークも旧ソ連工作員でしたが……しかし井出さんも機密保持には留意していた筈ですが、リークした人間でもいたんですかね?」
――……
「工藤君を競技場に閉じ込めたのも、その一環ですか?」
――……
「しかし、それでも動きがあったということは……」
――魚珍禹派とのパイプは公安だ。工藤君は小田君の監視だけだったから不問に付すとして、狙撃犯侵入を許した失策は看過できない。公傷と相殺し賞罰なし、一、二年頭を冷やしたあとは本人次第だね。
「局長の急死も、どなたかのご指示だったのでしょうか?」
 回線を暫時の沈黙が支配した。受話器の向こうの酒井は今どんな表情、どんな心境でいるのだろう?
――ちなみに当日の両首脳退避……再確認したら実は鄭の電話の直後、小田君に進言した人物がいたんだ。
「本当ですか?誰だったのでしょう?」
――裵中佐だよ。
「なるほど……確かにあの時、我々にそこまで判断する余裕はなかった。それもまたこの事件の教訓でしょうか……空席になった警備局長職を辞退されたとか?」
 受話器の向こうで酒井が苦笑した。
「大野新警備局長が残念がっておられました。白馬山荘の現場にもおられたそうですね」
――一区切りつくまで現場で見守るべきと、考えたまでだ。
「……今後対朝外交はどうすべきなのでしょう?」
――制裁新法全面施行。それが第一歩だな。あちらは依然毎年数百万人が餓死、時間的余裕もあまりない。先年の王氏、今回の黄副主席と要人も国を捨てる一方だし。
「黄副主席……大阪での出国劇は鮮やかでしたねえ」
 事件後予定通り関西を訪問した黄副主席はホテルで記者会見の席上、突然アメリカへの亡命意思を表明。蒼白の総聯関係者の制止を振り切り、いつの間に現れたアメリカ領事館関係者共々、府警の他自衛隊・駐日米軍までが警戒する中関西国際空港へ直行。全てあらかじめ打ち合わせていたかのように迅速で、北朝鮮政府が非難声明を出した時は既にホノルルへ東進する機上にいた。内外の反響は大きく、魚、黄という重鎮を相次いで失った金政権崩壊の秒読みを始めるメディアもある中、日朝両国政府だけが不自然な沈黙を守っていた。
 当日の試合直前、六万円でチケットを買った男は、作成されたモンタージュ公開で在日朝鮮人と判明。安智鉄(アンチチョル)。あの試合にも出場した安智平の弟だが五月以降行方不明。家族には総聯の用事で他出する旨連絡があり、在日社会ではよくあることで沈黙を保っていたが、今回のモンタージュ公開で遂に通報してきたのだった。新潟住まいの安智平に不審な動きはなく、計画への関与はないと外事は推測していた。
「警官の妻、北のトップを狙撃……見破れなければ大変でしたね。今回は、付け入る隙を与えずに済みましたが……北はまたこういう陰謀を仕掛けて来ると思われますか?」
――当分は大人しくしているだろうが……中国も北京の吉川典子病死や魚珍禹急死など、黙認していた可能性が大だ。かと言って日本が解明を試みれば……
「歴史問題を持ち出し横槍ですか。さっさと……」
――無駄だよ。中国に、歴史問題を決着させる意思はない。
「カード……ですか」
――尖閣諸島問題や反日暴動……対日政策全てに使えるのだから。日本が誠意で対応する限り……
「……」
――潮時かな。台湾問題も含め、あらためて考えるべきだね。
「アメリカや韓国はどうでしょう?今回の件が政策に影響する可能性は?」
――歴史をカードにしている点は韓国も同じだしねえ。アメリカだって、また民主党政権にでもなれば……
「結局、日本が自力で対処するしかないと?」
――独力で有事に対処できてこその危機管理だからね。尤も、近年のアジア情勢下で国民の意識も変わりつつあるし、今後はその行方次第だろうが。

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2008年5月29日 (木)

Time Up:十四.守るべきもの(上)

 水口外相の公用車は宵闇の衆議院第二別館前を疾走、首相官邸の車寄に滑り込んだ。大階段を登り執務室に足を踏み入れた彼女は、応接セットに端坐する田宮真砂子(まさこ)に絶句した。先年内外を驚かせた電撃更迭の後を襲ったのは他ならぬ水口で、その後は絶交状態だった。
「お久しぶりです……私も関係するお話ですか?」
「私がそう判断しご足労願いました」
 そう言いながら部屋に現れたのはこの官邸のあるじ……小宮山雄一郎(ゆういちろう)だった。
「総理!ご無事ですか?お怪我は?」
「この通り五体満足です……田宮先生が北京にお持ちのパイプからメッセージが届きました」
 腰を降ろした小宮山は顔から笑いを消し、本題に入った。
「先刻、報告を受けましたが……事実なのですか?」
「イランも同じ事実を確認しています。情報照合の結果、一部の独断などではないと結論づけました」
 同席していたイラン大使が、小宮山の言葉に頷いてみせた。
「警察は早くから察知していたようですが、私には何も……」
「まあ、現場でどう判断したかはわかりませんが、結果的にはよろしかったのでは?」
「……」
「先方は内々に処理したいと伝えてきました。決裂は避けたいようです」
「なかったことにする、ですね?」
「安永(やすなが・内閣官房)長官は激怒するでしょうが機密保持のためです。但し同時に今後の戒めとして、関係者には超法規的措置を講じます」
 水口は蒼白になっていた。
「対朝外交方針も変更――ですか?」
「今は事態収拾が最優先ですが……」
 小宮山は一旦言葉を切り、あらためて水口の顔を見据えた。
「潮時でしょう。あくまでカードのつもりでしたが、勿体ぶらず速やかに実行すべきだった。それが真の、歴史の清算にもなる……ご理解いただけますね?」
 室内を重苦しい沈黙が支配した。それは水口にだけでなく、近隣諸国に理解的な田宮にも苦渋の決定だった。
「刀と言えば、日本刀は時々素振りで空を斬ることが大切とか……至急各方面に指示しますので、よろしく」
 小宮山はそう言って立ち上がった。

 翌未明、香港を発った中国民航ツポレフ一五四チャーター機は垂直尾翼中央に五星紅旗を浮かび上がらせ、月夜の雲海を一路北上していた。
 中国の亡命受容れが魚珍禹に伝えられたのは午前〇時過ぎ。テレビとパソコンは急に不通、新聞を買いに行かせた部下は戻らない。情報から隔絶され用心深くなっていた魚だが、人民武力部政治委員の朱文甫(スムンボ)が北京に入れた電話口で先方が確約したと聞いて愁眉を開き、急かされるまま支度、空港へ直行。服務員が勧めるワインで一眠りの後トイレに立ち、便器に座ったまま思いに耽る。黄が訪日中だが何か異変……と思い到った瞬間ドアが開き、正面に立った服務員が抱えた毛布から飛び出した銃弾が魚の心臓を貫いた。服務員姿の許貞恵が客室に戻ると、蒼白の朱が着席していた。
「同志のご協力で祖国の危機は救われました」
「……」
「何か召し上がられますか?」
「――要らん!」
 怯えを怒声で隠した朱に許は乾いた微笑を返し、永遠に空席となったテーブルから、下剤を混入していたワイングラスを持ち去った。
 数時間後、北京首都空港に着陸した中国民航機から或る物体が降ろされ、定刻を遅れ待機中の定期便に積み替えられると、朝焼けの中を平壌へ飛び立っていった。

 中川への、監察の事情聴取は未明に終了。始発で帰宅すると、部屋のパソコンに見慣れた送信元のメールが届いていた。

 差出人名をどうするか迷いました。貴方がこれを読む時には……全て知っている筈ですね?
 私の運命がねじ曲られたのは二年余り前。新潟に帰省中、東京にいた筈の恋人の、目立たない場所で会いたいというメールに赴いた、海岸近くの林で覆面姿の男達に襲われ、袋に閉じ込められて小さな船に乗せられました。数日後、山間の収容施設でやっと目隠しを外され、中央ホール正面に飾られた金一成親子の写真で、自分が北朝鮮に拉致されたとわかりました。
 絶えず、互いの猜疑心を煽る工作……そしてある日、囚人同士殺し合え、生き残った一人だけ帰してやると言われました。鈍っていた判断力で理解できたのは、ここで死ぬか皆を殺すかの二者択一。それでも最後の二人になった時自ら喉を掻き切った女性の、死に際の微笑は今でも憶えています。
 次に送られた施設でも再び…そして最後に生き残った私の前に鄭が現れ、静かな山奥のコテージで銃を始めとした武器の扱い、素手で相手を倒す方法などあらゆる戦闘技術を叩き込みました。訓練は過酷でしたが彼は初めて、私を一人の人間として扱ってくれました。
 一年後、中国旅行中の女性としてやっと日本の土を踏んだ私は、今度は松嶋早紀にすり替わり…貴方と出会いました。警察官と知った時は迷いましたが、鄭は好都合と言いました。上部の判断で、彼は不満そうでしたが。
 拳銃はスタンドの発煙筒騒ぎの隙に座席を壊し、修理業者が仕込む手筈です。騒ぎを起こさせた学生は鄭が口を封じ、それに気づいた斎藤さんは私が殺しました。その後移った……先が飯田さんの部屋とは計算外でしたが。その飯田さんにアジトを突き止められたのは多分まだ貴方を愛していた、彼女の勘だったのでしょう。そして私にも隙があった…貴方を愛してしまったから。また一緒に、サッカーを観たかった…
 北朝鮮による日本人拉致は何百人にもなりますが、その一部は日本に戻っているのです。正体を隠し、いつ来ると知れぬ指令を待ちながら。こんなことで血を流すのは私で最後にして下さい。
                         中川 早紀

 警察が調べたところ、発信元は五月十五日午後、町田市内のインターネット喫茶。店員の証言では同時刻黒いキャップの若い男が入店、二十分程で立ち去ったと言う。服装から警察は、片桐幸子と断定。鄭が語った約束に触れていないのは、実現しないとの覚悟ゆえか。
 着信は試合当日午後四時。全てが終わる頃届くよう送ったのだ。

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2008年5月27日 (火)

Time Up:十三.銃声(下)

 正面玄関の真下に一般用の駐車場がある。マイカー来場が全面禁止の今日は関係車両がまばらに駐車しているだけで、神殿のように支柱が並ぶフロアーは上階の異変も知らぬげに、がらんと静まり返っていた。
 長島と、女性捜査員に伴なわれた許がエレベーターで現れ、隅に停車していた覆面パトカーに滑り込むと、静かに駐車場を後にした。上空には非常時に備え、狙撃銃を構えるSATが乗り込んだ警察のヘリコプター。
「北京経由だったな?」
「十八時二〇分成田発の、ノースウェスト一一便です」
 長島がバックミラー越しに運転手へ目配せ、サイレンを起動したパトカーは第三京浜を南へ加速し始めた。
「鄭少佐の罪は消えないが、最後の選択を私は理解する……もし君が相手だったら、我々は阻止できたかな?」
 車内を支配する沈黙に、運転手がバックミラーから二人を覗き込んだ。
「……ご想像にお任せするとしか答えられません」
「まあいい……とにかく君の働きで最悪の事態は防がれた。上からも別途、平壌に謝意が伝えられる筈だ」
「ありがとうございます」
 虚ろに笑い返した許は、泣き腫らした視線を再び車窓に向けた。いつしか首都高速に入っていたパトカーは一旦減速して横浜駅真上の急カーブを通過すると、一路成田へ再び加速していった。

 鄭の死体を担架に乗せた救急隊員が、六階からエレベーターで戻ってきた。確認した崔はしばし瞑目、李が痛ましげに見遣る。斉木も井口に支えられ近づいてきた。かなり派手に出血したが、銃弾はこめかみをかすっただけだったのだった。他には転倒時にかすった手の甲の擦り傷。
 駆けつけた救急車の一台が、腹部を撃たれたSPを搬送。応急処置を受けた工藤が同乗。もう一台には密封された鄭、早紀と凱の死体を乗せて。
 救急車と入れ替わるようにに次々と駆けつけてくるパトカーの赤色灯が、正面玄関周辺をネオンのように照らし出す。その一台から降り立った田村を、中川は虚ろな目で見上げた。
「副主席一行は?」
「新横浜駅特別室に入った。予定通り、間もなく新幹線でここを離れる。車中で京都府警に引き継いだら、これからは後始末だな」
「……」
 田村の後ろからは、斉木と井口も近づいてきた。包帯で頭の傷を縛った斉木の美貌の上半分には、茶色に乾いた血が放射状に広がっていた。
「中川さん、大丈夫ですか?」
「ああ」
 そう答えた中川だが頭の中は真っ白で、自分の声も隣室の話し声のようだった。
 震えの止まらない手で拳銃をホルダーに収め、柳沢が腕を取って立たせる、その時耳元で
「貸しは、確かに返してもらった」
 という声に中川が振り向くと、加藤が横顔を向けたまま
「部屋代は心配するな」
 と言ったきり、照れくさそうにすぐ体を離した。中川の頬を熱い物が濡らし、柳沢がまた口をすぼめてその肩を叩いた。三台目の救急車が到着、斉木が井口と山崎に伴なわれ彼女が乗り込もうとした時
「斉木巡査、小田さんから伝言だ」
 呼び止められ振り返った斉木に、直立不動の田村が与えたのは、言葉でなく敬礼だった。原が、磯貝が、柳沢が、裵が、崔が、李が、朴課長が、加藤が、中川が、周囲の捜査員・警官が次々と倣い、斉木も答礼。しばしの後、自らも敬礼していた救急隊員に促された斉木達が乗り込乗り込んだ救急車は、敬礼の列の中をゆっくりと滑り出した。

――こちら警備本部。各員、状況を報告。
「港北署交通課、斉木巡査。現在……競技場東側を通過。間もなく労災病院」
――美奈子、大丈夫か?
 無線に割り込んできたのは、警護で白バイのハンドルを握っている筈の伊東だった。
「……秀晃?今、どこなの?」
――新横浜駅に着いた。黄副主席一行は、ホームに移動中だ。
「そう……あたしは大丈夫。額をかすっただけ」
――よかった……結婚しよう。
 井口と山崎は救急隊員と失笑を交わし、斉木は赤面。無線機からは誰かの咳払いが聞こえてきた。
「ちょっと……これ、皆に聞こえてるわよ」
――俺じゃだめか?
「そうじゃなくて……だって手に怪我したし、銃は握れるかもしれないけど、もう前みたいには……」
――何言ってるんだ。俺が守ってやる……だめか?
「……ありがとう」
――それ、OKの返事と思っていいのか?
「……バカ」
 斉木は目尻を湿らせた。減速した救急車は左折すると東ゲートへのスロープ下をくぐって労災病院の敷地に入り、救急入口へ近づいていった。

 各メディアは夕方を待たず一斉にこの事件を、外交的影響への憶測も交えながら報じた。殺されたビール販売員、被弾したSPと斉木の他はパニック時に二十余名が負傷。北側一階では、頭部が粉々になった男の死体を発見。所持品中にはリモコン起爆装置。斉木が仕留めた販売員が持っていた箱は二重底だった。過激派の手配リストと照合した結果、どちらも日本紅衛兵メンバーと判明。ダイナマイトを隠し持ち、屋根に仕掛けて廻っていたと思われた。なお、狙撃犯の身許については、警察は確認中と発表。

 午後五時半過ぎ、平壌近郊・十五号官邸大広間。
 金正一は正面のソファーに体を沈めていた。向かいには家庭電器卸売業の在日が献上した大型液晶テレビ。換金すれば数家族を餓死から救える代物だ。
 先刻から流れているのは親善試合終了を待たず相次いだ、突発事態とその後の動きを断続的に伝える臨時ニュース。体調不良を口実にここ数日、敷地面積は公邸である三七号官邸(市内)の十倍以上、湖のような池やゴルフコースまであるこの別邸で、これ幸いと好みの女性を集めての連日の淫行でゆるんだ、金の顔の下半分が怒りで痙攣していた。
「なぜだ?計画は完璧だった筈だぞ?何で、こうあっさり失敗した?誰の仕業にするんだ?国外マスコミに、どう説明する?黄の自作自演にするか?」
 全て金の自作自演と知っている側近には笑止だが、放っておけは金は糸の切れた凧のように迷走、弾道ミサイル再発射も言い出しかねない。
「日本側が調査要員でも送り込んでこない限りごまかせます。第一、黄副主席には各国マスコミも張り付いており、今自作自演説を持ち出しては逆効果――」
 側近の言葉は鋭い破壊音で中断、金が投げつけたリモコンを画面に飲みこんだ液晶テレビは一瞬で粗大ゴミと化した。彼の癇癪の犠牲となって、常時携えた護身用旧ソ連製自動拳銃で射殺された者は数知れず、一度ならずそれを目撃している側近は、破滅の予感に蒼白となった。
「ならどうする?中国に逃げるか?尤も先方の立場上北京もまずいだろうし、そう、魚が逃げ込んだ香港……」
「そう、魚人民武力部長です!」
 側近は半ば無意識に叫び、一人喋り続けていた金は面食らって、怪訝な顔で見返してきた。
「お前、何が言いたい?魚にとりなしてもらおうと?いや、それはだめだぞ。魚はガチガチの強硬派で、国外での受けは悪いから逆効果……」
「いえ、魚前部長が全ての黒幕だったことにするのです」
「そう、思い出したぞ、しくじったらそういう筋書だったな……しかしそれで収拾できるのか?」
「脈はあります。情報源の日本警察高官が」
「何だ?」
「急死したそうです」
「急死?……なるほど」
 金はにやりと笑った。
「日本も表沙汰にしたくないということだな?だったら問題ないじゃないか。中国に連絡してとっとと手配しろ」
 害虫を駆除するように命じた金の表情に浮かんでいたのは、重臣への敬意など薬にもしたくない悪意だった。
「これでやっと、邪魔な奴を始末できる……」

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2008年5月26日 (月)

Time Up:十三.銃声(中)

 紅白に塗り分けた全長百三メートルのレールは黒煙であっという間に包まれ、煙間からちらつく炎に観客がパニック、出口へ殺到し始めた。階段を踏み外し転倒、下敷きになるまいと逃げ惑う者。同伴者を見失ったカップルの悲鳴。親とはぐれた子供の泣き声。スタンドに突入した工藤らは、身動きが取れなくなった。
 爆発音に紛れた銃声を聴き取った長島と許は、コンコースの階段を駆け上がった。六階エレベーター脇には、写真を確認するまでもなく警備陣の頭脳にはっきり入力された顔の男が、うずくまっていた。
「鄭少佐!」
 真っ先に駆け寄った許に昔の階級で呼びかけられた鄭は、ゆっくり顔を上げ微笑した。
「……仏心が命取りになったな。この手で訓練したのを忘れていた、私のミスだ」
 捜査員達は言葉を失った。彼に重傷を負わせられる、そしてほぼ確実に場内にいる人物と言えば……
「彼女も場内だな?」
 鄭は無言で頷いた。スタンド突入を諦めた工藤や朴課長が周りをばらばらと囲む。
「訓練していた頃、何度か脱走を図った。私が一人で連れ戻し、また逃げる、の繰り返しだった」
 遠くを見る目つきになり語り続ける鄭を、捜査員達は無言で見守った。
「今回の任務を前に両親に会わせると私は約束した。帰国すれば何とかなると思ったが……」
「もういい……ご両親には我々が会わせる」
 長島はそう言って、鄭の真直ぐな視線を受け止めた。
「……」
「以前、少佐は私を死なせたくないと仰いました。私も少佐に、ここで死んで欲しくはありません」
 やっと口にできた。平穏な任務に就いていた頃からの想いを。あの事件を境に特殊任務志願、過酷な訓練に耐え、そして何度も夢にまで見た再会。だが、彼女が人知れず慕っていた男の腹部に出来た染みは広がりを止めないばかりか、路面にもゆっくりと溜まりを作りつつあった。
 沈黙を破るチャイムと共に開いたエレベーターから救急隊の担架が現れたが、思わず生気を取り戻した警備陣を最後まで裏切る銃声、そして皆が気づいた時鄭は、重傷と思えぬ素早さでエレベーターに乗り込んでいた。再び銃を構え殺到した警備陣は鄭の
「寄るなあッ!」
 という一喝、否、その左手にある手榴弾に立ち竦んだ。
「死ぬだけが責任の取り方ではあるまい。協力してくれれば相応の処遇……」
「全て調べたのだろう?付け足すことはないし、こうなった以上平壌も絶対に生かしておくまい」
「少佐……」
 もう半分泣き顔の許に微笑した後、鄭は警官達を見まわし
「彼女を止めてくれ。私がそう言ったと言えば充分だ。ご主人によろしくな」
 と言い、扉に引っかかっていた担架を蹴り飛ばした。逃がすまいと跳びかかった工藤の腿に鄭の投げたナイフが突き立ち、工藤は足を抱えて転倒。扉を閉ざしたエレベーターはゆっくり下降を始めた。
「少佐!」
「下の階だ!手榴弾を持っているぞ!退避!」
 許と長島の絶叫を砲撃のような衝撃か吹き飛ばし、床に叩きつけられた警官達が起き上がると、エレベーターの扉から漏れる薄い煙、そして階下からもう一度伝わってきた衝撃を最後にコンコースから緊張が去った。
 泣き崩れる許、歯を食いしばり足を抱える工藤を見ながら、長島は一つの怨念が終息したのを感じ、暫時立ち尽くしていたが、その最期の言葉を思い出し、無線に手を伸ばした。

 中川がたどり着いた貴賓室に人影はなく、いち早く退席した両首脳を追い正面玄関に向かう。グラウンド方向からも銃声。後で聞いた話では西二階スタンド席に不審者を発見、しかし間を措かず見失ったという。
 長い階段を駆け下りる両首脳にSPが張り付き、他の警官が周囲を固める。頭上からは、逃げ惑う観客の悲鳴や足音。西ゲートは急遽締め切った筈だが、鄭達にしてみると無理にVIP席近くの席を確保する必要はなかった。スタンドにうまくパニックを誘発すれば、警備突破は簡単ではないか。
 階段の下にやっと見えた正面玄関の向こうで、エンジンをかけた車列がドアを開け放ち待機。両首脳が専用車にあと数歩と近づいた時、銃声と同時にSPが一人崩れ落ち、中川達が一斉に銃口を向けたその先に
 西ゲート広場へ上がる階段の下で、早紀が拳銃を構えていた。中川と視線が絡み合い、怯んだようだったがそれも一瞬で、車内に身を沈めようとしていた首脳に銃口を向けた。
「やめろ!」
 柳沢が叫びながら発砲、裵が両首脳を突き飛ばすように後部座席に押し込み、車列はサイレンもけたたましく赤色灯の光を撒き散らしながら、駐車場へ向け猛発進した。
 それを見た早紀は踵を返し、階段へ物凄い勢いで走り出した。リンク上から車列を狙うつもりだったようだが、斉木と井口が階段の上から銃を構えていた。背後から肉薄する加藤を制し柳沢が
「そこまでだ、早紀さん」
 と、彼女の仮の名を呼びかけた。
「……」
「鄭栄秀は死んだ……『止めてくれ』。これが遺言だ。意味がわかるか?」
「!……」
 早紀の顔が歪み、しかしなおも動かない銃口を見かねたように崔が語りかけた。
「片桐、幸子さんですね?」
「!」
 銃口の後ろで彼女が動揺している。彼のことを知っていても、この場に現れるとは予想していなかった筈だ。
「崔泰映と言います。鄭栄秀の弟です。韓国から、兄を追って来ました」
「――」
「さっきの電話を、あなたもお聞きになったと思います。
 ご主人とやり直せませんか?ご両親ともお会いになればいい。今ならそれができると思います。
 歴史問題では私も思うことがあります。しかしそれを理由にこういうことを続けるのが正しいとも思わない。もう終わらせるべきです」
 下がりはじめた銃口に合わせて捜査員達が包囲環をせばめる中、柳沢が再び声をかける。
「新潟のご実家にも警備をつけた。銃をおろして全て話して欲しい。それかあなたにできる償……」
 突然炸裂した二発の銃声に続いて早紀の銃口が火を噴き、血飛沫と共に斉木が倒れた瞬間には、再度反転した早紀の銃口は加藤の眉間をぴたりと向いていて、加藤が二階級特進を覚悟した時
「クマンドゥダラ(やめなさい)!」
 裵の叫びと共に、彼の体は誰かの体当たりで横に吹き飛び、早紀の銃弾はそこにできた空間に飛び込んだ中川の眼前の路面に火花を散らした。一瞬後(おく)れ時ならぬ白煙。中川の応射が、柱に設置された泡消火装置に命中したのだ。雷鳴のようなSATの斉射をかわすべく早紀は後方に跳躍、柱の一つに背を寄せ動きを止めた。殺到した銃口が二重三重に囲む脇を、駐車場から再び現れた車列が猛スピードで通過。専用車の側面に赤い液体が飛散する。警護の白バイの一人が通過しざま、路肩の光景に一瞬視線を向けたようだった。
 車列が白煙を吹き飛ばした後も、目を見開き微動だにしない早紀に近づきかけ、中川は凍りついた。紅白に染まった泡消火装置のパイプが、彼女の左胸から突き出ていた。中川の銃撃で出来た破断面に、背中からぶつかったのだ。銃口をかきわけ進み出た山崎が脈拍と瞳孔を確かめると振り返って首を横に振り、瞼を閉じさせた。
 裵の横では凱通訳が倒れていた。手にした拳銃の銃弾は加藤の拳銃を吹き飛ばし、そしてその頭蓋は裵の銃弾で吹き飛んでいた。これが彼の、本当の任務だったと誰もが直感的に悟った。
「ウェ(なぜ)?」
 静まり返った空間に響いた、裵の問いに答えられる者もなく
「ウェ!」
 二回目の絶叫を聞きながら、中川はその場に座り込んだ。両手の指は銃身に食い込んで離れなかった。

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2008年5月22日 (木)

Time Up:十三.銃声(上)

 中川が二階西スタンドの屋根裏に入ると、処理班が既に作業を進めていた。
 一時五十五分で飲食物の呼売りは打ち切られるので、販売員を装うのは今のように難しいが、一般観戦客ならゲートさえ通過すれば、巡回中の警官・警備員も見逃す可能性が高い。スタンド入口でのチェックも、斎藤が解き明かした徳田信枝逃走計画と同じトリックを使えばいい。
 つまりチケットを入手した共犯者が入場、二人に検札済のチケットを渡した後は、洗面所などに潜む。二人は手にしたチケットでスタンドに入り、席に着いて時を待つのだ。ほぼ満席のスタンドで、座席番号でもわからない限り、二人の所在を特定することは不可能に近かった。
 最初に爆発物が発見されたのは東側。間もなく西側でも一個目を発見。スタンド奥の通路前、斜めに延びた直径約一メートルの支柱先端にダイナマイト一本を電磁石で固定、無線のアンテナが氷柱のように突き出ていた。
「うまく仕掛けたな。これなら、どの方向からも電波をキャッチできる」
「屋根裏になりますが、侵入したのでしょうか?」
「いや、天井の四隅に隙間がある。投げ縄の要領でロープを引っ掛け引き上げたんだ。一、二個所の爆発で屋根が倒壊することはあるまいが、全体に仕掛けられていたら……」
「八十四分(ぶん)の二十……では、支柱四つおきぐらい?」
「多分な。とにかく一個でも多く処理しよう」
 観客の視線を気にしつつ爆発物解体に着手。階段入口は立入禁止だが機動隊の盾は外側だから、爆発すれば屋根裏の中川達は一巻の終わりだ。
 一つを片づけると、左右に折れ曲がり続く薄暗い通路を移動。試合は、交替した日本側キーパーが失点を許さず、双方とも無得点のまま前半終了。公式戦顔負けの緊迫した展開に観客も気を取られ、通常にない警備の配置と動きには全く気づいていないようだが、それで得をするのは狙撃犯や爆破予告犯も同じなのだ。
 二個目はやはり四つ先の支柱で発見。班長は全処理班に支柱四本毎のチェックを指示した。
 屋根中央のブースに入ると、窓からは広いグラウンドが箱庭のように一目で見渡せた。室内を隈なく調べたが異状はなく、東側ブースも同様との報告に拍子抜けしつつ一同が部屋を後にしようとした時

――港北警察署からのお報せです。

 との場内アナウンスに皆は顔を見合わせた。スタンドの大型スクリーンには、鄭の顔写真が表示されていた。

――先日より発生しています連続殺人事件につき、容疑者の身許が発表されました。お心当りの方は至急最寄の警察までご一報下さいますよう、ご協力をお願いします。

「女の共犯者がいたんじゃありませんでしたか?」
 中川にちらと目を遣った班長が、班員の言葉を咎めた。
「おいっ……ともあれ、逮捕状は間に合ったようだな」
「プレッシャーか。でも、逆効果になったりしませんかね?」
「大丈夫だろう。プロの工作員なら、この程度で暴発すまい」
 そう話していた処理班員の一人がふと、床から小さな紙片を拾い上げ
「あれ?去年のJリーグのチケットだ。何でこんな所……」
 中川は心臓が止まりそうになった。驚く処理班員の手から紙片をもぎ取る。表には覚えのある開催日時。震える手で裏返した中川の目に見覚えがある筆跡が飛び込んできた。

 N―XXX―XXX
 W―XXX―XXX

 ロスタイム直前のスタンドでは、北朝鮮ゴール前に上がったボールを、いつの間に現れたフォワードがヘディング。ふわりと浮いたボールはすがりつくキーパーを嘲うように放物線を描き、ゴールへと吸い込まれていった。
「どうした?」
「あの――ここの警備配置は何時ですか?」
「今朝だが?正確には九時十分から待機しているよ」
「昨夜は?」
「夜間か?いや、無人だった筈だ。もちろん施錠していたが」
「じゃあ、これは誰が?」
「さあ……」
 ブースに詰めていた捜査員の言葉に、中川から血の気が退いていった。
「昨日の競技場全体チェックでは、このブースも?」
「ああ。間違いない」
「最後にチェックしたのは何時ですか?」
「ここは……確か八時過……」
 捜査員がそう言った時乾いた爆発音が反響。見ると北側の屋根裏から白煙が立ち上っていた。
「どうした?」
 班長が無線機に怒鳴った。
――N二三エリアで爆発。例のダイナマイトの模様。
「被害は?」
――取り付け部に約五十センチの亀裂。構造物へのダメージはない模様。人的被害は未確認。
 ブース窓から見下ろすと、暴行を働いた北朝鮮選手の退場処分で騒然としていたスタンドが、今の異変にざわついている。グラウンドでも審判が試合を中断、選手が不安げに立ち尽くしていた。
 無線に小田が割り込んできた。
――今の爆発は何だ?
「北スタンド屋根裏の推定二個所。被害状況は確認中」
――爆発物は処理中だったな。進捗は?
「東スタンド、南スタンド、状況を報告」
――東スタンド、全ポイントをチェック。処理爆発物は五個。
――南スタンド、十五個所をチェック。処理爆発物は四個。
「西スタンドは九個所をチェック。処理爆発物は三個」
――マルタイは貴賓室に移動。それと鶴見署管内、東洋石油京浜埠頭で徳田信枝らしい女性を確保。
――試合は続行ですか?
――主催者に確認中だ。
――しかし、狙撃犯は依然所在……
「それなんですが……」
――中川か。どうした?
「二階西スタンド奥のブースに、鄭が侵入した形跡」
 中川の言葉に、居合わせた処理班や捜査員が仰天した。
――……西スタンドのブースと言ったな?爆発物は?
 小田が問い返してきた。
「ありません。今、確認しました」
――VIP席を狙うなら東側じゃないのか?西側からでは二階スタンドに遮られ死角だぞ?
「しかし、昨夕から今朝まではノーマークだったそうです。その間に潜入、ここで夜を明かしたのでは?」
――侵入したという根拠は?
「床に紙片。裏に書込み。筆跡が早……片桐幸子と酷似」
――……内容は?
「英数字が二列。N―XXX―XXX、もう一つはW―XXX―XXX」
――スタンドの座席番号では?NにWなら北と西ですね。
 割り込んできた警備主任の言葉が、中川の頭の中で弾けた。視線の先、西二階スタンド中央最前列の放送席両脇には、切欠けがあって……
「正確な位置は、わかりますか?」
――西は二階ホーム寄り、前から三列目。北は一階バックスタンド寄りの中程です。
「三列目……その席から、VIP席が見えませんか?」
 数秒の沈黙の後、最悪の答えが返ってきた。
――見えますね。
 警備主任の言葉を聞いていた、工藤の携帯電話が鳴った。
――小田だ……聞いたな?
「聞きましたが……間違いないのでしょうか?所轄……」
――無駄口を叩いている時間はないと思うが?
「わ、わかりました」
 工藤は防災センターを飛び出した。先行した捜査員からの無線報告が入ってくる。
――空席でした。入場したかどうかも確認できません。
「そうか……SATは、各ゲートに一小隊ずつだったな?」
――はい。
「東と南の小隊は西ゲートに先回り、警護支援。北の小隊は一階北スタンド、西小隊は二階スタンドを警戒。CRAWは該当範囲のスタンドをローラー。急げ!」
 その時大きな爆発音と共にブースの窓ガラスがびりびりと震え、外を見ると移動式のカメラが火を噴いていた。スタンド屋根に渡したレールに吊り下げ、グラウンドの試合を中継する物だ。
 中川は、無意識にブースを飛び出していった。

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2008年5月20日 (火)

Time Up:十二.キックオフ(下)

 同じ頃、横浜市鶴見区。
 徳田信枝は、京浜運河に面した埠頭に立っていた。アナーキズムの女神と称され、学生運動家のカリスマだった頃の丈なす黒髪は半ば白くなった上、長い逃亡生活の間に切り落とされパーマで縮れている。鋭角的な風貌にも心労で皺が一面に刻まれ、若い頃の輝きを失っていた。
 埠頭には彼女の他に数人の同志だけ。彼らの手で脱走、北朝鮮に再び渡る手筈も整っている。腕に嵌めた旧東ドイツ製の時計は午後二時半直前。間もなく港湾職員を装った協力者の手引きでミャンマー行きの貨物船に便乗、東シナ海上で密かに乗り換え半島西岸に上陸の予定だ。
 ハイジャック機で最初に北朝鮮に渡った時が彼女の闘争人生の絶頂だったようだ。東欧各国で相次いだ社会主義政権崩壊と金一成の後継者争いで間もなく平壌も不穏となり、反米政権がまだ健在だった中東に渡ったが、米国同時多発テロ以降はそこも安住の地ではなくなった。
 身を寄せていたヨルダンばかりかリビアまで変節、アフガニスタン・イラクは政権崩壊。もはや祖国ではない日本で一時拘束、少し廻り道だったがそれも今日まで……激変する世界情勢に心身共憔悴しながらも、彼女の双眸にはようやく往年の光が戻りつつあった。
 ビルの陰から、職員の服装をした男が二人近づいてきた。
「徳田信枝、か?」
「ええ」
「話は聞いている。こっちへ」
 二人に続いて彼女達が埠頭の端まで来ると、黒い船体の貨物船が出航の準備をしていた。
「これに乗ってもらう。船室はブリッジ真下だ。船長には荷主の親族だと言ってある」
 男はそう言って脇に抱えた紙包みに手を突っ込み、しかし取り出したのは密航用偽造パスポートではなく、黒く光る拳銃だった。
 不意を突かれた同志達の中でいち早く徳田信枝は男に体当たり、腿に被弾しながら拳銃を奪い取ったが、同時に物陰に隠れていた警官がばらばらと現れ、タラップへ向きなおった彼女の行く手を阻んだ。中央には拳銃を構えた永井ら警視庁公安三課員。待ち伏せされていたのだ。
 一発発砲すると海岸線沿いに逃走。曲線的な外観が埠頭と不釣合いな覆面パトカーが停車していた。運転手の頭を銃弾で吹き飛ばしハンドルを奪う。乗り込もうと助手席のドアに取り付いた藤堂顕治が背中を撃たれて倒れ、急発進した覆面パトカーに頭部を轢き潰され即死した。
 彼女はローリングしながら埠頭を逃げ惑ったが、陸上の出入口はいち早くバリケード封鎖、車の行く手も次々とパトカーが塞いでいくその時
 眼前を斜めに横切る引込み線に、機関車に牽引された何十両ものタンク列車が進入してきた。貨車の側面には大手石油会社のマーク。ブレーキを諦め回避しようと急ハンドルを切ったのが裏目に出てコントロールを失った覆面パトカーはスピン、タンク車の一両に突っ込んでいった。
 大爆発に続いて発生した火災が完全に鎮火するまで三十分、消火剤で真っ白の覆面パトカー運転席から女性が引きずり出され、直ちに救急車で搬送。着衣や頭髪は根こそぎ焼け落ち、全身真っ赤に焼け爛れた顔は両目と口を可能な限り開き、苦痛と絶望に歪んでいた。

 その男は頭部を便器に突っ込んだ格好で絶命していた。後頭部が吹き飛び、脳漿が流れ出している。第一発見者の警備員は蒼くなり震えていた。白いユニフォームの競技場スタッフも次々集まってきた。
「ビールの販売員というのは確かですか?」
「間違いありません……殺されたんですか?」
「背後から撃たれています。銃声は聞こえませんでしたか?」
「いえ。コンクリートの打ちっ放しですから、そういう音がすれば反響した筈ですが……」
「販売員というと、売店の店員ですか?」
「ビール会社の委託職員です。サーバーを担いでスタンドを売り歩くんです」
「しかし、身許を示す物は身に着けていませんが?」
「競技場出入りを示すビブス、ビールサーバー……そういう類がなくなってますね」
「まさか……」
 顔色を変えた柳沢は無線を手にした。
「殺人です。後頭部損傷。撃たれたと思われますが、銃声はなかった模様。サイレンサーでしょう」
――ビール販売員というのは確かか?
「発見した警備員が顔を見て、間違いないと言っています。それと、身に着けていた筈の制服やビールサーバーが見当たりません」
――奪われた?では……
 その時、捜査員の誰かが怒鳴った。
「止まれ!」
 捜査員達は一斉に階段の方を見た。七階から現れたビール販売員が一人、逃げ出すところだった。そして鈍い銃声と同時に、トイレ脇の壁面から飛び散る火花とコンクリート片。販売員が牽制で撃ってきたのだ。斉木が咄嗟に応射し、頸部に被弾した販売員は駆け下りようとしていた階段の外へ悲鳴と共に転落、数階下の路面に背中から激突。ビールサーバーが破裂し、褐色と赤色、二種類の液体が路面に泡まみれの汚らしい池を作っていった。
――どうした?
 無線の向こうで小田が怒鳴った。斉木は自分の銃声に腰を抜かしている。
「ビール販売員姿の不審者が発砲、応戦の結果制圧。身許、生死、トイレの死体との関連は未確認」
――わかった。井口巡査部長と斉木巡査は本来任務に復帰。他の者はスタンド入口に待機。爆発物処理班は作業再開、中川巡査部長はその支援。
 小田の声で捜査員達は再び慌ただしく動きはじめた。無線には、七階エレベーター前で警備員が倒れているとの報告。脇には、乗り捨てられた車椅子。彼女が今、場内にいるとすれば、ずばり狙撃実行の意思に他ならない。遭遇した時、それを止めることはできるのだろうか?

――はい、井出です。
「工藤です」
――……
「もしもし?」
――君も暇だねえ?
「は?……あの……」
――試合はもう始まったんだろう?
「ご存じだったんですか?」
――テレビが生中継しているんだ。ご存じも何もないよ。
「は……」
 井出の口調にある焦燥と険を敏感に察知した工藤は、嫌な予感がした。
――それで?
「通報のあった京浜運河で、徳田信枝と思われる不審者を確保。逃走を図って事故を起こし、意識不明の重体で病院に搬送中です。身許は現在確認中ですが」
――公安の網にかかったか。本人に相違なければ、その件は一段落だが……
「あと、李芳姫は別途、競技場に入りました。事前に解決できればよかったのですが……」
――君らしくない判断ミスだが、まあ、サロメの線がなくなった以上致し方ない。それより昨夜、君は不用意に警備の配置を動かしたそうだな?
「――」
――私が知っていたのは意外かね?
「――は……い、いえ」
――君には小田君の監視を命じていたが、君自身のことは想定外だったようだな?
「――だ、誰が?」
――そんなことはどうでもいい。問題はその混乱に乗じ、狙撃犯が場内に潜入したらしいことだ。小田君も気づいたようだし、もし最悪の結果になれば君の責任は免れないぞ。
「それは……」
――私なりに手は尽くしたが、本事案も最終段階だ。当分連絡も入れなくていい。
「――」
――今回の総書記観戦は急遽決まったが、その時の長官に私は大丈夫ですと答えた。その後長官も替わられたばかりだし、狙撃を阻止できなければ、私が詰腹を切ることになるだろう。
「――」
――盧氏からの情報リークまで明るみになれば判断ミスでは済まなくなる。君も最悪のタイミングでとんだ失態をしてくれたな。失望したよ。
「局長?もしもし、も――」
 いつの間に切れていた電話を握ったまま、工藤は血の気を失ってその場に立ち尽くした。

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2008年5月18日 (日)

Time Up:十二.キックオフ(中)

 一時五十分、山崎が、付近のスーパーで買い込んだジュースを捜査員達に配る。会場と周辺の自動販売機は、全て販売中止だ。
「サンキュー」
「中川さん、リラックスしてください」
「え?」
 含み笑いした山崎の視線を追った中川は、初めて自分の貧乏ゆすりに気づき苦笑。それに励まされたように、斉木が恐る恐る話しかけてきた。
「あの……すみません。こんな形でご一緒するとは……」
「……いいよ。仕事なんだから」
「そう言っていただけると我々も気が楽になります」
 今まで無言無表情だった、不精ひげに青いキャップの男が微笑、初めて口を開いた。
「申し遅れました、都筑北署刑事課巡査部長の井口(いぐち)です」
「井口というと……」
 柳沢が目を丸くした。
「斉木君が二位になった射撃大会県予選の優勝者……確か、そうだな?」
 その県予選こそCRAWの……と気づいた捜査員達が唸った時、場内から大きな歓声。時刻は、一時五十五分。選手入場に国歌吹奏が続き、VIP席では両首脳が何度目かの握手。何ごともないような光景だが、脇の裵が周囲に走らす鋭い視線が、緊迫した現実を思い出させた。
 二時、キックオフのホイッスル。この試合が無事タイムアップを迎えられるかどうかはわからない。その意味でこのホイッスルは警備陣にとっても、最後の戦いの始まりだった。
 二時三十五分、無線に港北署通信室から割込み。
――中川巡査部長に、外部から入電。
「誰からだ?」
――名前は言いませんでした。男性の声ですが……
「男性?」
 早紀かと思った中川は、戸惑った。
――もしもし?どうしますか?
「こちらに転送して下さい」
――はい……どうぞ、お話し下さい。
「もしもし……」
――ご主人ですか?
 中川は全身の血液が退いていった。無言電話でローマ字の暗号を伝えてきた男の声だった。
「鄭だな?どこだ?」
――……
 捜査員達は周囲に視線を走らせた。彼はどこかで自分達を見ているのか。
「用件は何だ?」
――メールを見た。前の恋人が殺されたと……
 山崎が片手でゆっくり輪を書いてみせた。通話を引き伸ばして逆探知するつもりだろう。中川は無言で頷き携帯を握りなおした。
「彼女も一緒なんだな?」
――……
「……競技場は我々が固めた。もう入れないぞ」
――大した自信だな?だが私も、最初から生還は期していない。
「そうして、過ちを重ねるのか?」
――何だと?元々日本のせいで半島……
「また日本のせいか?圧制の責任転嫁ばかりしていては、半島統一など夢のまた夢だな?」
――他人に言えた義理か?まだ血を流さないとわからないようだな?
「わかったとも。お前達の将軍様が全ての元凶だとな」
――黙れ!
「無駄な忠誠心は、もう捨てたらどうだ?十年前お前達一家が受けた仕打ちを忘れたのか?」
――……
「今からでも自首すれば、日本政府がお前を保護する。罪は償ってもらうが、可能な補償があれば考えよう」
――それはもう手遅れだ。
 咄嗟の出まかせと見破ったか、鄭は乗ってこなかった。
「稲生課長補佐や三浦という青年を殺したからか?それに斎藤刑事や尚子、いや飯田――」
 電話は切れていた。テレビ画面では、脇の捜査員と話していた裵が正面に向き直るところだった。笑顔がこわばって見えたのは、今の通話を彼女も耳にしたせいか。
――逆探知は?
 数秒の沈黙を破ったのは、小田の割込みだった。
――発信地点は横浜市北部。十中八九この付近でしょう。
「やはり場内をマークすべきでは?既に潜入した可能性が大です」
――だが、いつ潜入したというんだ?場内は昨日、徹底的にチェック……待て、再度確認する。
 無線は一旦沈黙。もう入れないという言葉に鄭が返した落着きの意味を中川が考えていた時、加藤が
「あっ!」
 と叫んで小型テレビの映像を指した。
「両首脳がまだVIP席にいます。貴賓室の筈では?」
「スタンドプレーですか」
 山崎が笑えないギャグを飛ばし、加藤に
「茶化してる場合か!」
 と一喝された。縮み上がった山崎を尻目に、加藤は柳沢に食い下がる。
「スタンドの警護を固めるべきです。相手も折込み済でしょうが、大っぴらにやったほうがプレッシャー……」
「それはわかるが、指示……」
「スタンドに入るな、目立つな、これでどうやって警護しろって言うんですか?」
 爆発寸前の加藤を柳沢が持て余していた所で、無線が再び喋りだした。
――未明、不審車が現れた際、手違いで数十分間警備網に空白が生じていた。具体的な形跡は確認されていないが、潜入のチャンスはあったようだ。
「わかりました。それと……両首脳がまだVIP席です」
――今の件を伝え打診するが、状況は変わるまい。
「……」
――時間がない。各員、至急配置につけ。
 中川達が追われるように北スタンド下の管理事務所に入ると、机上の図面を前に、爆発物処理の班長が警備主任と話していた。
「そろそろ前半終了ですね」
 警備主任が言った。時計は二時四十分を過ぎていた。
「ではハーフタイムにロスタイムを加え、あと一時間十分余りですか」
 試合は前半十一分、北朝鮮フォワードのファウルに怒った日本ゴールキーパーが相手を突き倒し退場処分。日本は一人少ない十人で、残りの長い時間を戦わなければならない。
「紛失したダイナマイトは二十個でしたね?」
「はい」
「その数で競技場全体の破壊は無理ですね。東海大地震規模の災害を想定した設計だそうなので」
「そうですか。予告では人的被害を仄めかしていましたが」
「そのつもりなら本体に仕掛ける必要はない。例えばスタンドの屋根の一部を爆破すれば充分です」
 中川達は天井に目をやりながら、班長の淡々とした口調にむしろ慄然とした。
「この屋根は鉄骨にステンレス葺きで、仕掛けるとしたら多分支柱周辺ですが、東西スタンドで各十八個所、南北各二十四個所、合計八十四個所全てに仕掛けるのは無理ですね」
「トイレは?」
「今朝再チェックしました。スタンドも入口から内側は同一空間で、極端に言えば死角はないんです。あるとすれば座席の下などですが、今日に限らず不審物への警戒を呼びかけており、何かあればすぐわかる筈です」
「では、マークするならスタンドの外でしょうか?」
「ただ、洗面所や売店の利用者もいますし……とにかくゲートでもチェックしており、唯一のチャンスは昨夜ですが、万一そうなら文字通りノーチェックで何でも持ち込めたことになります。正確な入場者数はわかりますか?」
「五万五千二十八人と報告が入っています」
「あくまで私見ですが予告内容から爆破決行はタイムアップ直後、そして今言いましたが仕掛ける場所は十中八九屋根ですね。本当に持ち込めたかどうかは後にして、今はそれを前提に対処しましょう」
「わかりました。処理班は?」
「既に各スタンド後方に待機、準備させています。そこで今可能な人数で手分けして、屋根を調べてもらえませんか?爆発物は発見し次第我々が処理します」
「爆発物となると競技場側に頼むわけには行きませんから我々警察でやるしかないですね?」
「そうなりますね」
「しかし、こちらは……」
 首脳の警護も、と柳沢が言いかけた時、警備員のトランシーバーからの悲鳴が室内に炸裂した。
――六階の男子トイレで、ビールの販売員が死んでいます!
「何っ!死因は?」
――わかりませんが、後頭部から大量に出血――
 柳沢が真っ先に部屋を飛び出して行った。

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2008年5月16日 (金)

Time Up:十二.キックオフ(上)

 斉木がハンドルを握る覆面パトカーの助手席に加藤。中川は柳沢とCRAWの男に挟まれ後部座席中央。まるで容疑者の連行だ。途中二つの検問所は加藤が警察手帳を示して通過。二つ目の検問所にいた交通課の警官が、姿を消したと思ったら思わぬ姿で現れた斉木に絶句した。
 競技場では場長と警備主任の出迎えを受け、手分けして一般入場者ゲートへ。各ゲート前には開門を待つ入場者が、チケットを手に長蛇の列をなしていた。
 十二時丁度、開場。各ゲート前では入場者の手荷物・身体を検査、缶・ペットボトル飲料は用意したコップに移し替える。ゴミ減量化とフーリガン対策と称していたが、実はこれも爆発物チェック。七年前のコンフェデレーションズカップでは混乱もあったが、米国同時多発テロ、そしてワールドカップを経た今は来場者も協力的で、作業は滞りなく進んでいく。早期告知の他、日本紅衛兵の爆破予告の影響もあろう。
 十二時半、各ゲート前に開門前に行列を作っていた、入場者はすべて入場。どのゲートにも、二人の姿は一向に現れなかった。
 一時六分、小宮山首相がプライムホテル到着、黄副主席の客室に入ったとの連絡。ホテルでは、小田ら警備陣が慌ただしく動いている筈だ。裵中佐もこれ以降は、表向き警護される側として両首脳に随行することになる。
 一時十五分、西ゲートを一時閉鎖。事情を知らない一般来場者が現れると、他のゲートに誘導した。
 一時二十分、両首脳が客室を出たとの連絡。ホテル正面に始まる沿道では警察車両が路肩を固め、環状二号線も十分前から進入禁止となっている。当初の予定にはなかったが徳田信枝のネット暴露を小田が逆手に取り急遽計画を変更、一時封鎖を決断したのだった。
 一時二十四分、両首脳の車がホテルを出たとの連絡。小田も警護指揮車で随行している筈だ。競技場で待つ捜査員にも緊張が走った。
 一時半、パトカーと白バイに先導された黒塗りの車列が競技場北側に現れた。車列中央には最前部に日朝の国旗を立てた、一般車より窓一枚分長いリムジンカー。
 本国から航送してきた防弾仕様の総書記専用車だ。外務省が発給した青い外交官専用ナンバープレートを着けているが、航送時に着いていたナンバーは「2・160000」。金正一の誕生日を冠したこのナンバーは、北朝鮮では党幹部だけが使用を許されるという。加えてあまり目立たないが前部ボンネットのグリル上端中央には、やはり最高幹部専用車のしるしである小さなランプ。それらからこの警備任務の重大性を、警備本部のごく一部の捜査員だけがあらためて読み取った。
 正面玄関に進入した車列は専用車を中央に横付けして停止。西ゲート広場への大階段脇には、報道で黄副主席観戦を知った来場者が、専用車から降り立った両首脳を黄色い声で歓迎。人垣から大きなどよめきが起こったのは、小宮山首相観戦の情報が事前になかったせいだろう。
 一時三十五分、西ゲートの入場を再開。両首脳が入った貴賓控室の周囲には両国のSPを中心に制服私服の警官を配置し、万全の警備態勢。これで、第一関門は突破したことになる。
 二人の姿は、まだ現れなかった。

 一時三十八分。
 新横浜駅新幹線口ロータリーに架かる陸橋上で、朝鮮人らしい男が西側一階席のチケット(額面七千円)を買ったとの連絡。成立しかけていた商談に割り込んできたその男は終値の倍額を提示、買い取ろうとしていたダフ屋と口論となり、警官が駆けつけた時には売り主も男も姿を消していた。
「いくらで買おうとしていたんだ?」
「言えませんねえ。こっちも信用が大事なんで」
 生活安全課捜査員と顔見知りの、アロハシャツに茶髪のダフ屋が横柄な口を利いているところへ、競技場から飛んできた加藤が割り込んできた。
「買い取ろうとしたチケットの席の番号は?」
「W一五入口の付近だったのは覚えてますけど……」
「西スタンド一階……危ないな。二階ならVIP席から死角だから別だが」
「しかし、鄭が手に入れようとした席は二階ですよね?身を隠すのが目的なら、位置はあまり関係ないのでは?」
「うむ……その男はどこへ消えたんだ?特徴は?」
「背が高くて、金髪で、赤いジャージを着ていましたよ。確かあれは北朝鮮代表のユニホームじゃないかな」
「だから朝鮮人、だと?金髪と言わなかったか?」
「染めたか、脱色したんでしょう。顔はどう見ても東洋人でしたよ。中国か台湾、せいぜいシンガポールまでかな」
「この男か?」
 加藤が鄭の写真を取り出して見せたが、案に相違してダフ屋は首を横に振った。
「もっと細長い顔でしたね。頬に北朝鮮国旗のフェイスペインティングもしていましたよ」
「で、金額で揉めたそうだが、お前が売り主に提示した価格は?」
「……三万」
「額面七千円のチケットをか?いくらで売るつもりだったんだ?」
「いくらでもいいじゃないですか」
 加藤は捜査員の制止を無視してダフ屋の胸倉をつかんだ。
「いいか、その男は北朝鮮工作員で、副主席暗殺を企んでいる可能性がある。協力を拒むならスパイ容疑で逮捕するぞ。下手すれば内乱罪で死刑だな。さあ、それでも信用とやらを大事にするか?」
 ダフ屋は蒼白になって震えだした。
「わ、わかりましたよ。相場は五万です」
「それをその男は、いきなりお前の倍額と言ったんだな?」
「ええ」
 ダフ屋は答えた。もし供述が事実ならその男は、成り行き次第では十万円出してでもチケットを買い取るつもりだったことになる。
「売り主のほうの特徴は?」
「グレーのスーツに水色のネクタイ……急な仕事で観戦できなくなったという感じでしたね」
「二人はどっちに行った?」
「駅のほうじゃないですか?あんた達が来て、俺が慌てて振り返った隙に……」
「我々は駅から来たが、そんな二人連れは見なかったぞ?」
 別の捜査員が言うと、ダフ屋は隅にある身障者用エレベーターを指し
「あれじゃないですかね?我々も時々、移動や取引場所に使いますが」
「二手に分かれよう。もう取引が成立して別れたかもしれない」
 加藤は駅前の通りへ急行、、北朝鮮代表ジャージ姿の男性を片端から職務質問したが、該当する人相の男は見つからない。人種差別と反発する相手もいて、作業は難航した。
「まずいな……韓国か北朝鮮の捜査員がいればいいんだが、駅周辺にはいなかった筈だな?」
「ええ。一部が警備本部に連絡係で残っているだけで、他は全員競技場に向かっています」
 そこに、駅構内へ向かった捜査員から連絡。横浜線新幹線口手前で売り主の男性を発見。ダフ屋の推測通りエレベーター内で取引、六万円で売り渡したと言う。チケットの席番号は未確認。買い主はその後競技場に直行した模様。
――駅周辺の職質は中止。競技場に先廻りして下さい。
「了解」
 無線を切った加藤はその足で競技場へ引き返した。売り主の男は任意同行、ダフ屋も連行される筈だ。
 それにしても、額面七千円のチケットが六万円とは。差額の行き先は、一体……

 一時四十三分。
 環状二号線から右折した白い乗用車が、JR小机駅手前の新羽踏切前に現れた。競技場方向へ右折しようとしたがこの日は関係車両以外進入禁止で、仕方なく小机駅前のロータリーに乗り付ける。助手席から長身の若い男が一人降り立った。上半身には日本代表の青いジャージ。顔中に紅白で日章旗をペインティングしているが、頬が塗り重ねたように黒ずんでいた。後部座席には、金髪の鬘が置き去りだった。

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