2008年10月15日 (水)

キングスクロス:五.ロンドン~ニューヨーク(六月十二日~六月二十一日)(3)

 大西洋上。
 「オリンピア」デッキ一〇最後尾近くの一等ジム。この船には各等に対応する形で、合計三つのジムがある。建前上はどのクラスの乗客がどのジムを使ってもいいことになっているが、各ジムの受付職員が乗客に携帯を義務付けたIDですかさず等級を確認、下級船客には満室を口実にやんわりとご退去願っている。尤も航路当初には、中国人の受付係が日本人船客につっけんどんな対応をして騒ぎとなり、日本人マネージャーが急遽、全接客スタッフを集めて再研修をする羽目になったものだ。
 サムナートは、隅に置かれたサイクリングマシーンを漕いでいた。フロア内を殆ど埋めた利用者の大半は白人だ。欧州で降りた船客よりも、新たに乗ってきた人数のほうが多いのではないか。尤も、ウェルカムパーティーで聞き耳を立てていた限りでは、新大陸で降りる客も少なくないようだ。航空機に長距離旅客輸送の覇権を渡す二十世紀後半以前から、否それ以降でもこのルートは依然旅客航路の花形であるのだろう。そして、今後も。
 シーターが遅れて現れた。予め決めていた方法で、国際的な掲示板の北米版サイトで本国に連絡を送ったところだ。本国では秒単位で担当の係官が更新状況をチェックしており、怪しんだ北京の手先が書込み削除を実施しても追いつかない筈だ。
「様子はどうだ?映画館は確か、昼間の上映が終わる頃だったかな?」
「『王妃の紋章』。丁度観劇を終わった客が入ってきたわ。凄い嫌な顔をしてた。五輪開会式の芸術監督がメガホンを執ったらしいけど、『本大会直前によく、あんな作品を撮れるな』……ですって」
「十世紀の架空王朝を舞台にした悲劇だったな?」
「国王夫妻と三人の息子がいるんだけど、第一皇子の皇太子は前妻の息子で、後妻の現王妃は政略結婚。それを煙たがっていたのか、国王は王妃に遅効性の毒を盛っていて、それを知った第二皇子が……」
「そこまで。何やら面白そうな話だが、ネタバレだなあ。後々の愉しみにしたい気もするが……それとも、今聞いておいたほうがいいのかな?」
 サムナートは笑顔を保っていたが、目からは笑みが消えていた。
「そうねえ……その次男が、九月の菊の節句に合わせて反乱を計画するの。結果的に失敗するんだけど、国王が課した償いがふるっていたわね。『命は助けるから、今後は自分に代わってお前が母親に薬を飲ませるのだ』。さて問題です。第二皇子はどうしたと思う?」
「さあ?」
「両親を目の前に自刃したのよ。反乱勃発とほぼ時を同じくして、皇太子と末っ子の第三皇子は殺し合い、結局国王の位を伝える筈だった三人の息子は、一夜にしていなくなったわけ。その光景を目にしながら、表面上は何もなかったように酒肴を口にする国王夫妻……それがラストシーン。どう?」
「それはそれは……開会式招待客への前夜祭で上映したら、さぞ面白いことになるだろう」
「そうね、意味深よねえ……客の誰かが映画関係者か何かだったみたいだけど、漏らした言葉が『これはレポートに書けないなあ』ですって」
 サムナートは思わず噴き出した。
「インドだったら映倫がストップをかけそうだね。ハリウッドでもリチャード・ギアとかが抗議活動を続けているし。『一つの世界』が今大会の合言葉らしいが、とんだ世界だな……あちらからは、連絡はあったか?」
「ええ……ジンバブエが動いているみたい?」
「ジンバブエ?この船の航路からは外れているが……」
「そうなんだけど、北京駐在の大使館で、今回のクルーズに関する情報収集の動きが活発化していたそうよ。さすがに北京も感付いて、ジンバブエに情報を渡していた中国人の情報屋が不審な死に方をしたとかしないとか。ハラレも多分黙っていないでしょうね」
「何だろう?今回の計画に一枚加わっているのかな?」
「多額の援助を受けているからあり得ない話じゃないけど、それにしては流血の事態になっているのが解せないわね。大使館が情報収集中だから、じき何かわかると思うけど」
「アフリカか……」
 鄧小平が推進した改革解放路線のお蔭で得た巨万の資金を、北京は後進地域へ注ぎ込むことになる。ミャンマー、中南米、東欧、そしてアフリカ。もちろん慈善心からなどでは、全くない。冷戦終結後顕著なアメリカの一強傾向に対抗すべく、「第三世界」を標榜するこれらの地域に北京のシンパを増やすためだ。その為には欧米が蛇蠍の如く嫌う独裁政権であっても構わず、資源輸入権とビッグ・アップル(国連)での票とを引換えに武器と資金を注ぎ込んだ。だがその結果スーダンではナチスさながらの民族浄化を生み、ジンバブエでも独裁政権化が進んでいた。
 戦後半世紀近く、中国に対抗する必要上インドはアメリカだけでなく、ソ連とも緊密な関係を保ってきた。冷戦終結とそれに続くソ連崩壊が、単に国名がロシアへ変わったというだけで済まなかったのはデリーも同じだった。微妙な情勢下で勃発した同時多発テロは、皮肉にも宿敵パキスタンの独裁者・ムシャラフとの奇妙な和平関係を生み出したが、それも終わりを迎えつつある。中央アジアで摩擦を起こしている北京が彼等イスラム勢力と真に手を組むことはあり得ないが、パキスタン、否あのアルカイダの背後にも北京の影があったとの情報もある。
 デリーは、そして察知することがあればワシントンはこの動きにどう対応すべきか。ウェールズの陸影が水平線の向こうへ消えて以降波高くなった大西洋を行く「オリンピア」同様、世界の情勢も行方の知れぬ海域へ漕ぎ出したようだ。

 ワシントンDC・大統領官邸。
「ジンバブエの国連代表部が接触してきたと聞いたが?」
「その通りです。用件は……例の計画です」
「ルーマニアに持ち込まれたという、あの『荷物』のことだな?」
「そうです。しかもそれは、もう旧大陸にはありません」
「ヨーロッパから運び出されたということか。どこにあるんだ?足取りはつかめているのか?」
「それがジンバブエの用件そのものです。そして彼等の情報が正確なら、『荷物』は今まさに大西洋を西に向かいつつあるところです」
「何だって!」
「まず、これをお聴きください」
 補佐官は、卓上に置いたテープレコーダーのスイッチを入れた。

――まず、貴職の姓名と身分から伺いたい。
――私はムスワティ・ポハンバ。ジンバブエ国連代表部職員で、で働いている。ハラレでの或る動きについて、祖国の利益のために合衆国へもたらす目的で、今ここにいる。
――それは、ハラレ……ずばり、大統領パトリック・ツポ大統領の意向と解釈してよろしいか?
――いいや、公式・非公式を問わず指令を受けてのことではない。あくまで自分が独自に判断した上での行動だ。
――貴職が今名指しした、ハジ審議官の関わりは?
――この情報に自分と同等、いやそれ以上に通じていると考えられたい。
――情報と言うのは、具体的にはどういうものか?
――ヨーロッパ各国の情報当局が内々に、しかし必死に追っている「荷物」のことだ。それは昨年秋、中央アジアからカスピ海地域経由でルーマニアに運び込まれたが、今年になって再び国境を越えた。ドイツやバルカンに持ち込まれたりしたが、先日バルセロナから或る船に積み込まれ、今は大西洋上を新大陸へ向けて西進途中の筈だ。
――或る船、とは?
――クルーズ客船「オリンピア」。ニュースにもなっているから、あなたもご存知ではないかと思う。
――北京五輪の宣伝クルーズ船だな。よく知っている。そういう剣呑な積荷を、あの船はどこに運ぼうというのだろう?「荷物」の最終的な受け取り主は?
――カラカスであると承知している。荷卸地点は特定できていないが、同船が寄港を予定している、新大陸地域の港のどれかだろう。
――「オリンピア」をそういう計画に使えば政治的影響も小さくはないが、北京はこのことを知っているのか?
――知っているも何も、この計画には北京が深く関わっている。主体はあくまで平壌とカラカスだが。
――そういう、最高レベルの機密情報を、貴職はどういう経緯で入手したのか?
――北京と、ある種の取引を考え、その材料としてピックアップしたとだけ申し上げておく。これは自分が考えたことではなく、国連代表部に勤務する或る人物が指揮を執り、ジンバブエの国家意思として進めていたものだ。
――それが確かに、ハラレの意思であるという証拠は?指揮を執っているという人物を特定できるか?
――できる。事前の了解は得ていないが、もしあなた方が絶対に公にしないと約束してくれるなら、今姓名を明かしてもいい。
――約束しよう。書面が必要というなら用意してもいい。
――結構だ……ギルバート・ハジ代表部審議官。私の、名目上の上司でもある。
――了解を得ていないと言ったが、それは今日貴職がこの情報を我々に明かすことも含めてかね?
――そうだ。だが自分は、これがジンバブエとその国民の利益に合致するものだと考えたし、ハジ審議官も、ハラレの大統領も私の行動を理解してくれると信じている。
――貴職のもたらした情報が明るみになれば最悪ハラレの現政権も倒れかねないが、それでも同じことを言えるかね?貴職のお覚悟とは別に、この計画に何らかの関与があったとなれば、貴国に対する合衆国の対応も改めて考えざるを得ないが、それもご承知の上か?
――結構だ。

 テープはそこで終わっていた。在室者達はしばし無言だった。
「裏は、取れていないんだな」
「目下確認中ですが、これに二つ補足できる情報があります。この国連代表部職員が北京で接触した情報屋が、半月前北京市内で謎の死体となって発見されたこと。もう一つが今朝、この職員がブルックリン橋から身を投げたこと」
「偽装……か?」
「州警察はこの職員の行動を洗っていないので、そうは思っていないようですが。横槍を入れると我々が追っていると感付かれるので、ひとまず彼等の考えるとおり表向き自殺、で処理させるしかないようです」
「表に出れば、オリンピックどころではなくなるな……大統領のお耳に入れるには、材料が少なすぎるが」
「わかりますが、こうしている間にも『オリンピア』刻一刻本土へ接近しつつあります。どこかの地で『荷揚げ』が実行される前に、ホワイトハウスの意思決定が為されることを望みます」
「同感だ……情報収集を急いでくれ。私は補佐官と相談してみる」

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2008年10月11日 (土)

キングスクロス:五.ロンドン~ニューヨーク(六月十二日~六月二十一日)(2)

 同日夕刻、大西洋上。
「オリンピア」は沈みゆく夕日を正面に受け、雲ひとつない水面を一路西進していた。それでも大洋上とて、凪一つなくというわけには行かない。偏西風に作られた大きい、しかし緩やかな波が両舷を洗いながら、「オリンピア」が今まで来た旧大陸方向へと流れて行く。
 船橋直下の、三フロア―分をぶち抜いた大ホールでは、ヨーロッパから新たに乗り込んだ乗客を迎えてのカクテルパーティーが始まろうとしていた。これが済むと後方のメインダイニングで、この航海ではもう数度目になるウェルカムディナーだ。今日のメニューはヴェルサイユ時代を思わせるフランス料理のフルコース。それも、食べ切れないほど出すのが礼儀と心得ているイタリアとは違い、全コースを済ませると丁度満腹になるという代物だ。
 広いステージを扇形に囲む座席に着いた正装の船客達の間を、船内の全ラウンジから動員されたボーイが巡って飲み物の注文を受ける。普段なら数ドルから数十ドルするカクテルが、このパブリックな会合に限っては無料だ。
「変だな?」
「どうしたの?」
「客室係のボーイが足りない。アレクサンドリアを発った後のパーティーでは、もう一人居た筈なんだ」
「サザンプトンで、降りたのかしらね?」
「まず思いつくのはそれだが、船客の数はむしろ、サザンプトンに着く前より増えている筈だ。欧州各地のエクスカーション(オプショナルツアー)を終えて戻った客もいるからね。なのに何故、一人でも多くいたほうがいい船員を減らすんだ?普通に考えると、どうもおかしいんだ」
「代役に引き継いだわけでもないようね。ということは……」
「突発事態だな。代役を捜す余裕もなかった……そう考えるのが自然だ。それが何か、ということになるが……」
「そうね……でも、パーサーに聞いたところで教えてくれないでしょうね」
「そうだな……心当たりがある。ちょっと待っててくれ」
「危ないことはしないでね。まだ先は長いのよ」
「わかってるって」
 船は前後に大きく、しかし緩やかに揺れている。自分達と同じく欧州から乗ってきた客の中には、ソファーの中で落ち着かない者もいるようだ。これが立食形式だったら、足を取られて転倒する者も出ていたに違いない。あらかじめ酔い止めの錠剤を服用していない者は今夜半以降、間違いなく激しい嘔吐感に襲われることだろう。一方では全く平気な顔で、巧みに揺れと体を同化させている船客も多い。リピーターや、紅海に入る前に乗船した客だろう。
 一人取り残されたマリアは盛装のドレスの下で両肢を突っ張り、船の動きに耐えていた。乗り心地・快適性などと無縁な艦艇での洋上任務に較べれば、この程度はモスクワ市内の波のでるプール程度でしかない。難儀をするのは、むしろ何事もないことはなく、酔った不利をすることだった。「パートナー」のマモーノフは、トイレに行くと言って消えたきりだ。早くも……
 後頭部まで禿げ上がった、背の低い男が近づいてきた。偶然でないのは、離れた位置から気配を感じていたのでわかる。傍らにはもう一人、もじゃもじゃの赤髭で顎を覆った男。素人には相応しくないカメラを肩に乗せていることから、テレビ局の人間とおおよそ見当はついた。
「こんにちは。イギリスからご乗船の方ですね?」
「ええ……」
「私はエドワード・ヒルマン。合衆国のしがないスポーツジャーナリストです。こいつはボブ・グリーン。見ての通りカメラマンですわ」
「よろしく。メアリー・バニングです」
 名乗らないわけにはいかなかった。あらかじめ架空の名義を用意しておいてよかった。
「今回は、お一人で?」
「いいえ、残念ながら連れと一緒ですの。ちょっと用足しで席を外してますけど」
「残念なんて言うことはありませんよ。むしろ貴方のような美しい方が、パートナーもなくこういう豪華クルーズに乗り込まれることのほうが、余程嘆かわしいことだ」
「お上手ねえ」
 丁度そこへ、マモーノフが戻ってきた。
「一人にして済まない……おや、こちらはお知り合いかね?」
「これはこれは……最悪のタイミングですな。ご心配なく、知り合ったのはつい数分前のことですから」
「気になどしていませんよ。ピーター・ブラウンと言います。テレビ局の方ですか?」
「UBCです。今回は、バルセロナから乗船したファンタジスタの追っかけですよ」
「なるほど……」
 そのファンタジスタはステージに一番近い最前列中央に、同行しているスポンサー重役と並んで席を占めていた。正式なディナーでなければ席次などはないのが建前になっていたが、彼を含む一部のVIPにはあらかじめ席を確保してあるようだ。

 同日 ニューヨーク。
 彼の報告を受け、彼はしかし長い時間無言だった。
「そう言うことだったのか……」
「私もまだ信じたくない思いです。これは、核兵器よりも深刻な行為だ」
「公になれば全世界が決定的に平壌とカラカスを見放すだけじゃない。北京もずっと、難しい立場になる」
「では、やはり……公表はしないおつもりですか?」
「さて、どうするかな?今のところは秘密厳守と装って、後で何らかの形でリークする選択肢もあるが……反対のようだな?」
「私に決定権はないのでしょう?とは言え、知ってしまった以上このまま墓場に持っていくにはあまりにも重大すぎる内容です」
「その点は理解できるつもりだ。決定権がないのは私も同じだが、時期を見て関係各国当局には通達すべきなんだろうね。今難しい情勢の我が国が、これ以上敵国を増やすわけにはいかない。とは言え、一方で中国を敵に回す可能性はあるが」
「現時点で敵でなければ、の話ですが?」
「相変わらず手厳しいな……まあいい。私はハラレに戻って、大統領に直接具申してみる。どういう手を打つかはそれ次第だな。君の役割は一応終わりということになる。ご苦労だった」

 同時刻 モスクワ。
「FSBが関与しているというのは、事実なのか?」
「残念なら事実と思われます。現時点で未確認の部分もありますが、ご報告を続けますか?」
「そうしてくれるか?前回は、私の全く知らないところで事が片づけられたからな。結果的に大事には至らなかったし君達の判断が誤っていたとも思わないが、今回は事情が違うようだ」
「わかりました。二年前の北朝鮮副主席狙撃事件に関与していたのがスリーパーのヨシフ・アレーエフであることは既にご報告済みでしたが、彼には息子が居たのです。ラウレンチー・ヨシフヴィッチ・アレーエフ。判明が遅れたのは、母親の姓を名乗っていたからです」
「偽名か?」
「はい。と言っても、任務のためFSBから付与されていたもので、それで活動しても全くマークされる恐れはなかった代物です。具体的に現時点で確認されているのはアレクサンドル・キーロフ、ニキータ・スパツキー、そしてウラジミール・セミョーノフ。任務記録と照合の結果、この三つの名前で任務外の動きをしていたことがわかっています」
「任務外とは、つまりこの計画のために動いていたということだね?」
「そのように、推測されます」
「推測、とは?」
「物的証拠を確認できていないという意味であります。鋭意、捜査中です」
「最新の状況は?彼は今どこにいるんだ?船上か、それとも……」
「イギリス寄港二日前のロンドンで目撃されていたことまではわかっています。乗船したと考えるのが自然ですが、船外・定点での作戦行動に従事しているとすればそうとも言い切れません。ロンドンの大使館と連携、所在を確認中です」
「結構。捜査は続けてもらうが、その結果を待っている時間的余裕はないようだな?」
「同感です」
「どうすればいいと思う?」
「選択肢は、大きく分けて二つあると思います。一つは、我々自身の手で処理すること。もう一つはワシントンに情報を提供し、彼等の手で処理させることです」
「後者はないな。情報提供にやぶさかではないが、現場処理を任せてしまってはワシントンの思う壺だ。ロンドンや東京がそうなったようにな。第三国への影響力を保持するためにも、我々の手の届く問題は我々自身の手で片づけるべきだ……違うかね?」
「大統領閣下のご判断次第です」
「よろしい。前者の選択肢で、計画を立ててくれ。閣議と議会への根回しは私がやっておこう」

 香港。
「状況はどうだ?荷積みは無事済んだそうだね?」
「はい。当初計画からはかなり遅れましたが、『荷物』は無事『オリンピア』に積み込まれました。あとは新大陸到達後荷揚げ、最終目的地に辿り付けば計画成功ということになります」
「ニューヨークを予定していると聞いたが、問題ないのかね?敵の目と鼻の先じゃないか。マイアミとか、領土外のゴスメルの方が危険は低い気もするが……」
「実は荷揚げの際、或る人物の協力を得ることになっていまして。尤も、当のご本人は計画の存在を知りませんが」
「荷積みの時とは違うパターンになるわけだな。それで確実に計画を運べるなら、どちらでも構わないが……」
「関与する人間は一人でも少ないに越したことはありませんので。今回は、運び屋の知名度に雲泥の差がありますし」
「雲泥の差?ニューヨーク……まさか、彼女か?」
「……チベットやウイグルの暴動以降、アメリカの世論も我が国に厳しくなっています。仮に民主党政権が復活しても、彼女のダンナの時代のようには多くを望めないということです」
「それはわかるが、だったら尚更、計画を漏らすのはリスキーでは?」
「いいえ、だからこそです。いざとなった時、自由の旗手とやらの使命に目覚められても支障がないよう、保険を掛けておく必要があるということです」
「共犯に巻き込んで、貸しを作るわけか!」
「まあ、今回はタイミングが恵まれただけですが、今後は民主党相手だろうとそういう工作も恒常的に考えていく必要が……」
 そこで電話が鳴り、相手の番号に彼は顔をしかめた。
「何の用だ?我々は北京の特命を受けて動いている。お宅の世話になる、身に憶えはないぞ?」
「その特命絡みだよ。二日前、ベネズエラのエージェントと澳門で接触したな?」
「よくご存知で」
 彼は白々しく返した。どうせ四六時中監視していたのだろう。問題はそれを事実上告白しつつ接触してきた事実だ。頭の片隅で警報が鳴り始めていた。
「先刻、上海の本社にジンバブエから会いたいと連絡があった。その手土産に先方がちらつかせてきたのが、ずばりお前さんのことというわけだ」
「察知したということか。でも、どういうことだ?分け前にありつこうというのかな?」
「いや。実は少し前から、政情不安を理由にこれまでの援助を見直そうという話が中央で出ていて、ハラレがそれに反発していてね。援助の継続ないし拡大要請が本音では、と言うのが北京の推測だ」
「乗るのか?」
「ずばり、計画暴露を取引材料に持ち出されたら、こちらは応じざるを得ない。重大な計画を進めるにしてはお粗末な情報管理だな」
「大きなお世話……と言える立場ではないようだな」
「そうだ。本社の人間があちらの高官と会うことになった。日時は調整中だが、首尾次第では計画変更の可能性もある。言えるのはそれだけだ」
「ご注進を感謝する」
 電話を切った彼の顔を、相手は不安げに覗き込んだ。
「ジンバブエが嗅ぎつけたのか?」
「援助を打ち切られまい一心から、揺さ振りのネタを捜し回っていたのでしょう。不覚にも自分がその網にかかったようです」
「大丈夫なのか?」
「今更引き返せません……本社があちらの高官と会うそうです。埒が開かなければ北京も乗り出してくるでしょう。そうなればまあ、自分の立場は微妙になりますが、逆に何が何でも計画は進めざるを得なくなるでしょう。安心していてください」
 そう言った彼の胸中は、しかし逆に不安が黒い雲のように頭をもたげていた。いよいよ正念場という時の不安材料。果たして上手くいくのだろうか?

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2008年9月20日 (土)

キングスクロス:五.ロンドン~ニューヨーク(六月十二日~六月二十一日)(1)

 アイスランド沖。
 ジミー・スタークは、微動だにしない二人の船員を前に蒼白となっていた。紅潮して「叱る」ということなら数度あったがそれを通り越し、つまり本気で怒りの感情を露わにしたのはこの航海では初めてのことだ。否、本人も自覚していなかったが航海キャリアに就いて数十年でも、初めてのことだった。
「状況はわかった、甲板主任。君は異変を察知した時点で直ちにこの私に報告し指示を仰ぐ、それが規則だった筈だ。まずそれは理解しているか?」
「理解しております、船長」
「では、何故そうしなかった?船員区画の掃除がなっていなかったとか痴話喧嘩とかいうレベルならともかく、いやそれでも最高責任者たるこの私に報告する義務がある。何が今後の航海に支障とならないとも限らないからだ。それを、しかも一人の船員の生命が失われたという重大事を、君は私にちゃんと報告しないまま処理しようとした」
「そういうつもりはありません。今こうして……」
「反論の機会は与えるが、それは私が許可を与えてからの話だ」
 相手は黙った。艦橋の真後ろに当たる区画の中央にひときわ広く設けられたこの艦橋サロンには艦長と副長、甲板長、そして遺体の第一発見者である甲板主任と船員の五人だけだ。入口は内側から施錠、通常ここを休憩室・食堂として使う他の幹部船員にも、緊急時以外の来室を禁じている。ひときわ広いと言っても各船員のための区画と比較してのことで、テーブルが面積の大半を占める室内は、いつも以上に重苦しい空気が立ち込めていた。
「発見したのは早朝と言ったな?」
「正確には、午前五時六分です」
「五時丁度の当直巡視に遅参したため彼の船室に赴き、事切れている彼を発見した。それはいい。問題はその後だ。
 君はこの私でも当直幹部でもなく、直接報告を受ける義務も権利もない甲板長に報告した。そして甲板長、君も私に報告せず、つまり君の判断で、まるで何事もなかったかのように出航させた。この時点で二つの重大な規則違反があったわけだ。
 本来ならその時点でサザンプトンの港湾局と、必要なら英国警察の調査を受けるべきだった」
「この船の船長はあなたです。そしてあなたにはこの船で起こった全てのことに警察権も有している」
「それは船が公海上にある場合のことで、停泊中はその土地の官憲に警察権がある。君がちゃんと船員試験をパスしていれば知っている筈だと思ったが?それとも君達中国人は、都合の悪いことは自分達で処理するのが規則だと思っているのか?そもそも今回君達が取った行動を見せてもらうと、君達がそこまでこの私を上司として尊重してくれているとは思えないのだが?」
「艦長、そのぐらいで……」
 副長がたしなめる。「瞬間湯沸器」の渾名を持ち、航海業務中であっても時に感情を爆発させることのあるスタークの素顔を、誰より知っているのはこの男だ。それを思い出したスタークは、少し自分を落ち着かせようと試みた。
「済んでしまったことは仕方ない。契約にあるとおりのスケジュールで、船を進めることは最優先。だがそれを理由に、この件を内々に済ませるわけにはいかない」
「では……?」
「現在私が把握している事実を全て、直ちに英国に通告する。遺体の処理も含めてだ。もしその上で英国から停船、乃至サザンプトンへ引き返すよう指示があればそれに従う」
「そうなれば船長、この航海そのものにも傷がつきます」
「とっくについているじゃないか?傷どころか真っ赤な鮮血が」
 言い返された甲板長は黙りこくった。そこで打ち切ってもよかったのだが、そうはいかない。なにせサントリーニ島の件といい、彼等の規則違反はこれが初めてではないのだ。この際、隠し事はなしにしてもらおう。
「この航海そのものに傷がつくと甲板長、君は言ったが、そう君が判断した根拠は何かね?今この場で私に告白するか、それともこれからサザンプトンに引き返し、英国の海事裁判所で告白するほうがいいかね?」
「申し上げます。遺体の状態に異状が認められました」
「異状、とは?」
「自然史ではありませんでした。と言っても外傷はありませんでしたが」
「疫病……?」
 副官が呟いた。
「こうなったからには全部お話しますが、それには遺体をご覧頂くのが一番わかりやすいかと思います」
「遺体はどこだ?確か、医務室と言ったな?」
「はい。ご案内します」
 副長を先頭に、スターク以下在室の全員がデッキ二最前部の医務室に降りて行く、業務用エレベーターは船体中央付近に行かなければないので、階段での移動だ。
「私から船長に『告げ口』してもよかったんですがね」
 入口を入った待合室で一行を迎えた船医はそう言ったが、その硬い表情からスタークはいち早く、ただならぬ事態を半ば察した。傍らに控える医務室スタッフ……有資格看護士二名と事務員は、早くも蒼白だ。
「遺体は、奥に?」
「一番奥のベッドを空けています。本当は冷凍庫を使うべきなのでしょうが、まさか厨房のものを使わせてもらうわけにもいかんでしょうな」
「場合によっては何とかしないでもないが……兎に角、見せていただけるかな?」
「そうでしたな……おしゃべりが過ぎました、さあ、こちらへ」
 船医の先導で待合室と診察室を抜けると、一番奥まった一角に二つ並んだベッドの一つが、カーテンで仕切られていた。
「ここに運んで以降、誰も近づけていません。存在を知っている者はいても、単に休んでいるだけと思っている筈です」
「中を、確認していいかね?」
「どうぞ」
 船医が無造作に引いたカーテンの向こうに目を遣り、スタークは息を呑んだ。純白のシーツを皺一つなく敷いたベッド一杯に、異様な半透明の物体が鎮座している。それが爪先から脳天まですっぽりとシートを被せられた人間の体であるのは一目瞭然だった。
 船医の承認を得てもう少し近づいてみる。間違いない。今回の仕事に際しシンガポールの船会社から引き抜いた優秀な船員だ。それが蒼白になり、眼窩が黒ずんでいる。一見すると、パンダのように見えなくもない。それだけではない。両眼と口を見開いている。どう見ても安らかに旅立ったとは思えない表情だ。
「自然死……ではないね?」
「特定はまだですが、感染症であるのは間違いありません。問題はこれが自然発生的なものなのか、それとも……」
「何だね?」
「人為的な物質によるものなのかということです」
「生物兵器……!」
 誰かが呟き、医務室スタッフを除く全員が息を呑んだ。
「私は実際に見ていないのですが、過日チベット動乱で使われたという噂の……」
「それはあくまで噂でしょう?新疆の話とこれは無関係だ」
「船医の話は終わっていないぞ。無関係かどうか、判断は私がする。異論があるなら大西洋を泳いで中国に帰るかね?」
 スタークの気迫に、機関長は挟みかけた口を噤んだ。
「中断して済まなかった。その、噂の物質と症状が似ていると言うことだね?」
「似ていると言うより……先刻、資料を取り寄せて確認しました。十中八九、同じ物質だと思います」
「仮にそうだとして、こういう形で死者が出たことは、今後の航海に支障は出るかね?」
「それは多分大丈夫です。空気伝染する物質ではないので。感染するのは液状のものを直接被るか、体内に入った場合です。それと、バクテリアにしては珍しく水分に強いので、水気も避ける必要がありますね」
「この遺体の処置は?本来なら陸に降ろすべきだが、それに耐えるかな?今の説明だと、二次感染対策に火葬ないし水葬の必要はないようだが?」
「その通りです。一番早いのはヘリで空輸することですね。もしこれを表沙汰にしたくないというのであれば、他に理由を考えるかアメリカまで我慢するしかありませんが」
「……」
「どちらにしても、これ以上この部屋においておくわけに行かないのだけははっきりしています。腐敗が始まれば、死因に関わりなくバクテリアの温床になりかねません」
「船員厨房の冷蔵庫しかないな……」
 スタークは呟いた。こう言う事態を考慮して、冷蔵スペースには普段使わない区画を確保しているのだ。その場に居合わせた一人が嫌そうな顔をしたのを見逃さなかったスタークは続けた。
「発見時点で私に報告してもらい、イギリスで降ろすことができれば同居は避けられた筈だが……全船員には、事情を説明しておく必要があるな。さすがに、船客に話すわけにはいかないが。個人的な事情からサザンプトンで下船したことにしよう。副長、それでいいね?」
「妥当なご判断だと思います」
「よろしい。厨房長を呼んでくれ。私から説明する。他に、申し立てることがある者はいるか?」
 室内にいた全員が黙りこくった。船員は半泣きの表情だった。
「なければ以上だ。本件は今言ったとおりに処理する。通常業務に戻りたまえ。副長、君は一緒に来てくれ」
 医務室を出た船員達が三々五々散らばると同時に、スタークは副長だけを従え船橋デッキへ戻った。先程と打って変わって妙にがらんとしたサロンの、しかし重苦しい空気は変わらなかった。それでも気を遣う相手がいなくなってやっと、スタークの表情が和んだ。否、無理に和ませたと言うべきか。
「どう思う?」
「は?」
「この船だ。秘密が多すぎる。私でさえ立ち入れない船底区画、勝手な行動を繰り返す中国人クルー、どう考えても胡散臭い有名サッカー選手の手荷物、そして今回の変死体。船長として全てを把握しておくべきこの私が一番、実はこの船の事を何もわかっていないのではと言う気がしてならない。『タイタニック』は同じルートを取って氷山に遭遇したが、我々が遭遇するのはもっと得体の知れない、恐ろしいものではないだろうか?」
「船長!」
「わかっているよ……他の者の前では言えない。不安をかき立てるだけだからな」
 スタークはそう言いながら、副長の顔から視線を離さなかった。今回の騒動が持ち上がってから、あまりにもタイミングよく現れ字体を処理した、この男は自分も知らない何かを知っている。
「実は。本件とは直接関係ないとは思いますが、船長にお話していないことがございます」
「何だ?」
「推進機関のことです。説明書には、ディーゼル機関となっている筈ですが……」
「原子炉だろう?」
「気づいておられたのですか!いつ……?」
「実際に見たことはないが、性能データは勉強した記憶がある。ディーゼルにしては馬力が違いすぎるし、かと言ってガスタービン機関のような騒音もない。燃料消費量だけは通常通りだったから確信はなかったのだが……」
「恐れ入ります」
「燃料はどうした?まさか、海上に垂れ流したりはしていまいな?」
「船底のタンクに移しています」
「そこまでして、原子炉を隠したかったわけだ……特に、これから寄港する予定の国には」
 長々と続けながら、スタークは憐憫を覚えずにはいられなかった。ここまで何も知らされず曰くつきの航海を任されてきた自分にも、自業自得とは言えそんな自分の、空しい愚痴を聴く羽目になっている副長にも。多分全ては、この航海が企画され、建造が決定した時点で青写真が出来ていたのだろう。この航海を終えた後、この船が辿る運命も含め。
「心配しなくていい。確かに君の言うとおり、今日起こったこととは別問題だし、CIAが乗り込んできても黙秘するかどうかは別だが、少なくとも不用意に喋り散らす性質の話じゃない。永年海の上にいると、マフィアを運んだこともあるし、悪名高い『ピースボート』の舵輪を執ったことだってある。だが今回は、それら今までの航海とは違う気がするな」
「……」
「君はどうか知らないが、ひょっとしたら今回は、生きて陸(おか)を踏めない覚悟もする必要がありそうだ」

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2008年9月15日 (月)

キングスクロス:四.バルセロナ~ロンドン(六月三日~六月十一日)(2)

 六月十二日 ロンドン。
 ダウニング十六番地。市内の他の街区と同じくさして広くない通りを挟んで、古風だが地味なサイズのアパートメントが軒を連ねるここは、しかしこの国が内外で「大英帝国」と称されていた当時から、その頭脳であり続けた。少し足を伸ばせば、外観ではよほど立派な外務省、そしてテムズ川に至れば立法府である国会議事堂。しかし、正面の通りを封鎖している紅白の車止めや、その内側に常駐している警官の姿を見逃しでもすれば、初めて訪れた者がここを首相官邸だと気づき、その政治的重要性がホワイトハウスやクレムリンに比肩するのを悟ることはあるまい。
 中庭に面した執務室に通された彼は応接セットの下座に端座し、執務机に座ったまま陸軍の報告書に目を通す首相を待っていた。机の傍らには、これは内務省からの報告書。
「見せてもらったよ……二つの報告書とも結論は一致しているな。ロシア方面から情報のあった『荷物』が、一時期我が国で確かに補完していたものであること。或る目的の為にそれが奪取され、今はかなり高い確率で、ポーツマスに停泊中の『オリンピア』に人知れず……これは公にされていない、と言う意味だが積み込まれていること。その最終目的地は新大陸であること」
「そうですか」
「概要は事前に聞いている。そこで我が連合王国政府としてどう対処すべきか、私なりに考えておいた。君達に相談する時間的余裕がなかったことは、了承して欲しい」
「政治的配慮が必要であるというなら、それは首相閣下の専権事項です。了承するもしないもないとしか、自分の立場ではお答えしかねます」
「理解してくれてありがとう……もうはっきり言っていいだろう。我が連合王国政府として、本日出航予定の『オリンピア』に対して、これ以上直接何らかのアクションは起こさない。但し、その影響が新大陸に及ぶ蓋然性を看過することはできないので、今まで入手した全情報をアメリカ合衆国に提供し、要請があれば事態解決に向け最大限協力する」
「出航を、待っておられたのでは?」
「考え過ぎだ。我が国への直接攻撃回避を最優先した……それまでのことだ」
「まあ、結構です……キングスクロス駅の事案も、その線で調べるということですね?」
「と言うより、君達がとっくにその線で捜査を進めているじゃないか?スコットランド・ヤード然り。私が今しているのは、既成事実の追認に過ぎない」
 人を食ったような言い回しだが、要は追認する、ということだ。彼は無言で会釈し、謝意を示した。
「関係各国のもその線で、内々に通達を出すことになるだろう。北京にはモスクワ経由で知らせるが、余計なアドバイスをするか否かはクレムリンの判断に任せようと思う。同志を標榜しながら水面下では上手くいった例のない相棒だ、どう対処するか、ここは見物させてもらおうじゃないか」

 モスクワ。
 FSB本部の司令官執務室で、彼はクレムリンからの電話を受け取った。
――ロンドンから連絡があったよ。大英帝国は、計画の存在とその内容を認識した。
 ついては今後は、ワシントンと共同歩調を取るそうだ。積極的妨害もしないが、何かあればワシントンがあの船を撃沈しようと知ったことではない、ということだな。
「我々のことについては、何か言ってきましたか?」
――いや。あくまで伝聞の労を取って欲しいというだけだったな。
 尤も、何も察知していないということは考えられない。ニューデリーとワシントンが察知しているし、特にワシントンは今でも、最大の同盟国だからね。こういう重大事を黙っていればどうなるか……私だってわかる。
「で、どうなさいます?北京には報せますか?」
――君はどう思う?
「それは、これを耳打ちしてきたロンドンが何を意図しているかによると思います」
――つまり?
「我々が全てをぶちまければ、彼らは決定的に我々を見限る。反対に我々が一つでも北京への情報を遮断すれば、幾許かでもモスクワと北京の間にひびが入る。高みの見物ですよ」
――合格だ。ではそれを受けて、君ならどうするね?
「黙っているわけにはいかないでしょうね。この通告を中南海が知っていれば面倒になります。ひょっとしたらロンドンが自らリークする可能性だってありますし。
 しかしそれなら尚更、ここまで知られている以上、ロストフ大使ではありませんが今までどおりの北京べったりを続けるメリットもありません。『ロンドンが察知した。ポーツマスでの強制捜査はなさそうだが、新大陸ですんなり荷揚げ、は難しいだろう』……これでどうでしょう?」
――妥当なところだな。あちらの対外連絡部とのチャンネルは、正常に機能しているね?
「現在のところ、何ら問題はありません」
――ご苦労だが、そちらから伝えてやってくれるか?さすがにホットラインで話すべき類の話題ではない。非常時となればそうも行くまいがね……

 北京・中南海の一角。
「イギリスが感づいただと?」
「はい……同志主席閣下」
 魏は柳眉を逆立てていた。退任して数年経つ今でも、非公式な場では自分を主席と呼ばせていた。
 現役を引退した魏は、ここにあるアパートメントの一つを住居としている。外見は王朝時代のものだが、一歩内部に入れば最新鋭の近代的な、とはつまり欧米風の造りだ。
 国家主席を退いた後も主席官邸というべき棟から動かなかった魏だが、軍内部の綱紀粛正を機として、とは事実上責任を問われた二年前からは、さすがに引続きとどまるわけにはいかなかった。それ以降めっきり訪問客も減った。と言っても、現役時代とて公然と「門前市を為す」状態だったわけではない。建国者にして究極のカリスマでもあった毛沢東の死後、この国は特定の一人へ権力が絶対に集中しないシステムを整備した。最高権力者である国家主席と言えども、だ。その後いくつかの政変があったが、社会主義政体は磐石の重きを誇っている。そこがルーマニアや東ドイツと違うところだ。そして恐らく……北朝鮮とも。
 部屋中監視カメラと盗聴マイクだらけと言っていい。時の最高指導者だった前任者に進言してそうさせたのは、他ならぬ魏だったが。どういう経緯を辿ろうと、その制約を逃れることはできない。天寿を全うして、あるいは全うせずして泉下の人となるまでは。
「どこから気づいたのだろう?」
「あの物質の一部が一時、イギリス国内の研究所に持ち込まれていたとの情報があります。今回持ち出されたのとは別のものと思われますが、そこから関連を疑ったのではないかと思われます。ネタ元は恐らく、インドでしょう」
「インドか。あそこは建国以来、我々の頭痛の種だな。ダライ・ラマを匿ったのもネルーだし……」
 インドだけでなく、ヴェトナムもアメリカも察知していることをモスクワは北京に教えてこなかった。それでも中南海は独自に察知し……しかしそれを、目の前の人物には報せようとしない。一番の道化師は、最強の主席を自任するこの男かもしれない。
「どうなさいますか?計画を変更なさいますか?」
「私に聞かれてもな……この計画の主体は、あくまでカラカスと平壌だ」
「しかし、主席閣下がウンと言えば、両国は計画続行を決断するでしょう」
「そこが問題だ。この期に及んで推し進めるのがいいのか、次の機会を待つべきか……」
 そのぐらいの判断力はまだ残っていたと見える。
「君ならどうする?」
「計画は白紙に戻し、次の機会を待ちます」
「簡単に言うねえ」
 魏は笑った。こんなに面と向かって、批判とも受け取られかねないことを口に出来るのは、自分だけだろう。実業家として香港にいる彼の息子だって、こんなにはっきりと物を言ったことはない筈だ。
「しかし、ここまで来て引き返すわけにはいかない……君もわかっている筈だ。一応両国の指導者には念を押してみるが、我が国のためにもこの計画は、是非実現しなければならない」
「わかります」
「君の意見は意見として聞いておくが、現時点で方針変更はやはりできない。いざとなったらいつでも柔軟に対応するとして、全ては今までどおり、手配を進めてくれるか」
 彼らしからぬ慎重な言葉づかいに、しかし魏の強い意志を察知した彼は、無言で一礼すると退室した。

 ニューヨーク。
 彼がマンションでハラレからの電話を受けたのは、恋人を帰した黎明の時刻だった。まるで一息ついた頃を見計らったようなタイミングだった。否、「ような」ではなくずばり、見計らったのだろう。トップにその意思さえあれば今のハラレにそれぐらいのことは朝飯前なのを、彼は知っていた……肌で。
――大統領から、君にも報せてくれとご指名での指示だ。お気に入りだな、君は。
 やっかみ半分か、直接の上司である彼はそう言った。
「お気に入り、であればここにいることはない筈です。このニューヨークですべきことがあるというご判断でしょう」
――相変わらずだな……まあ、ある意味その通りだ。大統領は、北京とある取引を始めることにした。内容は、君も知っている筈だ。
「北京の計画は、今のところ予定通り進んでいるようですね」
――ああ。それだけにこちらの動き次第で困ったことになる筈だ。先方も黙ってはいまいし、色々なところで情勢が動き始める可能性があるので、あらかじめ承知してもらいたいとのことだった。
「了解しました。北京が非常手段にでも訴えてこなければ、必ずしも悪い選択肢ではないでしょうか……」
――訴えてくると、君は思うかね?
「可能性は排除できないとしか、お応えしかねます」
――やれやれ……まあいい。何かが起こりかねないのはむしろこちらの方でもある。常時情報を共有するため、今日のようにいきなり電話を入れたりすることもあるから承知しておいてくれるか?
 朝早くから申し訳なかった。今日もいい一日を。

 午前五時 サザンプトン。
 この船のデッキは、船底から数えてデッキ一、デッキ二と数えるようになっている。船底を一階として基点にしているわけだ。
 その数え方で言うデッキ四は、外国人パーサーや機関要員と言った一般船員の居住区となっていた。船長以下の上級船員は船橋後方に固まって一人ないし二人部屋を与えられており、楽団要員でも有名なアーティストになると、船客と同じくここより上階の船室に滞在していた。
 未明。全員で分担している船内の見廻りのための集合に現れない船員がいた。彼と組んで見廻りを担当する予定の船員と、責任者の甲板主任が船室を改めると、船員は自分に割り当てられたベッドに横たわっていた。
 甲板主任はまず、この暑い季節に毛布を丸ごと被ったままであることに不審を覚えた。それも、頭からつま先まですっぽりと、まるで熱病に罹って悪寒を覚えているかのように。薄々異変を察知した二人は恐々毛布に手をかけ、呼吸を合わせて引き剥がした。壁の方向に横臥していた船員は、肩に手をかけてそっと揺さぶると力なく顔をこちらに向け、光を失い濁りの入った両眼で二人を見据えた。
 同僚が悲鳴を挙げるのを間一髪、甲板主任はその口を抑え制止、まず毛布を元のように頭まで被せてやった。幸いその時、船室には三人の他に誰もいなかった。
 代役を一人立てたところで、第一発見者の船員は簡単な見廻りの任務も果たせる状態ではなかった。甲板主任は船室に施錠すると、次の回の担当者に見廻りを代わってもらうことと、その理由である異変を甲板長に申告するため、自分も滅多に足を踏み入れない船橋上部の特別船員室へ上がって行った。
 状況を把握した甲板長は機関長と相談の上、その船員は体調不良のため医務室で休養中ということにした。同室だった船員にも、真相は明かされなかった。第一発見者の船員は、疲労を理由に特別船員区画の一室に、事実上監禁された。全ては、船長のスタークさえも知らぬ間に決定され、実行されていた。
 五時間後、舫を解いた『オリンピア』は定刻どおり、大西洋へ向け英国の大地を離れて行った。

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2008年9月 7日 (日)

キングスクロス:四.バルセロナ~ロンドン(六月三日~六月十一日)(1)

 六月二日午後 バルセロナ。
 海に向かい開けたこの港町は、一九三〇年代のスペイン内乱では人民政府側の拠点として機能、ためにフランコ政権下では辛酸をなめてきた。世界でもトップレベルと言われるプロサッカーリーグ「リーガ・エスパニョーラ」でこの街に本拠を置くクラブチーム・FCバルセロナが今も続いているレアル・マドリードとの因縁も、それに端を発している。北京オリンピックとのスポンサー契約実現も、人民戦線の政治路線を戦後中国が支持していたという背景からで、その後人民戦線自体政権に復帰したが、あくまでフランコ政権の延長線上で王政復古を果たしたマドリード政府との対抗意識は、サッカーという形において顕著に残っていた。
 港は、否街中が半月も前から祝祭のような状態だった。中国やその周辺、具体的にはシンガポール出航以降では最も歓迎されているのではないか。うわべとは裏腹の、各国の何かよそよそしい「歓迎」にいい加減慣れていた船客達は、喜びと同時に戸惑いを隠せなかった。
「彼は、まだ現れていないようだな?」
「出航は明後日ですからね。事情を抱えているなら乗船は可能な限り遅くする筈よ」
「俺みたいに、か?」
「そう言う意味じゃないけどね……色男の正体が正体なら、元ファンタジスタだってどうだか。いや、この船に乗っている人間全部、その可能性はあるんでしょうね。乗客だけでなく船長から一介の作業員まで」
「随分はっきりと言うねえ」
「人は、経験から学べるものよ。問題はその経験から何を学ぶか、その教材が何かって事ね」
「なるほどね……で、それまではどうするね?エクスカーション(オプショナルツアー)は申し込んでいないから、とりあえず今日はすることが無いが……」
「明日、空いているツアーがあったら市街地を廻りましょう。ずっと籠りきりでは却って怪しまれるわ。ツアーデスクに空き状況を確認しておきましょう」
「そうだな……おや?」
「どうしたの?」
「埠頭の動きが慌しい。このタイミングでマドリードの官憲が乗り込んでくるとも思えないが……」
 彼は窓外を眺めていたが
「やれやれ……ファンタジスタのおでました」

 同時刻、ニューヨーク。
「間違いないのですね?」
「ああ。裏も取れた。ハラレの大統領執務室への報告書のネタは充分揃ったということだ。報告を受けて大使館から送りこんだ要員が、計画の存在に間違いがないことを突き止めた。これがガセネタでない証拠に、初期調査で大使館が雇った中国人の情報屋は、工事現場で頭を割られた即死体で発見された」
「……」
「私は君からの情報もブレンドして報告書をまとめた上でハラレへ戻るが、そこで決まる方針次第では君にも近く、ワシントンとの間で動いてもらうかも知れない。今のうちに英気を養っておいたらどうかね?」
「恐れ入ります。お言葉に甘えさせていただきますが、そういう事態にならないよう、望みたいところではあります」
「そうだな。君はこういう冒険を愉しめる人種じゃない。だが、愉快とか不愉快という感情で片づけられる事態じゃなくなりつつあることだけは、覚えておいてくれ。じゃ」

 同日夕刻 バルセロナ。
 バルセロナの街は、過年のオリンピック開催を思わせる盛況の中にあった。
 と言っても、ワールドカップで地元の「色男」がトロフィーを手にした二〇〇二年のそれとは違う。確かに手にした人間は同じでも、あの栄誉は大西洋を遥か隔てたアマゾンの国のそれであってスペインの、ましてその中でもマドリードを中心とする北部とは一線を画している、このカタルーニャのそれでは決してないのだ。
 その「色男」は既に乗船、デッキから来場者に愛想の大盤振る舞いだ。こちらは出身国に関わらず、バルサの選手としての「役目」なので、地元としても官民挙げて盛り上げないわけにはいかない。
 突然一郭に悲鳴が走る。怒号のする方向を見遣ると、埠頭前の一角を仕切ってしつらえた歓迎会場に突入を試みる一団。黒いTシャツの胸元には、デルフォイ以降お馴染の、手錠で形作られた五輪。或る者は敏感に表情を険しくしたが、多くは迷惑げに眉をひそめるばかりだった。
 過日の聖火リレーでは彼等が全世界で示した行動、そしてそれに各国当局とメディアがどう対応したか知らない者はない。この場に停泊している船と、今日のセレモニーが一面どういう意味を持つかは、彼等の纏う紋章同様明白だったのだ。
 それでも最初は黙って敵意の目を向けるだけだった一団が、我慢の限界を超えTシャツの一団に襲い掛かった。彼らが「オリンピア」に向かい、鉤十字をあしらった旗を掲げたからだ。第二次世界大戦に先立つスペイン内乱で、フランコ支援を目的にカタルーニャを攻略したナチス・ドイツは、半世紀以上を経た今でも悪夢でしかなかった。事情がどうあれ全市を挙げて歓迎している「オリンピア」に、よりによってその標章を掲げ揶揄するとは!
 恐らく、事前にどこかから指示を受けていたと思われる一団が、警察の制止を振り切って実力行使に及んだ。悲鳴とともに出来た空白の中、頭部を西瓜のように砕かれた男が倒れていた。ゲルニカから特別招待されていた平和使節の少女達は泣き叫ぶ声が楽隊の演奏を叩き潰し、招待されていた要人はいち早く退席していた。セレモニーは中止となった。
 午後六時、花輪の代わりに警察車両のパトライトでものものしく彩られた埠頭を、「オリンピア」は出航していった。

 六月九日早朝 ルアーブル。
 世界遺産地区にも認定されているマリーナに隣接して、五百メートルに及ぶ大埠頭に「オリンピア」は着岸していた。昨日の歓迎式典を終え、しかし夕刻とて夕食と宿泊を愉しむツアーが去ると、いつものように死んだような夜が港に静かに降りて来ていた。
 埠頭を望む旅客ターミナルビル屋上に、二人の男がいた。バルセロナから乗船したポパイとプルート。スポーツジャーナリストでもある彼らは、この地で一時下船した「色男」には目もくれず、船内と寄港地の遠近にファインダーを向け続けていた。
 港町の静寂を破り、一国の首脳のような高級四輪駆動車の列がエンジン音も荒々しく乗りつけ、しかし貨物を積み込む下部ギャングウェイ付近に停車。その一台から降り立った「色男」は、車内に残るもう一人の相手と短い挨拶を交わした後、人目を避けるかのごとく足早に乗船した。それを見届けた二人は任務が終了したかのように、こちらは堂々と上部ギャングウェイから乗船。予定されている午前の出航まで、六時間を切っていた。

 六月十日 テムズ川、ロンドン下流グリニッジ地区。
 もともと低地にあるロンドンは、テムズ川の河口から逆流する海水により、過去に何度も洪水の被害を受けてきた。それを防ぐために一九××年、ロンドン下流グリニッジ地区に堰が設置された。これをテムズバリアと言う。尤も、近年は地球温暖化による海面上昇が続いており、現行の設計では二〇三〇年までしか対応できないとも言われている。
 場所柄、観光客の姿が途絶えなかった天文台に、南方向から乗り付けた数台の大型バスが横付けされた。ポーツマスに停泊した「オリンピア」の、エクスカーション客の一行だ。一見いつも見慣れた光景だったが、周辺にはスコットランド・ヤードだけでなくMI六の要員が配置されており、個人や他のツアー客は完全に締め出されていた。ツアー客のほうでそれに気づいたのは、ごく一部だけのようだった。

 同夜 ポーツマス。
 日露戦争の講和締結と、それに向けた会議の舞台として知られるここは、東か南に向かえばヨーロッパ、西に向かえば遥かに新大陸へ通じる、大ブリテン島の海の玄関口である。島の東側へ廻って、さらに湾の奥にあるテムズ川をさかのぼって初めて到達するロンドンに対して、ここは古来からフランス、ドイツなどの攻撃を引き受け、一方で大陸への出征の後方基地となったりした。
 国際旅客ターミナルを丸ごと呑み込む様に横付けされた「オリンピア」の船腹に、大小のタグボートが張り付いている。繋留作業を済ませれば本来の役目を終える筈のこれら作業船が未だこの位置に留まっているのも全て、内務省からの指示だった。船客達は何事もないかのように上陸し遠近の観光を愉しんでいるが、一方で埠頭では軍と警察が、不断の監視を続けていた。

 六月十一日 ロンドン。
 セント・ポール寺院の大ドームを背後に擁し、小さな広場を囲んで広がるここは、「シティー」と言うだけで通じるイギリス経済の中心で、ウォール街、兜町と並んで世界の株式・為替を統括するハブ市場でもある。
 寺院と並び十七世紀ロンドンの建築家クリストファー・レンの傑作である、イングランド銀行の古色蒼然としたファサ―ドを斜めに臨むファーストフード店に二人はいた。大多数の乗客はウェストミンスターや、オプショナルツアーでグリニッジ天文台などを見学している頃だ。
「一つ上のカップル……気づいた?」
「ああ。ピレウスにいた男だな。しかも見事に変装している」
「エージェントね。どこの国かしら?パスポートはイタリアだったけど当てにならないわね。我々と同じで」
「イェニチェリにデータを送っておいた。出港までに返事がくるといいんだが」
「他にもいるわよね。特等はわからないけど、一等に二組、多分二等だと思うけど三組。皆『ミノタウロス』が狙いかどうかはわからないけど」
「我々のことも薄々気づいてるんだろうな。まあ、時間はたっぷりある。もう少し様子を見よう」
「そうね。ポパイとプルートは?」
「バルサの色男を追っかけてるよ。スポーツジャーナリストだからね」
「アメリカに渡ったら上陸して大会のPR活動ですってね。いい気なものだけど、我々もその間はじっくり『ミノタウロス』の監視を続けられるというものね」
「PR活動か……」
「どうしたの?」
「いや……もしかして彼が運び屋なのかなという可能性を思いついてね」
「まさか?内外のメディアが四六時中追い回してるのよ」
「彼を、だろう?その荷物までじゃあない」
「……」
「ギャングウェイから差し回しのリムジンで乗り降りする彼を狙っても、それと別に運び出される手荷物を狙うカメラマンはいるまい。それに彼の最終下船予定地は上海だぜ。一々途中下船するたびに全ての手荷物を降ろしたり積み込んだりするとは限らない……違うだろうか?」
「じゃあ……?」
「あくまで憶測だ。だがもし船会社が関与していれば、これぐらい確実な移送手段はない。各国の通関窓口が節穴でなければ話は別だがね」
「節穴、ね……日本だって税関の現場は相当シビアだけど、トップが腰砕けだとどうしようもないみたいだしね。アメリカとイギリスならそこまではないでしょうが……」
「尤も、君も知っているように両国も既に計画の存在には気づいている。そして我々に思いつくぐらいだから、彼等もまたあの『色男』をマークしている可能性はある」
「貴方だからこそ思いついた……とは考えないほうがいいようね、今回の場合?でもそうなると、本当に現場が緊張するのはこれからということかしら?」
「多分ね。今後は何が起こるか、わからないと思うべきだろう。この計画の周囲にいる、全ての人間にとってね」

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2008年9月 2日 (火)

キングスクロス:三.アレキサンドリア~バルセロナ(五月二十一日~六月二日)(4)

 デリー・首相官邸。
「ミャンマーが想定ルート……そう言えば、国交を回復していたな?」
「そうです。日本ではそれに反発して投資が減少、同時にアメリカの制裁検討で他の国も投資を自粛。対朝密貿易のトンネルにしたい中韓は逆に増やしているようですが、全体としては急激に落ち込んでいます。その分、内情も今まで以上につかみにくくなってはいますが」
「それでヴェトナムがよく察知したな?やはり地の理か?」
「と言うより、昔から仲はよくないんですよ。二国間と言うより東南アジア全体が互いにね。タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、そしてミャンマーとヴェトナム。千年以上も前からあの地域での主導権を争っているんです。北東アジアと同じで、隣人同士はうまくいかないということですよ」
「しかしASEAN……」
「だからASEAN、なんです。日本や中国が主導権を握ろうと干渉しているようですが上手くいかない。いやそれで紛糾する可能性だってあるのだから、個人的には、そっとしてやってはと言いたいところですが、中国が考えを改めない限り……」
「手を引くわけにはいかないわけだ。尤も確かに、ヴェトナムと中国は今でもギクシャクしているな。そうするとこの情報も信憑性があるわけだ……となると、ミャンマーから中国へ引き返したのもネピドーの暗殺事件が原因かな?」
「ひょっとしたら、オリンピア寄港中止もね」
「本当か?」
「根拠はありませんが、タイミングが合うのは事実です。先入観を排除して確認中ですが、内務省のスタッフは皆疑っていますよ」
「そうか……」
 ミャンマー政変との因果関係はともかく、中国がこのクルーズで何かを企んでいるのは間違いない。幸か不幸かムンバイでは何事もなく去っていったが、それが解明されない限りこの事案が解決されたとは言えない。スエズを通過してアジアからヨーロッパに入った船は北岸を西進、その先には二つの大洋を分かつ新大陸が横たわっている。
 中国が何かを考えているとすれば、新大陸であるように思えてならない。ターゲットがアジアだとすれば、ムンバイに来る前に何かあった筈だからだ。アメリカとはこのところ摩擦の絶えないベネズエラの影がちらついているが、その背後に中国がいるなら大問題になる。上手く処理できなければ、現在の平和も破れることも想定せねばなるまい。北京と何かと距離を置いているロシアも、いざとなれば立場上どこまで味方になってくれるか。遠ざかっていく船影とは裏腹に、その船底に積まれた危機は膨らむ一方であるようだ。

 五月二十六日、ガール水道。
 四万個の石を積み上げたと言われる、古代ローマの水道橋が今も高々と聳え、延びている。一キロあたり、三十四センチ下る設計。一箇所六十センチの狂いがあり、削って調整した後があっただけだったと言う。橋脚は上流に向かい三角の平面で水圧を分散、二〇〇二年の大洪水にもびくともしなかった。ちなみに、この洪水後の修築作業中に、当時の船着場が発見された。
 だが中世に入り、ローマ帝国が滅ぶと諸民族が町の制圧のためしばしば水道を閉鎖。そして九世紀、ノルマン人が遂に破壊、ニームが自らそれを復興する力は、もはやなかった。近世後期にここを訪れた哲学者ジャン・ジャック・ルソーは、この水道橋の高度な建築技術とその後の荒廃を見て、「私もローマ人に生まれたかった」と嘆いたと言われていた。
 アーチを象に例えるなら一踏みで粉々にされそうなバラックが、その麓に建っていた。古代ならぬ現代の水道を保守するための事務所だったが、水道が地下に埋設された十年前に役目を終え、時には子供の遊び場、時には夜の愉しみの場となるぐらいで荒れ放題だった。
 この掘っ立て小屋に、数日前から滞在している数人の男たちがあった。地味な四駆で乗り付けてきた彼らは、建物の入り口脇にテントを設置、何かを待ちながらそこで寝泊りしていた。子供からの通報で様子を見にきた警察官は、フランスからスペインへ向かうバッグパッカーだと言いくるめられた。それでも疑いを拭えなかった警察官からの照会を受けたパリ警視庁の捜査員が駆けつけた時には、何事か目的を果たしたらしい一団はテントを畳み、来た時と同じように夜のうちに走り去った。後にはゴミ一つ残っていなかった。潔癖と言うより、証拠隠滅の意思を、捜査員は嗅ぎ取った。

 同日、ヴァティカン宮殿、サラ・レジア(王の間)。
 ベルニーニ設計のサン・ピエトロ広場に面した巨大な青銅の扉を抜け、長い廊下を大聖堂脇へ突き当たって、バロック建築の精華、スカラ・レジア(王の階段)を登りきったところにあるこの広間は、システィーナ礼拝堂正面入口に面した控えの間であると同時に、枢機卿が外来の客と面会する場所でもあった。
「何の用だ?あまりここに来られては困る。君の芳しくない噂は、ローマにも伝わってきているんだ」
「急な頼みがある」
「君の『元』ファンタジスタのことか?」
「何故判った?」
「図星なんだな?」
「……」
「アメリカ大使館がチェリオ(イタリア内務省)と頻繁に行き来している。今のところイタリア政府に公式の動きはないが、君が何か言って来てもチェリオがノーと言えば終わり……一八七〇年(サルディニアを中核とするイタリア統一)以降、それが我々の間の不文律だ。それだけは最初に言っておくぞ」
「ネックは、結局のところ中国なんだろう?」
「ノーコメント。絶対漏らすなと言われているんだ。背けば私ばかりか、君も聖庁の(異端者)ブラックリストに載ることになるぞ」
「大使あたりに、私の名前を吹き込んでみてくれ。何ならベネズエラ大統領の名前を使っても構わん」
「つまり、カラカスも承知しているということか?」
「そうだ。安心したか?」
「むしろ逆だと言っておく。あそこは最近反米関連で目立った行動が続いていて、正直ヴァティカンとしては迷惑しているんだ。クスコの大司教などはその急先鋒だがね。私としては立場上、しばらく大人しくして欲しいというのが本音だ」
「困らせるようなことはない。成功すれば、見返りは保証する」
「とにかく今日は帰ってくれ。君の話は国務会議に上げておくが、成果はあまり期待しないで欲しい。情勢は益々、慎重な行動を求めているからな。あとは神のみぞ知る、だ。それと、今後この件で用事があるなら、携帯にかけてくれないか?」

 五月二十八日、チヴィタヴェッキア。
 ローマの外港であるこの街が開かれたのは紀元後一世紀、古代ローマ最盛期の皇帝トラヤヌスの時代にさかのぼる。帝政初期のクラウディウス港に続き、テヴェレ河口の港を大拡張すると共に、その周辺に予備となる港湾を三つ整備。うち二つは、それまであった港の改修だったが、全く新しく開かれたのがこのチヴィタヴェッキアである。
 早暁、予定通りに南方洋上から、近年でも稀な船影が姿を現した。陸地側の稜線から昇った朝日に照らされたその姿は、白衣をふわりと纏った女神サイレンのように、ゆっくりとサイズを増し、港の丁度南西海域に達したところで一旦停止。検疫と抜打ちの寄港地点検を済ませた後、水先案内人が乗り込んだ「オリンピア」は舳先をゆっくりと北東へ回頭、タグボートのエスコートを受けながら旅客埠頭へゆっくり前進を再開した。
『オリーヴ』は埠頭で着飾った乗客に混じり、どちらかと言えば地味な装いで着岸を待っていた。同行する筈の『アヌビス』はまだ現れない。パスポート、乗船券を始め必要な書類は持参しているが、女が不時の単独乗船となっては人目を引くに決まっている。
 彼が現れたのは受付終了の十分前。金髪に白い顔と、『本当の』国籍を思わせないフランク人らしい風貌だが、混血だろうか。如何にも申し訳ないという顔で、「計画に変更がある、詳細は船上で」とだけ素早く呟きチェックインカウンターへ進む。ここまでの航海でも、またそれと一見関係ない世界各地でも大小の動きは生じており、些細なことで驚かない自信なら少々ついている『オリーヴ』だが、相手は手負いの全体主義者だ。軍人としてこれまで蓄積した経験を総動員することになるかもという予感と共に、陽光に眩しく輝くギャングウェイを通過、恐らくは魑魅魍魎がたむろしている豪華な船内へ足を踏み入れた。

 六月一日、モナコ。
 系図を中世の海賊までさかのぼる貴族が治めてきたここは、今や世界中に有名な公営カジノとオートレースで有名な都市だ。レース開催時はコースとなる道路の両側を区切るが、それ以外の時期はニースやカンヌと並び、地中海北岸に連なる高級リゾート地だ。
 国際旅客埠頭は、異様な興奮で埋め尽くされていた。不釣合いなまでの巨船を受け容れるため、同日に他の船の寄港予定はない。決定が為されたのは二ヶ月前。しかし、全世界の船会社への対応に負われることになった港湾局は同時に、内務省とNATOの人知れぬ監視下におかれていた。

 六月二日未明、中南海。
「連絡が入りました。『荷物』は予定通り、バルセロナをに到着したと」
「今度こそ、確実に積み込めるんだな?」
「今までは邪魔が入りましたが、それは寄港国であるギリシア、フランスなどにいち早く計画を察知されたためでもあります。それに、ルアーブルからの計画変更後、『荷物』のほうはフランス国内の協力者が一時預かっていて、運び屋に渡すまで誰にも知られていません」
「ベルリンで捕捉されそうになって以降は、相手も行方をつかめずにいるようだな。クレムリンからは『自分達にだけでも教えろ』と言って来ているが、どうしたものかな?」
「いけません。右から左へ告げ口はしないでしょうが、余計なカードを渡すことになります。
『知りすぎると却って困ることになるかもしれない』と言って隠し通すのが上策です」
「そうだな……ジンバブエの友人の機嫌はどうだ?困った立場になっているのは承知しているが、またぞろ困ったことを考えているようだ。国力に見合わない野望を抱くと、政権そのもが危地に陥るということを、そろそろ教えてやるべきじゃないのかね?」
「お説ご尤もですが、上手くやらないと先方がダンスの相手を取り替えかねません。そうなれば我々のほうが、単に逃げられたという以上に困ったことになりますから」
「任せよう。確かに、以前我々の邪魔をしたワシントン贔屓の青二才がいたが……」
「彼は今、ニューヨークの国連代表部勤務です。追い出されたんです。ハラレが彼を呼び戻すようなことがあれば厄介ですが……」

 六月二日午前 スペイン・バルセロナ郊外モンセラット修道院。
 千年以上前からイスラム勢力との対峙で磨かれてきた、ストイックなスペイン・カトリックの教理を示すように峻厳な地形の中を、殉教者の血を思わせる真っ赤なBMWのクーペが市街地へ向けて疾走していた。

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2008年8月30日 (土)

キングスクロス:三.アレキサンドリア~バルセロナ(五月二十一日~六月二日)(3)

 スペイン・バルセロナ郊外モンセラット修道院。
 カタロニア信仰・民族意識の聖地であるここは、奇抜な建築物の目立つバルセロナとは対照的に、ストイックなまでの佇まいを見せていた。
 磨き上げた真っ赤なBMWのクーペが一台、地中海に面する切り立った崖道を滑るように登ってきた。入口から少し離れた駐車場代わりの空き地に停車すると、降り立ったのは一人の、背の高い男。明らかにアフリカ系を示す目つきや厚い唇と、ラテンの血を受け継いだ高い鼻梁、そして今なお長々と背後に束ねた黒髪の、しかし所々抜け落ちていることはごく少数の関係者しか知らない。
 泉水盤で口と手を清めてから聖堂に入ると、紙幣を喜捨箱に捩じ込んでから蝋燭を灯し、身廊の会衆席に跪いて祈りを捧げる。
 無人と思われた聖具室から現れた一人の修道士が近づいてきて、聖堂の隅に導く。カトリック教会なら万国共通、その位置にあると決まった聴悔室に入ると、固く扉を閉ざしてから仕切りの格子にはまった引き戸が引かれた。
「何の用だ?市内の酒場でもいいじゃないか。よりによってここ……」
「今からする話は、絶対に誰にも聴かれてはならないからだ」
「神が聴いておられる」
 彼の言葉に相手は、神の僕にあるまじき冷笑を浮かべた。
「帰る。本物に会って……」
「だったら破滅してもらうことになる」
「何のことだよ」
「君のチームメイトのことだ……ただの物盗りとは君も思っていまい?」
「……あんたが殺ったのか?」
「違うが、殺させた人間が誰かは知っている。お前が今、私の話を聴かず立ち去れば……言いたいことはわかるな?」
「言うとおりにすると思うか?」
「神のお導きだ」
「軽々しく神の名を口にするな。わからないぞ。今『はいわかりました』と言っておきながら、帰ったらその足で警察に駆け込むかもしれないぞ」
「そして殺人の主犯として逮捕される」
「そんなことはできない。俺には世界がついている」
「三年前ならな」
「……」
「一昨年のドイツでは宿舎で連夜のセックス三昧の結果コンディションを崩しベスト八止まり。コロンビアの何とかという選手みたいに鉛玉を食らっていたほうがよかったかな?クラブもチャンピオンズリーグ敗退、おまけにリーガでは報復行為で一発退場の挙句無冠、背番号一〇だけは保持しているがベンチを暖めるだけの聖像だ。断言してもいいが今度何かやらかせば、お前のキャリアはブラジルでもヨーロッパでもジ・エンドだ。お前の嫌いなフランス人のFIFA新会長は躊躇せずお前を斬り捨てる。レアルのサポーターは、ミサを挙げて喜ぶだろうな」
「……」
「言うとおりにすれば最大限の便宜は図ってやる。何兆ユーロ積んででも補強し、お前の大好きなユニセフにもがっぽり寄付がもたらされる。お前はテクニシャンと言うだけでなく、永久に全世界の子供たちの救世主として永遠の名声を手にする。どちらがいいか、考えるまでもあるまい?」
「……で、何をすればいい?」
「しばらくして、ここにもう一度来てもらう。東のほうから、或る荷物が届くことになっている。お前はそれを受け取り、港から或る船に乗ってもらう。荷卸先はアメリカ。詳細はまた知らせるが、面倒な手続は我々が皆済ませるからお前は心配しなくていい」
「俺の名前で何か運ぼうってことか……薬なら御免蒙りたいが。新会長体制になって薬物にうるさくなったのは知らないのか?表沙汰になれば、それこそあんたの言い草じゃないが俺は終わりだ。あんたのボスが誰かは想像が……」
「それ以上は言わないことだ。さもないと……」
「わかったよ」
「……まあ、お前の心配も尤もだから教えてやろう、心配するな、荷物は水でとけるものじゃない。他に質問は?」
「ないよ」
「賢明だ。神のご加護を」
「糞食らえ」
 リバウジーニョはそう吐き捨てると踵を返し、ファサード真下で祭壇に一礼してから前庭のBMWへと駆け下りていった。

 ベルリン・内務省。
「主審を脅迫していたのは中国?」
「辻褄は合う。あの時点で最終予選突破絶望だった所為で、日本国内のオリンピック熱は一時冷え込んでいた。どんな手を使ってでも日本に最終予選を突破してもらわねばと、北京が考えたとしてもおかしくない」
「……」
「そもそもネオナチ犯行説が浮上したところで、当のネオナチが動き出した。やったのは自分たちではないというわけだが、それをどこに持ち込んだと思う?」
「さあ?」
「ミュンヘンのイスラエル領事館」
「ええっ?」
「謂わば一番の仇敵……意味はわかるな?総領事は、言い分に偽りはないと直感したそうだ。捜査本部も方針を転換、一から調べ直しに入っている」
「ネオナチ説はガセか。しかし、メディアではまだ優先マークしていると……」
「カモフラージュさ。ネオナチだけじゃない、多くの左右過激政治組織が内々に連絡を受けている。当分目立った行動はしないように、とね」
「だとすると、日紅の採掘権打切りでは日本も被害者ですね。それを中国が狙うなど、マッチポンプもいいところだ」
「ああ。実現しなかったのは単に、中国の関心が薄かっただけと思っていたが、こうなると理由は違ってくる。真相に気づいたサウジアラビア側が突っぱねたんだ。採掘権がインドに行ったのも当てつけだろう。北京が反発しなかったのはおかしいと思っていたが、後ろめたいから何も言えなかったのさ」
「それで、日本に八つ当たり……ですか」
「……舐められたのさ。政治がその気になれば事情は違ったろうが、戦後一貫して去勢者並の弱腰外交では……な」
「なるほど。それでもここ最近は、何とかしようという試みがあったようですが、去年の政変で水泡に帰していましたね。アジアは、いや世界はこれからどうなって行くのでしょう?」
「それは……」
 フランツがそこまで言いかけた時、電話が鳴った。交換台は、ピレウス駐在の領事館からだと言う。何事かと首を捻る同室者を前に数分間話していたフランツは、眉を寄せて受話器を置いた。
「ギリシア南部の運河で、一人の女性の死体が揚がったそうだ。持っていたパスポートはギリシアだが名義は架空。ギリシア警察が捜査したところ、正体は……MI六だったそうだ」

 五月二十五日 コルチュラ。
 バルカン半島の、アドリア海に面した西岸を守るように並ぶ細長い島の一つで、それ自体リゾート地であるだけでなく、交通の便から他の島々への、重要な観光拠点にもなっていた。有名な中世ヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロはここの出身であるという、未確認の伝説も持っている。
 彼は旧市街の入口であるトミスラフ広場脇、郵便局の向かいにある空き地にいた。ここでは毎年夏の夜、モレシュカと呼ばれる民族舞踊の催しが行なわれている。キリスト教徒とイスラム教徒を表す赤、黒の衣装を着けた二組の集団による剣舞で、かつては地中海沿岸の各地で見られたという。あらすじはイスラム教徒の「黒い王」がキリスト教徒の「白い王」の婚約者を誘拐、戦いを挑んだ「白い王」は七回の勝利の末、婚約者の奪回に成功したと言う。
 時間になっても待ち合わせの相手が現れないなと思いながら、背後に異様な気配を察知し振り返ると……一人の司祭が立っていた。山高帽の下に、見覚えのある顔が乗っていた。
「何の仮装大会だ?」
「大真面目だよ。荷物を持ってきた」
「どこだ?」
 何処から見ても身一つの相手を見て、彼は訊いた。ポケットに隠せるような大きさの代物だとは聞いていないが……
「目立ちすぎるから、ここで直接の受渡しはしない。この封筒に入っているパスポートと切符で、すぐにここを離れてもらいたい」
 彼は封筒の中身を改めた。イタリア国籍のパスポート、明日のバーリ行きフェリーの乗船券。紙片には、船舶ターミナル近くの私書箱の住所と鍵。
「中身を受け取ったら鍵はどうする?俺が持っていても仕方ないだろう?」
「バーリからは、列車でジェノヴァへ向かってもらう。そこで次の連絡員に、荷物と一緒に渡してくれればいい。ついでに、私書箱には荷物と一緒に携帯電話が入っている。その後の行動は、すべてそれで指示するから電源を常に入れておいてくれ。くれぐれも、無駄遣いしてバッテリー切れにしないことだ」
「わかった」
「今夜の宿は?多分まだ決めていないと思うが?」
「そうだ。指示があれば言ってくれ」
「海岸のリゾートホテルを取ってある。都心からはちょっと離れるので不便だが、ゆっくりできる。退屈ならナイトライフに出てきてもいいが、最近は物騒だから気をつけたほうがいい」
「一番いいのは部屋に缶詰、か?」
「我慢できなければ出張サービスを頼むのも選択肢だ。ただ、下手な相手はやめたほうがいい。その気になったら言ってくれ。希望の時間に、こちらで選んだ好みの女性がお前の客室のドアをノックする。支払いはこちらに回してくれていい」
「女?」
「どちらでもいいが。ここはアラブじゃない、何でもありだ」
「まあ、気が向いたらそうするよ」
 彼はそう言い、カフェの勘定書を持って席を発った。

 デリー・首相官邸。
「ミャンマーが想定ルート……そう言えば、国交を回復していたな?」
「そうです。日本ではそれに反発して投資が減少、同時にアメリカの制裁検討で他の国も投資を自粛。対朝密貿易のトンネルにしたい中韓は逆に増やしているようですが、全体としては急激に落ち込んでいます。その分、内情も今まで以上につかみにくくなってはいますが」
「それでヴェトナムがよく察知したな?やはり地の理か?」
「と言うより、昔から仲はよくないんですよ。二国間と言うより東南アジア全体が互いにね。タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、そしてミャンマーとヴェトナム。千年以上も前からあの地域での主導権を争っているんです。北東アジアと同じで、隣人同士はうまくいかないということですよ」
「しかしASEAN……」
「だからASEAN、なんです。日本や中国が主導権を握ろうと干渉しているようですが上手くいかない。いやそれで紛糾する可能性だってあるのだから、個人的には、そっとしてやってはと言いたいところですが、中国が考えを改めない限り……」
「手を引くわけにはいかないわけだ。尤も確かに、ヴェトナムと中国は今でもギクシャクしているな。そうするとこの情報も信憑性があるわけだ……となると、ミャンマーから中国へ引き返したのもネピドーの暗殺事件が原因かな?」
「ひょっとしたら、オリンピア寄港中止もね」
「本当か?」
「根拠はありませんが、タイミングが合うのは事実です。先入観を排除して確認中ですが、内務省のスタッフは皆疑っていますよ」
「そうか……」
 ミャンマー政変との因果関係はともかく、中国がこのクルーズで何かを企んでいるのは間違いない。幸か不幸かムンバイでは何事もなく去っていったが、それが解明されない限りこの事案が解決されたとは言えない。スエズを通過してアジアからヨーロッパに入った船は北岸を西進、その先には二つの大洋を分かつ新大陸が横たわっている。
 中国が何かを考えているとすれば、新大陸であるように思えてならない。ターゲットがアジアだとすれば、ムンバイに来る前に何かあった筈だからだ。アメリカとはこのところ摩擦の絶えないベネズエラの影がちらついているが、その背後に中国がいるなら大問題になる。上手く処理できなければ、現在の平和も破れることも想定せねばなるまい。北京と何かと距離を置いているロシアも、いざとなれば立場上どこまで味方になってくれるか。遠ざかっていく船影とは裏腹に、その船底に積まれた危機は膨らむ一方であるようだ。

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2008年8月29日 (金)

キングスクロス:三.アレキサンドリア~バルセロナ(五月二十一日~六月二日)(2)

 同時刻、東京都千代田区、警察庁。
「『ブロッケン計画』中心のネオナチですが、素性が判明しました。例の、主審の次男です」
「くそっ!」
 計画メンバーにサウジアラビアの選手、そして主犯格のネオナチは主審の長男。日本のU二三は呪われているのか?
「ネオナチと言えば、最近外国人労働者問題で勢力を拡大しているそうだが……組織そのものが関与している可能性は?」
「その線は薄いですね。『連合国』を分断できるとなれば関心がない筈はない、しかし彼らは今なお、ヨーロッパでは最重要マーク対象でしてね。そして、監視している各国当局が何かを察知したという情報は、現在ありません」
「まあ、あるとしても彼らだってタイミングは慎重に計るだろうな……わかった、その線は脇に措くとして、中国の対応は?何も気づいていないとは思えないが」
「そうです。ただ、目立った動きはまだないですね。ですからそれが何を意味をしているのか、そこに『ブロッケン計画』の具体像が潜んでいるかもしれません。ターゲットが特定個人なのか、九・一一のように不特定多数なのか」
「判断材料はまだなし、か……」
「まずは現在未確認の、アルマトイからの足取りですね。ルートを遡ったほうが手っ取り早いのですが、中国が協力するかどうか……」
「……まあ、無理だろうな」
 室内にいた、全員が苦笑した。本当なら苦笑している場合ではない筈だが…
「そうだな。ただそこで、相手の反応から新たなヒントが得られる可能性はある筈だ。永田町と霞ヶ関の反応も見ながらボールを投げてみる価値はあるだろうね」
「長官がまた怒りますよ?」
「その時は私が話してみよう。まあどういう結果になるかは『未知数』だが……諸君さえよければ、その方針で行こうと思うが?」
 小田が見廻すと、室内のほぼ全員が僅かに頷いていた。隣席の管理官は半ば諦め顔だ。中央がすんなり納得するなどとか誰も思っていない。これから先は、何が出てくるかわからないのだ。だがそれは、彼等が一主権国家の司法機関として踏み出す、最初の一歩である筈だ。この六十余年間、前任者達が拒んできた……

 同時刻、クレタ海。
 クノッソスの壁画のように果てしなく広がる蒼穹を、壺絵から抜け出してきたような雲が渦を巻きながら流れていく。その下を区切る水平線を唯一遮るサントリーニを遠く望む「オリンピア」も遠く上空から見れば、紺碧の海面に浮かぶ小さな白い点の一つでしかないが、世界最大級を標榜する船上の人々にとって、それはどうでもよいことだった。
 等級ごとに分かれた幾つかのデッキでは、地中海の強い陽光を浴びながらのランチが始まろうとしていた。突発のイベントとてドレスコードはカジュアル。TシャツやジーンズなどでなければOKということだが、船客の中にはそれさえ無視している東洋人のグループも。一方からはそれに冷たい横目を投げかける、同じ色の肌・髪・瞳の一団。旅慣れた欧米の船客たちと言えば、もう見て見ぬ振りだ。
 いい加減見慣れた光景を破ったのは、島から接近してきた一艘の高速艇だった。正面からは見づらいが、艇腹には沿岸警備隊を示すギリシア文字。同時に艇首に掲げられた旗を視認した船長は、直ちにブリッジへと降りて行った。
「どうしたのかしら?」
「投錨した件だろう。他には思いつかない」
「まあ……」
 二人が話している間にも高速艇は海面に大きく弧を刷き接近、舷側から伸ばされた縄梯子を伝って制服姿の隊員が乗船してきた。不安げに覗き込む船客へは「心配ない」と言うように笑顔を見せていたが、船のスタッフに向き合った途端見せた硬い表情を彼は見逃さなかった。
「どういうこと?ピレウス寄港が中止になったりするのかしら?」
「まさかな。あくまで過失なら、そこまではしない筈だ。寄港料と船客の落とすカネを棒に振って、結局損をするのはギリシア側だしね」
 彼の話を裏付けるように、高速艇が去った後前進を再開した「オリンピア」はコースを変更することなく予定通り北東へ回頭、アテネの外港でもあるピレウスへのラストスパートに入っていった。

 東京都中央区、オリエンタルツーリング東京支社。
「何だ?オリンピア号でトラブルとだけ聞いたが」
「エーゲ海、いやクレタ海です。サントリーニでは周辺海域の保全目的に、一昨年から無許可での投錨が禁止されているのですが……」
「まさか、投錨した……のか?」
「厄介なことに、ギリシア海軍警備隊に応対したク中国人ルーが、日本の指示だと言ったらしいんです。我が国ではギリシアの決定を尊重して各社に徹底させているので、そんな筈はないのですが……」
「船長につないでくれ……もしもし」
「お電話代わりました。スタークです」
「事情は伺いました。どうも、おかしなことになっているようですね?」
「私も困惑しています。アテネの日本大使館にまでお叱りを受けました。実は技術的な問題で機関部が勝手にしたことで……管理者ということになれば私も責任を免れないと思っていますが……」
「それは今後の判断次第として、さしあたっての心配はピレウスですね。どうなのでしょう?まさか、寄港中止とか……」
「先方からそういう話はありませんでしたね。ひとまず叱りおく、という印象でした。ただ間違いない旨確認は必要ですし、こちらからご報告とご相談を入れようと思っていたところでした」
「なるほど。そういう状況なら、あまり心配はなさそうですが……ちょっと待ってください、応対したクルーは、中国人と言いましたね?」
「ええ……何か?」
「いえ……わかりました。じつはちょっと思いついたことがありまして、多分この件はこちらで対処できると思います。引き続き船のほうを、よろしくお願いします」
 電話を置いた藤本を、沖田は複雑な目で見遣った。
「四年前と同じ責任転嫁ですか」
「丁度アテネ大会の最中だったな。ムンバイのごたごたもあったし、これで終わるとは思えない。福西首相が乗船を辞退したのは、正解だったようだな」

 五月二十五日 ピレウス。
 二つの鉄道駅に面して東西に伸びる目抜き通りから南に外れたところに国際旅客ターミナルはあった。駅のある区域とは丁度港湾を挟んだ位置になる。グレート・ハーバーと称するこの港湾は、観光立国たるギリシアだけにぐるりと各地へのフェリーターミナルが点在する、海の玄関口だった。港湾といえばサロニコス湾に突き出た市街地を挟んだ向かい、つまり南東にもゼア港があるが、こちらは観光と言うより滞在する人々のためのマリーナだ。
 港湾方面ではいよいよ今日に控えた「オリンピア」寄港の準備に大童だが、関係者のプロパガンダにもかかわらず市民の反応は冷たかった。四年前の軍施設で起こした事件、同年のサッカー・アジアカップで相次いだ、ホスト国としてあるまじき反日暴動、そして今年、オリンピック開催予定国としてあり得べからざる暴挙は、採火式の突発事に限らず全世界のスポーツファンを失望させるには充分だった。それでも久々の世界最大級クルーザー寄港に、マニアを含め内外の野次馬が参集。観光関係者は抜け目なく商売に余念がなく、普段なら観光に縁のないビジネスホテルまで、寄港期間中は満室だった。
 ターミナルを正面に見るミアウリ通りには老舗の高級ホテルが並んでいるが、アテネ発の列車から降り立った彼女がチェックインしたのは、そこから二区画内陸に入り、地味なオフィスが軒を並べる界隈のビジネスホテルだった。立地上ビジネスマン向けに簡素な造りの部屋に荷物を置くと、彼女はポーチだけを肩に掛け、カーディガンの裾を海風にはためかせグレートハーバーの方角へ歩み去った。海岸や市内を観光して戻ってくるものとフロントの従業員は思い込んだが、彼女が再びフロントに、いやホテルに戻ることは永遠に無かった。

 同日 コリント。
 ペロポネソス半島の付け根に位置するここは、アテネと並んで古代ギリシアの主要都市国家スパルタとの中間に位置し、政治・経済の要衝でありつづけた。近代になって初めて運河が開鑿され、絶壁の上を鉄橋が通る、特異な風景が有名となっている。
 上空が異邦人達の世界であるのと対照的に、地上は現地に住まう人々の世界だった。海面に面し点在する村々は漁業と釣り客の世話で生計を立て、運河を行き交う船から、ささやかな観光収入と情報、時代の薫りを嗅いで日々を送っていた。
 午後、学校を終えて遊びに出てきた子供達が、水際に打ち上げられた異様な物体に気づいた。全体を真っ黒いゴムのようなシートで覆われていたが、魚にしては形状が複雑で、何か禍々しい異臭を放っている。大人ならその時点で人を呼びに行くところだが、子供ゆえの好奇心が冷静な判断を妨げた。荒く結わえられた荒縄に掌を切りながら結び目を解き、中身を確認した子供たちは、後悔と共に悲鳴を挙げ、やっと人を呼びに走った。倒れたシートの中から上半分を露わにした女性を置き去りにして。

 横浜・神奈川県警察本部警備部。
「ネオナチ、大統領警護隊と法輪功……どうもちぐはぐに思えてならないが、どうだ?」
「二つだけなら辻褄は合うのですが。北京オリンピック絡み、しかも犠牲になった主審の弟がメンバーとなれば。ただ……」
「ルーマニアだな?」
「ええ。他の二者とは仇敵と言ってもいいですからね。冷戦後の新世界秩序に対抗する者同士というぐらいではねえ。
 ただ、ボスと言うべきチャゥチェスク政権は消滅していますし、彼らが用兵のような役割を自認しているなら、イデオロギーによる区別は無意味です。可能性は小ですが、現ルーマニア政権が背後にいる可能性も、多分ないでしょうがまだ排除はできません」
「そのあたりの捜査は、あちらに任せるしかないが……柳沢君が帰国したらもう一度話を聞いてみるが、戦後世界そのものに取り残された人々のうめきが、この計画の底から聞こえてくるような気がしないか?」
「なるほど……」
「西側がどういう対応を取るとしても、今度のオリンピックがその転換点になるような気がしてならない。永田町がそのあたりも心得てくれているならいいんだが……」

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2008年8月28日 (木)

キングスクロス:三.アレキサンドリア~バルセロナ(五月二十一日~六月二日)(1)

 五月二十一日、東京。
 OKした。
 編集長には「即決でなくてもいい」と言われていたが、手配の都合もある筈で早ければいいに越したことはない。
 金にも船にも興味はなかった。情勢がどうあれ、この期に及んで中国に媚びを売る著名人のあらを半ば公然と捜すのも悪くないと思っただけだ。
 単身では不自然とのことで、会社がパートナーを用意してきた。風祭美久。雑誌社と懇意の法律事務所に勤めているとだけ、最初は聞いた。その後、よくある法律家の卵的な存在ではなく、然るべき公職からの中途採用と知り、沖田は直ちに背後の存在を察知した。
 乗船手続きに必要な書類は、雑誌社経由で用意してもらった。パンフレットに記載されていた金額は所定の銀行口座に。所謂振り込め詐欺対策でATMからの高額振込みはできないことから、窓口、それも複数回に分けての振込み。もちろん個人で負担できる額ではなく経費扱いだ。
 パスポートはまだ有効なので、あとは外務省へビザの申請。中国船籍なので申請先は北京の外交部(外務省)ということになる。取材目的なので、就労ビザであることは言うまでもない。三月のチベット動乱以降、海外ジャーナリストの出入りには敏感と聞いており、否、それ以前に自身の経歴から容易に許可は下りまいという予感もあったのだが、予告どおりのきっかり二週間後、郵便受けに発給通知が押し込まれていた。

 五月二十三日 ロードス島。
 東地中海に浮かぶこの島の、呼び名の語源は「蓮」。古代からその風光明媚な気候を愛され、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)やアウグストゥスも遊学している。
 中世に入ると、エルサレムへの巡礼ルート上にあることから、重要な中継地点となった。間もなく、イスラム勢力からエルサレムを追われた騎士団が最初の領主からこの島の領有権を譲り受け、数世紀にわたって巡礼路の中継地点・防衛拠点として機能したが、十六世紀にオスマン・トルコ帝国のスレイマン一世(大帝)が征服したのちは、マルタ島へその拠点を移す。その後はクレタ、キプロスと共に欧州・イスラム勢力抗争の舞台となり、現在は国連の委任統治下にある。
 早朝、キプロス方面から現れた一艘の船が、駐留しているイギリス沿岸警備隊の警告を無視して海岸に急接近しつつあった。行く手には、軍港の護岸が横たわっていた。イスラム勢力との抗争時代から、と言うより古代以来外敵の侵入には敏感な海軍が出動。空しい数度の警告、そして威嚇射撃の後、舷側に照準を定めた。後刻時価一億ドルと見立てられた豪華ヨットは、一瞬で海の藻屑と化した。
 時を措かず出動した潜水部隊が、白蝋化した死体を発見。引揚げ後検証結果報告を受けたロンドンの内務省は遺体の主の素性より、その死因に騒然となった。

 同日、プロチェ。
 ボスニア・クロアチアの国境が複雑に入り組むこの一帯は、去るユーゴ紛争では幾度となく最前線となり、実際に戦火に見舞われた地域も少なくなかった。内陸のモスタルや沿岸のドブロヴニクと言った観光都市でさえ甚大な被害を蒙ったのだから、知名度ではそれらに劣るプロチェがそれより恵まれた運命を得ることなど夢だった。
 午後、町外れの気象台を定期巡視で訪れた市役所職員が、入口を入って右に折れた休憩室の内側にぴんとぶら下がった男の脚を発見した。ブラインドを締め切った密室だった所為で、外側からは全く気づかなかったのだ。恐る恐る懐中電灯を向けると、昨夜当直勤務で朝に勤務明け予定になっていたその男は安眠妨害を咎めるように両目を剥き睨みつけた。首にロープを巻き、四肢を垂らしたまま。市役所職員は悲鳴をあげ、這うようにその場を離れた。
 市役所からの連絡に警察、さらにその通報で軍内務省の関係者が急行。地上に横たえた遺体のシートをめくった担当者は息を呑んだ。

 同日、ネウム。
 アドリア海に面し、プロチェとドブロヴニクに挟まれたこの町は、しかしクロアチアではなくボスニア領。したがって町の入口には国境警備隊に加え、国連とNATOの監視軍も駐屯していた。
 ドブロヴニクから爆弾テロ予告の一報が入ったのは夕刻。気色ばんだ司令部は、国境警備隊からも増援を指示。ネウムの沖合いは、一時的に無防備の状態となった。全てが誤報と判明、国境地帯が常態を回復したのはその半日後だった。

 同日、ロードス港。
 夕刻予定の「オリンピア」寄港を控えて、緊張が増していた港湾警察署は、海岸にアタックを試みた不審船にMI六工作員の死体があったことで騒然としていた。もちろん死体の素性から直ちに極秘事案扱いとされたが、東洋の諺では「秘すれば洩れる」と言う。早朝の爆発が単なる事故などでないことは、午後にはほぼ全島民の知るところとなっていた。
 要人を迎えてのクルーズ寄港が年中行事であるロードズだったが、今回は北京からの要請で寄港期間中の、他船舶入港をキャンセルしていたことが事態を明白にした。早朝の惨事と、刻々と接近しつつある船との因果関係を疑わない者はいなかった。
 所定時刻、東方沖から夕日に照らされ接近してきた「オリンピア」が、灯台の北東沖合いまで接近して停止。なにしろ港湾を上回る全長ではまず着岸できず、ここに投錨するのだ。検疫を済ませた後艀を次々と降ろし、上陸を希望する船客(と言っても大半だったが)が陸地へ。
 観光でもあるのでホテルに近い新市街ではなく、旧市街の旅客埠頭に接舷。リピーターも相当いる筈の船客達も、夕暮れ時の旧市街上陸には意表を突かれたようだった。
 間もなく夕食刻とて、大型バスを連ねた乗客たちはホテルへ直行、明日の観光に備える。アテネの中国大使館肝煎りで動員された歓迎団の後ろから、さきのチベット動乱以降疑心暗鬼になっている住民たちがバスの列へ醒めた視線を投げかけていた。

 同日夜、黒海。
 洋上に停泊するロシア海軍黒海艦隊「アレクセイ・オルロフ」艦長のウラジミール・レオニドヴィッチ・ニコライエフ大佐は、艦橋直下の艦長室で、時ならぬ来客に戸惑っていた。指示を仰ぐべき艦隊指令は所要で上陸中で、明日にならなければ戻らない。
「つまり、この危険な荷物が今まさに、アナトリアの向こうを西進中というわけだな?」
「とも限りません。荷物そのものは欧州入りしていて、どこかで船積みの機会を待つだけという情報もあります。問題はもしそうだとしても、『オリンピア』が危険な船荷を積んでいることは間違いないという事実です」
「広島で流れていたという噂は、事実ということか……」
「考えれば大胆極まりないことです。実物の儀装は大陸に引き取ってからと思われますが、よりによって呉とはね……明るみになればあの土地で、中国人はアメリカ人以上に小さくなって暮らさざるを得ないでしょうな」
「そうだな。予定航路では真っ直ぐ地中海を西進、イベリア半島を廻ってフランスとイギリスに立ち寄ってから大西洋へ漕ぎ出す予定だから、それまでのどこかだな。どこが怪しいと思う?」
「さて……それはご本人に訊くしかありませんが、自分はスペインが一番怪しいと思います」
「スペインと言えば、寄港地は……なるほど、あそこのオーナーの兄上は……だったな。ワシントンは、気づいていないのだろうか?」
「場所までは特定していないと思います。そう言う我々だって、多分そうだろうと推測するのが精一杯ですから。計画の首謀者たちがどこよりも知られたくない相手がワシントンです。最大限の注意は払っているでしょう」
「そうだな……しかし兄上が何を企んでいるかは、そのワシントンも察知している。例えば我々が耳打ちしたりしなくても、察知するのは時間の問題なのではないだろうか?」
「かも知れませんね。問題はその時、我々が彼等にどう相対するかでしょう。モスクワが思案中でしょうが、彼等の危険な火遊びに付き合うほどリスキーなことはありません。次期大統領選挙ですが、民主党は兎も角共和党の候補は、前々から我々を公然と敵視しています。どういう結果になろうとも、かかる火の粉は最小限に抑えるのが政治の知恵と言うものです」
「さすが、政治士官は発想が違うな。だがそうなると、我々の出番もこれで一段落か。いいのか悪いのか……しかしそれは、未来の歴史が決めるのだろうね」
「は……」
「ソヴィエトが崩壊してもう二十年近くになる。永遠に続くと思われたものが意外に脆いことを、我々は学んでいる。今後もどういう歴史が待ち構えていようと端然と身を処する、それが後進への教訓ではないだろうか?」

 五月二十四日未明、ブカレスト。
「例の物、どうやら保管場所が特定できたようです。ルーマニアの修道院です」
「ルーマニア……どこだ?」
「北部の山間です。実はここ、共産政権下で寂れていたのが、一九八九年の革命以降になって修道士達が棲みついたそうで、共産政権の生き残りというのが村人の噂だったそうです。
 年末の早朝、滅多に現れないトラックが乗りつけてきて荷物を運び込んだ。トランク一つ分だったのだが修道士達はその一週間くらい前からそわそわするなど、尋常でない迎えぶりだった。しかもそれを村人から訊かれた聴罪師がひどく動揺した様子だったとか。元々訳ありげな連中で普段から気にしていたということで、村人達もよく覚えていました」
「革命以降、となると大多数のパターンと逆か。共産政権の生き残りというのは、当たっているかもしれんな……で、その怪しげな荷物はまだ、その修道院にあるのか?運び出されたり、さらに運び込まれた様子は?」
「それきり、そういう形跡はないそうです。もし動きがあったとしても、村人にも気づかれないよう真夜中にでも動かしたのかもしれません」
「わかった……その村に出入りするルートはどうだ?」
「現在確認中です。年明け以降になると雪で閉ざされますが、除外しますか?」
「いや、ご苦労だが併せて確認して欲しい。もし彼等の素性が我々の想像している通りなら、行動パターン予測に天候は意味を為さない。むしろ人目につきたくない『用件』なら、悪条件をとらえて遂行しようと考えるかも知れん。
 そういう相手なのは皆、重々承知と思う。すぐに取り掛かってくれ」

 同日午前、クレタ海。
 右手に時々現れる島を望みながら、船は西へ向かっていた。紺碧とはこういうことを言うのだろう。美しくも厳しい表情を見せていた亜熱帯の海から一転、季節は夏に向かっているのに、風までまろやかに変わったような気がする。
 丁度真北、進行方向右舷には島が横たわっている。古城だろうか、灰色の構造物が屹立、頂上に白いものが散見された。サントリーニ島だとすれば、旅行通で知らない者はいない、海に面したカフェだろうか。
 順調に波を切っていた船足が急に鈍った。と言ってもエンジン音に変化は感じられないから、エンジンを停止したり回転数を変えたわけではない。可変ピッチと言って、スクリューの回転はそのまま羽根の角度だけを変えて速度調整できるというから、恐らくそれだろう。極端な話、前進から後退まで実現できる。エンジンそのものを一旦停止させ、逆回転させようとすると、時間がかかるのだ。ギアを切り離して調整する場合も然り。こうした技術は軍事用の艦艇やタグボートなどでは早くから見られたが、最近では一般の船舶でも多く導入するようになっていた。
「変だな?」
「何が?」
「このあたりの海域は投錨禁止の筈だが……」
 二人が首をかしげるのをよそに、今日の昼食はデッキランチになるとのアナウンス。各等指定のデッキにテーブルが並べられ、潮風に当たりながら陽光の下で酒と食事を楽しむというわけだ。荒波が舷側を洗う外洋では難しかったこの突発イベントに、喜ぶ船客もいるのだろうが……

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2008年8月27日 (水)

キングスクロス:二.シンガポール~アレクサンドリア(五月二日~五月二十日)(5)

 五月十六日 アラブ首長国連邦(UAE)、ドバイ。
 UAEを構成する七つの首長国のうち、首都であるアブダビを越えて最も発展しているこの都市は、世界有数の観光都市でもある。都心に林立する摩天楼の下には、多種多様な肌・皮膚・髪を持つ外国人観光客の波が絶えることは無い。彼らに混じって行き交うチャドル姿の女性や、これだけは他の地域と変わらず一日五回、正確に流れるアザ―ンの響きがなければ、ともすればペルシア湾に面したアラブ世界にいること自体を、忘れさせてしまう。
 都心の南東に隣接する国際空港に降り立った独りの男性を、出発ロビー前の車寄せで、全長が通常の三倍はあろうかというリムジンが待っていた。東アジア、いや欧米でも一部のリゾート都市でなければまず目にしない派手な出迎えだが、それもこの都市ではごく当たり前のことで、珍しげに振り返る者もない。
 南から北へ、そしてアラビア海へ通じるクリークを渡ったリムジンはしかし左折、海岸沿いの市街地とは逆の方向に針路を取った。幾許かの起伏以外は何も見えない、砂漠の四方を縁取る地平線に、ぽっかりとそれが浮かんだのは空港を出て四十五分後。オアシスを丸ごと利用して航空会社が建設したリゾートホテルだった。有刺鉄線を頂くフェンスに開けられたゲートで一旦停止、機関銃を背負った衛兵に来意を告げると、数分後重々しく回転式のゲートが開き、リムジンはゆっくりと敷地内に吸い込まれて行った。最終目的地のホテル棟は、まだ地平線の向こうに煙っていた。

 五月十八日、キプロス島・ニコシア。
 地中海の東北端、小アジアと近接するこの島は、その地理的条件から絶えず東西勢力拮抗の最前線で緊張に晒されて来た。
 紀元四世紀、全地中海を支配していたローマ帝国が東西に分裂、次いでイスラム勢力が東地中海世界に進出し始めた中世、フランス貴族が東ローマ帝国から島の領有権を購入、やがてローマ・カトリック教会の許可を得て王政を開く。王国は東西貿易で数世紀栄えたが、十五世紀に入ると貴族との抗争で国力を衰えさせ、東ローマに代わって地中海の制海権を争っていたヴェネツィアとジェノヴァの影響下に入っていく。
 そしてヴェネツィア貴族出身で最後の君主となった女王カテリーナの時、年中行事のようになっていたジェノヴァの陰謀を乗り切ったヴェネツィアは、これ以上独立の王国としてキプロスを維持していくことを断念、併合して共和国の領土とした。
 そこまでして得たキプロスだったが、わずか半世紀後になるとイスラム世界の新勢力・オスマン・トルコが食指を動かし、壮絶な攻防戦の結果ヴェネツィアは後退を余儀なくされる。これを奪回するためにトルコに拮抗する新興勢力のスペインを糾合、連合艦隊を編成して海戦を挑む。恐らく全世界の歴史教科書に載っている、有名な「レパントの海戦」である。
 巧妙な作戦とトルコ側の戦術ミスから、堂々の会戦での初白星。それまで一方的にやられ放しだったヨーロッパ側にとって「戦って勝てないことはない」という自信を芽生えさせた意味は大きかったが、翌年ヴェネツィアはトルコと講和、当初の目的だったキプロスを手放すことになる。勝利を完全にしようと再編成した連合艦隊が、指導部内のつまらない諍いから立ち消えになったのも理由だったが、当時のトルコが物量ともヨーロッパを凌いでおり、最終的な勝算なしと判断したためだった。さらに十七世紀になるとトルコはクレタ島も制圧。ヴェネツィアを海運大国から北イタリアに押し込めると同時に、地中海の覇者として最後の輝きを見せた。
 近代になるとイギリスが領有権を取得、そしてトルコの力を意識しなくてよくなった第二次世界大戦後は、そのイギリスと現地キプロス人独立勢力が軸となって新たな対立となる。
 一つしかない国際空港。島の人口・経済力に比例して滑走路も一本きりだが、世界中のVIPを含める保養客を迎えるだけあって設備は大国のハブ空港波だった。アテネから飛来したオリンピック航空から降り立った乗客を、一台の四駆車がビル正面で待ち構えていた。彼が乗り込むと、四駆車はエンジン音も派手に、市街地へ向かって走り去った。

 同日、北京。
「二十分遅刻だぞ。華北人は時間にルーズじゃないというのは、嘘だったのか?」
「尾行を撒くのに苦労したんですよ。嘘つきはおたくのほうだ。全く危険はない仕事だと言ってたじゃないですか?」
「ややこしいネタをつかんだようだな?」
「ギャラ、最初の倍にしてもらえませんか?それだけの価値はあると思いますよ」
「表書きの部分だけでも話してくれないと。財布の紐を握っているのは私じゃないんだ」
「運んでいるのは偽札なんかじゃありませんね。明らかに兵器だ」
「ミサイル?」
「もっと厄介じゃないですかね。聞き耳を立ててたら専門家がどうの防毒マスクがどうのと、それだけでこれはやばい話だなとおもいましたね。危険の度合いもですが、ずばり私には畑違いだ。これ以上詳しく知りたいなら、そっちの方面の専門家に頼むべきでしょうね」
「尾行と言っていたな。気づかれたのか?」
「顔を見られたと思います。この後も、一緒に出るのはまずいでしょうね」
「とりあえず、見せてくれるか?」
 無言で男が差し出したレポートを一読した、彼の顔から血の気が失せた。
「これは……」
「わかりましたか?多分私と会って、これを読んだと知れれば貴方も危険ですね」
「わかったよ……」
 彼は小切手帳を出し、あらかじめ金額を書き込んであった一番上の一枚を破りとって卓上に滑らせた。
「用意してきたのは、最初の約束分だけだ。だが上にこのレポートを見せれば、上積みは可能だと思う。今日はそういうことで我慢してくれ」
「わかりました。いつものルートで連絡を待っていればいいですか?」
「そうしてくれ……私が先に出よう。すぐ大使館に報告しなければ」

 同日、ベルリン・内務省。
「『ブロッケン計画』の、最後のメンバーの身許がわかりました。時間がかかったのは、生粋のメンバーじゃなかったからです。アルスラーン・カミル。一九七八年生まれで国籍はサウジアラビア」
「カミル……ちょっと待て、何か聞き覚えがあるぞ?」
「本当ですか?では、他のグループ……」
「そうじゃないんだ。国際情勢絡み以外のニュースだったと思う。あそことなると何だろう?経済じゃないな。サウジアラビアは政経一致だし、スポーツ……」
「サッカー……ですかね。あの国は強豪だったでしょう?」
「思い出した!オリンピック代表だ!」
 皆は仰天した。
「確か、最終予選で今回の出場を逃がしていましたが……間違いなくそのメンバーなんですか?同姓同名といううことは?」
「さて……あちらでは珍しい名前なのかどうか。そこまでは考えていなかったが、もう一度確認する必要があるが、もしビンゴなら……」
 皆は暫し沈黙した。こんなところでもつながっているとは。
「サッカー代表が一転過激派に走るとは……ちょっと考えにくいのですが」
「アラブ圏の若者は、最近の政情不安で宗教に走るものも少なくないそうだ。あのビンラディンも、出自は決して貧しくなかったがイラクで義勇軍に身を投じ、その後……彼の場合、政治に巻き込まれて大きな挫折に遭っているわけだから、こういう進路を選択してもむしろ不思議ではない、と解釈すべきかも知れないね」
「あの時は一悶着も二悶着ありましたねえ。対戦相手は日本、そして開催地は北京。動機としては充分すぎる……」
 マックスは瞑目した。日本からはサライェヴォに警察官が飛来、コブレンツに繋がる事件の鍵を手繰り寄せている。それもこれも、東洋の地にこの計画の、重要な根があるからに間違いない。一度、こちらからも実地検分する必要がありそうだ……

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2008年8月25日 (月)

キングスクロス:二.シンガポール~アレクサンドリア(五月二日~五月二十日)(4)

 同夜、ベルリン。
「休暇を取った?この緊急時にふざけるな!」
「それが、気がついたら休暇届が自分のトレーにありまして」
 周囲の捜査員は笑いをかみ殺すのに必死だった。小父さん、またやったな。
 一番醒めていたのは、署長の隣の管理官だった。署長の「瞬間湯沸器」の発作が収まり、皆がそれぞれの任務に戻り始めた彼は、まだ戸口に立っていた管理官の目配せに、屋上へついていった。
「ただの休暇じゃないな?」
「実は、参考人がベルリン方面に向かおうとした可能性があります」
「結局、乗っていなかったが?」
「はい。しかしあの時刻、急いで列車で離れるとしたらあの方面ではないかと、彼は言っています」
 彼は詳細を説明した。
「なるほど……しかしそれだけの理由で、ベルリンまで捜査範囲を広げるのは難しいな」
「同感です」
「だから休暇……というわけか」
 無言で管理官に返した苦笑が、答えだった。
「わかった。それは私がやっておく。君はひきつづき市内の捜索を頼む。行き先もだが、彼があの朝ここにいたことも事実だ。何か手がかりがあれば、見逃すわけにはいかない」
「わかりました」
 青白い管理官の頬に浮かんだ苦笑を見ながら彼は敬礼した。研修時代、彼の指導員でよかった……

 同夜、サライェヴォ。
「行方を絶ったセルビア人の話でしたね」
「ええ」
「実は……多分ここからが、貴方の本当に知りたい話になります」
 これまでの話がどうでもいいということはなかったが、柳沢は居住まいを正した。
「最近になって、消息があったとか?」
「ええ。順を追って、話してよろしいですか?」
「結構です」
「丁度半年前ですね。南部のモスタルで、彼の姿を目撃したという情報を警察がつかみました」
「モスタル……彼の、出身地でしたね?」
「そう。普通なら望郷云々と考えたいところだったが、紛争当時の戦争犯罪人として彼は今も追われる身だった。
 しかもこのサライェヴォと違い、そんな大都市でないモスタルでは知っている人間も多い。現に、失踪から十五年以上経つのに直ちに当局の知るところとなった。警察は勢い込むと同時に、かれがリスクを冒して現れた真意に当惑したそうです」
「親族は?」
「紛争終結前に、全員移住しましたよ。オーストリアのグラーツに落ち着きましたが、その後両親は他界、妹はドイツ人と結婚、夫の住むコブレンツに……」
「コブレンツ?」
「そう聞いています……何か?」
「いえ……」
 いずれ知るかもしれないが、今はその時でないと柳沢は咄嗟に判断した。その配慮を逆恨みするような人物ではない、というのが、日本での予備調査でジェリコ・サリハミジッチについて柳沢が得た感触だった。
「失礼しました。しかしそうすると、彼にとってはこのモスタルに戻っても、具体的に頼るところはなかったということですね?」
「そうです。ですから……警察は、彼が何らかの目的を持ってあの街に、舞い戻ったというより現れたと見ているようです」
 彼は寂しげに言った。家族も祖国も失った嘗ての仲間。いや、それは彼だけでない筈だ。
「お尋ねの件について、私が知っているのはここまでです。あとは警察と内務省に記録があると思いますから、そこから読み解くのが早いでしょう。
 だが一通りの作業を終えたら、もう一度連絡をいただけないでしょうか?帰国なさる前に、あなたに是非、見ていただきたいものがあります」
「見て欲しいもの?」
「彼の……一番人間的な側面を語っているものです。連絡、お待ちしていますよ」
 立ち上がったサリハミジッチは、別離の握手をしながらそう言って微笑した。

 北京。
 天安門広場を中心に東西へ伸びる長安大街はこの都市が、否、中華人民共和国がアジアの中心であることを主張し続ける重要な舞台装置の一つだ。近代以前は世界の中心を自任してきたのと同様、首都空港からのびる街路が一直線に都心へ入ってくるのと同じく。
 天安門広場の北に延びる、故宮の、淡紅色の壁が尽きると、嘗ては皇族の屋敷(王府)が立ち並んでいたことから「王府井」と称される骨董街への入口をかすめ、目抜き通りへ出る。数棟から成る北京飯店を始め、国を代表する超高級ホテルが軒を連ねる向かいには、王朝時代の邸宅やラマ廟が点在している。
 北京和平飯店はそんな中で、一際異彩を放っていた。チェーン化に踏み切る前、否戦前からの歴史を持つ上海の本店は三角屋根を頂いた風格のある洋館だったが、北京のそれは全面を遮光ガラスで覆い、さらにその外側を金色のフィルムでコーティングしている。遠目に見ると、乾いた首都の空に向かい巨大なインゴットを数百・数千個積み上げたようにも見える。
 一階のラウンジで、スーツ姿の男がコーヒーを飲んでいた。黒い髪に平べったい顔は東洋人にも似ているが、上下から圧力を加えて整形したような、よく言えばがっしりした、しかしあまり美男子とは言えない頭蓋を、皺の寄った浅黒い皮膚が覆っていた。
 そこへ背の低い中国人が現れる。やはりスーツ姿だが、大っぴらな打ち合わせではないのか二人ともネクタイは外している。
 同行者もなく二人きり向かい合った二人は、注文したコーヒーをウェイターが持ってきた後、かなり長時間そこに座っていた。断続的に店内を廻るウェイターは、然るべく言い含められているのか、客が手を挙げてお替りをしない限り席には近づかなかった。
 二人が去ってさらに十分余り後、少し離れた席で携帯電話をかけていた黒人が立ち上がり、在外公館が集まっている方面へとタクシーで走り去った。

 デリー、ロシア大使館。
「何でしょう、陛下?」
 ロストフは訊いた。重要事項は最優先で報告することになっていたのだろうが、この日、この時刻パンコットでは神殿で儀式の筈。そしてインドに似合わず軍人らしく時間に厳しい現女王のこと、本来なら祭壇の前に立っている筈が電話を寄越すなど、よほどの事だ。
「ええ……ムンバイから連絡がありました。我々のカップルは乗船を拒否されたそうです」
「勘づかれた、と?」
「単に怪しい、だけなら乗船拒否まではしなかったでしょう。目をつけられていたと考えざるを得ません」
「しかし、そうなるとまずまず怪しい、とも言えますねえ?」
「その通りですが、どちらにしてもこちらで直接の確認することは当面お預けとご報告しなくてはなりません。まずはあなた方が頼りですが、もうワシントンとも連絡を取る頃合ではないでしょうか?順番が逆と仰るかも知れませんが、すでにデリーにその旨、進言しておきました」
「了解しました。こちらもモスクワの指示を待たなければなりませんが、個人的には妥当なご判断だと思います。この件にはワシントンも大きな関心を寄せているとのことでしたから、充分な情報提供をお約束できると思います。むしろ、主導権争いで共同戦線にずれが生じたりしないか、そのほうが心配ですが」
「ありがとうございます。ご心配の点では、我々でできることがあればご協力しましょう。幸か不幸か、半ば我々の手を離れたようですしね」
 電話を切ったロストフは、笑顔を消した。この展開は何を示しているのか?
 モスクワと北京の不仲は今に始まったことではないが、それにしても今回の行動は性急に過ぎる。真意を糺したところで決して明かすまいが、東欧の衛星政権が相次いで倒れ、我がロシアも看板の架替えを余儀なくされる以前とは事情が違う。この期に及んでこちらへの挨拶が未だにないのも、不信感が先立つ理由の一つだった。あちらが秘密主義に固執するというなら、モスクワはモスクワで独自に戦略を考えるしかあるまい。

 五月十四日 ドブロヴニク。
 中世末期にヴェネツィア覇権下の海洋国家として栄えたラグーサ共和国の首都であり、「アドリア海の真珠」と称される美しい街並みは世界遺産にも登録されていた。
 東地中海クルーズでは定番の寄港地でもあり、今回のルート計画でも検討されたが結果的に没。迂回ルートとなり所要日数のロス、というのが公式理由だったが、サライェヴォオリンピック後に勃発したユーゴスラビア紛争で大きな被害を受け、復興まで長期間を要したという経緯が、オリンピック開催にリンクさせた今回のクルーズには不適当と中国が判断したとは、外交筋の憶測だった。
 メインストリートと言うべきミキエレ通りに面した聖フランチェスコ教会脇に、年中無休で店を出しているキオスクがあった。市の直轄ではなく教会による半民間運営で、店頭には一般的な新聞・雑誌や飲食物の他、教会の発行するペーパーや聖画像なども並んでいた。
 午前九時、いつも通り巡回に来た警官が、常ならず覆いを掛けたままの店頭に不審を抱き、建物の裏側に廻りこんだ。まとまった金がある、こうしたキオスクを狙う強盗が最近多発していたからでもあるが、半年ほど前、店番をしている教会事務の老人が、人知れず心疾患で倒れており、あわや手遅れになったことがあったからだ。
 老人は半年前とほぼ同じ位置に、ほぼ同じような態勢で崩れ落ちていた。疑わず接近した警官はしかし、その胸元に大きな染みができていることに気づき、事態が前回とは違うと直ちに察知、増援を要請した。既にぴくりとも動かなくなっている老人の体の下には染みと同色の、直径五十センチになる溜まりが出来ていた。

 同日、コブレンツ。
「ここに、セルビア人メンバーが現れていた?」
 フランツは、じっとマックスを見つめた。
「正確には、メンバーの親族が嫁いでいたというだけです。ただ、確かに偶然とは思えませんね」
「誰なんだ?」
「ボリス・カディーツク。紛争でオーストリアに逃れた妹が結婚、旦那の実家に移り住んできたということだそうです。調べたところ、確かに国際商社員の親族で、該当する女性がいました。現在は二児の母で、長男は高校生、長女が中学生だそうです。兄が現れたかどうかは未確認ですが、妹一家の日常に特異動向は認められていません」
「そうか。しかし、よくボスニア警察も見つけたものだな」
「ボスニア警察じゃありません。こちらに照会してきたのは確かにサライェヴォですが、実はあそこのサッカー関係者にぶつかった日本の警察官が訊き出したのだそうです」
「日本?何で、日本が出てくるんだ?」
「そのあたりは私もわからず驚いているんですが……最近旧ユーゴからは、我がドイツよりずっと多くのサッカー選手や指導者が渡っていますから、その縁なのでしょうね。前回と前々回の開催国同士ということで油断していましたが、うかうかしてはいられないかもしれませんね」
「なるほど……『彼』の影響かな?」
 フランツは、警察署の天井を見上げて呟いた。
「わかりませんが、多分そうでしょう。紛争当時を含め、サッカー関係者に限らずあの人物のカリスマ性が衰えることはなかったそうですから」
「奇しくもそれが、極東の地に芽をふいたわけだな。上手く育てられるかどうかは日本次第だが……さて?」

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キングスクロス:二.シンガポール~アレクサンドリア(五月二日~五月二十日)(3)

 同日、インド亜大陸南西、バンガロール沖。
 アラビア海に入った「オリンピア」のデッキ六、ギャラクシー・ダイニング。
 メインダイニングであるここを中心に、「オリンピア」には大小九つのレストランと、四つのラウンジがある。
 甲板長の最上重義はディナーを控えた入口で発生したトラブルを聞きつけ、厨房に接した事務室から上がってきた。本来なら食堂長であるロジェ・フォンタンの職掌だが、「異邦人」同士の険悪な展開に匙を投げ、電話してきたのだった。
「何事だ?踊り場まで怒号が洩れていたぞ。他のお客様まで不快にするじゃないか。原因は何なんだ?」
「このジャップが、権利もないのに入ろうと……」
「ジャップとは何だ、このシナ人め!」
「お客様、どうjか落ち着いてください。お前もだ。お客様に向かって蔑称を使うとは何事だ。私はそういう、野蛮人を雇った憶えはないぞ」
 野蛮人呼ばわりされた中国人ウェイターは蒼白になったが、日本人船客のほうは何とか怒りを鎮めようと肩で息をしている。
「少し落ち着かれましたか?詳しく、事情を伺えますでしょうか?初めてお見かけしますが、このレストランにいらしゃるのは今日が初めてでいらっしゃいますか?」
「そうだ。昨日までは一階下の食堂を使っていたが、テーブルマナーのなっていないシナ人ばかりで辟易したから今日からこちらを使わせてもらおうと思ったんだが、場違いだったかね?」
 初対面どころか、船室のグレードを問わず全船客全員の顔と姓名を暗記するのは幹部船員の常識だ。○△××。日本人。大阪商工会議所の幹事を兼ねる財界人だが、こういった国際クルーズは初めてと聞いている。搭乗船室は二等のペントハウス。社会的地位・経済力からはスイートを使っても不思議でない人物だが、日本の財界人にありがちな倹約なのだろう。
「この船はモノクラス(無等級)と説明書にあった筈だが、違うのかね?」
「それは……」
 彼の言うとおり、欧米船籍を始め全世界の国際クルーズではモノクラスが普及しているが、そういう中でも日に三度の、食卓の雰囲気を維持すべく知恵を働かせるのが接客クルーの腕だ。曰く、満席でございます。曰く、今日は席の具合が思わしくなく……それでなくてもこれは、そういう国際感覚の欠如した中国船籍クルーズ。そういう事情を勘案して、末端のウェイターに至るまで対象に研修を施しいたつもりだが、この「シナ人」は「ジャップ」と見たばかりにやらかしてしまったのだろう。しかし……
 半世紀以上前の戦争の傷跡という理由で片づけられないほど、日中の関係は急速に悪化している。しかも中国側だけでなく、最近は日本側の感情悪化も顕著だという。だからこそ企画された今回のクルーズだが、その初期段階でこれである。これから数ヶ月の航路が思いやられる……

 同日、サライェヴォ。
 ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都であるこの都市は、第一次世界大戦後にセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(のちにユーゴスラヴィア王国と改称)されると、第二次世界大戦中の一時期を除いてその一地方の首府であるにとどまっていた。
 柳沢は、巨大な競技場を望む広場の入口に立っていた。相手が、ここを待合せ場所に指定してきたのだ。
 黒塗りのBMWが一台、音もなく入口正面に滑り込んできた。停車すると同時に飛び出してきた運転手が後部ドアを開け、上背のある男が降り立つ。ジェリコ・サリハミジッチ。故国とその悲劇を代表する選手として、そして日本サッカーにファンタジーを伝えた指導者として、サッカーにはそれほど詳しくない柳沢を含め、日本で知らぬ者はあるまい。
「ようこそ、サライェヴォへ。お疲れではありませんか?」
「大丈夫です。二日前フランクフルトに到着してから、時差呆けは調整を済ませておきました」
「それは、賢明なことです」
 男は微笑し、入口を固める管理人に合図した。通常は開放しているらしいが、今日は何故か保守工事を理由に締め切っていたのだ。
「これは……」
 一歩入ってすぐ開けた光景に、柳沢は何か威圧的なものを感じて歩を進めるのを躊躇した。真っ白い砂利道が走る広い芝生の一面に、やはり真っ白な標識が屹立している。近寄ってみると、その一つ一つに人の名前と生年月日が刻まれている。墓標なのだった。死亡年月日を示す年号は、驚くべきことに全て一九九〇年代前半になっていた。
「ここは元々、オリンピック開催が決定してから補助競技場として整備された場所です。そして実際、あの時は全世界からアスリートや報道関係者が押し寄せ、この街がコスモポリタン(世界の首都)であるような幻覚を感じたものです。
 いや、ユーゴスラヴィア崩壊まで、この街は確かにコスモポリタンだった。違う民族、違う宗教がごく当たり前のように同居し、隣同士の付き合いを営んでいた。通婚も当たり前。後々になってチトーの政権維持のための深慮遠謀だったという見方も出ているようですが、仮にそうだと気づいていたとしても我々にとっては同じことでした」
「にわか勉強なのですが、ここに来ると決まってから慌てて調べさせてもらいました。この街、ボスニア全体がユーゴスラヴィアの民族共存の象徴だったそうですね」
「ええ……共産主義に付き物の言論統制もなかったとは言いませんが、そういう事情もあって、連邦崩壊までは結構いい時代でした。日夜秘密警察の目を意識せねばならないロシアやルーマニアと違い、ここでは秘密警察までもが楽しんでいた。
 それがオイルショックで財政が悪化し、さらにチトーというカリスマを失うことでユーゴの斜陽は始まっていたのです。だがその時点では上も下も連邦崩壊と、それに続く悪夢を誰一人想像しなかった。人はいつも、遅れて変化に気づく種族のようですね」
 柳沢は沈黙を守っていた。決して時間が有り余っているわけではなかったが、訥々と語る男の言葉を遮ることは何故か躊躇われた。
「全てはベルリンの壁、そしてソ連崩壊が発端だった。ルーマニアもハンガリーもボヘミアもスロヴァキアも、いとも簡単に社会主義という上着を脱ぎ捨ててみせた。それだけ老朽化していたということなのでしょうが、我々もそれがどういう意味を持つか理解する暇はなかった」
「他民族統合のかすがいが外れてしまった、ということですね?」
「その通り。あなたは実に巧みな比喩をなさる。
 その決断をした時、各共和国の指導者達もこれでユーゴの終わりだと思っていたわけではない。しかし社会主義という共通の指針を取り去った時、各共和国がそれに代わるものとして民族主義を採ったことで、連邦崩壊は運命づけられていたのですね」
 国家としてのユーゴスラヴィア崩壊。それは一つのコスモポリタニズムの終焉などというほろ苦い感傷などでは片づけられぬ悲劇の序章に過ぎなかった。
 一九九一年春、まずスロヴェニア、次いでクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナが国民投票を実施、圧倒的多数の支持を得てユーゴスラヴィアからの独立を宣言。当初は政治的解決を模索したユーゴスラヴィア連邦だったが、そのカリスマ性で民族主義噴出を防げたかも知れないチトーは数年前に物故。各国の独立を認めないセルビアは大統領ミロシェヴィッチの下、ユーゴスラヴィアとしての連合軍を召集の上侵攻。「ユーゴ内戦」の始まりだった。その結果、各国の独立を認める内容で停戦が成立、単一国家としてのユーゴスラヴィアは名実ともに崩壊した。
 悲劇はこれで終わらなかった。それまで対セルビアで手を結んでいたクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナが相争い出したのだ。世界遺産にも登録された南部の小都市モスタルでは「誰もが、自分の両親を殺した相手を知っている」と言われる深刻な事態となり、十五世紀に架けられた橋は破壊された。内戦終結後橋は修復、住民も続々戻ってきたが、隣人同士が殺し合うという体験に耐えられず戻らなかったものも多く、復興の槌音が遠く響く町並みには暗い影がまだ落ちていた。
 そしてこのサライェヴォ。第一次世界大戦の端緒の舞台ともなったこの都市は、今ひとたび、いやそれとは較べものにならぬ悲劇の舞台となった。
 空爆、そして狙撃で万を超える住民が落命。最近まで市内の中心部には、当時の惨劇をそのまま伝える銃痕が建物や路面に残っていたという。犠牲者の増加に既存の墓地は飽和状態となり、オリンピックでは補助競技場として使われたこの場所が合同埋葬地に選ばれた。それも遺族は狙撃を恐れ、早朝や夕刻を選んで遺体を運び込み、素早く埋葬を済ませたという。
「申し訳ない。関係ない長話をしてしまった……モスタル出身の義勇兵のことを、お尋ねとか?」
「ええ」
「連絡を受けて、資料を用意してきました。これがそうです」
 彼はそう言って、コートの内ポケットから二つ折りにした茶封筒を取り出した。
「ボリス・カディーツク。第二次大戦の英雄の息子でね。出自もよかったがとにかく才気煥発な若者だった。
 当時はユーゴもプロサッカーリーグを結成していたが、中には特別枠のように軍人の師弟がいた。と言っても使い物にならないボンボンは次々辞めていくのがオチだったのが、彼だけは違った。少々挙措に気障なところがないではなかったが、プレーさせればバランス感覚では抜群でね。当時の監督も、あいつだけには一目置いていました。あの時以前の彼を悪く言うものがいたという記憶はありません」
「あの時……十五年前、ですか?」
「そう。悪しき民族主義が彼と、彼に関わる人々の未来を粉砕してしまった。以降、彼の消息を知るものはここにはいません。どの陣営にしても戦線にとどまっていれば何か情報は入ってきたと思うのですが、後方か、それとも他国に出ていたのか……」
「そういうことは、あったと思いますか?」
「わかりません。出国したら出国したで、難民を扱う国連機関が気づかなかった筈はないと思うが、それもなかった。
 ご存知かどうかわかりませんが、我々サッカー関係者は紛争勃発のつい数ヶ月前まで一つの代表チームを結成し、一緒になって応援していた仲なんです。政治家がやれ戦争だと言ったって、そう簡単に頭を切り換かえられるものじゃない。そんなわけで国が紛争に突入した後も、内外のチャンネルを通じて、あちこちの戦線に散ったかつてのチームメイトが消息を心配し合っていたんです。敵対しているか、明日には敵対するかも知れない同士がですよ。ちょっと複雑なお話でしょうか?」
「とんでもありません。何だか、こう言っては不適切かもしれませんが、心温まるお話ですね?」
「ありがとう。何が言いたいかというと、真剣勝負の中で培った信頼や連帯意識は、早々引き裂けるものじゃないってことなんです。それも、流した血の分だけ重いものがね。彼については、元チームメイトでありながら追う立場になった者も私は知っていますが、犯した過ちに対する償いは償いとして、またいつかそうなる前と同じように、同じピッチに立てる日が来ればうれしいと思っています」
 柳沢は、咄嗟に言葉がなかった。そうすることが不可能なのはサリハミジッチ自身が一番知っている筈だが、それでもこれが、彼の本心なのだろう。
「日本人は、基本的に一つの民族で、それも海を隔てて歴史を過ごしてきました。だから私に言えるのは……判るような気がします、ということだけです」
「お気遣いありがとう……日が落ちるとさすがに冷えるでしょう?滞在先はお決まりですか?」
「ええ……大使館が手配してくれる筈ですが」
「それならいいですが……もしお食事の予約がまだなら、市内にいい店があります。ご馳走しますよ」

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キングスクロス:二.シンガポール~アレクサンドリア(五月二日~五月二十日)(2)

 同日夜、コブレンツ。
 ペーターは警察署刑事課フロア―廊下の公衆電話を掛けていた。相手はベルリンの内務省。
「部長、ペーターです。済みません、取り逃がしました」
「駄目だったか……で、奴はやはりウィーンに向かったのか?」
「じかに確認はできませんでした。警察からDB(ドイツ国鉄)に連絡して、列車を調べてもらいました。情報にあった人相の人物が、確かにニュルンベルクからウィーンまで乗車していたそうです」
「警察、か。表に出てしまったか……」
「怪我の功名ということにしましょう。こうでもしなければ、足取りの確認もできなかったようです……部長の指示ではなかったのですか?」
「私も驚いているんだ。どうやら我々の他にも、『ミノタウロス』を追っている誰かがいるようだな。どうにも気になるが、とりあえず邪魔をしようというのではなさそうだし、追跡を続けながら様子を見ることにしよう」
「わかりました……自分はどうしますか?一旦、戻ったほうがいいですか?」
「そうしてくれるか?ついさっき、ルーマニアに依頼した調査結果が届いたんだが、内容を電話で話すのも何だしな。いつ、戻れる?」
「夜行列車かバスの空席が取れれば明日朝には戻れますが、なければ昼頃になるでしょう。よろしいですか?」
「そうか……まあ、無理はしないでくれ。次の方針が決まればまた駆け回ってもらうことになる。休める時に充分体を休ませておくのも、任務のうちだぞ」
「ありがとうございます。まあ、適度にやりますよ」
 受話器を置いたペーターは、しかしすぐに時刻表を借り、夜行列車とバスの空席を調べ始めた。一段落するまで、休息を取っている余裕などあろう筈がない。解決すれば、いくらでも休めるのだから。

 五月十日、マラッカ海峡洋上。
 三回目の朝を迎えた。ラウンジにある航跡表によると、現在地点はリゾート地として有名なプーケット島の真南。マラッカ海峡を完全に抜けたということだ。これからは約半日かけてアンダマン海とテン・ディグリー海峡を通過、ベンガル湾に乗り出せば次の寄港地・コロンボまではさらに一日だ。
 ジミー・スタークは、ブリッジから右後方の船長公室に戻った。執務机に応接セット、そして壁に書棚があるだけのシンプルな造りで、幹部船員の約二倍、舷底にある下級船員から見れば文字通り雲泥の差があるスペースだが、それでも一等相当のデラックスルームと同等。それ以上の特等客室には及ばない。公室の後方には、仕切り扉を隔て同じ広さの私室。デスクと、箪笥を兼ねた寝台を備えたきりだが、ツインが標準の幹部船員、乃至三段式「蚕棚」の一般船員とはまた別格。一朝事あれば船内の警察権をも有する船長の権威を、物言わぬ空間の配置だけで厳然と物語っているのだった。
 時に海賊も出没する、最も要注意の海域を通過するまではと、通常なら当直に任せて休む未明以降もブリッジに詰めていた。これからは航海長に引き継ぎ、海峡通過まで暫時の仮眠を摂る。本乗務を引き受けるにあたり、唯一の条件として是非にと望んだ人事だった。アジア人が大半、それ以外も名前だけは聞いていながら初対面と言う中、彼だけが唯一心を許せるスタッフだった。
 任務の依頼が来たのは出航十日前。急な乗務は初めてでもないとは言え、異例中の異例だった。世界一周処女航海といった大きな航海の場合、早ければ一年以上前には話が来るもので、有事に備え第二、第三候補者もピックアップしてくのが普通だが。交替の理由は聞かされていない。本来なら不明点は全て糺した上で任務に望みたいところだが、政治絡みの決定と言うことで肝心なところは灰色。通常なら任されるスタッフを全面信頼して事に当たるスター区が、今回特に航海長人事に拘ったのもその点だった。今のところ航海に異状はない。不審な点も含め。これからはわからないが。
「訳あり」の航海も初めてではないが、今回ばかりは何か違う気がする。乗組員の少なからぬ者が、然るべき機関の人間であるぐらいすぐにわかった。有事の際も自分の「警察権」がどこまで通用するのか。試される機会がないことを、今は祈るしかない。そういう時に限って面倒が起こるものだが……

 同時刻、ムンバイ。
――中国が動いていた……間違いないのね?
「ニューヨークの国連大使に確認しました。パキスタンの国連大使は接触の事実自体を否定しています。ただ、関与はしていないようですね。追い詰めるつもりはないので、大使もそれ以上は追求しなかったそうです」
――私に乗るなと横槍が入ったのも、それが原因ね……船は、もうコロンボを発った頃ね?
「かれこれ丸一日前です。現在はモルディブ沖を航行、予定どおりであればムンバイ到着は明日になります」
――わかりました。あなたたちは予定通り、そこから乗って頂戴。その後何をしてもらうかは、追って指示を出します。

 同時刻、広島県警察本部。
「柳沢です。間違いありません、仏さんは物産の休職社員でした」
――広島に足跡を残していたわけだ……でも、事件との関連を思わせるものはなかったわけか?
「今のところそうですね。東京はどうですか?」
――右に同じ、だ。高校までは関西在住、以降東京暮らし、公私を含め広島への訪問歴はなく、交友範囲に同出身者もなし。但しあくまで休職時前後までの話で、あるとすれば以降ということになる。逆にいえばその間に何か出てくれば、ということだな。
「情報を渡すわけには、やはりいかない……のでしょうね?自分の立場で言えることでないのはわかりますが、広島もかなり困惑している状況なのです。
――上がウンと言うまいな。私も何とか粘ってみるが……もう、戻ってくるのか?
「遺体と遺族に同行して今日中には。遺留品を鑑識に届けて、そちらへ顔を出すのは夜になりますが、いいですか?」
――ああ。相変わらずやる気があるのかないのか、永田町と霞ヶ関への事情聴取の許可がまだ下りない。君の言ったことが正しかったような気がしてきたよ……とにかくご苦労。気をつけて帰ってきてくれ。広島の皆さんにも宜しく伝えておいて欲しい。
「承知しました」
 受話器を置いた柳沢を、県警の捜査員が覗き込む。
「やはり駄目……ですか」
「面目ない。力不足と言われれば返す言葉がありませんが、かなり微妙なようですね。帰ってから自分も突付いて見ますが」

 同時刻 ハラレ。
 大統領府の執務室に彼が入ると、部屋のあるじは執務机を立ち、応接セットのソファーを勧めた。
「二年ぶりだな。元気にしていたかね?」
「全部ご存知なのでしょう?」
「久しぶりに顔を見たんだ。そういう言い方はやめないか?」
「失礼しました」
「……まあ、確かに世間話が目的で来てもらった訳じゃない。もう一度、働いてもらうためだ」
「それは、一度お断りした筈です」
「聞いたよ。だが私には、正確に言えば今ここにいる連中にはどうにもできない……情勢は知っているね?」
「はい」
「君だって、関心がない筈はない。違うかね?」
「お話を伺ってからです。局長は、問題が発生したとしか教えてくれませんでしたので」
「私が口止めしたんだった。許してやって欲しい……北朝鮮が、老朽化した核弾頭を手放すことにした」
「必ずしも悪いことではないと思いますが」
「引取り先がベネズエラでもか?」
「……確かに以前、そういう話がありましたが……事実ですか?」
「ネタ元はCIAだが、ロシアも裏を取ったそうだ。尤も冷戦時代と違って米ロが手を組むことは考えられなくはないし、事実前回はその疑いがあったために情報止まりだった。しかし状況が変われば、ガセネタがガセネタでなくなることもある」
「カラカスの政情不安、ですね?」
「そういうことだ。委細は知っているかね?」
「メディアで報道されている程度には。デモ隊に軍が発砲、犠牲者が出たと」
「デモを組織した野党勢力は硬化、ゼネストを呼びかけた。政府は武力制圧の構えだが、内部でも慎重論が出ている。このゼネストに、国外勢力の手が伸びているという情報があるからだ」
「ホワイトハウス、でしょうか?」
「裏は取れていないが、ワシントンとしては渡りに船だろうな。と言って、明るみになれば内政干渉として非難の的になるが」
「それで、私に何をやれと?北朝鮮・ベネズエラの取引を支援するというなら、お断りします」
「君ならそう言うと思ったよ」
「は……?」
「正直に言おう。その逆だ。アメリカに提供することを前提に、本件の情報を徹底的に収集する。現在持っている分だけじゃない、我が国が収集可能な、基本的に全ての情報をだ」
「……」
「不満はあるまい?君が具申していたとおりになったのだから」
「その情報は無償で提供されるおつもりですか?それとも交換条件を?」
「図星だ」
「現政権の維持ですか?」
「君には何を否定しても無駄だろうな。不満か?」
「いえ、妥当なご判断だろうと思います。問題はアメリカがこの期に及んで信用するかという問題と、宗旨替えが他者に漏れた際の危険度です」
「その通りだ。具体的に言おう、君に頼みたいのは、アメリカとの極秘交渉だ」
「なるほど……」
「君はこれからとんぼ返りし、アメリカの友人と話して欲しい。目処がついた時点で、ハラレから然るべき人物をワシントンに送る。そこから君は後ろに廻ってくれていい」

 五月十二日、ベルリン。
「六時四十二分発ベルリン行きICE……そう思った理由は?」
「直通列車が少ないんです。これを逃すと次は午後でしてね。一回乗換えも含めるともっとあるんですが」
「しかし、結局乗っていなかった……」
「先回りされるのを避けたんでしょう。かと言って、あの後緊急配備に引っかからなかったということは、乗車を諦めて駅周辺に留まったわけでもない」
「別の列車、か?」
「丁度いいのがあるんです。六時四十七分、ニュルンベルク行きインターシティ。こちらは全席予約ではないので、飛び込みで乗り込んでも顔を覚えられる可能性は小です」
「終着は昼頃……まあ、今から駆けつけても仕方がないが、そうするとニュルンベルク方面と同時に、ベルリンで何が待っていたのかという話にもなるな」
「さらに限定できますよ。あの列車で着いて、その後同日中にチューリッヒまで戻れること。そうなると具体的に何時間かはわかりませんが、ベルリン市内での行動範囲というのもある程度計算できるんです」
「行きたそうだな?」
「は……」
「駄目だと言ったら、休暇を申請するつもりだろう?」
「……」
「行って来い。ただやはり、休暇届は出してくれ。今のところ有力な物証はないし、ベルリンに絞ることは不可能だ」
「わかりました」

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2008年8月23日 (土)

キングスクロス:二.シンガポール~アレクサンドリア(五月二日~五月二十日)(1)

 五月四日、アテネ、海軍情報局外事第三部長執務室。
 執務机に隣り合った応接セットで、『オリーヴ』は手にした資料を机上に戻した。目を通し終えたと見た部長がたずねる。
「……どうだ?信頼に値すると貴官は考えるかね?」
「はい」
「理由は……ネタ元がイェニチェリだからか?」
「あそこからの情報なら、間違いはありません。問題はそれを前提として、その後の『ミノタウロス』の行方ということになります」
「父上が追っておられた事案だな」
「!……」
『オリーヴ』の表情が、初めて僅かに動いた。だがそれも、一瞬のことだった。
「驚いたかね?」
「……いえ、情報局として当然の判断だと思います」
「……」
「自分は、本件から外されるのでありますか?」
「規則上はな。情報局でこの事実を知っているのは私だけだ。報告してきたエージェントは、君も知っての通りイスタンブールでつい一昨日死亡した」
「……」
「『ミノタウロス』について、情報局内部で感知している者はこの部屋にいる二人きり……どういう状況か、わかるかね?」
「考えたくはありませんが、万一局長ご自身が内通者なら、自分は終わりと言うことですね」
「おいおい……」
「裏を返せば、逆も真なりです」
「君!」
「冗談です」
「……」
 局長は傷ましげに彼女を見た。今の諧謔がユーモアと言うより、徹底的に己を殺してきた結果だとわかるからだった。
「失礼しました。自分が言いたいのは、機密保持のためとは言え、あまりにも人手が足りないということです。最終的には軍だけでなく政府、議会、EU、そしてワシントンとも連携を取る必要が出てくると思います」
「わかった……首相に相談するが、多分国内では軍情報局だけで動くことになると思う……問題は船に、誰を乗せるかだ」
「自分が行きます」
「だめだと言ったら、休暇を取るかね?」
「……」
「図星だな?だが考えてみたまえ。クルーズ船なんだぞ。フェリーじゃないんだ。しかもそういう裏があるとなると、得体の知れないレディーがご乗船になれば目を付けられずには済まない。それでよければ構わないが?」
「……出発は、いつですか?」
「ピレウスにも寄港する予定だが、国籍を隠して別の場所から乗ったほうがベターだろうな。次の寄港地はマルセイユか……トルコからも工作員を送り込む計画があるそうだ。工作員のコードネームは『アヌビス』。他にアメリカからは『ポパイ』『プルート』の二人。多分アメリカ寄港中に乗ってくると思う」
「ワシントンとアンカラは準備万端と言うことですね。休暇扱い……ということですね?」
「察しがいいな……まあ、君が嫌と言えば無理強いするつもりはなかったが。『アヌビス』の年齢は君より三つ上。夫婦ということでいいかね?」
『オリーブ』は苦笑した。敬礼より何より、それが任務を遂行するという、何よりの意思の表れだった。

 同日夜。
 柳沢は、東海道・山陽新幹線を「のぞみ」で一路西下していた。金曜夜の便とて車中は出張帰りのビジネスマンでほぼ満席、何とか確保した中央の席に着いた。
 缶ビールとワゴン販売の鱒寿司で夕食。新大阪からちらほら降車客が目立ちはじめ、岡山以西はほぼ空車。そして東広島を通過後十分前後、減速を始めた左手の車窓に浮かび上がるのは、何百というコンテナが積まれた貨物ターミナル、そして操車場。新潟の水田が米どころを示すように、この土地が西日本の物流の一大拠点である事実を何より物語っているということか。
 あまりに広い構内に戸惑った加藤がコンコースで立ち往生していると、
「柳沢さん!」
 聞き覚えのある声が突然かかってきた。東京から電話で話した、県警の捜査員だ。
「お迎えにあがりました」
「恐縮です。出口がいくつもあるようですが、どう行けばいいのでしょうか?」
「先導しますよ。駅舎を出たところに、車を待たせてあります」
「どうも」
 近代的な駅ビルの正面プロムナードを抜けると、ちょっとした公園とも思える広い路地の向こうに、タクシーや自家用車が並んでいる空間があった。その左手には、宮島方面までカバーしているという路面電車のターミナル。郊外へのジャンクションたる西広島、そして広島港と並び市電停車場としては最大級だろうとのことだ。
「早速ですが、遺体をご覧になりますか?安置してある病院には連絡あるので、ご希望であればいつでもご覧になれます」
「今から、でもですか?」
「ええ」
「そうですね……時間が時間なので明朝でも構いませんが、そういうことですと返って二度手間になりますね。お願いできますか?」
 真っ暗な市内を疾走する車窓からは人の通りは見えず、整然とした町並みだけが寒々と伸びていた。通用口から夜間照明だけの薄暗い廊下を通り、霊安室に向かう。
「どうですか?」
「本人に間違いありません。変装していたとことですが、具体的には?」
「衣類と、化粧ですね。頭髪だけが地毛だったのが驚きですが」
「そうですね。前々から伸ばしていたのならわかりますが、この人物はそうでなかった筈なので我々も戸惑ったんです」
「普通のサラリーマンと言うことでしょうか……勤め先とかはわかっていますか?」
「物産です」
「それは……親戚の娘がああいう大企業に入れればいいなと話していたんですが、しかしその社員が、どうしてこういうことに……」
「ええ……話の続きですが、実は数ヶ月前から休職中でしてね。髪を伸ばし始めたのは多分それ以降と思われますが、実はそれと死亡の因果関係があるのではないかと思われます」
「数ヶ月前……東京で何か事件が?」
「ええ。まだ具体的にはお話できませんが、彼がそれに関係しているという可能性があり、マークしていたんです。それがこういう結果になったことで、お恥ずかしい話ですが当方の失点と言うことにもなります」
「それは……」
 相手は、何とも返しかねる様子だった。
「おおよその事情はわかりましたが、そういう人物がこちらに来ていたというのは、何か意味があるのでしょうか?」
「そう、そこが問題です。彼が自分の意思でここを訪れたのか、それとも生死を問わず何者課の手で連れて来られたのか。まずそこを解明したいところですが、そちらでご覧になった所見はどのようなものですか?」
「所持品中に、東京から広島までのJRの乗車券がありました。購入日と回収日が同一でしたので購入日のうちに、具体的には新幹線で来たと断定していいと思います。列車名までは未特定ですが」
「そうですか」
「乗務員や駅で聞き込みをするしかないので、これはちょっと時間がかかると思います。そちらは?」
「それなのですが、彼は単身赴任で東京では一人暮らし、職場も休職中とのことで普段接点のある知人はありませんでね。出入りしている店などから特定は可能と思いますが、こちらもまだ着手したばかりでして。まあ、数日中にはあちらで何かつかむと思いますが」
「わかりました」
 会話が途切れ、柳沢はあらためて死者の顔を見下ろした。彼が東京で何をしていたのかは知っている。問題はこの土地で何があり、何故死地となったかだ。それぞれの土地に残された手がかりを組み合わせてこそそれは明らかとなる筈だが、またもの「政治的配慮」が捜査を妨げるようなことはないのか。背後に隠されたものを察知しているだけに、よくない予感を禁じえない柳沢だった。

 ワシントン近郊、CIA本部。
「サウジアラビアの採掘権、中国は本気で狙っていたようですね。尖閣諸島の油田問題が膠着している以上、他所に供給元を求めたいのは同じですから。ただ相手をサウジアラビアに定めたあたりが、ちぐはぐと言えばちぐはぐですが」
「サッカーの最終予選だな?」
「強気に出ればすくみ上がる日本や、多額の援助をしているアフリカ諸国と同じと思って応対したんじゃないでしょうか?石油というのは、その気になればアメリカだって操れる戦略物資だ。北京がそういうリサーチをしていなかったとも思えないのですが……」
「それだけ政情が逼迫している、と?」
「恐らく。そして結果的に頓挫すると日本に八つ当たり。恩を仇で返されたつもりなのかもしれませんが、笑止千万ですよ。そして、大人しく黙っていなかった相手の矛先を、我が日本がまともに受けることになった。戦犯なのは明らかな壱岐や親中ジャーナリズムが愛国者気取り。平和な国ですよ」
「その壱岐は、今度例の『オリンピア』に乗船するとか?」
「クルーズ世代で、時々専門誌にも寄稿しています。いいご身分ですね。先日厚生労働大臣の温泉研修会が叩かれていましたが、可愛いもんですよ。参加者分の費用総額が、シアトルから天津までの運賃だそうですから」
「ふうん……」
 一部ジャーナリストの所謂『贅沢』な私生活が、最近批判に晒されている。命懸けの報道を敢行する代償、という釈明もなされるが、核の傘下で守られていた日本のジャーナリズムで命懸けを標榜されてもお笑い事だ。それは戦後、一人前の国家としての国づくりを放棄した日本の自業自得とも言えるが、そこを経由してこのアメリカを狙う謀略が進行しているとなると話は別だ。二十世紀の世界は、根本的に誤った選択をしてしまったのだろうか?だとすればそれは、いつ?今から取り返しはつくのか?答えが出たときに、全てが手遅れになっていなければいいが……

 同日、東京。
 非公式に入手したという乗客名簿にその氏名を見つけ、沖田は複雑な思いを噛み締めた。中村一平。同窓の誼から始まって永田町の内と外からこの国を変えようと試みながらも共に去年の政局で一線を追われ、それ以来の邂逅になる。彼とはあの直後、赤坂の料亭で会食したきりだ。安永内閣下で発足していた安全保障会議準備室、所謂日本版NSCメンバーの肩書はそのままだったが外務省政務官を外れ、事実上の平議員に戻ることが内定していた。沖田のほうは政治部を外れ社会部への異動内示。事実上、ジャーナリストとしては『終了』の烙印だった。
「俺はね、悔しいんだよ、今までやってきたことを覆されるのが」
「……」
「お前、どうすんだよ、これから?」
「実は趣味絡みで、系列の雑誌社から誘いが来ていて迷っています。個人の資格で寄稿したことがあるのですが、その時以降の縁で。海事専門誌です」
「お前には天職……かも知れんなあ、今の日本じゃ」
「……」
「全然餞にはならないが、それしか言えないな。名刺が刷り上ったら遊びに来いよ。これからは立場上、あまり力になってやれないけどな」
「わかっています」
「……俺、このままじゃ終わらないからな。いつか大逆転してみせる」
「心強いお言葉ですが、くれぐれも無理はなさらないで下さい。必ず好機は再び来ると信じて、しばらく隠忍自重なさることも肝要かと」
「何だよ、いつから先輩になったんだ?」
「先輩のつもりです。こと、永田町の事情については」
「……わかった。確かに今回のことを考えると、お前の忠告に従ったほうがよさそうだ。落ち着いたら連絡してくれ。俺はこれからも防衛畑で暴れるつもりだから、声を掛けて原稿稼ぎさせてもらうかもしれない」
「ありがとうございます」
 作り笑顔で別れた中村だったが、その後NSCも事実上解体、安永内閣の目指した戦後レジーム脱却戦略は、一つ一つ葬り去られていくニュースを横目に沖田自身は誘いを受け、今は客員記者件副編集長として、内外の港や海軍基地を飛び回る日常だった。縁とは判らないものだ……

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キングスクロス:一. 天津~シンガポール(五月一日~五月二日)(2)

 同日、ハバロフスク・ロシア連邦極東艦隊司令部。
「モスクワの軍令部から連絡は受けている」
「は」
「だがね……何を考えている?全部モスクワ経由で済ませる選択肢もあったと思うが、赴任途上との事だがこのハバロフスクに現れ、いきなり任務中の要員を差し出せとは乱暴な話、ではある」
「申し訳ありません」
「と……三十年前、私も言われたものだ」
「はあっ?」
「所定の手続きを全く無視した作戦。珍しいことじゃない。時代が大きく変わり始めたあの頃から、西部(モスクワ周辺)ほどじゃないがそういう動きは結構あってね。是非はともかく、その結果として現在のロシアがある」
「は……」
「必要となれば通常の手続きを無視することも、時には必要ということだよ。もちろん組織として事後に然るべき総括は必要だが、理由があって為したことならどういう結果が待っていようとも甘受できる筈だ」
「恐れ入ります」
「だがね……私も一司令部の長として有為の人材を預かっている身だ。納得できる理由は教えてくれるだろうね?でなければ、こちらとしても所定のルートを無視して対応を考えなければならない」
 司令はそう言って……ニヤッと笑った。
「ご賢察、恐れ入ります。本件につき、モスクワに送りました報告書の写しを持参しました。司令にご覧いただくことはモスクワの了承を得ております」
「助かる……拝見するよ」
 そう言って便箋を開いた司令の笑顔が、凍りついた。
「まさか……本当なのか?」
「自分も初めて情報を耳にした時は半信半疑でした。一度頓挫した計画を蒸し返す、これ以上リスキーなことはないというのが我々の世界の常識です。彼らも当然それは承知している筈ですが、相応の事情があれば話は違う、ということではないかと」
「よほど切羽詰っているのかねえ……平壌の実情はある程度把握しているが、カラカスがそこまで緊迫していたとは。政情不安とだけは聞いていたが……」
「最初は黒海艦隊事案でしたが、どうやら問題の荷物は既に現地から持ち出され、現在はヨーロッパのどこかにあるものと思われます。計画の詳細は不明ですが、荷揚げ予定地はともかく、クルーズの終着点はこの極東です。計画に支障が出れば、ロシアの国土・国民にも影響なしでは済まなくなるかも知れない、ということです」
「『どういう事態になっても対応できるように』……話を聞くまではわからなかったが、そういう経緯があったんだな。よろしい。本日彼女は任務で不在だが、モスクワから正式な指令があり次第、要請どおりの任務に従事できるよう手配をしておこう。それでいいね?」

 同日、警察庁警備局。
「どうでした、テストは?」
「合格、と言っていいのかな。こちらの依頼を受諾はした。遂行して初めて、合格と言えるんだろうがねえ」
「そうですね」
「何を考えている?……これをさせるためだけに、スピンアウトした政治記者をリクルートさせたわけじゃないだろう?」
「小田さんは騙せませんでしたか……図星です。実は最初のテストで合格したら、或る船に乗せられないかという話になっています」
「船?……そう言えばあの記者、今は海事雑誌で書いていたな。それも人選の条件だったのか?」
「直接そのように聞いてはいませんが、多分その通りだと思います」
「そうか。しかし、外部の人間をいきなり突っ込むとなると、軍艦や貨物船は難しいだろう?」
「その通りです」
 工藤が微笑して差し出したA四判の茶封筒を開いた小田は、中から取り出したレポート用紙の綴りを一読し、驚いた。
「これは……」
「驚かれましたか?一見、何の関連もないように思われたでしょう?」
「関連なしと言われればないし、あると言われれば……中国船籍だからねえ。しかし世界一周の処女航海、加えて海上の聖火リレーと来ている。そういう話題性があって外部の注目もあるクルーズを、こういうダーティーな作戦に利用するものだろうか?」
「日本は論外として、欧米もまずやらないでしょうね。中近東も微妙なところです。しかし……」
「中国ならやりかねん、か……怪しいと思った根拠は?」
「おかしくなってきたのは、オーストラリアでの騒動の後です。ほぼ同時期のミャンマー政変も絡んでいたとか。その後、予定されていたホーチミン寄港が中止され、香港とシンガポールで中国人乗客が急遽下船、同時に乗船予定の華僑グループも相次いでキャンセル。ハノイには気づかれたくない何かがあると考えると、辻褄が合うんです」
「事情はわかったが、そういう曰くつきの船に民間人を潜り込ませるのは問題じゃないのか?それこそ囮捜査……」
「捜査じゃありません。末端では確かに我々警察も動いていますが、これは官邸……いや複数国情報機関を巻き込んだオペレーションとご承知ください」
「物は言いようだが……つまり、戦争だと言いたいわけだな」
「そうです。国是から表面には出ないと思いますが、我が防衛省も加わっています」
「そういうことになると、益々彼のような民間人を、いわば駒として使うのは抵抗があるが……君は何とも思わないのか?」
「小田さんと違って、自分はヒューマニストではありませんから」
 工藤はそう微笑してから、真顔に戻った。
「ただ、問題ありというご意見には同感です。本来であれば自衛隊なり我々警察が全て引き受けるべきことでしょう。今回はどうしようもないとして、今後こういうことが二度、三度というのは避けるべきですね」
「君の口からそういうヒューマニズムを引き出せただけ、今回はよしとしよう……これで私としては、あの記者に関してもうすることはなくなったようだが、後は『捜査』に専念すればいいのかね?やはり東京と広島の事案はつながっていたようだが」
「間違いないですね。沖田記者の件を引き継いだら自分も捜査に専念することになります。後は、欧州に飛んだ柳沢さんが何をつかんできてくれるかですが……」
 柳沢か、と小田は思った。同期ながら数奇なまでの抜擢を受けて警備任務の指揮を執り続ける小田と違い、時に第一線に巻き込まれながらも地味な所轄任務を続けている柳沢。しかし時代は今一度、彼をも危機管理の第一線に引き出そうとしているようだ……。

 同日夜、ニュルンベルク警察署刑事課。
 ペーターは、フロアー廊下にある公衆電話に立っていた。通話の相手は、ベルリンの公安第一課。
「部長、ペーターです。済みません、取り逃がしました」
――駄目だったか……で、奴はやはりウィーンに向かったのか?
「じかに確認はできませんでした。警察からDB(ドイツ国鉄)に連絡して、列車を調べてもらいました。情報にあった人相の人物が、確かにニュルンベルクからウィーンまで乗車していたそうです」
――警察、か。表に出てしまったか……
「怪我の功名と考えることにしましょう。そうでなければ、足取りの確認もできなかったようです……部長の指示ではなかったのですか?」
――私も驚いているんだ。どうやら他にも、『ミノタウロス』を追っている誰かがいるようだ。どうにも気になるが、とりあえず邪魔をしようというのではなさそうだし、追跡を続けながら様子を見ることにしよう。

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2008年8月22日 (金)

キングスクロス:一. 天津~シンガポール(五月一日~五月二日)(1)

 五月一日、ベルリン
 ヴィルヘルム一世記念教会。プロイセン国王で第二帝国初代皇帝を祀る教会だが、第二次世界大戦時に罹災、その後戦争の記憶を伝えるため、敢えて遺されている。現在は戦後立てられた近代的な教会堂が隣接。八角形で、青いステンドグラスが印象的だ。
 ここでオリンピックが開催された九年後、ドイツは二度目の敗戦を経験する。プロイセン王朝同様ナチス政権は崩壊。しかしそれだけでは済まなかった。連合国がアメリカとソ連に分裂、ベルリンとドイツ国土はかつてのポーランドのように分割されてしまったからだ。そんな中西ドイツではミュンヘンオリンピックが開催、しかし国民の心から戦後を清算するには一九八九年の再統一、そして二〇〇六年のサッカー・ワールドカップを待たなければならなかった。
「持ってきたか?」
 相手の問いに、彼は無言で足許のトランクを示した。
「ずいぶん小さいな」
「実物は携帯消火器程度のカプセルに入っているそうだ。じつは私も中身を確認した訳じゃない。開けるな、という指示を受けているからな。お前さんが自分で使うのでないなら、同じようにしたほうがいいぞ」
「随分と中途半端な時刻だが保管場所の修道院、未明にでも出発したのか?」
「ああ。実は去年運び込む時、早朝だったんだが村人に目撃されていたらしい。幸い怪しまれていないし外部にも漏れていないが、そういう訳で今回は絶対人目につかないよう万全を期したそうだ」
 発祥を中世の選帝侯領に遡るホーエンツォレルン家の許、この都市が歴史の脚光を浴び始めるのは十七世紀。三十年戦争でハプスブルグ家の全帝国支配が事実上頓挫するのと一方で、巧みな戦後処理で北ドイツの覇者として君臨。そしてプロイセン王を名乗るも、ウィーンとは引続き悪からぬ関係を保っていたが、三代目の王フリードリッヒ二世(大王)の時、一七四〇年に勃発したオーストリア継承戦争で遂に牙を剥く。
 若き、とは大王とはほぼ同年代の女帝マリア・テレジアのヒロイックな戦争指導の向こうを張って肥沃なシュレジエン(シレジア)を併合、その後復讐を期するマリア・テレジアがフランスを引き入れ起こした七年戦争で一時は破滅の危うきに至るが、それを救ったのは彼女の同盟者であったロシア女帝エリザヴェータの病死だった。
 後を継いだ甥のピョートル三世は大のプロイセン贔屓で、有利に戦いを進めていたオーストリアを裏切り、結局フリードリッヒはシュレジエン領有を公式に認めさせる。その後ピョートルはクーデターで破滅するも、後を継いだ妻のエカチェリーナ二世と語らい、隣国ポーランドの分割を期する。マリアはこの非人道的行為に嘆き憤り抵抗するが、フリードリッヒに籠絡された息子ヨーゼフ二世をも共犯に巻き込む形で、数世紀に亘って続く悲劇の幕は開かれた。
 いつのことなのか、人類が自分の気に入らない者の、自分と異なる者の存在を許さないようになったのは。二十世紀の大戦などという最近の話ではない。世紀末に播かれた社会主義と言う歴史的地雷のためか、マキャベリズムを体現したフリードリッヒ大王のプロイセンを葬り損ねた七年戦争なのか、
 一世紀以上続いた呪いの連鎖は、第一次世界大戦期に相次いだ分割の三加害者の崩壊では終わらなかった。ドイツ・オーストリアにはヒトラー、そしてロシアにはスターリンと言う二十世紀最悪の支配者が現れ、その毒はポーランドを含めた周辺、否全世界を食い荒らし始めたのだ。第一次世界大戦以降欧米を先頭にした国際社会が当初ナチスの野望を許したのが、スターリンに代表されるソ連対策を考えていた故と言うのも皮肉だ。戦中、密閉された列車でレーニンをロシア本国へ送り届け、革命に決定的な役割を果たしたのは、ドイツ第二帝国であったのだが。
「この後は?」
「別の場所で、あらかじめ話を聞いている相手に渡す……あんたと同じさ。最終目的地は聞いていないし、知っていても教えられなかっただろう。あんたにこれを渡した奴、俺から受け取る奴同様にね」
「そうか。だが何となく察しはつくね」
「本当か?」
「後でいいからこのケースを見てみろよ。メーカーを」
「それがどうした?」
「今度の五輪のスポンサーだ」
「……」
「北京が直接使うつもりかどうかはわからない。某国、乃至某武力組織への売却なのかもしれない。だが表沙汰になれば、多分今度のオリンピックは吹っ飛ぶ」
「それぐらいの代物なのか?この中身は」
「何なら試してみるかね?」
「……」
「ミャンマーの政府トップ暗殺は知っているな?実はあれも、これの移送計画を巡る、北京とCIAの代理戦争と言う噂がある。兵器なのか書類なのかはわからないが、そこまで大騒ぎする価値のある代物だということは、覚えておいたほうがいいだろうな」
「その程度なら、話を聞いていて俺も察しがつくが?」
「当たり前だ。これ以上ほじくり返したら喉を裂かれる」
「……」
「冗談だが、そのぐらいの覚悟はしておいたほうがいいだろうね。まあ、用心してな……ここの払いは俺に持たせてくれ。顔の効くボスがいるんでね」
 相手はそう言って、二人分の勘定を済ませにカウンターへ去って行った。

 同日、天津。
 十九世紀中期の開港以来、この目抜き通りには欧米を思わせる洋館が立ち並び、昔ながらの瓦屋根と相まって中国の古きよき時代を偲ばせていた。
 だが古く、よいのは建物だけだ。そのおよそ百年後、共産党が大陸のあるじとなり、文化大革命で数千年の伝統、中国が何より世界に誇れた筈の伝統の破壊を図る過程で、理念としての中国は世界の中でも死んでしまった。
 欧州での紛争が第二次世界大戦として拡大すると、連合国側の盟主だったルーズヴェルトは、戦中ヒトラーとの蜜月が破局するに至ったスターリンと手を結ぶことで、戦後秩序の致命的な構築にかかる。東欧では戦後ポーランドが、ルーマニアが、チェコスロヴァキアが、ハンガリーがナチス顔負けの圧制に喘ぎ、そして中国は毛沢東と言う空前の悪魔を擁して、一千万単位人民の膏血を吸い尽くす独裁国家が成立した。その死後、四人組裁判と言う名のクーデターを経て改革解放の道を模索しているが、文化大革命で四千年の資産を自ら破壊した後遺症は未だに残っている。
 そんな中で今この都市は「恥ずべき時代」の再現そのまま、海外との行き来に未来を見出している。都市・天津のだけでなく国家の。間に合うかどうかはわからないが。
 内外のクルーズ客船来訪が絶えない旅客埠頭は、しかし今日はそれにましての熱気に包まれていた。中国初の国際クルーズ客船というだけではない。サイズからして桁が違う。
 全長三六〇メートル。一度だけお披露目で上海に寄港したイギリスの「クイーン・メリー」を凌ぐサイズだ。近々カリブ海クルーズではそれを上回る巨大客船がデビュー予定だそうだが、スエズ運河を通過できないので航行可能海域が限定されると言う。つまり世界一周可能なクルーズ客船としては、眼前にそびえるこの「オリンピア」こそ世界最大ということになる。実質的な浮上試験は既に終えており、今日の進水式と命名式は形ばかりのものなのだが、それにもかかわらず岸壁は盛装の内外要人と、それを警護する黒服でごった返していた。華やかな絹のドレスの側を金モールの軍人はまだしも、にこりともしないダークスーツのサングラスがぞろぞろ通過するさまは、まるで全世界のマフィアがサミットを開いているような雰囲気だった。
 定刻になり、先頭に設けられた壇上に上がった国家元首が、綱で吊るされた祝福のシャンペンを船体めがけて放る。昔はよく見かけられた光景だが、これが失敗すると縁起でもないというので最近は形を変えているケースが多いという。案の定と言うべきか、綱が切れて横へ逸れた瓶は、硬い音を立てて舷側をこすっただけで、唖然とする参会者に見送られ、黒い海面へ落下していった。

 五月二日、ニュルンベルク中央駅
 ペーターは中央駅へタクシーを飛ばさせていた。身分証明書を見せればパトカーをチャーターすることもできただろうが、任務の内容が極秘で、彼がここにいることをドイツ警察も知らない筈だ。
 都合悪く、路上に飛び出してきた犬を二つ前の車が撥ね、玉突き衝突に巻き込まれた。渋滞気味であまりスピードが出ていなかったのが不幸中の幸い、人間のほうに被害はなかったが、大げさにもパトカーが駆けつけてきて、全く非のない筈の彼まで事情聴取を受ける羽目になった。
 どこかでエージェントが見守っていたのだろう、パトカーに或る無線が入った二分後、今度こそパトカーにサイレンというVIP待遇で駅に送り届けられたが、プラットホームに出ると、自動ドアを閉じた列車はゆっくり出発するところだった。

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キングスクロス:出航まで(7)

 翌朝・神奈川県警察本部。
 誰も居ない会議室に、出頭を命じられた斉木が入ると、正面には工藤がただ一人端座していた。
「呼び出した用件は承知しているかね?」
「昨夜、勤務明け以降のことですね?」
「……話したんだな?」
「ご確認していないことでしたら、ご想像にお任せします」
「君は私を馬鹿にしているのか!」
「そんなつもりはありません。馬鹿というなら、お話を受けた途端にご指摘を受けるような軽率な行動をとった自分の落ち度でしょう」
 工藤は一瞬唖然とした。自分も成長したのだろうか。二年前の任務でも、一度怒鳴りつけたことがあったが、その際は縮み上がって言い返すなど想像だにしなかったが。
「接触した相手が誰かは工藤さんもご存知の筈です。二年前の事件関係者ですから、全くの部外者ということにはならないと思います」
「先日、保留せずその場で回答を貰っているから、その為の相談ということではないな?」
「仰る通りです。敢えて言えば、事後相談ということになります」
「その判断は我々がする。先走って物事を口にするな」
 怒鳴るのも面倒になったのか、工藤はもう苦笑していた。
「中川さん……巡査部長を、この任務に加えるべきとお考えになりますか?」
「君は?回答を許す」
「任務の性質にもよります。前回は当事者、そして舞台の関係から否応なく所轄関係者が巻き込まれました。
 しかし戸部署となると、少なくとも現時点で事件との関連性はありません。前回の事件絡みで使うのであれば、どうしても本来任務からは外す必要がありますが、極秘任務ということをどうカモフラージュするかが問題です。半分秘密部隊であるSITだった自分とは条件が変わってくるということです」
「巻き込ませたくない。そういうことだな?」
「……」
「実は今回の任務、彼も候補に上がっていたが、比較的面が割れているのでNGになった経緯がある。それに、経緯はどうあれ被疑者の親族でもあった彼を関わらせるわけにはいかないというのが、今回に関わらず捜査のセオリーだ。しかし君が任務の存在を教えてしまった以上、加える加えないは別として監視対象には加えざるを得ない」
「教えなくても、ではなかったのですか?」
「少なくとも昨夜を以て、それを指摘する権利は君にはない」
 工藤は苦笑しながら言った。
「きついことを言うと思うかも知れないが、君自身が招いたことでもある。終わってしまったことは仕方ないが、今後は気をつけてもらいたい」
「申し訳ありませんでした」
「まあいい……同意書は課長から受け取った。具体的行動指示はあらためてするから、いつでも動けるようにしておくこと。以上だ」

 東京都千代田区永田町、内閣府。
 彼は他出から、調査室長執務室に戻ってきた。窓外に官庁街を望むこの部屋が、日夜孜々と働く彼の城だ。
 発端はまたもスキャンダルだった。前政権以上の強硬外交路線が世論の広い支持を受け、圧倒多数で総裁選を制した安永政権の発足わずか二ヶ月。彼の知人でもあり、超党派の外交勉強会幹事だった野党代議士が逮捕、そしてそこから明るみになった暴力団からの金が、首相の事務所にも流れていたというのだ。厳重な警戒の割にこじんまりした高輪の議員宿舎に永年住んでいた彼の、少なくとも身辺に全く金の臭いはなく、夫人が異例のメディア出演で潔白を叫ぶも、当の首相は全てを悟ったか潔く、否呆気なく退陣。反対勢力がこぞって、総裁選直前に不出馬を表明していた穏健派の現首相を、半ば押し付けるように首班の座に就けた。経緯が経緯だけに国民は不信を隠さず、当初歓迎を表明した野党党首も、有権者のバッシングを受けた途端「あれはリップサービスだ」と撤回する始末だった。
 尤も、長い雌伏の後政権を手にした現首相が単なるイエスマンではないことを間もなく、内外の関係者は思い知ることになる。所謂靖国問題について就任と同時に「在任中は参拝しない」と周辺国を安心させた矢先、財政再建を理由にまたもODA白紙見直しに言及。外交方針のブレや不祥事で揺れ続ける野党よりよほど与し易いと見ていた中国初め一部アジア諸国は、憤り以前に周章狼狽した。
 同年初夏の北朝鮮ミサイル発射への対応で事実上世界から見放されていた韓国の親北政権は、翌年の大統領選挙を待たず、同秋再発射された北朝鮮のミサイルを竹島(韓国では魚釣島と呼称)で受けた、海洋調査船もろとも沈没。だがこれで腹を括った平壌は北京の強い働きかけもあって核・ミサイル開発の凍結と、拉致問題の実質的な解決を確約。地域の癌になっていた北朝鮮問題の呆気ない「解決」を受け、一時は凍結さえちらついた日本のODAも当初どおり実施。一方で加熱気味だった韓中の反日政策は気味悪いほど沈静化。互いの不信が払拭されたわけではないながら、各国はようやく本格的な関係改善とパートナーシップ確立に向け動き出した。尤もこれには日本側が「日本国民は疑っている。これ以上続くようであれば、自分達でもフォローできない」と働きかけたと言われている。あくまで噂だが、前政権の親米外交に辛酸を舐めさせられた両国の立場、そしてその後の外交の行方はそれに根拠を与えるものだった。
 東アジア共同体構想。一部の学者が言い出した頃は、そして与野党の中から模索の動きが出てきた頃も、険悪化一方の政治状況と、影響力低下を恐れるアメリカの不信感から永く一顧だにされなかった。それが「禍転じて」と言うべきか、ミサイル発射を発端とした大転換を機に現実性を帯びてきた。今なお不信を拭えない人々の冷たい視線の中、ODA実行に加えて相互ビザなし渡航枠の拡大。そういう中で、財政難から失速していた北京オリンピック準備も再度本格化。各競技場も予定通り完成、あとは八月の開催を待つだけとなった。
 一方で安永政権下発足、本格化を期されていた日本版NSCは事実上解体。そうなればこれまで通り情報業務は調査室、そしてその長たる自分が続けるしかないが、一度頓挫した計画は室員の士気にも影響を及ぼさずにはおかなかった。こう言う状態で一朝事あればどうするのか……。全ては官邸の意向通り、粛々と任務を遂行するのが務めとは言え、こうした国家の在り方にあらためて思いを致さざるをえない彼であった。

 帝産スタジアム(旧・横浜国際総合競技場)六階東コンコース。
 今年になって、このエリアは大きく様変わりした。「おいしいスタジアム」と称して遠近の老舗レストランから出店を募り、一種のグルメ街を形成しているからだ。
 ブース前のカウンターに座っていると、青い横浜マリオスのジャージを着けた二人組みの女性が向かいに座る。全て、打ち合わせどおりだ。
「品物は?」
 どう見ても明らかに東洋人という一人が訊く。金髪のもう一人は、黙ったままこちらをじっと見つめている。
 沖田は無言のまま、脇のナップザックから紙包みを取り出し、卓上に置いた。無造作に受け取った東洋風の女は、これまた無造作にバッグから取り出した携帯電話に、紙包みから取り出したメモリを接続して通信を始める。数分の沈黙の後、ようやく彼女の表情がわずかに緩んだ。
「信用してもらえたかい?」
「回答が来たわ。確かに品物は本物でした」
「そう」
 それだけ言って席を立とうとした沖田を、ずっと黙って見つめていた金髪の女が
「待って」
 と呼び止めた。
「何?問題はなかったんだろう?」
「ええ。でも……ちょっと付き合ってもらえない?」
「どういう意味だ?」
「そろそろ試合が始まるわ。あなた……このまま帰るつもりじゃないわよね?」
「何故だ?」
「このタイミングで帰る客なんていないわよ。いればまず、怪しまれる……」
「あ……」
「チケットは持ってるんでしょう?」
「自由席だ」
「じゃ、丁度いいわ。試合終了まで付き合って頂戴。見せたいものがあるの」
「そういう話は聞いていない」
「なら、貴方の依頼主に訊いてくれていいわ。今日だって、どうせ私のことは監視してるんでしょ?」
「……待ってくれ。電話してみる」
 電波を受けやすい階段の踊り場に出てから、「狙撃」の二文字を思い出して周辺からの死角になりそうな地点を選んでダイヤルする。
――「彼女が、接触続行を望んでいる?
 小田の声が高くなった。
「そうです。確認してくれてもいいと言っているので、私の一存では断らないほうがいいのかと思ったのですが」
――ちょっと待ってください……もしもし、確認を取りました。彼女の申し出どおり接触を続けてください。『見せたいもの』を受け取ったら、逆のルートで渡して欲しいとのことです。接触が済んでからかけ直してください。受け取りのタイミングを相談しましょう。
 電話は切れた。これが警察内部なら「指示する」なのだろう。民間人相手なので言葉遣いに気をつけているだけなことぐらいは、沖田にだってすぐわかる。有無を言わさぬ口調に警察と言う機関の、妥協を許さぬ姿勢を感じながら沖田は席に戻っていった。

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キングスクロス:出航まで(6)

 同千代田区・警視庁一階職員食堂。
「例の痴漢事案、名実とも再捜査が決まったぞ」
 遅い朝食を摂っていた加藤の横に無言で座り込んだ田村が、コーヒーの紙コップを片手にいきなりそう言った。
「本当ですか?」
「ああ。連続殺人事件との関連が表に出た以上、上も動かざるを得なくなった。現在の捜査本部とは別に、非公開で調査委員会を設置、その下で監察が内偵を始めるそうだ。しかもそのトップが、あの定子と来た」
「誰ですか?サダコって」
「何だ、知らないのか?井熊定子。伝説の監察官ってところだな。今は警視庁にいる。二年前の東海道新幹線不審物騒動では静岡県警にいて、結局無害物だったんだが自衛隊と処理にあたった。その後事件の後始末で警視庁に異動、公安の内通者を挙げたのが彼女だそうだ。尤も公に出来ないので問題の公安は『処置』され、殉職扱いになっている」
「あ、あの電話に出た……」
「何だ、知ってるんじゃないか」
「面識はないですよ。警備本部と静岡の現場で連絡を取っていて、そこにいた井熊管理官が電話に出た、声を警備本部で耳にしたってだけの話です。そうか、本庁に戻っていたんですね」
「そう……彼女を起用したということは、上も本気ということだ。今のところ君のところに影響はないと思うが、庁内が慌しくなることは間違いないな」

 四月二十五日、デルフォイ。
 アポロンの円形神殿跡中央に据えた大きな凹面鏡を囲み、古代風の白い長衣から二の腕を露わにした女性たちが円陣を作っていた。進み出た一人がトーチを掲げ、ゆっくり凹面鏡の中央へ下ろしていく。やがて白煙が、そして淡い炎が立ち上りはじめた。
 マスコミのカメラが見守る中、聖火は予備のカンテラ、そして特注のトーチへと移された。一連の儀式は何の滞りもなく済むかのように思われたが、受け取り手である中国オリンピック組織委員長が演説を始めた途端、それは起こった。
 報道NGO(非政府組織)「国境なき記者団」代表の人物が乱入、委員長の背後に黒い幕を掲げたのだ。幕には白で、五輪の形に並べられた手錠。北京オリンピックの人権問題を糾弾するシンボルマークだった。
 男性は直ちにギリシアの治安当局が拘束、委員長はまるで何事もなかったかのように演説を終了したが、この突発事態の映像はその日のうちに、中国を含めた一部地域を除く全世界の視聴者が目にすることになった。それは困難を極めた北京オリンピックの幕開けの、前兆の一つでしかなかった。

 東京都品川区北品川の寿司屋。
「国家安全保障会議……憶えておいでですか?」
「もちろんです。日本版NSCでしょう?安永内閣時代に立ち上げられたが、福西政権になっておじゃんになったとか」
「世論を気にして正式解散にはなっていませんが、解消は時間の問題でしょう。問題は本事案の参考人に、そのメンバーとしてピックアップされていた人物がいることです」
「ちょっと待て……聞いてないぞ、俺は?」
 藤本が眦を決して割り込んできた。
「まだ極秘事項だからな。捜査本部でも所轄には下ろしていない。無論それでは進められないから間もなく下りる筈だが」
「因果関係は?」
「未確認だ。それ以上に気になるのは、この情報の提供元が内閣府、っていうことだ」
「内部告発?」
「とも言えないな。もう退職している人物でね。と言うより元々民間からの委託参加で、解散に伴ない委託契約を解除したというのが正確なところだが」
「警備会社とか、そういうところの人でしょうか?」
 沖田が話を戻す。
「現在の事業はそうですが、実は傭兵出身でね。湾岸戦争にも外人部隊の資格で参加、その後帰国して軍事雑誌に記事を書いたりしています」
「土井垣大……違いますか?」
「図星です。事情通の貴方なら言い当てるのではないかと思いましたが……機嫌を悪くされましたか?」
「まあ、あまりいい気持ちはしないですね。何だがテストされているようで……」
「感想はご尤もです」
 小田は真顔に戻っていた。
「ずばり、テストだったということですか?」
「まあ、そうです。ついでに申し上げれば、今のお応えで事実上合格と申し上げておきます」
「それはどうも……で、賞品か何か貰えるんですかね?」
 沖田はそう言ったが、あまり有り難くない内容であるのを薄々感じていた。
「その話は、後でまた。話を元に戻しますが、その土井垣大が現在、本事案の最重要参考人となっています。お察しと思いますが、彼を本星として捜査を進めることになるでしょうね」
「今の官邸には、一番目障りな御仁だろうが……総理御大のご意向なのかな?」
「それはどうかねえ。福西総理にはその上にいた先生方のほうが気になったかもしれないな。ただ総理の周囲にいた人々が何を考えているかは、また別の話だからね」
「つまり……罠?」
「事情通に聞けば間違いなくそう答えるだろうな。捜査本部でも当初は、軽々しく飛びつくべきでないという空気だったんだが……」
「だからここ一週間、謎の膠着状態にあった、しかしそれが変わりつつある、そういうことですね?」
「そうです」
「となると、その情報提供というのも、『その線で捜査を進めよ』という事実上の命令なのでは?突っぱねてこれ以上の時間稼ぎは……できますか?」
「まあ、無理でしょうね」
「一巻の終わりじゃありませんか」
「そう。そこで沖田さん、貴方の出番と言うわけです」
 沖田は小田をじっと見返した。いよいよ本題のようだ。
「今、このまま捜査方針を捻じ曲げられれば、真相解明は永遠に無理でしょう。それだけは何とかして避けたい。通常なら許されない手法を用いてでもです」
「何をしろというんですか?彼は新聞社にいますが、私は一介の海事専門雑誌記者です。趣旨はわかりますし協力したい気持ちもありますが……」
 首をかしげる沖田に、小田は微笑を返した。
「もちろん現在のお仕事では無理があるでしょう。しかし前のお仕事で貴方自身が築かれた人脈、信用……そう言ったものを活かしていただけないかと考えたわけです。もちろん法に触れることをお願いするつもりもありません。そんなことをすれば、後々我々も面倒なことになるのでね」
「はあ」
 沖田は曖昧に返した。どうも抽象的で、話が見えてこない。
「前置きが長すぎたようですね。単刀直入に言いましょう。この人物に会って頂きたい」
 小田はそう言って、一枚の写真を卓上に置いた。
「ご存知ですね?」
「アナスタシア・ニコライヴェーナ・メンシコヴァ。語学教師として来日した日系ロシア人だが、正体はGRU……」
「わかりますね?」
「彼女に、この情報を流す、と?それで日本が得るものは?」
「中国とロシアが、実はソ連時代から仲が悪いと言うのはご存知ですね?」
「ええ。まあ日本と周辺諸国に限らず、国境を接した同士が仲良しと言う例のほうが珍しいと思いますが、あの二国の場合はスターリン死後の路線変更の是非もありましたからね。話せば長くなりますが……このあたりはおわかりですか?」
「おおよそは承知しています。まあ、そういう背景もありますから、クレムリンはこういう話には大いに関心がある。と言うのも、話の順番が逆になりましたが我々は、本事案の背後に北京が控えていると考えているからです。理由は最初に貴方が指摘されたとおりですが、理由はそれだけじゃないんです。まだ確認はされていませんが、北京はチェチェンをこの計画に巻き込もうとしている節がある」
「えっ?」
 沖田はさすがに驚いた。
「尤も……実は複数国の当局もこの事実を察知しています。ワシントンとデリーが情報収集に乗り出しています。我々がしようとしているのは、そういった情報の東京ルートでの伝達。そして貴方はそのメッセンジャーとしてリクルートされたというわけです」
「……」
「沖田さんの、身の安全は保証します」
「それは、そうしてもらわなければ困る」
 彼はそう言った。本当は「そんなことを気にしているんじゃない」と言いたかったのだが。「ワシントン」と小田は言ったが、表面上全く兆候の感じられない現時点では、ホワイトハウスにまで上がっていない可能性もある。だとするとCIAか。尤も民族間の感情は別として、そこまで鳴り物入りでリクルートした相手を、民主主義の守護者を自任するワシントンは決して粗略にしない。半ば身の安全は保証されたとも言える。だから単に、そこまで話が大きくなっていることに困惑しているだけだった。
「日時と場所は、我々がセッティングします。先方にも連絡はしてあります。沖田さんには本件を資料にまとめてお預けするので、そのまま彼女に渡していただければいい。よろしいですか?」
「やりましょう……と言っても、どうせ選択肢はないのでしょうが」
「助かります。まあ我々としては別の候補を当たるまでのことですので、選択肢がないということはありません」
 それは多分本当だろう。尤もここまで話を聞いてしまった以上、申し出を断るにしても守秘誓約書にサインさせられ、少なくとも当分監視がつくのは間違いない。同じことなら引き受けてみようと、よほどの物臭者でもなければ思うのが人情と言うものだろう。なかなか巧妙な遣り口だ。
「今日はこれで失礼します。準備が整い次第ここにいる工藤君からご連絡を差し上げますので、電話番号かメールアドレスを教えていただけますか?」

 四月二十六日午前、北京首都空港。
 昨日アテネを発ったオリンピック航空特別機が、定刻どおりに着陸した。乗員・乗客を降ろした後エプロンを離れた機体は、格納庫を横目に見る広い空間の正面にその側面を横たえた。この便で一旦北京に到着した聖火は、二つに分けられ、一つは中国国内をリレー、もう一つはこれまでなかった方法で世界を一周、開会式に合わせ再びこの地に戻ってくる予定だと言う。
 まるで国賓の到着を思わせる、歓迎と警護の人垣の中、組織委員長が恭しく掲げる聖火のトーチがその中央に据えられ、用意された花車に載せられてパレードを始める。その一方で、公安車両に警護されたグレーの四駆車が静かに発車、人目を引くことなくその場を走り去った。行き先を知る者はなかった。

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キングスクロス:出航まで(5)

 イラン・テヘラン。
 大統領官邸の執務室にカフタン姿で現れた彼を、大統領は起立して迎えた。
「尊敬するイマームよ、お元気そうで何よりです」
「大統領こそ」
 用意された席に着き、側近達を全員遠ざけたところでイマームの顔から笑みが消えた。
「久しぶりではあるが、こういう話題でお会いしなければならなかったのは残念です」
「……」
「やはり、事実なのですね?」
「イマームは不承知ですか?残念だ。貴方だけは理解してくださると確信していたのですが」
「理解していますとも。敵の敵同士が手を結ぼうという企てに、我々が何も手を差し伸べない理由はない。しかしそれも相手次第。しかも敵が察知しているとなると話は別です」
「先刻、モスクワの大統領とも話したのですが……」
「何と言っていたのですか?」
「貴方と同意見でした」
「ならば、選択肢は自ずと決まってくるのではないですか?仮にロシアが味方をしてくれるとしても充分危険な賭けであることに違いはないのだから」
「北京と平壌には恨まれるでしょうな」
「平壌はともかく、北京は何も言わないでしょう。こちらに廻ってきた厄札(ババ)を突き返したまでのこと。むしろこれで頭を冷やし、早まった計画を思い直してくれることを望みたいですね。そして北京が納得しさえすれば、平壌は何も言えない」
「……」
「フランコやチトーと同じ事ですよ。敵を敵と呼ばず仲介者として振舞えば、当面にしても直接の攻撃は避けられる。尤も上手くやらないと、チャゥチェスクのように破滅することになるが」
「……」
「私の思いも大統領と同じですよ。いや、全てのイラン国民の思いもそうでしょう。だが、だからこそ微妙な状況下の行動は慎重にすべきではないでしょうか?
 七年前の事件がなければ、或いは我々にも他にまだ選択肢があったかもしれない。だが歴史はそれを許さなかった。これも神の思し召しなのかも知れませんね。当時は我々の時代だと息巻く意見もあったようだが、代償は安かったのか高かったのか……」
「モスクワも、同じことを考えているのでしょうか?」
「だと思いますね。守りは固めながら、行動は慎重に。理があるのなら、歴史は必ず我々に味方するでしょう」

 戸部警察署。
「中川さん、本部警備部からお客様です」
 それを聞いた中川だけでなく、フロアーの全員が仰天した。地理的に近いと言っても、所轄警察署刑事課の捜査員と県警本部、それも枢要部局と言うべき警備部に普段職務上のつながりは一切ない。管轄やその近辺で大きな事案が発生すれば支援要員は出すことになるが、設置された本部で指揮を執るのはあくまで上の人間で、所轄は文字通り兵隊として、時には生命を危険に晒しながらも一切その指示通り動くだけだ。
「誰だ?」
「さあ?若い女性警察官です」
 本部の人間が自分から名乗ることはあり得ない。一昨年ペアを組んだ磯貝警部か、宮崎警部だろうか?首をかしげながら階段を一階へ降りた中川は、受付越しに交通課フロア-を懐かしげに眺めていた女性を認め絶句した。
「斉木か?」
「中川さん!お久しぶりです」
 およそ本庁と所轄をひっくり返したような遣り取りに、取り次いだ女性警察官が絶句していた。
「今日、お時間ありますか?任務上のご相談があるんですが、多分を憚るので……」
「そうか……今日は今のところ大きな事案はないから、早めに上がれると思う。横浜駅周辺でよければ、夜まで待ってくれるか?」

 横浜駅東口から徒歩十分の、国道十六号線交差点に面したファミリーレストラン。
「そうか……」
「同意書、実はもうサインしました。ですから従事するのは決定済みなんです。多分中川さんならやれって言うと思って」
「俺の所為かよ」
 中川は苦笑した。彼女は自分の決意を確かめるため、わざわざ押しかけてきたとわかるからだ。
「工藤さんが指揮を執っているのか?」
「そうみたいです。別の人が出てくる可能性は小さいみたいです。何か、表沙汰にできないので関係者は広げたくないみたいなことを言ってて」
「だったら、俺に話してよかったのか?」
「あ……」
「まあ……俺も二年前の関係者だからな」
「……」
 斉木は無言になった。関係者どころではない、一時は中川自身、二年前の北朝鮮副主席狙撃事件の参考人だった。考えなしに彼の精神的な傷を抉ってしまったことに、彼女はやっと気づいた。
「その話、俺にも来る……筈はないか。しがない所轄刑事だからな」
「わかりません。工藤さんの口からお名前は出ませんでしたが」
「伊東君には話してないのか?」
「ええ、今回は。SITの存在は公然の秘密だし、異動は身分上のことでしたから隠す必要もありませんでした」
 今はまだ話していない。だから悪女の深情けだろうと、別ルートから報せることも控えて欲しい。彼女の額がそう語っていた。
「大きな舞台で拳銃を持ってどうこうということではないようですけど、どういう意味を持つ任務かもまだよくわかりません。工藤さん自身もよくわかっていないみたい。わかっているのは、今回は前回と違い永田町や霞ヶ関の招承知していない任務だと言うことです」
「それでも、やるんだろう?」
「ええ……」
 見返した彼女の相貌。栗色の虹彩の裏に中川は、ふっと悲壮な決意を感知していた。
「ひとことだけ言っておく」
「え?」
「死ぬな。どういう任務かわからないが、命を賭けるに値しないと判断したら、誓約なんて放り出せ」
「判断する余裕がなかったら?」
「そうならないことを祈る。それだけだ」
 中川はそう言って、テーブルの隅に丸めて建てられていた勘定書を引ったくった。
「あ、それは……」
「本部の顔を潰すことになるか?極秘任務って言ったよな。情報収集ならともかく、これで経費は下りないだろう?」
「リクルートと言えば、降りるかもしれません」
「……本気か?」
「冗談です。でも財布を開けて持ち合わせがなかったら、咄嗟に申請するかもしれません」
「……」
「誰にも話してませんが、事件関係者なら皆、中川さんのことは知っています。言い訳が面倒になったら引きずりこませていただきますので、お心の隅には留めておいていただいたほうがよろしいかもしれません」
「鍛えられたのかねえ……とにかく、あの後日本も世界も大きく変わりつつある。誰を信じていいのかわからないほどにな。それだけは覚えておいたほうがいいな。
 支払いだが、やはり俺に持たせてくれ。極秘なら尚更、ここで君が払ってはまずいだろう?経費が下りたら請求を回してくれ。終電がなくならないうちに出よう」

 東京都港区台場のカフェレストラン。
 食事時を過ぎ、人気の少ない平日のテーブルの隅に座り、コーヒーカップを卓上に沖田は藤本の話に聴き入っていた。
「去年の最終予選サウジアラビア戦でのジャッジ騒動、覚えてるか?」
「ああ。ファウルを取った主審にサウジアラビアが抗議したという……でもあのジャッジ自体には問題なかったんでしょう?」
「そう。当初は、副審の中途半端なサインの所為もあってファウルを見逃していた主審が、その後副審の指摘で覆したのが問題とされた。日本でも去年似たようなことがあってクローズアップされたんだが、特に設置されたFIFAの臨時調査委員会が正当なジャッジだったとあらためて裁定、サウジアラビアも最終的にそれを受け容れた」
「だったら……」
「主審が脅迫されていた可能性が出てきた」
「……」
「当時、夫人と次男が滞在先のホテルから拉致されていたんだ。現地警察は営利誘拐の可能性大とし、人質の安全を理由に一切公表しなかった。結果的に拉致の半月後人質は解放されたが、その間にあったのが」
「問題の試合……ですね?」
「当局だけでなく主審自身と家族は事件後も沈黙。そしてサウジアラビアの提訴を受けFIFAに事情聴取されることになった主審は、再度設置された調査委員会の行われるニュルンベルクに発つ予定だった朝、一家無理心中を遂げた」
「……」
「当事者不在で提訴を取り下げたサウジアラビアは、北京オリンピックへの要人派遣を中止した。
 欧米とは違う、中東諸国といえば元首以下政府が先頭に立って文化事業に力を入れているし、大きなイベントとなれば必ずといっていいほど元首や王族が乗り込んでくる。それこそ招かれなくてもな。
 これがどういう意味かわかるか?」
「無理心中ではない……と?」
「サウジアラビアは疑っている、と私は見る。但し確証は掴んでいないと思う。でなければ当初、いや今からでも買収などと言わず脅迫疑惑を言い立てる可能性は大だし、最悪ボイコットも充分あり得る」
「日本にとっても、あまり後味のいいニュースではありませんでしたが……事実なら大変なことじゃないですか。血塗られた……」
 ずばり、出場権獲得とまで相手は言いかね沈黙した。万一これが公の事実にでもなれば、関与があろうとなかろうと出場辞退は免れまいし、JFA会長の首だって飛びかねない。
「ただ、サウジアラビア政府からは本大会への対応決定と同時に、内々にメッセージがあったそうだ。当方でも再検証した結果、ジャッジ自体への不服はない。日本チームが本大会出場に相応しい実力を具えていることは、ピッチ上で対戦した選手達が証言した。あくまでわが国とIOCの問題であり、日本チームには全力を出し、いい成績を出して欲しい、とね」
「大人の対応と言うべきか……」
「本音は違う筈だろう。残念ながら我々日本は、彼らの気持ちを正確に受け止めていなかったようだがね。結果的に得したとは言え、サウジアラビアを泥棒呼ばわりするなどあってはならなかった」
「ほぼ完全に悪者扱いでしたからねえ……日紅との契約打切りも、その影響でしょうか?」
「証拠はないがね。それ以上目立った影響がないのは今も言った大人の対応でもあると同時に、外交的配慮だろう」
 藤本は当時のメディアの馬鹿騒ぎぶりを思い出し、憮然としながら返した。泥棒呼ばわりの急先鋒に立った壱岐琢磨は本大会の広告塔よろしく、あの「オリンピア」に横浜から乗船する予定だそうだ。彼の中国、南北朝鮮寄りの報道姿勢には昔から賛否両論あったが、今回に限っては日本の肩を持つことにもなったため、彼は一躍メディアのヒーローになってしまった。サウジアラビアへの配慮という以外に、競技の公平性に対する一部専門家らの問題提起は黙殺された。
「不気味なのは肝心の誘拐事件が未解決ということだ。犯人像さえ特定できていない。どうやらネオナチが絡んでいたらしいというくらいでね」
「ネオナチ、ですか……」
「そのうちKGBの亡霊とかも出てくるかもな。一昨年の北朝鮮副主席狙撃未遂事件、覚えてるか?あの前後に潜入して検挙された日本紅衛兵に、旧KGBの大物スパイが手を貸していたらしい。ご当人はその後日本から姿を消し、今はバイカル湖の底という噂だがね」
「口を塞がれた、と……」
「噂だが、事実ならそうだろうね。ありそうな話だ」
 沖田は無言だった。永年冷戦の陰に隠れ、恰も国際謀略とは無縁のように時を経てきた祖国。それ自体幻想だったのかも知れないが、これからはそういう幻想さえ抱くことを許されなくなるのかもしれない……

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2008年8月20日 (水)

キングスクロス:出航まで(4)

 同港区赤坂・Oホテル地下のバー。
 小田は、北朝鮮による新たな核拡散計画という事実に驚きつつ、相手の男の供述に耳を傾けつづけた。
「と言っても、最新兵器ということではないらしい。作ったものの使う機会がなく有効期限が切れかけているものを譲渡する、ということのようです」
「中古品ということですね」
 小田はおどけて見せたが、頬の筋肉はこわばっていた。
「処理済の核の始末、か……日本商社を引き込んできたということは第三国に送るということだと思いますが、具体的な国名はご承知ですか?」
「ベネズエラと、聞いています」
「やはり……以前、ニュースでアメリカが警戒していると言っていましたが、それが現実になろうとしていると言うことですね?」
「そうです。当初は中国か東南アジアからオセアニア経由の予定だったが、直前に変更されたと聞いています」
「シドニーの爆発物騒動でしょうか?」
「詳しくは知りませんが、多分そうだと思います」
「実は我々を含め、複数国の当局もその事実を把握しています。騒動の首謀者の正体から陽動ではとの考え方もありますが、どう思われますか?」
「それはないと思います」
「利益に反するからですね?」
「そうです。しかし……無関係でもないのではと、思うんです」
「……よくわかりませんが、どういうことでしょう?」
「『マレーの虎』があのタイミングでテロを実行する理由がなかったからです。ニューギニアでの紛争がようやく収拾に向かい始めた矢先ですよ。事実『マレーの虎』本部は関与を否定しています。ニューギニア政府はまだ納得していないようですが、それをオーストラリア政府が言わば宥めている。無実だと言う相応の確証があるとは、お思いになりませんか?」
 小田は苦笑した。
「驚きましたね、外務省は全くつかんでいない情報ばかりだ」
「役所には無理でしょう。特に日本の外務省ではね。海外渡航時の安全情報はさすがにきちっと収拾するようになってきましたが、何をするのにどこを突付くとか、いざと言うときに必要な情報は現地で収集するのが一番です。特に、建前がものを言う欧米以外ではね」
 小田は言葉がなかった。日本の危機管理感覚欠如は外務省に限らない。警察批判とも受け取れる言葉だったが、全くもって反論しようがない。
「それと、予定ルート変更にはもう一つ、理由があると思われます」
「具体的に伺いましょう」
「ヴェトナムが動いています」
「ヴェトナムが!しかしあそこも、中国と同じ社会主義……」
 相手は何故か苦笑した。
「そこです。日本人はどうも疎いようですが、ヴェトナムと中国は昔から仲が悪くてね。双方言い分はある訳ですが、国境を接した同士の宿命でしょう。日本だって、国境線やEEZで周辺国と問題が生じているし、ロシア・中国・北も昔から度々紛争は起きていた。近代以降の歴史だけが理由なら、これほどあちこちで、それも長期化すると思いますか?」
「……」
「捜査は難航しているようですが、彼の周囲に居た者は皆、事件そのものが意図的だと思っていますよ。二の舞になるのが怖いから、今は皆口をつぐんでいますがね」
「それをヴェトナムが嗅ぎつけた、と?」
「痴漢事件の後、保釈になった彼にヴェトナムの代理人が接触してきたんです。早い時期から勘付いていたのかもしれませんね。そしてその後、次々と……この事件の背後で中国とヴェトナムが綱引きをしていると考えると、辻褄が合うんじゃないかと思ったわけです」
「証拠……はないか」
「申し訳ないですが、その通りです。自分も二の舞を恐れて今まで黙っていた一人でして」
「わかりました。日をあらためてお話を聞くことがあるかもしれませんが、以降この件は、自分が預からせて下さい。薄々お察しと思いますが、あなた自身はもう関わらないほうがいいでしょう。今日は、ありがとうございました」
 工藤が公用車で自宅へ送っていく。一人残った小田は黙ったまま考え込んだ。またも北朝鮮と中国、そして今度はベネズエラまで絡んできた。この事件はどこまで広がっていくのか。小田だけでなく工藤も見当はついていないようだ。一番事情に通じているとすれば、今まで目の前に座っていた男かもしれない。
 新聞は今日も北京オリンピック準備関連の記事だ。大会を近くに控え、革新系だけでなく大手紙全てが大きく紙面を割いて記事を載せている。まるで平壌だと評する同僚の言葉などどこ吹く風だが、その背後に吹く不吉な風を感じて、小田はぶるっと身震いした。

 四月二十三日午前、北京・胡同(フートン)と呼ばれる一角。
 清王朝の高官が建てた邸宅に、彼は滞在していた。伝説の京劇俳優・梅蘭芳を始め多くの内外財界人・知識人がこの界隈に住まい、邸宅の中には本格的に改装、高級ホテルやレストランとして営業しているものもある。
 馴染みの通商部第一副部長から連絡があったのは昨夜。多忙の筈の第一副部長から連絡があったことが、まず彼の注意を惹いた。いつもどおり軽い朝食を済ませると大使館へ行く。飛び交う情報量ではニューヨークにも引けを取らないが、情報統制度では東京と比較にならない北京だ。自室のパソコンで海外と連絡を取ろうものなら、公安に筒抜けなのは目に見えていた。
 大使館付近は、国賓でも滞在しているような厳戒態勢だった。過年の対日暴動(中国は「暴動」とは決して認めていないが)の記憶が否応なく蘇るが、聞くところではオリンピック開幕を前に、どの在外公館も似たり寄ったりだという。滞在する外国人にとって最後の避難場所たり在外公館にここまで大袈裟な警備をするくらいなら、いっそ大阪に譲っておけばよかったのではとさえ思う。その際の対外イメージ悪化に配慮、事あるごとに過剰反応するのは今や北京の公安当局。尤も海外メディアはそれとて一時的なもので、最大のイベントであるオリンピックさえ閉幕してしまえば、また「愛国無罪」の名のもとに事実上の無法状態再開では、との醒めた見方さえある。帰趨は未来が証明するであろうが、そういう情報さえここでは、検閲にかからない独自のルートでのみ知ることができるものだった。
 応接室に通された彼が五分と待つより早く、副部長が一人の男を従え入ってきた。見覚えはないから、この通商部の人間ではあるまい。大体、眼光からして違う。中国に限らず、見下した態度の一方でどこか隙のある経済官僚と違い、全身これ神経という雰囲気を発散している。公安か軍の関係者ではないかと、彼は素早く判断した。
「珍しいですね。そちらからご連絡を頂くのは」
「そうかも知れませんね……まず、これをご覧下さい」
「これは……日本の新聞記事ではありませんか?」
「その通り。東京の大使館が取り寄せたものの、コピーです」
「都内の女子高生連続暴行殺人事件……そう言えば、概要はこちらでも聞いていますが……」
「そうですか。実は……残念なことに、我が国から渡航・滞在中の人間が関与しているという情報をキャッチしましてね」
 キャッチも何も、最初から把握していたのだろう。東京でも捜査本部から照会を受けた外務省経由で、中国人の犯行の可能性が大、との情報を得ている。どうせ頬かむりを決め込まれるだろうとも思っていたが、今までこちらからも糺していないのは本省の指示があったからに他ならない。それを、先方からリークしてきた。政治的決断か、はたまた事件そのものに何か展開があったのか。
「それは、残念なことですね……しかし、それは本来警察が扱う仕事と思いますが、直接無関係の私にお話があると言うのは……」
「そう……理由は二つあります。一つには政治的理由から表沙汰にしたくないということ。これは我々だけでなく、東京にも事情があると聞いています。もう一つは、あながちあなたにも無関係ではない、ということです」
「それは、事件が起こった企業の、事業内容に関係するということですか?」
「今ははっきり申し上げられないが、そういうことです」
 彼は理解した。指導部内部で上海派と共青派の権力闘争が後者の勝利と言う形で一段落したものの、内外の政情不安を機に再燃しているという話は内外情報筋では公然の秘密だった。だが東京の事件がその延長線上にあるとなると、そしてそれを正規外のルートでリークしてきたとなると、正規ルートに何らかの問題があるということだ。「東京にある事情」というのもその点を指すのだろう。だとしたら、想像したくはないが、これはかなり由々しき事態のようだ。
「判りました。至急、東京に伝達して善処を要請しましょう。大使館には、知らせないほうがよろしいでしょうか?」
「申し訳ないが、そのように願えると助かります。事は中日友好の為……後々周知のこととなっても、その点は誰もが納得してくれるものと思いますよ」
 副部長はそう言って笑いかけた。顔の下半分だけで。

 神奈川県警察本部・海老名訓練場。
 警備課長室で、斉木は絶句していた。課長執務机の横には、あの工藤が起立していた。
「自分が、でありますか?」
 斉木の反問に、工藤は機嫌を損ねるでもなく微笑した。
「そうだ……不満か?」
「逆です。任にありません」
「そうだな。本来外国情報活動への対処は外事か、内閣府、防衛省の職掌だ。だが今の総理になって以降官邸の防諜機能は事実上麻痺しているし、防衛省も最近の不祥事続きで本格的に取り組める状態じゃない……わかるだろう?」
「ではこれは、正式な行動指示ではないのですか?」
「行動計画は長官指示で警備局が作成しているから形式上は問題ない。ただ発動時に通常得なければならない官邸のゴーサインは出ていないということだ。したがって現時点で、従事を命令することはできないし、嫌なら拒否できる」
「しかし、選択肢はないのでしょう」
「何故、そう思うんだ?」
「ここまで工藤さんはお話されました。拒否すれば確かに表向き代役を捜すとして、知ってしまった自分がただで済むとは思えません。そして、警察官服務規程を適用できない以上……ということです」
「鋭い指摘だな。だが選択肢があろうとなかろうと君は絶対にこの任務を引き受けると、たった今確信した」
「たった今?それは、何故?」
「『もうその気になっている』。口許が緩んでいるぞ」
 課長に指摘され、美奈子は慌てて口を真一文字に結んだ。
「二年前の事件もつながっている可能性から君に白羽の矢を立てたが、説明したとおり厳しい条件での任務になる。いや、最悪の場合は任務としてさえ見なされずじまいになる可能性もある。君には、それを納得の上でサインして欲しい」
「……任務の一つに、イラン情報員との接触があると仰いましたね?」
「ああ」
「それを、外事や内閣府ではなく警察、それも自分のような門外漢を充てるのは何故でしょう?」
「北京の目を欺くため……テヘランのほうからそう要請があったと聞いている。同盟国といえども彼等は絶対他国の情報機関を信用しない。何処の国、例えばアメリカとイギリスの間でもそれは同じだ。そう思っていないのは世界でもただ一箇所、霞ヶ関だけだろうな」
「はあ」
「だからこちらも一見、それとわからない要員を使うことを考えたわけだ。場所も、比較的若者が集まるところがいい。昼間の繁華街、コンサート会場……」
「それとサッカー場。そうですね?」
 斉木も微笑した。これはもう、逃げられない。
「自分に白羽の矢が立ったのも、それが目当てだと?」
「だとしたら?」
「公私混同になります」
「言った筈だ。最後まで表に出せない任務だと」
 工藤は真顔に戻っていた。
「……」
「これは日本だけの問題じゃない。少なくとも中国、そして北朝鮮が関与している世界規模のテロ計画だ。二年前が最後と君は思ったかも知れないが、情勢の変化でそれがまた少し先になったということだ。誰かがやらなければいけない……私のいうこと、わかるな?」
「わかりました」

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2008年8月17日 (日)

キングスクロス:出航まで(3)

 東京都千代田区、警察庁。
 小田は、警備局の自席にいた。局長ならぬ審議官の立場上、他の局員(と言っても実働部隊である各課とは別だが)と机を並べる大部屋生活だが、彼が苦にするような問題はそんなことにはない。二年前の大きな事案解決の手腕を認められ、警務局からの出向というそれまでの中途半端な肩書を解消、「晴れて」警備局の枢要に占めた席の座り心地が、しかし悪くなるのに時間はかからなかった。井出やその取り巻きが排除された経緯をよく承知している部屋の住人たちは最初こそ神妙にしていたが、一年もするとまた古参顔をし出し、拝命直後ダメモトで小田が出した局改革案も先日正式に「棚上げ」が決まったところだった。ほぼ時を同じくして、安永前総理が立ち上げた「日本版NSC構想」も頓挫。日本は、全てが起こる前の戦後レジーム体制に再び立ち返ろうとしていた。体制の最大の論拠であった冷戦構造が崩壊して二十年近く経とうとしているにもかかわらず。
 復帰を果たした工藤が取り組んでいた狙撃事件の真相解明も、その後の核問題や中台問題の陰で先日規模縮小、事実上幕引きが図られているのは、直接指揮を執っていない小田にも見え見えだった。工藤は経過を全く報告してこないが、相変わらずの学閥主義なのか、引き受けた以上弱みを見せたくないという意地なのか、はたまたその両方なのか。自ら犯した過ち故とは言え、針の筵に座っている今や工藤も同じだが、トップという名にせよ有権者と称するにせよ、判断を下す者がそれを誤れば組織がどうなっていくのか、ひしひしと思い知らされる思いの小田だった。二年前から時代の流れは、ますます加速度を増しているようだが、果たして今から取り返しはつくのか。否、それを見届ける機会すら残されているのかどうか。政権交代と予定調和を連日連呼する永田町とメディアにその展望を感じ取れず、暗澹とせざるを得ない小田だった。
 気を取り直し、眼前に広げた書類に再び意識を集中する。昨日、田村が非公式に廻してきた連続殺人事件の経過報告だ。当初は何の接点もなかった被害者にようやく浮上した共通点。だがその延長上に、昨今言われているあの問題に加え、事もあろうに警察自身が関わっている可能性を報告書は示していた。
 数年前から条例レベルで成立しつつある動きが、近く全国レベルのものになろうとしているが、場合によってはこの事案が、その行方を大きく左右することになるかもしれない。全国数万の警察官といえども職場を一歩出れば、検挙する側からされる側にならないとも限らないこの動きには、建前はともかく内心拒否反応が聞こえてくる警察内部で、これをどう処理するのか。現時点でボールを投げられたわけでない小田だったが、これが間もなく現実になるとは、ましてそれが日本と言わずアジア、否世界情勢を覆しかねない鉄槌にもなり得るとは思いもよらなかった。

 同日、東京駅丸の内北口。
 沖田勇は、大正時代完成の由緒ある駅ビルのコンコースを過ぎ、昔懐かしい不等辺多角形の交差点を渡っていた。政治記者として時代を領導していた、否、していると思い込んでいた頃は通い慣れた通勤路であり、内外政局の荒波への出国ゲートでもあった地点だ。
 オファーを受けた時は驚いた。沖田には無縁の話と思っていたからだ。
 関心はあった。数年前就航の地中海クルーズ船を上回る、世界最大の豪華客船による世界一周クルーズ。その終点が北京オリンピック寸前の中国となれば、思惑はさておき世界中で飛びつかないメディアはいないが、政治記者を追われ、ミリタリー専門誌契約ライターとして軍艦を追っていた沖田にとっては、同じ海洋ネタながら横目で見ているまま終わるものと思っていた。実際、同じ出版社の旅行専門誌は半年も前から特集を組み、アメリカに取材陣が先回りして取材中だという。
 詳しい説明を聴くため、丸ノ内に向かう。JR東日本の本社跡地に出来た、巨大なホテル・商業複合施設上階のカフェ。相手は大手町にビルを持つ新聞社系列の、某タブロイド紙編集長。退社前の沖田が下で働いていた政治部編集長の同期で、面識もあった。
「それは知っているよ」
「じゃあ?」
「……ゴシップさ。招待された各界著名人のフォローだ。まさか週刊誌記者を送り込むわけにもいかないので、然るべき肩書きで代わりに……というわけだ。アメリカから乗り込んだ取材陣も実はそれが目的だが、表立っては動けない」
「わかりましたが……俺でいいんですか?中国の船ですからね。当然俺の素性は事前にチェック・徹底マークしてきますよ」
「それでいいんだ。むしろ少々派手に動いてもらったほうがいい。尤も度を過ごされて、取材陣がやりにくくなると困るが」
「……囮ですか」
「そう言われると、身も蓋もないが」
 沖田の言葉に編集長は苦笑した。
「本来の取材は先行の取材陣がする。君はセレブ連中の、どちらかと言うとスキャンダルに絞ってもらう。もちろん『有識者』の先生方も含め、大いにやってもらって構わない」
「……政治ネタ解禁、と思っていいということですね?」
「採用・不採用までは保証しないが、とにかく取材費は全て経費で出す。恐らく、死ぬまで体験できない大名旅行になる筈だ。大いにタダで楽しんできたまえ」
「……」
 概要はわかったようで、結局のところは何もわかっていない。編集長は自分に、何を探らせようというのか?一線を外された政治記者くずれを引っ張り出すからには、相応の裏があるということなのか?それを企図したのは編集長自身なのか、それとも背後に何者かが控えているのか?後者だとして、その正体は?次から次へと疑問が湧いてくる……

 ルーアン。
 百年戦争末期、イギリス軍に捕らえられたあのジャンヌ・ダルクが火刑になった地として有名だが、第二次世界大戦時は空爆で被害を受けている。ジャンヌダルクを聖女に列したのは、彼女のお陰で王位を確実にしたフランス王シャルル七世だが、その後ローマの教皇庁もこれを追認。一方、敗戦後勃発した内乱、所謂「ばら戦争」を経て絶対王政に移行したイングランドでは、ヘンリー八世がイギリス国教会を創立、ローマ・カトリック教会と袂を分かつ。そしてそれぞれ政権の安定を目指し、絶対主義と呼ばれる近世王政の基礎を築いていくことになる。
 松崎光司はいつも通り、離れた教会の鐘で目を覚ました。独身寮の壁には、ここで初の公式戦で袖を通したユニフォーム。ジャンヌ・ダルクをあしらったエンブレムに、背番号二十二。これがこの土地での、彼が息をしている証だ。
 顔を洗ってもなお眠気の取れない顔のまま食堂へ行き、盛り沢山の朝食を摂る。プロ生活に入ってからは日本でもきっちりとした食生活を自らに課していたが、フランスのそれはボリュームからして違うことから、慣れるまでに苦労した。出身地では鐘の代わりにアザ―ンが目覚まし代わりだったというチームメイトの誰かは、それに増して信教上の理由からタブーが多くて難渋したと言っていた。そういう事情がないだけでも、自分は恵まれているのかも知れない。
 デミダスを終えると、一旦自室に戻って練習着に着替える。自家用車を持っていない者はクラブのマイクロバスで練習場まで送ってもらわなければならないので、出発に遅れるわけには行かない。遅刻すれば丸刈りと罰金が待っている。
 居住棟入口の脇にある郵便受けに、一通の国際郵便が入っていた。国内便やクラブ内部の連絡文書受けも兼ねているが、日本からの郵便は、こちらに来て間もなく実家から一度あったきりだ。何気なく手にとって裏返した松崎の足が止まった。

 東京都千代田区、警察庁喫煙室。
――おかしなことになってきた。
「また犠牲者が出たそうだな」
――そうなんだが……今度は今までと違うんだ。弁護側が依頼した証人でね、被告人が痴漢じゃなかったと証言することになっていたらしいんだ。だからそういう人物を狙うとなると、得をするのは……
「被告側……じゃないな」
――そうだ。捜査本部の空気も変わっている。やはり被告側の意趣返しという構図は崩れる可能性があるな。
「裁判の背景自体、白紙から考え直す必要があるんじゃないか?」
――そうなりそうだ。弁護側が公判の中断と再捜査をまた申し出ている。判事は検察に近い立場を取っているが、双方の証人が出廷できないため事実上はもう中断状態なんだ。
「空転、か……」
――法廷外でメディアが関係者を追い回しはじめていて、我々警察がその処理に追われている状態さ。公判続行どころじゃないよ。
「そうか……」
 迷惑防止条例制定以降、所謂痴漢冤罪事件は後を絶たないが、近年はそれが傷害などの凶悪事案化しつつある。もしこれも冤罪なら、迷惑防止条例に起因する最初の殺人ということになる。
 条例の全国法化が国会上程との報道も流れていたが、本事案の推移次第ではそれもどうなるやら。人類はこの数千年、結局のところ進化しているのかいないのか。答えは容易に出ないようだが……それにしても警察庁のキャリアが、あくまで所轄レベルである本事案に、何故こうも関心を示すのか。最初に接触を図ってきた時からの疑念が頭をよぎる。私大出身ながら同期の中では随一の切れ者だった小田のことだ、何か思い当たることがあるのだろうとしか凡人の田村には思いつかない。問い質せば或いは明かすかも知れないが、何故かそれは憚られた。小田が言外に察知していると思われる悪い予感を、田村自身も共有しているからだとは認めたくないところだが……。

 同港区赤坂・Oホテル地下のバー。
 小田の正面に、いかにも気が弱そうなスーツ姿の男性。二人を左右に見る位置に、工藤が座っている。店内一番奥のボックス席で、工藤が手配したのか他に客の姿はない。その工藤が口火を切った。
「まず、私から説明させてください……結論から言います。小田さんはおやめになったほうがいいと思います」
「理由は……また政治的配慮か?」
「有体に申し上げれば、そうです」
「私が納得すると思うか?」
「自分もそう伝えました」
 小田は黙った。工藤の顔に笑みはない。一昨年の任務では始終浮かべていた、人を馬鹿にしたような笑みが、だ。
「……つまり、ポイントは国外にあると言うことか?」
「そう思われたから、私にお話しになったのではありませんか?」
 やっと戻った工藤らしい言い草に、小田も緊張を解いて笑みを浮かべ、正面の男を見据えた。
「お話を伺いましょう。直接の契機がチタン取引ということはわかりました。ずばり伺います。あなたが仰る、裏の交換条件とは一体何なのですか?」
「核です」
「……ええっ?」
 小田はさすがに驚いた。工藤がそわそわしているわけだ。
「しかし、どこの?御社は原子力事業には関与されていませんよね?日本国内にある核施設ということでないとすると?」
「北朝鮮です」
 小田はしばし言葉を失った。また平壌か。

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2008年8月14日 (木)

キングスクロス:出航まで(2)

 ボストン市南西部ブルックライン。
 イギリス植民時代の中心地であり、今も古都の面影を残すこの都市は、大学を擁する学園都市でもある。中でもここは豪邸が並び、ビバリーヒルズのような落ち着いたたたずまいを見せていた。
 黄沢究はここで、サッカー・グラウンド並みの敷地とシークレット・サービスがチームを組んで警護するシークレット・サービスの付いた館に住んでいた。
 もとは某IT企業家の生家として一頃有名になったが、その人物がスパイ容疑で破滅したあとホワイトハウスの所有となり、今は彼のような「要人」の長期滞在に使われていると言う。
 李相美が入ってきた。「監視役」である彼女ら共々、黄がここに住まいを定めて二年近くになる。その後半島や日本で相次いだ政変も含め、自分が渡米するきっかけになった或る事件、いや陰謀が発端だったのだが、関係各国当局はそれを把握していながらひたすら沈黙を守っていた。
「おはようございます、閣下」
「だから、『閣下』はやめなさいと……もう一介の市民なんだよ、私は。ご主人は、もう出かけたのかね?」
「はい。今日はワシントンのほうに所用があるとのことでした」
「そうか。半島が、またきな臭くなってきているようだね?」
「ベネズエラへの、使用期限切れ核弾頭売却の件でしょうか?」
「そう……以前も一度、確かにそういう話はあったが、アメリカの横槍で頓挫している。それきりになるものと『思っていたが、まだ諦めていなかったんだねえ」
「ソウルも、その点は意外だと言っていました。ただ今回は、平壌よりカラカスのほうが熱心だと聞いています。それだけ、政情が緊迫しているようですね」
「なるほど……」
 東アジアからは太平洋で遠く隔たったこの新大陸にも、他国を含めた諸機関から最新の情勢は入ってくる。オリンピック開会まで半年を切った北京を始め、しかし北東アジアで情勢が鎮まる気配はない。それは来るべき破局への、前兆にしか思えてならなかった。
「平壌での聖火リレーは大成功だったようですね」
「平壌だけは、と言いたいんだろう?」
「いえ、そんなことは……」
「ソウルでは脱北者関連で暴動になったと聞いている。長野でも……本来ならないに越したことはない場面なのだろうが、経緯を知っている人間から見ると不自然なのはどちらかと、やはり考えてしまうのも事実だねえ」
「は……」
「チベットやヒマラヤにも入る予定と聞いているが、どうなんだろうね」
「治安状況次第でしょう。と言うよりは、どこまで押さえ込めるのか」
「押さえ込んでまでやるべきか否か……まあ、太平洋の反対側から何を言っても聞く耳は持つまいが。ワシントンは結局、看過するつもりらしいねえ」
「聖火リレー実施自体は、北京はさて措くとしてもIOCの専管事項ですから。大統領が開会式出席を再考するとか言い出せば状況も変わるでしょうが……」
「ミドルトンが非難してるって?」
 黄は笑った。
「おかしなことだね。自分だったら喜んで出席するのだろうが。自由の国ということかもしれないが、人気取りなのがこれほどあからさまな大統領候補もいまい。下馬評通り次期大統領になるようだと、アメリカも、いや世界はどうなるやら?」
「有権者の良識を信じたいところですね」
「良識、か……」
 中間選挙での敗北以降、一期目では強気だった現大統領の政策姿勢に翳りが出ている。北朝鮮問題での譲歩、それに起因する日本や韓国の不信感。尤も独り不安を感じているのは日本だけのようで、韓国では左派、つまり親北政権下でむしろ歓迎している空気があるが、有識者が危惧している点では他国と変わらなかった。
 中間選挙の結果はつまるところ国内経済政策の行き詰まりが原因だが、事実上世界のパワーバランスを握る大国の政情を左右するだけに、他地域への影響も免れない。今更アメリカの有権者にそれを説いても詮方なきことだが、せめてこれ以上事態が悪化しないよう、彼らには祈るしかできないのだろうか。
「さて……今夜は久しぶりに外出だな。大尉もたまには、ドレスアップして来たらどうだね?郷に居れば郷に従え、だよ」
 黄色はそう言って、しかめっ面の大尉に笑いかけた。

 同夜、カラカス・大統領官邸。
「いい知らせではないようだな?」
「リベラルはご機嫌斜めだったそうです。あまり目立った動きは今後控えて欲しい、との伝言でした」
「今までも、充分秘密裏に動いているつもりだが?」
「CIAが勘付いているそうです。関係をつかまれるようなことでもあれば致命傷だとも言っていました。事が成る前に表沙汰にでもなれば、あちらは掌を返して口を拭うでしょうね」
 執務室のあるじは鼻で笑った。
「寝取られ女房の忠誠心なぞ最初から期待しておらん。それより心配なのはCIAだな。どこまで気づいているのやら……」
「平壌にはたどり着いていないようですが、香港に手が伸びているようです。ミャンマーの件に気づいたのはハノイですが、そこからの情報提供かもしれません。かつて干戈を交えた相手とは言え、アメリカとは関係構築を目指す一方で平壌やハバナとは距離を置いていますから」
「スターリニズムは崩壊したからな。マオイズムに期待をかけるしかないが……日本の新首相は同志の一人と君は先日説明したが、期待していいのか?前首相と同じ政党の出身だろう?」
「そうですが、彼は周辺諸国、特に中国や朝鮮半島との協調を優先しようという政治信条の持ち主でして。むしろ二十世紀後半以来、それが日本外交の主流でした。今度の政変は、一時的な転換が元の状態に戻ったものだとお考え下さい」
「日本対策は心配しなくていいんだな?」
「計画の主要舞台ですし、監視は続行しますが、喫緊の問題発生は見込まれないと申し上げられると思います」
「よろしい。では当面、ワシントンと欧州対策に集中すればいい訳だな……アジアはどうなんだ?インドやヴェトナムが蠢動しているとなると、北京だけに任せておいていいのかどうか……」
「それは大丈夫でしょう。いざとなれば物量作戦を使えますから。北京にとっては、アメリカと仲の悪い我々があまり出ない、今の形のほうがやりやすいでしょうし」
「あちらは表立っては計画に関与せず、のスタンスだからな。信用していいのかどうか……」
「前国家主席のグループに任せきりの点でしょうか?」
「そうだ。現主席と不仲だったというのが気になる。何かあった時に蜥蜴の尻尾切りに走られたら、我々は困ったことになるからな」
「大使館に釘を刺しておきましょう。現指導部がどの程度の距離を持って計画に関与する胆なのか、再確認する必要があります」
「任せるが、もし問題ありとなればどうする?例えばロシアにも……」
「モスクワはあまりお奨めできません。あっさり社会主義の看板を下ろして我々を見捨てましたし、今は欧州での防衛構想問題でギクシャクしている今、中米のパワーバランスに干渉することは好まないかも知れません。今年になってハト派の新大統領になっていますし」
「しかし、前大統領が首相として依然実権を握っているんだろう?いざとなればカードになる筈だ。直接でも北京経由でもいいが、話は通しておくべきじゃないかな?」
「機密保持からどの程度まで話を広げていいものやら、判断に迷うところではありますが……北京と相談してみましょう。その結果で判断を仰ぐということで、よろしいでしょうか?」
「それでいい。話を進めてくれ」
 秘書官が退室した後、カディスは窓外を見遣った。いざ計画を実行するとなると、どこもかしこも及び腰だ。一枚岩でないのは、自由主義陣営だけではなかったのか。発動してしまった以上完遂するしかない計画だが、最終段階にたどり着くまでに、難問が待ち構えているようだ……

 上海。
 彼は浦東の工事現場にいた。先日、世界で五指に入る超高層ビルが竣工したばかりだ。建設元は日本の不動産会社。東京の六本木にも、超高層オフィスビルを核とした複合施設を所有し、ここではその発展型を目指すと言う。名称は「上海秀仕」。日本風に言えば「上海ヒルズ」となるらしい。メインタワー「上海環球金融中心」の高さは四九二メートル、一〇一階建て。
 現時点ではオリンピック開幕間近の北京に何かと注目度を攫われている上海だが、それが終われば再来年の万国博覧会へ一気にメディア攻勢をかける予定だ。先年の反日デモ(当局は未だに「暴動」とは認めていない)は別として、去年初めの証券危機や北京との対立など不安要素はあるが、何と言っても前国家主席のお膝元。東京はもちろん北京をも凌駕してアジアの中心に躍り出ようという気概だけは街中に満ち溢れていた。
 例のものは全て、指令にあった場所と分量どおりに仕掛け終えたところだ。これを使うことになるのか、そうならに済むのか……相変わらず真意を明かさない命令者同様、自分自身どちらを望んでいるのか判らないでいる。ともあれ任務は果たした。後は別の要員が待機、必要に応じて最終計画を発動するだけだ。そう思って彼は、着慣れてきた作業チョッキとヘルメットを脱ぎ捨て、その場を立ち去った。

 フランス・ルーアン市郊外。
 百年戦争末期、イギリス軍に捕らえられたあのジャンヌ・ダルクが火刑になった地として有名だが、第二次世界大戦時は空爆で被害を受けている。ジャンヌダルクを聖女に列したのは、彼女のお陰で王位を確実にしたフランス王シャルル七世だが、その後ローマの教皇庁もこれを追認。一方、敗戦後勃発した内乱、所謂「ばら戦争」を経て絶対王政に移行したイングランドでは、ヘンリー八世がイギリス国教会を創立、ローマ・カトリック教会と袂を分かつ。そしてそれぞれ政権の安定を目指し、絶対主義と呼ばれる近世王政の基礎を築いていくことになる。
 道祖尊治は、クラブハウスのオフィスで目を通していた書類から目を上げ、窓外を見遣った。
 休養日のグラウンド。いつもであれば汗を流す選手や、彼ら目当てのサポーターの声で活気が絶えないエリアも、今日は数名のグラウンドキーパーが芝のメンテナンスに精を出しているだけだ。
 苦しい予算の中から、今年度やっと練習場グラウンドに天然芝を設けることができ、キーパーも複数人に増員。尤も、練習に使わないときは地元大小チーム・団体への貸グラウンドにすることが条件で下りた予算だし、キーパーもメインスタジアムと兼任だ。
 前監督人事問題と相前後して、日本を離れてもう二年近くなる。過年にクラブを襲った降格の危機に際して不遜な言葉を放った当時のJリーグチェアマン、そして今また不用意な「失言」でクラブのフロント人事を混乱させると同時に協会トップとしての責任を有耶無耶にしようとした会長。彼とだけは、二度と仕事をするまいと、前々から密かに考えていたことだった。監督と周囲との軋轢が生じないかだけが心配だったが、既に決定したルーアンGM就任を誰より祝福してくれた、監督の意思を尊重する形で、一からの再出発だった。
 だがその一年後、前監督下で連覇を果たしていたアジアカップで敗退、そして就任一年余りを経て監督は脳梗塞で離脱。日本人監督を迎え最終予選進出を決めているが、その先を含めチームの展望は不透明となっていた。
 それ以上に、オリンピック開催を控え開催国・中国をはじめアジアの数ヶ国で、時ならぬきな臭いニュースが目立って流れてくる。自分があのまま残っていたら、監督をサポートしていればこういう事態推移は防げたのか?答えは恐らく出まい。永遠に。

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2008年8月13日 (水)

キングスクロス:出航まで(1)

 二月二十一日、警視庁世田谷警察署・捜査本部。
「被害者の女子高生ですが、やはり痴漢詐欺の常習者でした。聞き込みをしたところ、言いがかりをつけられて金銭を払った男性が複数いたことが判明しました。ただ今回の場合彼女たち自身がピックアップしたのではなく、第三者からターゲットとして提供されたのだそうです」
「その第三者が、上司……?」
「ではないようです。或る女性から、恨みがあるので、ということで頼まれたそうです。六本木のクラブ『なよたけ』の中国人ホステスでした」
「今はどこだ?」
「失踪。調べたところ、被告人自殺の直後帰国していました。石油買付の件では、資金調達に香港系ファンドが関わっていたそうですが、その線でしょう」
「連続暴行殺人は、やはり被告人側の報復ではないようだな……しかし、被告人側に危険は?」
「それはないと思います。報復というシナリオが崩れてしまいますから。但し、捜査方針の変更、ないしその公表がなければという前提ですが」
「下手に手を入れると危険、というわけか……となると中国人ホステスが鍵を握っていることになるが、帰国したとなると所在確認と事情聴取は難しいのかな?」
「中国側に捜査協力、いや被疑者の引渡しを要請するべきところですが、応じるやら?ただでさえ条約がないところに……」
「言いたいことはわかるが、これは犯罪捜査だ。応じないと言うならこちらも相応の対応をしなければならん。永田町にも根回ししておく必要があるだろうから、羽生先生に相談しないとな」
「官邸はどうしますか?長官だったら、つんぼ桟敷はいかんと仰ると思いますが」
「犯罪捜査の段階で政治が介入してくる理由はない。そのための羽生先生でもある……わかったら、早急にコンタクトを取ってくれ」

 二月二十五日、ルーマニア北部ブラショフ南東・チュカシュ山麓修道院。
 ニコラエ・ブチェジは鐘楼の下で時刻を待っていた。外はまだ真っ暗だが、あと五分もすれば彼が鳴らす暁鐘で全修道院が目覚め、一年中ほぼ変わらない「勤行」の一日が始まるのだ。
 二十年近く前ここにたどり着くまでに同志の三割を失い、残る二割はその後、さまざまな「用事」で内外に送り出したきり戻ってこない。「用事」をおろそかにする不心得者は一人もいないことはニコラエが知っているから、戻ってこなかったと言うことはそういうことなのだろう。
「チャウチェスクの子供達」という前歴は誰にも語っていないが、曰くありげな素性は住民達も薄々気づいているようで、毎週の礼拝後の懺悔室もしばしば埃が溜まっている。「修道士達」にとっても、それはむしろ都合いい状態だったが。
 一九八九年のソ連崩壊を待たず、ルーマニアの国家体制は行き詰まっていた。敬愛する父・チャウチェスクもいつしか圧政者のレッテルを貼られていたが、それも元はと言えばオイルショックを契機にした財政破綻が根本的な原因だ。国民生活の保障さえ維持できていれば「個人崇拝」「言論弾圧」と言った外圧があろうと政権を維持できることは、カザフスタンやベネズエラが証明している。
 さきの大戦中は祖国ルーマニア以上にナチスの迫害を受けたユダヤ人に同情はするが、戦後キリスト教の聖地であるイェルサレムに国を建てるとは。しかも「ナチスとは違う」とでも言いたげに、アメリカやイギリスは彼らに金と兵器を与え、やはり聖地を侵されたイスラム教徒を排除しにかかった。その結果が三次の中東戦争であり、二次の湾岸戦争。その結果、アメリカと対立するイランは国力を弱め、アフガニスタンとイラクは政権が崩壊。後ろ盾となっていたソ連以下社会主義陣営の後退も一因だったが、その結果アメリカの向こうを張って物を言える勢力は、今や地球上にない。割を食ったのは資源を持たない、ルーマニアのような小国だった。
 去年「ある物」を預かって以降、彼の頭脳には冴えが戻りつつあった。この数日後にはこの「引き取り手」が現れ、全てに決着をつける試みが再び動き出す。我が父を血で葬っただけでは飽き足らず、今なお口を極めて罵り続ける「歴史」は、葬り去ろうとしていた者の手によって、今ひとたび血の色で塗り込められることだろう。その結果何万、何十万、否最悪億単位の命が奪われることへの罪悪感は、数十年の荒んだ「勤行」生活で麻痺していた。

 有楽町の海鮮居酒屋「東雲」。
「じゃあ、そのメタル取引推進が背景にあったと?」
「そうだ。事実、被告人の解雇を待っていたように契約は成立、取引も始まっている。ただそれが、今回の事件とどうつながるのかわからなくてね」
「そこに、捜査中止命令まで出るような何かがあったと?」
「そもそも、痴漢詐欺を謀ってまでプロジェクトを推進しなければいけない何かが、だ。確かに当時UAE石油採掘契約打切りで逼迫していたとは言え、私企業、それも日紅のような大手企業がこういう危ない橋を渡ることは普通考えられないからね」
「天の声……?」
「それも、多分絶対公にできない性質のものじゃないだろうか。例えば、昨今の情勢を背景に西側と軍需契約を結ぶとか。法的に問題がないとしても世論というものもあるし、それ以上に他国に知られたくなければそういう選択肢を採るということは大いにあり得る。
 最初は迷惑禁止法絡みと思っていたが、こうなると何が出てくるのか。それを出したくなかったということなんだろうが、とにかく俺のほうではジ・エンドだ」
「わかった……工藤に話してみよう」
「工藤……一昨年の事件の後は外事に復帰したんだったな。まだあそこにいるのか?」
「神奈川から、今年警視庁に移った。警察庁に戻れないのは札付きというのもあるが、あれ以降警察全体がバタバタしていてタイミングが計れないというのもあるらしい」
「ふうん」
「警備本部ではどうも反りが合わなかったが、いざとなると使える男だ。名誉挽回の機会にもなる。彼がこれを活かせれば、真に警察にとって必要な人材という証明になる」
「なるほど……」
「まあそちらと直接どうこうという予定は取り敢えずないが、それだけ含んでおいてくれ。今日は時間がないので、先に失礼するよ」

 三月二十四日、ワシントン。
「出馬を辞退しろ……彼女に譲れということか?」
「……」
「彼女で、勝てるのか?俺の支持者がそっくり彼女につくとは限らないぞ」
「君次第だ」
「俺が断ればどうする?」
「……」
「俺は白人じゃない。おたくの党が百年前やっていたことをほじくり返せば、彼女の黒人票は間違いなく吹き飛ぶ」
「タダで、とは言っていない」
「何が言いたい?」
「補佐官ではどうだ?それで不満なら、国務長官でもいい。幸い前例ならテキサスが作ってくれている」
「しかし大統領にはなれない……そういうことだな?」
「考え過ぎだ。我々は同志だ、今でも」
「……わかったよ。降りればいいんだろう?初の女性合衆国大統領、おめでとうございます。だがそこに果たして俺の居場所は……」
「私を信じて欲しい」
「信じていたさ。今の今まではね」
「……」
「……考える時間は貰えるんだろうね?いつまでだ?」
「来月末、正式に党大会で候補を一人に絞る、その席で、君が然るべくスピーチをしてくれればいい。原稿は……」
「あんたが書いたらどうだ?」
「君の言葉で……」
「ヒトラー万歳と言うかもしれないぞ?」
「……」
「とにかく帰ってくれ。返事は頭を冷やしてからにしたい。あんたにも、そのほうが賢明だと思うがね」

 三月二十六日、ブタペスト。
 ドナウ川東岸のペスト地区中央、革命広場に面したカフェ。一九五六年秋のハンガリー動乱では、進駐してきたソ連軍がここでデモ隊に発砲、その後の流血の口火を切った。
「一つ確認したいことがある」
「質問はなし。ルールは……」
「ドヴロブニク寄港が中止になったそうだな?」
「……」
「ばれたんじゃないのか?」
「政情不安……」
「そんな公式発表は知っている。プリシュティナの爆弾テロ予告だろう?ついでに言えば、それも収拾に向かいつつあるのもな」
「……」
「あんだたって薄々疑っている筈だ。どちらにせよ、あそこまで持って行っても船は来ないし、待っているのは罠の可能性が大だ」
「……だと、したら?」
「謎賭けか?……そうだな、俺ならまず持込み地点を変える。長距離は無理だが、何とか大西洋に出る前には済ませたい。最悪ロンドンだな」
「いや、ルーアンでやる」
「何だ、考えてあるのか。しかし、なら何でここ……」
 彼はそこで足許の荷物に視線を落とし……苦笑した。
「そうか、裏の裏、か?」
「そう。これが罠なら、まあ相手も見越しては来るだろう。ここからは確率と、現場での腕次第と言うことだ」
「見込まれた、と思っておこう。確かに、考えている手はある。中止になったのは一箇所だけか?」
「合計三個所だ。澳門、サイゴン、そして今回のドヴロブニク。これ以上増えない可能性は排除できないが」
「そうか。あまり変えないとなると、ピレウス、ローマ、マルタ……」
「そこは駄目だ。ピレウスは、薄々気づいたギリシア当局がぴりぴりしているし、ローマとマルタは、ヴァティカンの連絡係に足がつくので避けてくれと言っている」
「それを言い出したら、どこの港も同じじゃないか。まあいい、しかしそうなると……残るのは四個所だけだな?」
「結論から言おう。そのうち三番目、と言うのが上の決断だ」
「自殺行為だ」
 彼は思わず吹き出した。
「そう。わけのわからない旅行者が持ち込めるものじゃない。だからノーチェックで持ち込める運び屋を用意してある。お前には近くへこれを運び、その運び屋への受け渡しまでをしてもらう」
「誰なんだ?ノーチェックでこれを持ち込めるような大物ってのは?」
「有名人とだけ言っておく。直接渡すわけじゃないから、お前が名前を知る必要はない。まあ、興味があるなら新聞にでも注意しているといい」
「わかった。ニュースを楽しみにしているよ」

 同日、ワシントンDC・民主党へレン・ミドルトン上院議員のオフィス。
 ヘレンは全てを聞き終えてから言った。
「つまり……彼は承諾したのね?」
「はい」
「なら問題はないわね」
「さしあたっては。ただ、重点は彼の支持者を、出来れはそっくり頂くこと。それがなくとも何とかなるけど、無用な賭けを冒すことはないわ」
「成算は?」
「五分五分です」
「ノーと同じじゃないの」
 彼女は苛立たしげに室内を歩き回った。
「本当に国務長官のポストをやるつもり?私は嫌よ、黒人……」
「お言葉を返すようですが、今後公の場でそういう発言は絶対にお控え下さい。オマハの黒人票をごっそり取り損ねるだけでなく、人種差別主義者と見られれば共和党のカードになります。リンカーンが人種問題で政権をとったことをお忘れなく」
「わかったわ……で、現実問題、どうなの?私は正直、マッド(オークランド元長官)に頼みたかったんだけど」
「オマハには、補佐官という選択肢も提示しています。対立候補に国務長官のポストでは、彼本人だけでなく世論にも買収人事と取られかねませんし、むしろこのほうが現実的でしょう」
「任せます……カラカスはどう?あまりチョロチョロしないように言ってくれたの?CIAが怪しみだしてるわよ。私に火の粉がかかるようだったら、協約の話は白紙にすることも考えないと」
「釘は刺しておきましたが、もう一度念押ししておきましょう。乗り気であられなかったことをあらためてはっきりと。彼も少しは、自分の立場を自覚するでしょう」

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2008年8月 9日 (土)

キングスクロス:プロローグ(19)

 十二月五日、ルーマニア北部ブラショフ南東・チュカシュ山麓修道院。
 ブカレストの東二十五キロにあり、夏を除けば頂に雪を頂くこの山は標高一九五四メートル。ドナウに流れ込む支流、ベザウ川の水源でもある。
 東方正教会では発祥以来、このような厳しい条件の土地で、多くの修道士が信仰生活を営んできた。異教徒や盗賊から身を守るのと、世俗から身を隔離して修行や瞑想に専念するためだ。九世紀に創建、その景観などから世界遺産にも指定されているギリシア・メテオラ修道院群はその有名な例だが、メテオラがセルビアやトルコを意識したのに対し、ここではロシアが仮想敵国だった。それでも共に東方教会を奉じていた帝政時代はまだよかったが、二十世紀になりロシア革命が起こると事情は複雑化した。
 それまで拮抗勢力だったトルコ帝国崩壊後、スターリンの攻勢を警戒したブカレストの王政はナチス・ドイツに急接近。これに、ソ連への警戒感を共有していた西欧の対ナチス宥和外交が拍車をかける。そして第二次世界大戦後、一転敗戦国となったルーマニアはスターリンを頂点とする共産主義勢力の餌食となった。
 教会を始め宗教と名のつく物は弾圧の対象となり、修道院は破壊、聖職者は追放か還俗、鐘や宝物などは国の財産として没収された。こうした方針転換に馴染めない一部の宗教勢力は、発覚時の弾圧を覚悟でさらに僻地へ逃れ、民衆の密かな支援下、細々と信仰を受け継いでいた。それも一九八九年の革命で復権した後は、次々とブカレストを始めとする都市や集落に戻り、新生ルーマニアの精神的支柱として国民の信仰を集めていた。
 だがここの修道院は、それら多くのものとは逆の在り方を示していた。共産政権下で荒廃、革命以降復興したのは同じだが、新たに棲みついた修道者は皆、暗い目をしていた。ブカレストを中心とした歴史の動きからはむしろ身を庇うように、周囲の村人を相手に細々と聖務を執行する他は、ひたすらひっそりと耕すだけの生活を送っていた。彼らが実は共産政権崩壊で失職した軍人、それも大統領警護隊メンバーとの噂は、早いうちから村人の間に広まっていたが、これ以上の無用な流血を忌避する村人の平和志向から、彼らの前歴が暴き立てられることはなかった。
 早暁、ブカレスト方面から一台のトラックが現れ、出かけていた修道士が荷台から一つの荷物を持って降り立つと、聖職者らしからず同行者を食事で労うでもなく、踵を返したトラックが再び村の出口へ向かうより早く、出迎えた数名の修道士共々そそくさと修道院の中へ消えた。
 居住歴なら彼らより勝る住民は、一週間前に届いた郵便以来そわそわした、彼らの異変に気づいていた。どう見ても、近づきつつあるクリスマスの準備とは思えなかった。

 パリ・フランス内務省。
「イアサントの正体がわかったぞ。それも、被害者のごく近くにいたんだ」
「やはり、チーム関係者か?」
「どころじゃない。広報担当者に照会したら仰天していたよ……社長だよ。経営者」
「……ええっ!」
「イアサント・フーケ。親会社の石油商社『ペトロ二ア・ガリア』の重役でもある。親会社に移った前社長の後任なんだが、クラブの実質的な経営権はオーナーに移行した前社長が今も握っている。この新社長の息のかかった人間が、選手の独身寮にいた。と言っても、選手その人じゃないが」
「チームスタッフ、か?」
「ロジェ・ボダン。寮長の息子で、自身もプロを目指していたが果たせず、クラブ事務所に勤めながら寮の庶務を手伝っている」
「確かに、情報収集にはうってつけだな」
「事件当時を中心に調べたところ、オリンピック最終予選の終了以降から、不規則な深夜外出が増えていたらしい。選手と違い門限があるわけではないので、特に問題視されてはいなかったが、今まで出不精だったのが急なことで、怪しむ人間もいてね」
「事件時のアリバイは?」
「やはり外出中。本人の供述では、市内のディスコに居たらしい。顔馴染みの従業員が確かに同時刻来店していたと供述しているから、シロということになる。尤も店の人間が偽証していなければの話だが」
「偽証の可能性もあり、と?」
「あそこは市内でも札付きの店でね、少年課や麻薬課もマークしている老舗さ。こっちの問いに『いいえ、来てません』と言ったら、それは『はい、来てました』と言うことだ。中国人と同じだよ」
「アリバイはなし、ということだな」
「わかっているのはそこまでだ。間違いなく事件に関わっていたと思われるが、犯行現場に行っていたとも思えない。移動手段がないからね。たからルーアンを離れてはいないが、それでいて何かしていた……」
「犯行の補助行為?」
「多分。それが何か見当がつけば、この事件はぐっと解決に近づくような気がするんだが」

 ブカレスト。
「ロマ人……何ですか、それは?」
「ずばり、ルーマニア在住のジプシーです。他国在住者と同じく中世以来、民族・宗教上の違いから差別を受けてきています。そして第二次世界大戦前後は、ナチスに屈した右派政権下で……」
「ジェノサイド、ですか?」
「隠しても仕方ないが、その通りです。戦後は超民族主義を掲げる共産政権下、表向き復権を果たしましたが、差別が一掃されたかと言えば、ノーです」
「わかりました……ずばり、お尋ねします。この品物は、そのロマ人が計画に関与していた可能性を示唆しているようですが、あなたは捜査担当者としてこれをお信じになりますか?」
「それは、罪を彼らに着せるための工作では、と言うことでしょうか?」
「そうです」
「結論から申し上げます……答えは、ノーです」
「根拠を、お伺いしてよろしいですか?」
「何の得にもならないからです。彼らはジプシーだと私は言いましたが、それがどういうものかお判りになりますか?
 戦後イスラエルを建国する前の、ユダヤ人と同じです。それもユダヤの場合は、いつかイスラエルに帰るという意識があったからまだいい。
 ロマ人を含むジプシーは、本当に帰るべき約束の地を持たない民族なんですよ。どこかに移住すれば、永住を前提にその土地へ同化しようとする。だからここルーマニアでは(ルーマニア)正教徒が大半ですが、中近東ならイスラム教徒、南ドイツやフランスならカトリックが多い。好む好まざるに関わらず、移住先の習慣をなべて受け容れ、周囲と少しでも軋轢を生まない、これが彼らの処世術です」
「なるほど……そういう立場のロマ人が、お尋ね者の『チャウチェスクの子供達』を匿う筈はない、と?」
「絶対はないのがこの仕事の鉄則ですが、考えられない、というのが私の勘です」
「となると、この品物は明らかに偽装工作と言うことになりますね?」
「極言するならこの内容からして……犯人は外国人の可能性もあると思います」
「何故ですか?」
「今ご説明した、ロマの実情を知らなかったと思えるからです。計画にルーマニア人が関与しているとしても、この工作とは別人のような気がしますね。偽装と聞いて真っ先に浮かんだのは旧大統領警護隊ですが、よくよく考えると彼らだったらこんな稚拙な工作はしないと思います。私の知人が元メンバーでしたが、彼に聞いても答えは同じかもしれませんよ」

「オーストラリアの爆破騒ぎとミャンマーの元首暗殺が一本に繋がっている?まさか……」
「同一犯、ということではないようです。しかし、双方に関わりのある人物が一人、浮上しました」
「どこの人間だ?国籍は?」
「アメリカです」
「アメリカ、か……ミャンマーに限ればあり得ない話じゃないが、オーストラリアは現時点で大事な同盟国の筈だろう?間違いないのか?」
「私は国籍しかお答えしていませんが?」
「……移民か?」
「ロバート・ファン。詳細は不明ですが、目撃情報では東洋人との感触を得ています」
「確かに、苗字を聞くと東洋系移民だが……ラングレーは勘づいているのか?」
「勘づいているも何も、これはラングレーからの情報なんです。アメリカ国籍ということで尚更、あちらも迅速に対応しているようですね」

 東京・警察庁警備局。
 小田は、目を通していた書類から視線を上げ、窓外を見遣った。
 思えば丁度一年前、神奈川県下で起こったあの狙撃事件から情勢は大きく回り始めたように思える。同年一月には日本人拉致問題で、横田めぐみ他主な拉致被害者情報を提供。二月下旬には両国サッカーA代表親善試合の開催発表。そして平壌からの申し入れで金正一総書記の訪日と同試合観戦が決定(五月中旬)。実現すればもちろん北朝鮮建国後初、日朝関係は一気に進展するだったが、実際に東京国際空港(羽田)に降り立ったのは総書記の妹婿で政府のナンバー二だった黄沢究(ファンテクグ)国家副主席。そして当日、競技場で黄副首席を襲った凶弾。幸い副首席以下訪日団に被害はなかったが、副首席はアメリカへ亡命。北朝鮮は反対勢力の仕業と発表、日本はじめ関係国当局は表面上これを追認したが、事件の中核に平壌の意思が働いていたとは、内外情報筋の容易に推測するところだった。その後日朝だけでなくアメリカでも流血を伴なう事後処理の後、総仕上げと言うべき制裁全面実施を終え、任期を終えた小宮山雄一郎の後を襲ったのは、前任者以上に反朝的な安永重蔵官房長官。これまでの日本外交の無策のツケを一気に取り返す好機になる……筈だった。
 就任数ヶ月を経て年が変わると、雲行きは怪しくなってきた。相次ぐ閣僚の失言・スキャンダル、同時に急浮上した年金未納問題。真相を暴いてみれば、社会保険庁職員の構造的な着服だったのだが、自治労と組んだ野党はこれを政府、とりわけ安永内閣批判へ転嫁。閣僚自殺まで招いた挙句、マスコミに有権者が踊らされた結果として参議院選挙で大敗した安永内閣は、就任一年を待たず九月に退陣した。後を襲ったのは、官房長官として敏腕を振るいながらも人望がなく、さきの総裁選挙ではいち早く候補を降りた福西民夫。内外の予想を覆し、党の勢力バランスと野党の迷走に助けられて、史上最低の支持率を更新しつつ、任期半年を経過しようとしていた。
 小宮山内閣時代に立ち上げられた六ヶ国協議でも日本人拉致事件はおろか、本来の目的たる北朝鮮の非核化も一向に進まず、安永内閣が発足させた国家安全保障会議(日本版NSC)も事実上解体。難問山積のままオリンピック気分を盛り上げようとしている当局やメディアの影に、全てが崩れ去る予兆を感じながら小田は退庁の準備を始めた。

 ロンドン、キングスクロス駅。
 スコットランドのアバディーンまで延びる東海岸線の始発駅である。日本でいえば東京か上野、イタリアで言えばローマ・テルミニと言ったところか。英国鉄道百年の歴史を代表する名列車「フライング・スコッツマン」の始発駅でもあった。ダイヤ改訂で列車はなくなったが、これまでの栄光を懐かしむように同じ区間を走るインターシティー(特急列車)の車体側面に列車名が金字で記してある。国鉄ではないが至近の地下鉄駅では先年、アメリカやスペインを思わせる同時多発テロが発生、少なからぬ犠牲者も出ていた。
 十六時、ヨーク発のインターシティーが到着。実は十四時半到着予定が一時間半遅れで、四年後に次期オリンピック開催を控えたイギリスは何とか改善を考えていたがままならず、逆にイギリスらしさのアピールポイントとしようという冗談まで出る始末だった。尤も、「珍しく定刻に着いたと思ったら、実は二十四時間遅れだった」という笑い話まであった一昔前からくらべると、これでもだいぶ改善されたほうだ。
 三十分後、ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)に属する構内派出所の警官が、トイレに出動。鏡の前で変死している男性が発見されたからだった。所持品中には同日、ヒースロー発アテネ行きの航空券と、ギリシア政府の公用パスポート。その名義を大使館に照会した警察は騒然となり、アテネ経由で親族に連絡が取られた。

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2008年8月 8日 (金)

キングスクロス:プロローグ(18)

 パリ・フランス共和国内務省。
「わかった!リゴーだ!」
「どうしたんだ、急に?」
「ノルマンディー事件のキーマンだよ。イアサント・リゴーって知ってるか?」
「そう言えば、聞いたことがあるようなないような……」
「ルイ十四世お抱えの宮廷画家さ。フランスの宮廷画家と言うとマリー・アントワネットに仕えたヴィジェ・ルブランやナポレオン時代のダヴィットの方が断然有名だが、リゴーも後世に残る代表的な王の肖像を書いていて、その様式は革命まで正式な宮廷美術の様式のもとになった。だから近世フランス美術通の間で、彼の名を知らない人間はいない」
「そうすると、関係者は美術関係者……」
「少なくとも、このキーワードを考え出した人間はな。だとすれば本人ではないとしても、その周辺にいる可能性があるってことだ」
「ルーアン在住の美術通……範囲がせばまったような、そうでないような」
「まだあるさ……チーム関係者。それもロッカールームに入れたということは、単なるサポーターじゃない。選手、スタッフ、競技場関係者……」
「まさか……」
「信じたくないのはわかるが、今は動くのが先決だ。それで何も出てこなければ、それに越したことはないじゃないか」
「そうだな……わかった。ルーアンの捜査本部に連絡しておくよ。関係者にその苗字か、ファーストネームに人間がいないかどうか」

 未明、スヴァヴァ(ルーマニア、モルドヴァ国境近く)。
 古代ローマ時代、先住民のダキア人がトラヤヌス帝に征服され、混血などでラテン化した結果、現在に至るルーマニア人が生まれる。その後ハンガリーを後ろ盾とするワラキア、それに対抗するモルドヴァの二公国が支配し、オスマントルコ、ロシアなどの対外勢力に悩まされながら近代を迎える。
 十八世紀にトルコが、そしてそれに替わったロシアが十九世紀後半のクリミア戦争で勢力を後退させると、両列強の干渉をようやく脱したルーマニアは、一九七七年、初めて単一の王国となる。第一次世帯大戦では連合国側についたため勝者となり、トランシルヴァニアを併合。しかし一九三〇年代に世界恐慌による社会不安からドイツと結んで独裁色を強め、枢軸国に立って参戦した第二次世界大戦を機に、国家ルーマニアの歴史は再び混迷の中に入っていった。
 敗戦後ソ連の支配下で、一九五二年社会主義政権が誕生。さらに一九六五年、当時四七歳のチャウチェスクが政権を握ると、オイルショックによる対外債務の影響もあって国内経済が悪化すると同時に、先住ルーマニア人だけでなくハンガリー系住民に対して、秘密警察による恐怖政治が横行していった。
 そして一九八九年、ハンガリー人牧師追放命令への抗議運動が全国を巻き込んだ革命へとつながり、共産党独裁政権は崩壊。チャウチェスクは夫人とともに処刑。その裁判と処刑場面は全世界に流され、社会・共産主義の破綻を歴史に刻み込む一シーンとなった。
 国境警備隊が巡邏する合間を縫って、数名の男が重そうなケースを抱え越境、ルーマニア領へ入った。全く誰何されることもなく国境沿いの街道に達すると、エンジンをかけたままのバンが一台、しかしライトを消して路肩に停まっていた。男達は素早く後部の荷台にケースを積み込むと、二列に並んだ座席に乗り込んで走り去った。

 十二月一日、ブカレスト
「では、このルーマニアに入国していたのは間違いなんだな?」
「税関で確認が取れました。入国時に提示したパスポートの名義はヨハン・クルーゼ。自動読取機のチェックは通ったそうなのですが、事後に通報を受けてドイツに照会したところ、外務省に発行履歴はないと回答してきました」
「つまり、精巧な偽造パスポートを用意できるような組織、ということだな。そのネオナチそのものは関与していないんだな?」
「と、彼らは言っています。これはドイツの調査を待ったほうがいいでしょう。続けますがこの若者はブカレスト市内に数泊後、北部のワラキア方面に向かったと思われます」
「ドラキュラの居城や世界遺産の修道院がある方面だな。何でもなければ学生の観光と言いたい所だが……同行者は?」
「ブカレストを出る際、同じぐらいの女性と一緒だったという証言があります。身許は不明。まあ多分ルーマニア人と思いますが」
「どこを捜せばいいんだ?極右、極左団体を監視させているが、連動した動きはないぞ?」
「それより古い組織かも知れません」
「大統領警護隊……?」
「具体的な確証はありません。しかし今回、特にネオナチを取り込もうという動きがあることが気になるんです」
「喜ぶ御仁は世界中にわんさかといるだろうな。中国、西アジア、それにチェチェンを騙しかけた輩も繋がっているかも知れない。モスクワとグローズヌイの双方から連絡が来たときは仰天したが。そういう連中と結びつきやすいとなれば……それにしても一体、二十年近くどこに隠れているのだろう?残りは、二十余名だったな?」
「革命後一年の時点で身許不明だったものは六十五名でした。うち三十名は身柄を拘束ないしは殺害、九名は国外で所在が確認、そしてそのうち六名はその後死亡」
「拘束されていないものは九名、か。何事かを為すのに充分な人数なのか……」
「何を為すつもりか、にもよるでしょう。敢えて言えば、何事かを為すつもりなのかどうかも未確認……但し背後に何者かがいるとすれば、人数はあまり問題でないとも言えます」
「では……」
「例のネオナチがもたらした、『ブロッケン』というキーワードが気になります。大統領警護隊残党の関与有無はともかく、密入国した若者の目的がこのキーワードから割り出せるような気がするのです」
「わかった。現場には今後、そのキーワードに着目して捜査を進めるよう指示しよう。あとはドイツの調査結果待ちだが、ロシアやチェチェンとも情報交換を徹底する必要があるな。今日はご苦労だった」

 パリ警視庁。
「例の、ノルマンディー連続放火事件だがな」
「ええ?」
「気になる情報がある。例のオリンピック最終予選代表を外されたサウジ選手、三人目の犠牲者だが、彼の事件が起こったのはマツが爆弾発言でやはり代表を外された後だ。そして彼は最終予選で何が起こったか、多分チームメイトでもある犠牲者から聞いていた筈だ。我々門外漢が知っている以上に詳しくな」
「ではこの事件は、マツへの脅迫……?」
「そう考えると辻褄が合わないだろうか?彼自身が犠牲になっていないのは、下手に有名人になってしまったので手が出せないに過ぎない、と」
「つまり、彼がテレビカメラで口走ったことが、その分信憑性を増した、と?」
「内務省が動くという情報を耳にした。ことによると、大陸の端まで飛ぶことになるかも知れんな」

 ブカレスト・旧王宮跡。
 ドラキュラが十五世紀に築いた砦に始まるこの遺跡は、建設者の知名度から観光客の出入りも少なくないが、男の死体は、そういう観光客も通らぬ半地下の小部屋の一つの、そのまた中央に穿たれた涸れ井戸の底に転がされていた。定期的にメンテナンスをする市の職員がいなければ、永遠に発見されることはなかったかもしれない。
 死後一週間。眉間に一発、致命傷と思われる銃創の他にはこれといって外傷なし。明らかに殺人だ。手足や着衣に数箇所切り傷があったが生活反応はなく、ここへ投げ込んだ際に出来たものと思われた。警察はマフィア同士の抗争をまず疑ったが、暴力団捜査データに該当者はなく、公安など他部門のデータへ検索範囲を拡大。二日後になってヒットした被害者の身許を特定した捜査本部は仰天、内務省が捜査に乗り出すこととなった。

「事実なのですか?」
「嘘は申し上げない。そのつもりで、私はここを選んだ」
「なるほど……」
「国民の館」。共産党政権健在なりし頃、永年支配者であった当時のチャウチェスク大統領が命じて建設させた宮殿だ。公会堂という名目だったが、事実上彼自身のための官邸とする予定だったとも言われている。推測された用途以上に有名になったのはその規模で、完成すれば共産主義の総本山、モスクワのクレムリン大宮殿もを凌駕すると言われていた。しかし完成を待たず一九八九年ソ連は滅亡、チャウチェス自身も年末勃発した革命で失脚、家族共々処刑。民主国家として再出発したルーマニア政府は宮殿を名実とも国有公会堂に制定、国際会議やコンサートに使用していた。

 十二月二日、ブラショフ。
 ルーマニア南部のワラキア地方と北部のトランシルヴァニア地方は、トランシルヴァニアと呼ばれる、万年雪を頂く山地で隔てられているが、その東端近い山間にあるこの都市は、十二世紀にドイツ人が建設、以降ハンガリー人、ルーマニア人の手も入っている。南西の城塞、ブラン城は一三七七年、ドイツ商人がオスマントルコに対する町の守りとして築き、ドラキュラの名で有名なワラキア公ヴラド・ツェペシの居城にもなっている。
 ヴラドは、その行き過ぎとも言える強硬な外交内政から後に吸血鬼伝説まで生んだが、それでもルーマニア国民には、今でも救国の英雄だった。国民にとって真の吸血鬼はチャウチェスクとその政権以外の何者でもない。
 ブカレストから到着した急行列車から、独りの男が降り立った。全身に修道士の黒衣を纏っているが、他者を一切寄せ付けない暗い眼窩は、光に反応しないかのように表情を失っていた。
 修道士であれば滞在の便宜を図ってもらえる筈の僧院の扉は叩かず、町外れの小さなホステルに荷を解くと、誰かに会いに行くでもなく、そこに住まいを構えたかのように日夜客室に籠ったまま、宿のあるじや他の客が気味悪がり出した一週間後、みすぼらしいトラックがホステルの入口正面に乗りつけた。それを待っていたかのように男はチェックアウトを済ませ、来た時と同じ頭陀袋一つを背負い、新雪で化粧を始めたチェカシュ山塊方面を目指し走り去った。

 十二月四日、東京。
「フランス内務省から連絡です。日本のサッカー代表で、一枚使えるカードがあると言っています」
「カード?何のことだ?」
「それは説明がありませんでしたが……フランスからは過去A代表監督を招いていますし、その後渡仏している選手やジャーナリストも増えています。その線じゃないでしょうか?コンタクトはあくまであちらが取ることにしたいようで、詳しくは教えてもらえないでしょうが」
「我々にカードは渡したくないんだろうね……まあいい、当分それは任せようじゃないか。日本に有効なカードがあること自体意外だったが、まずはフランスのお手並み拝見といこう」

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キングスクロス:プロローグ(17)

 モスクワ
 ウラル山脈に源を発するネヴァ河が湾曲して流れるほとりに、果てしなく続くと見紛う煉瓦色の城壁が聳えている。四百年前にイヴァン雷帝が建造、以降ロシア・ソ連の興亡を見守ってきた、クレムリンの防壁である。十八世紀のピョートル大帝によるサンクト・ペテルスブルグ遷都以降の二世紀はその華やかさにやや翳りがあったが、二十世紀初頭、そして同世紀末の革命で全世界の注目を浴びるなど、よくも悪くもロシアの歴史を物語る都市であり、その象徴だった。
 トロイツカヤ塔の真下に穿たれた、決して大きいとは言えない城門を、黒塗りのベンツが一台、猛スピードで進入していった。有事でなくても、ロシアの公用車は緊急車両顔負けで飛ばすのが、ソ連時代からの習慣だ。テロリストからの襲撃をかわすのと、車のスピードで有事発生を周囲に悟られないのが目的である。尤も今回は、シェレメチェヴォ空港から高速道路を飛ばしてきた駐インド・ロシア大使、ニキータ・パーヴェロヴィッチ・ロストフの用件が、何にも増して最優先という事情がある。本来この特権は少数の政府要人だけのもので、今やソ連時代と比べ圧倒的な発言力を増した上下議員と雖もその権利を有しているものはごく一握りであり、この都市がワシントンと伍して世界の半分を支配していた時代の薫りを未だにとどめていた。
 ウラジミール・ストロガノフ大統領は、政治局会議の間からは五つほど隔て、中庭に面した部屋で執務していた。もとは政治局会議の間と隠し扉を隔てたすぐ隣が執務室だったのだが、ソ連最後の指導者の「グラスノスチ」のお蔭で要らぬ情報まで全世界に流出してしまい、崩壊前後のKGB(現FSB)は要人警護マニュアルをほぼ全面的に書き換える羽目になったものだ。
「急に呼び出してすまない。早速だが、例の計画に我々のスリーパーが関与しているというのは、間違いないのか?」
 大統領は、早速本題に入った。KGB出身とあって、要らぬ前置きは全部省略してしまう性格だ。
「残念ながら、デリーで入手した限りの情報では、無関係と断じるには危険です」
「父親を処置してジ・エンドと思っていたが、息子のことをカウントしていなかった……まずは彼の身辺フォローを怠った現地要員のミスだが、そこに注意が行き届かなかった私自身の落ち度でもある」
「は……」
 ロストフは返答に詰まった。眼前の国家指導者が普段自らのミスを殊勝に認めることなどないことはよく知っている。何か底意があるに決まっている。
「その、父親のほうは一昨年、日本国内で問題があって処置対象となったとか?」
「そうか、詳しくは知らなかったか……ピョートルとは会ったかね?」
「ペトジェーエフ(FSB)長官ですか?いいえ、空港から直行でしたので、まだです」
「至急、直接意見交換して欲しい。今日一時帰国してもらうことは彼も知っているので、君さえよければ今から私がアレンジしよう。父親の件についてもきちんと説明してもらうが、実は会って欲しい人物がいるんだ」
「私は構いません」
「そうか、助かる。ご苦労だがそれが済んだら、その足でデリーに舞い戻ってもらわなければならない。ロシア人らしからず寒がりの君には、むしろ朗報だろうが」
「朗報かどうかは、祖国にとってどうであるか次第でしょう……今回の案件が急を要するのは重々承知しています。ご心配には及びません」
「よろしい」
 ストロガノフは満足げに頷き、内線電話を取る。カーキ色の制服姿の旧友が姿を現したのは、その……何と十分後だった。FSB本部の所在地を考えると、公用車で飛ばして来たのでは間に合いっこない。ロストフの帰朝に合わせクレムリン入りしていたのは明らかだった。
「二キータ!お久しぶりです。少し痩せられましたか?」
 旧友はそう言い、満面の笑みで両手を差し出す。それに屈託のない笑顔を返すぐらいの度量、いや要領はロストフも心得ていた。
「急に騒がしくなってね。こちらも同様のようだが、それについて私が、お役に立てることがあるとか?」
「そうなのです。何からお話しすればよろしいでしょうか?」
「そうだね……まず、一年余り前、日本で起きた北朝鮮副主席狙撃事件について教えてもらえないかな。確か金総書記の義弟だったね。その後アメリカに亡命、我々も仰天したものだが」
「それです。実は丁度同時期に日本の左翼過激派が舞い戻っていたのですが、当初公表されていなかった狙撃計画が彼らに流れた。そのルート上に、我々のスリーパーがいたのです。今はバイカル湖の底ですが、その息子が直後失踪。行方を追った結果、その後チェチェンに潜入していたことがわかりました」
「チェチェン、か……モスクワにとって朗報なのかどうか、判断しかねるところですね」
 チェチェン。まだ国軍の一大佐だった頃のストロガノフが関与し、始めたチェチェン紛争は、その後国連の介入もあって沈静化しているが、実は激化する内外情勢を静観しているだけのことで、今後の推移次第では再び火を噴かないとも限らない。長官はともかく、本部の少なからぬ要員が支部の「支援」または「監督」を名目に常時現地に張り付いている状態は、紛争勃発から十余年を経た今でも変わっていない。内外では離脱しようとした要員が謎の死を遂げるなど疑惑の目まで向けられているが、名目上の一線引退を控えつつ今後も国政への影響力を持続したいストロガノフの立場としては、だからと言って今ここで引くわけには行かなかった。
「あそこに、また砲弾を打ち込むと?」
 ロストフは、運ばれてきた熱いお茶を啜ってから訊いた。非難するでもなく、そうなるならそれも致し方ないという口調なのが我ながら腹立たしくなった。
「ひょっとしたら、そうなるかもしれないが、できれば避けたい……それをするのは得策でないと考えている。ワシントンは今、これまでになく我々の立場に理解的だ。尤も、彼ら自身の事情も理由の一つだし、こちらの決断で必要以上に彼らを困らせることは、我々の利益とも合致しない」
「では……」
「ずばり、監視は続ける。この動きがワシントンの利益と反することだけは明らかである以上、傍観というのは我々の立場が悪くなる。但しそれも、我々自身の『利益』が『立場』に優先しない限りという条件付きだがね」
「つまり、計画に加担するという選択肢もある、と?」
「君は反対か?」
 大きい音を立てて茶器をテーブルに置くロストフを見咎めるように、大統領は眼窩を光らせた。
「率直に申し上げてよろしいですか?」
「もちろん。そのために君を呼んだのだ」
「大統領の判断は間違っているとは思いません。如何なる場合でも祖国の利益を最優先させるのは、我々公僕の当然の務めです。但し他者にどこまで情報を開示するかで、我々自身の利益に影響する場合もあります」
「つまり、開示しないことで得られる利益もあれば、同時に損なわれる利益もある、という訳だな?」
「その通りです」
「そしてこの場合……後者だと?」
「申し上げにくいのですが、私はそう思います」
「根拠は?」
「ワシントンはもう気づいています」
 大統領とFSB長官は、思わず顔を見合わせた。
「……間違いないのかね?」
「と言っても、我々スリーパーやチェチェンとの関連まではまだ察知していないと思います。しかし、当初ミャンマーを巻き込む予定と推測されるのですが、これが直前に変更されています。理由は首都での暗殺事件ですが、この背後に国外勢力の手があったと思われるのです」
「そういう情報は確かにヤンゴンの大使館からもあったな。軍事政権は否定していたし、裏が取れなかったのだが……」
「間違いないと思います。デリーはかなりの確信を持っていました。根拠があってのことでしょう」
「インド、ではないんだな?」
「そう言っていました。嘘をついて得をする場面でもないですし、事実でしょう。現時点では未特定というのが正確なところで、タイやヴェトナムの可能性もありますが、だとしても現地のアメリカ情報筋が全くのつんぼ桟敷だったとは考えにくいと思います」
「直接関与していないとしても、承知はしていたのでは……ということだな。しかしそこまで支障が出始めていながら、計画自体は中止になっていないということは、アメリカも全容を把握してはいないということか?」
「そうです。奇しくも今回、チェチェンが絡んできました。我々はむしろアメリカと手を結び、計画を阻止する側に廻るべきでしょう。『テロとの戦い』を標榜する現政権と、一層の絆を深めることにもなります。但し、それとチェチェンと全面的な対立を再開することは別の話です。我々がアフガニスタンで、そしてアメリカがヴェトナムやイラクで踏み込んだ底なし沼に入り込むリスクは、避けるべきだと思います」
「あくまで現政権と、ですがね」
 長官が口を挟む。
「アメリカ国内の政情は大使もご存知でしょう?今度の大統領選挙では、民主党政権に代わる可能性が大とか。これ以上現政権の笛で踊るのは、将来我々にとって無益にはなりませんか?」
「君の言葉を借りるなら、それもあくまで可能性だ。我々には愉快な思い出ではないが、ワシントンの覚悟を見誤って踊った結果、ソビエトという楼閣は崩壊し、我々は一時雌伏を余儀なくされた。その轍を踏んではならないと思う。取るべき距離は維持しながらも、何かあれば我々は全面的にワシントンを支持する。そういうスタンスを貫いてこそ、今東欧で浮上するミサイル防衛構想を巡る駆引きも優位に進められると思う」
「どちらが是か……数字で言えば、五割を超えるのも事実だが」
 ストロガノフはしばし瞑目し……かっと見開いた。
「こういうやり方はしたくないが、当面は二正面作戦で行くしかないな。チェチェンを含め、計画ルートは全てフォローする。但し我々が直接何らかのタッチをすることはない。支援はしないが阻止もしないということだ。大使、どうかな?」
「止むを得んでしょうね。ワシントンへの言い訳だけは考えておく必要がありますが」
「もちろんだ。平壌もだが、昨今の北京のやり方はどうも危なっかしい。いっそ放り出してしまいたいぐらいだが」
「いざとなったら、放り出す覚悟も必要ではないでしょうか。我々さえ態度を明確にすれば、ワシントンは間違いなく味方につきます。上手くすればヨーロッパのミサイル配備問題も霧散するでしょう」
「簡単に言ってくれるね」
 ストロガノフの目が、やっと笑った。
「さっきから聞いていれば国益、国益と……君お得意の人道主義は全然出てこないね」
「これはあくまで、我がロシアの国益に適うか否かの問題です。それに……大統領閣下には無効ですから」
 ロストフの人なつこい笑顔に大統領だけでなくFSB長官もつられ、室内の空気が初めて和んだ。
「よくわかった。君の提案は憶えておこう。インドの首相に、くれぐれもよろしく伝えてくれたまえ」

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キングスクロス:プロローグ(16)

 ルーマニア・オラデア。
 到着した白い車体の振り子式ブダペスト行き国際特急列車から、一人の老女が降り立った。荷物は古ぼけたボストンバッグ一つ。年恰好の割には機敏な動作で、それをポーターに持たせることもなく駅舎を真っ直ぐ出て、タクシーを拾う。ボンネットにはルーマニア一ポピュラーな国民車「ダチア」のエンブレムが輝いていたが、革命前のモデルなのか、よれよれになった後部座席からはスプリングとスポンジがはみ出しており、目的地までの時間を揺られ続けるには快適と言えなかった。
 市街地を過ぎて緩やかな山道を登る頃になると車窓に高層建築は見当たらなくなり、段々畑の合間に集落が寄り添う山里の風景が目立つようになっていた。
 駅から一時間余り、そういう集落の外れにある小高い丘の頂にある修道院の正面入口でやっとタクシーは止まり、運転手が老女の荷物を抱えて降り立つ。門扉脇にある呼び鈴代わりの版木を叩くと、のぞき窓の向こうに黒ずくめの修道女が姿を現した。
「バルバラ・ヒューゲルと言います。院長様にお目にかかりたく、伺いました」
「今朝、ご連絡を頂いた方ですね?ただいまお取次ぎいたします」
 待たされること数分、ようやく開いた門扉を潜ったバルバラは、外見からは想像しづらいその光景にまず驚いた。
 赤、黄色、紫……中庭中央に鎮座する温室の中は、一足早く春が来たようだった。周囲で立ち働いている修道女たちも、戒律なのだろうすっぽりと黒ずくめの修道衣からわずかに覗く顔や手の色艶、そして修道女らしからずこぼれる黄色い笑い声。栄養状態だけでなく、質素ながらこの尼僧院が満ち足りた精神生活の場であることを示していた。
 コリント式列柱の並ぶ回廊を横切り、陽光が淡く照らす客間に通される。広くはないが暖炉が切られ、運ばれてきたお茶の香ばしい味が室内に満ちていた。
 漆黒の修道衣に身を包んだ老女が一人現れ、バルバラと蓮向かいに対座する。案内してきた修道女がお茶を淹れ替えて退室すると、二人にしか判らない火花が互いの視線から発せられた。
「またお目にかかるとは思わなかったわ」
「お互いにね。もう引退したと思っていたのだけど」
「私もそのつもりだったのだけど、どうやらこの仕事に定年はないようね」
 やっと視線を緩め、卓上のカップに手を伸ばす。以前であればまずその中身に警戒するところだが今回バルバラが、いや二人が警戒すべき相手は他にいるようだ。
「あのヘルマンが内通していたとか?」
「信じたくはなかったけど、事実よ。私としたところが、油断していたわ」
「何も知らず成人したお嬢様じゃ、無理もないんじゃないの?」
 修道院長はそう言った。
「軽蔑?」
「いいえ、羨望かしら。ここの戒律では、どちらも悪徳ですけどね……彼が紹介してきたという若者も、最初から計画の一因だったのかしら?」
「問題はそこね。ドイツの警察が調べているけど。私たちの団体との関係はないわ。これだけは誓って言える。理由がないもの」
「そう」
「どちらにしても、今確かめる方法はない。一家は死亡、当人はその重要参考人ということで警察の領分になってしまっているから。実は警察も真犯人は他にいると気づいているらしいけど、表向き捜査方針は変更なし」
「カモフラージュね」
「そう。警察からは、勝手に詮索するなと言われたわ。事件を荒らされたくないというのもあるみたいだけど、どうやら我々がターゲットの一つらしい。不用意に動けば相手の思う壺……わかる?」
「ええ、ええ、わかりますとも……あの暴君のやり口そのまま。でもそれが手を携えることになるなんて、時代は変わったようね」
「そうね。お国みたいにね」
 戦間期の右派政権とその残党、戦後の共産党政権、そして海外の民主化勢力。血塗られたルーマニアの二十世紀が、激動のたびにあるじを変え、親類や友人を喪いながら、革命成就と共に帰郷を果たした修道院長の人生そのものでもあることをバルバラは知っていた。
「この若者がルーマニアに入っていたというのが協力要請の理由と聞いたけど」
 フリードリッヒの資料を見ながら、院長が訊ねる。
「詳しい足取りを確認すればいいのね?」
「そう。そこに書いてある通り、今判っているのは入国日と、その後ブカレストのホテルに滞在していた数日間。具体的な資料は全部添えたつもりだけど、あと、ブロッケンと言うキーワードを口にしていたという情報があるわ」
「ブロッケン……確か、南ドイツの山の名前だったわね?」
「ええ。そこに立つ濃霧で時々発生する、気象現象の名前でもあるけどね。所謂幻影ね。実物より大きい自分の影が濃霧に写るというのが種明かし。現地へは警察が行っている筈だけど、それがお国とどうつながるのかは未確認。逆に言えば、国内でこのキーワードが浮かび上がってきたら、そこに手がかりがあるんじゃないかと警察は見ているわ」
「わかりました。ブカレストのゴーサインが出れば、私はいつでも動けます。貴方はどうなさるの?」
「明後日には一度戻らせてもらうわ。これでも今の仕事、結構繁盛しているのよ。しばらく休むにしても引継ぎはしておかないと、怪しまれるわ」
「そう。もし今夜のお宿が決まっていないなら、一晩休んで行ってはいかが?この国も革命以降は陽気なダチアに戻りつつあるけど、街中では体験できない暮らしもあるものよ」

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2008年8月 7日 (木)

キングスクロス:プロローグ(15)

 北京、中南海。
「デリーの状況です。目立った動きとしてはロストフ大使の、当然と言うべきか外務省訪問。尤もこれまた単なる一時帰国のお詫びだったのか、他に何か土産持参だったのかは未確認です」
「あの中国嫌いのロストフか……」
「しかも、大統領やFSB長官と額を突き合わせていた。今後デリーの大使館がどう動くにせよ、恐らくそれはモスクワの判断によるものと考える必要がある、ということです」
「わかった」
 モスクワだけなら、何とか説得する自信はある。流血を伴ない、あまりに大きな衣替えを経ながらも、再びアメリカの向こうを張ろうと見果てぬ夢を見始めているあの指導者のことだ。しかし、そこにインドが絡んでくると事情は複雑になる。
 幸い、例の荷物はもう、当面の保管場所に到着していると言う。今はこれ以上動かず、年明けを待って最終段階へ駒を進める準備に専念したほうがよさそうだ。半島と南米の「同志」が、不用意な行動に走らないでくれればいいが……

 その夜、東京都世田谷区某所。
 深夜に帰宅した父親は、物も言わず着替えもせず階上へ向かう階段を目指した。何かを予感したのだろう、珍しく出迎えた母親は、父親の進路を塞ごうとしたが、荒々しく払い除けられた拍子に壁で頭を殴打、階段の下で昏倒した。
 介抱どころか一顧だにせず、娘の部屋がある二階へ上がる。先月から病気療養を理由に一歩も出てくることのない廊下は、母親が毎日のように掃き清めているにもにもかかわらず、どこか陰惨とした空気を発していた。
 足音を荒げるでもないがひそめるでもなく、何かを決意したように真っ直ぐ廊下の突き当たりに達し、手をかけたドアのノブは……回らなかった。内側からロックがかかっている。ノックさえもせず、一旦数歩後戻りした父親はいきなりドアに体当たりを食らわせた。団塊世代として高度成長期を支える傍ら、学生時代から続けてきたラグビーのタックルは、古びたドアを中央から粉砕し、向こう側に通じる、そして人一人通り抜けるには充分な穴を作った。
 娘は、無言でベッドに座っていた。これから起こることを予感したのかしないのか、既に蒼白だった。その鼻先に、新聞をわしづかみにした父親の左手が突き出された。
「読みなさい」
 無言で受け取り、紙面に目を走らせる。予期していたのか、表情に……いや視線に変化はなかった。
「事実なのか?」
 娘は沈黙を続けている。そのこと自体が答えとも言えなくはなかったが、父親は再び念を押す。否定の言葉を期待していたのか、それとも儀式だったのか。
「事実なんだな?」
 根負けしたようにそれでも娘は黙ったまま、ただ頷いた。だが、儀式の合図にはそれで充分だった。次の瞬間娘は、父親の右手に握られていた工業用ハンマーで頭頂部を砕かれていた。
 翌日早朝、世田谷区の高級住宅街で火災が発生。火元の邸宅からは住人である親子三人の死体が発見された。但し死因は、頭部打撲と窒息死。父親と思われる窒息死体の頚部には、紐のようなもので圧迫した痕跡が確認された。身許を特定した警察は、父親が妻と娘を殴殺の上、自宅に火を放った後縊死した無理心中事件と断定。

 パリ・内務大臣官邸。
「大臣、よろしいでしょうか?急いでちょっとお耳に入れたい件があるのですが……」
「何なんだ?明日じゃいかんのかね?今夜は妻とディナーの予定なんだ。君はいつも込み入った用件に限って、退庁間際に持ってくるねえ」
「申し訳ありません。例の、ノルマンディー連続放火事件の件です」
「しょうがないな……何だ?」
「チェチェンから流れてきた例の『荷物』が絡んでいる可能性があります」
「チェチェン?確か先日、ロシア大使が耳打ちしてきた件だな。因果関係があるのは確かなのか?確か警察は、変質者による無差別犯行の線で捜査していたと思うが」
「犠牲者の一人が、その件の関係者だったんです。具体的には、ルーアンの選手の家族です。明日、先方の調査担当者が面会を求めていますので、詳細はその時に説明させていただきます」
「と言うとつまり、他の犠牲者は、動機を隠すためのカモフラージュで殺されたということか?」
「そうなります。その意味では、無差別と言う当初の見方も当てはまりますが」
 帰り支度をしながら聞いていた大臣の右手が、ふと止まった。
「ルーアンと言えば、日本の選手が来ていたな?関係ありか?」
「中国籍なら可能性を疑うところですが、現時点でそういう情報はありません……何か、気になることでも?」
「確か、今度のオリンピック代表と同世代だったな?」
「ええ。ただ政治的発言で日本の協会トップの逆鱗に触れ、最終予選では登録を抹消されたと聞いています」
「そしてチームは苦戦、そこへ例の八百長疑惑、か……」
「何か?」
「使えないかね?」
「はあ?」
「カードだよ。最終予選の結果を受けて、本大会では召集の可能性が大きいと聞いている」
「私よりよくご存知ですね」
「大統領選挙と同時期のことだったからね。もしベンチに復活となれば、今回の件で使えるかも知れない」
「なるほど……しかし、具体的にはどのように?」
「うん……私も今咄嗟に思いついたばかりで、細かいところまではまだだ。ただああいう考えを持っている日本人がいるというのは、ちょっと気をつけておいていいと思わないかね?」
「わかりました。素案の検討、着手しておきますか?」
「頼む……この件、エリぜー宮(大統領官邸)には上げたほうがいいと思うかね?」
「どうでしょう?アイデア自体に私は賛成ですが、エリぜーの事前諒承は難しいかも知れませんね。プランだけ考えておいてから、あらためて判断を仰がれるのがよろしいでしょう」
「そうだな。とにかく詳細は、明日また話を聞いてからだ。私もディナーの席でちょっと思案をまとめておくよ」

 東京都世田谷区、羽生一郎の私邸。
「感想を聞きたい。いや、その前に確認せにゃならんのだな……事実なのか、全て?」
「事実です」
 羽生は暫時絶句した。
「米倉警部補、いやニ階級特進で警視が取っていたという記録も実在します。自分が入手、この目で内容を確認しました」
「まさかと思ったが……いや、まさかと思いたかっただけなのかも知れんな。今の時代に国としてやっていく以上、何があってもおかしくない、どんな手段をとる覚悟が要る。それが嫌なら、最初から政治家など志さないことだ、とな」
「……」
「坂本君は、名指しで君に接触しろと言ってきた。君がどういう目的で計画に加わっているかも含め承知している、そういう意味とは思わんかね?」
「思います」
「問題は、承知しているのが彼一人でない場合のことだ」
「仰るとおりです。それを確認する必要があるでしょうね」
「どうするつもりだ?リーダーに直接問い質すかね?昔なら事情が違ったかもしれないらしいが、坂本君の話を聞いた今となっては私でも想像はつく、それは自殺行為だってな」
「しかし、このタイミングで姿を消せば、やはり疑われる……そうなれば結果は同じです」
「そうだが……」
「羽生先生は、坂本警部以外に私の正体がばれている可能性を指摘されましたが、もしそうだとしたら、今ここに自分は何故いるのでしょう?」
「さっさと口を封じられている筈、というわけだな?」
「そうです。問題があるとしたら、実はばれていながら生かされている、つまり泳がされている可能性です。ですから今回も、こういう方法でお会いするしかなかった」
「怖いのかね?」
「そう……否定はしません。しかし、自分は一度死んだ身ですから」
「一昨年も、負傷したのだったな」
「は」
「まあいい……だがその覚悟があるなら、試してみたい手がある。引き受ける、引き受けないは君次第だが」
「囮……ですか」
「ある意味そうだが……本命は君じゃない、北京オリンピックだ」
「えっ!」
 工藤はさすがに驚いた。
「総理は絶対承知せんだろうから、独断で動くしかない。何かあっても、庇ってくれるものはいないということだ。そういう状況では、こちらも相手の弱みを握るしかない」
「何かあれば、北京オリンピックはぶち壊しになるぞ……と言うことですね」
「今の中国にとって、それだけは何としても避けたい筈だ。平壌とカラカスの取引も失敗はさせたくないだろうが、天秤にかけさせたらどちらを選ぶか……私はイカレとるかね?」
「イカレているとしたら、それは時代そのものがそうさせるのかも知れません」
「君も、そういう文学的な思考をするんだ。事前に受けた報告とは違うな」
「恐れ入ります」
「もういい……君の覚悟はしかと承知した。何をしてもらうかは私よりも、君自身を含め現場のプロが考えたほうがいいだろう。計画が固まったら、あらためて連絡させてもらうよ」

 北京・中南海。
「チェチェンがインドと接触した?」
「はい。情報部の下士官が、文民資格でデリーに入っています。どうやらモスクワも承知のようです」
「そろそろ、クレムリンに直接説明すべきじゃないのか?現時点ではモスクワに隠れて我々が事を運んでいる状態だ。FSBに話を通したからと言って安心している場合ではないな。ロシアが最優先させるのはロシアの国益であって、我々のそれじゃないのだから……彼らの社会主義が破綻するずっと前からな。わかっているだろう?」
「FSBルートから大統領の耳に入れてもらいますか?」
「そうしてもらおうか。民族問題を抱えているからと言って、いつまでも彼らの同情心を過大に期待していてはいけない。やり方は君に任せるよ」

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キングスクロス:プロローグ(14)

 コブレンツ・大聖堂脇。
 大聖堂ファサードが面した大通りから一つ入った路地沿いの門をくぐったところに、司教館の玄関はあった。信徒がこの玄関を目にすることは、基本的にない。宗務で大司教が教会関係者外と接するのは大聖堂とその付属施設と決まっているからだ。だからここを通って司教館を訪れる者があるとすれば、宗教外の用件ということになる。特に、初対面の場合は。
 午前の政務が終わる時刻近い正午直前、一台の乗用車が狭い路地と門を通り、これまた決して広壮とはいえない玄関前の車寄せに滑り込んだ。事前に連絡を受け玄関から飛び出してきた僧侶の出迎えもそこそこに、スーツ姿の男が二人現れた。マックスとウィルだ。
 現代的なデザインの中にそれとなく十字架や天使の肖像をあしらった広間を抜け、中庭に面した応接室に通された二人を、中年の僧侶が起立して迎えた。黒い法衣には紫の縁取りが施され、胸には金製の十字架。この館のあるじである、大司教その人だった。
「マテウス・ランケです」
「警察署警備課のカール・ヘンゲンです。こちらは共和国警察外事課の、マクシミリアン・リンデル警部」
「お初にお目にかかります。突然押しかけて申し訳ありません」
「こちらこそご足労をおかけしました。私のほうから伺わなければならなかったのでは?」
「いえ、あなたは地位ある方です。不用意な動きで、我々がしようとしていることを第三者に察知されてはならない……その理由は、あなたもご存知と思いますが」
「そうでしたね……お電話で伺ったところではこの人物、ヘルマン・カウフマンは東方で進行中の、或る計画に関与している、と?」
「あの銃撃事件直前、我々はその情報を得て捜査に着手したところでした。彼の組織のリーダーである或る人物に接触したのですが、計画のキーマンはあくまで、このカウフマンなる人物だったようです」
「そのネオナチ自体が関与していたわけではないのですか?」
「そのようですね。事情聴取や内偵の結果、旅行代理店長でもあるリーダーは関与していない可能性が大、との心証を得ています」
「すると……」
「ネオナチ構成員であるヘルマンを加えることで得する何者かがいたのでは、と我々は考えています。この組織と元々対立しているのか、それとも何か思惑があってのことか……」
「ネオナチと言えば特殊性はありますが、つまり極右組織ということですよね?利害が対立する他者となれば多かれ少なかれ、いる気もしますが……」
「一般論からすると同感ですが、実は少々心当たりがありましてね……その人物が告白したという計画について、具体的に伺えますか?」

 北京・中南海。
「モスクワが気づいたと?」
「こちらの大使が外務省に呼び出されました。何も知らない大使は大恥をかいたと言って大目玉です」
「無理もないな。大使には、こちらから電話をかけるよ。それにしてもどこから知ったんだ?いずれモスクワには早めに耳打ちするつもりだったが、いくら何でもその前に気づくとは……チェチェンを使ったのはまずかったのだろうか?」
「選択肢の是非はともかく、展開が速すぎます。どこか別のルートで情報が漏れたのではないでしょうか?」
「別のルート?」
「インドです」
「またか……間違いないのか?」
 彼は口をへの字に曲げた。チベット問題に限らず、インドとは何かにつけ軋轢が絶えない。日本の小賢しい前首相などはそれをいいことに、手を携えて対中外交包囲網を構想していたと思われる。
「デリー駐在のロストフ大使が急遽帰国しています。公式発表では家族の急病。確かに帰国の前日、市内在住の夫人が腎臓結石で病院に担ぎ込まれています。表向き怪しいことではありません。機内泊で空港から病院へ直行……問題はその後です」
「クレムリンに顔を出した……んだな?」
「そうです。病院に居たのは三十分弱、一方この時のクレムリン詣では四時間余り。その後確認したところ、必ずしも相性のよくないストロガノフ大統領に会っていたことを確認しています。しかも、FSB長官同席の上で。単なる一時帰国の挨拶とか、ましてや、ついでに寄ったというような足取りではないですね。その後は市内の自宅へ戻っていますが翌早朝にはデリー行きの飛行機に搭乗」
「どちらが本当の目的だったやら……といううわけだな。わかった。そちらはクレムリンと併せて、インド大使館に動きがないか探ってみてくれ。デリーのほうは、こちらで調べておく」

「羽生です」
――坂本です。お久しぶりです、大臣。
「大臣じゃない。知ってるだろう?」
――間もなく、そうなられます。
「わかるものか……今回のことが明るみに出れば、私だって議員バッジを外すだけでは済まなくなる」
――ご迷惑はおかけしないつもりでした。
「もういい、私のことなんか……では、事実なんだな?」
――大臣がお知りになった情報は、全て確かなものだと思います。
「昔のアメリカの映画にもあったような話だが、まさか日本に実在していたとは……どうして、こんなことを?どんな犯罪者であれ、逮捕して裁判を受けさせるのが警察の努めだと私は理解している。OBの佐々木さんや山室先生からもそう教わったんではないのかね?」
――……
「一昨年も似たようなことがあり、当時の警備局長急死はその清算だったと聞いている。君も知っていると思うが、今回は規模、計画性ともそれどころじゃない。明るみになれば警察、いや日本政府がひっくり返るかも知れん。自覚していたかどうかは知らんが、大変なことをしてくれたものだな」
――自覚はしていたつもりです。防衛省の内調にも似た組織があったと聞いています。尤も現内閣以降、国家安全保障会議共々解体されたそうですが。
「……経歴を改めて調べさせてもらった。動機は、あの事故かね?」
――事故ではないとしたら?
「違ったと?……まさか……」
――自分も最初は全く気づきませんでした。日夜、山のような事案と格闘している傍ら、妻の心労を思い遣る余裕も失っていた。「警察官の家族なのだから耐えて当然」。お恥ずかしながら無意識に自分の中でいつしかそう片づけてしまい、家庭内のコミュニケーションを怠っていたのです。
「しかし、それと今回のことは……」
――そう、因果関係はありません。しかしその際、今後警察官を続けていけるか悩んだのも事実です。その答えを見つけるため、いや自分の気持ちに整理をつけるため真相を探ることにしました。そしたら組織のほうから接触してきたのです。最初は口封じかと思い、まあそれも目的だったと思いますが同時に……
「誘われた?」
――ええ。『事故』は本意でなかったとも言いました。こういうことを二度となくすと言うのも彼らの動機だと。
「頭から信じたわけじゃあるまいな?」
――もちろんです。自分はこう言いました。証拠がない、出鱈目ではなくても君たちの思い込みかもしれないと。そんなことのためにこういう恐ろしい計画に加担することはできない。妻には、あの世で再会してからでも話をつけるとね。
「ならば、なぜ……」
――相手はびっくりしませんでしたね。自分で確認してみろ、その上で返事をくれればいい、と。自分の反発を防ぎたかったのもあったのでしょう、しかしとにかく確認してから対処を考えても遅くはないと思ったのです。
「そして、自分で確認した……んだな。米倉という若い刑事を巻き込んだのはそのためか?」
――その通りです。あくまで個人的に頼んだことなので、警察の記録にも残っていません。尤も彼自身は記録を取っていたようですが、そういう彼も全く個人的な同情で、私のわがままに付き合ってくれました。
「だが君は、そんな米倉君を……」
――順を追って説明させて下さい。真相を把握した自分は、妻の件を警察上層部に上げることを考えました。本来なら全てを上げるべきだったのかも知れませんが、上層部への明確になった不信感がそれを妨げました。
 当然と言うべきか監察が動き始め、妻の件については高いか安いかわかりませんが弔慰金が下りることになった。そこで手を引いてもよかったのですが……米倉君が落命した。私は当初、それを上層部の口封じと勘違いした。
「それで、本格的に計画にのめり込んでいったわけだ」
――ご指摘どおりです。しかし、その後それも組織の仕業だったと気づきました。
「それで、今回告白するつもりになったわけだな?」
――気づいたのはずっと前です。問い質した私に、彼らは否定しませんでした。秘密保持のために、避けられない判断だったと。そして遣り取りの中で、私のように理不尽に平和な生活を奪われていった者がいることも、それが彼らを計画に導いたことも知りました。彼らと同じ境遇のものをこれ以上出すべきではないと思って、私は活動を続けることにしたのです。しかし同時に、有為な若手だった米倉君を犠牲にしたことで、以降組織への違和感が生まれたのも事実です。
「そして、その気持ちが段々成長していったと?」
――その通り、理由は二つあります。一つは、ターゲットの範囲が当初の、警察関係者や所謂犯罪者意外にも及び始めたこと。いくら警察内外の綱紀粛正が目的でも、そのために善良な一般市民を犠牲にしては……
「本末転倒だ!」
――全く仰るとおりです。そこでもう一度気持ちをぶつける選択肢もありましたが、この頃になると、これがもう一つの理由ですが、組織の空気が微妙に変わってきていたんです。一言で言えば、反対者は……
「消されていったと?」
――自分はそうならないという妙な自信が最初のうちはあり、それが計画を抜けられない理由の一つでした。しかし段々組織の中で、少しでも方針と違う考えを口にする仲間が消えていくということが目立つようになりました。単に離脱して『普通の』一警察官に戻ったと言うだけでないのは、米倉君のことで容易に想像がつきました。
「そう言えば、警察内の不祥事や謎の自殺が後をたたないが、その中に?」
――ええ。当然構成員は事情を知っているわけです。昨日までの同志ですから。当然動揺が産まれる。そうなると人はどうなると思います?
「二者択一を迫られる、と言うわけだな」
――その通り。当初の計画者を除けば、現時点で残っているのは相当に神経の太い連中です。
「飽和点が、今回の痴漢詐欺だな?」
――そうです。その件で、自分と同時期に加わったベテラン警察官が犠牲になりました。彼は昔から面倒見のいい人物で、組織の無用な過激化を抑えてきたと言ってもいい。それがこうなったことで、組織の将来はない、自分もこれが潮時だなと直感しました。最初のうちなら黙って離れていく選択肢もあったかもしれませんが、今の組織なら間違いなく自分を消すことを選ぶだろう。ならば構成員にこれ以上過ちを犯させないためにも、全てを明るみにすべきだと思うに至ったのです。
「よく決心したと言いたいところだが、君たちがやってきたことは紛れもなく犯罪だ。それも、君の場合はある種の甘えから、違法性を十分認識していながら続けていた。警察組織としては本音はどうあれ厳しい判断を下さざるを得なくなると思うが、覚悟はできているね?」
――全て考えた上でのことです。
「よくわかった……組織の根幹は蛇頭であり、彼らを叩くのが一番効果的ということだな。国家公安委員長に話しておこう。多分何らかの動きがあると思うから、身辺整理を済ませておくように」

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キングスクロス:プロローグ(13)

 同夜、パンコット王宮の奥まった中庭。
 掃き清められ、満天の星に照らされた空間の中央に居並ぶ部隊に向かう壇上中央に、女王が起立していた。しかしそのいでたちは露わにした上半身に灰を塗り、梳き流した白髪の頭上には黄金に輝く……恐らく文字通り黄金製と思われる宝冠、首に提げた大ぶりのネックレスの珠が象っているのは髑髏、そして腰に巻いた布の文様は何と人間の下腕部。この土侯国を含めた南インドで長く残った破壊の女神、カーリー信仰を現したもので、事実この土侯国の歴代女王は、カーリーの化身という宗教的地位を継承してきている。軍事的セレモニーである筈のこの場に、そういう装いで現れるというのは、宗教色も帯びている、ということなのだろう。
 数人の兵士の名前が呼び上げられると同時に、一人ずつ列の先頭に進み出て、壇上正面に相対し一列に直立する。他の者が通常礼装なのに対し、いずれもターバンを巻いた陸軍正装だ。
 式典の最初から低い祈りの声にあわせて、壇の脇にある祭壇にくべられた炎で、金属製の器に盛られた酒が温められている。炎には絶えず香木が投げ込まれているから、清めなのだろう。
 壇上から下りて列正面に進み出た女王が一人一人と敬礼を交わし、短い言葉と花綱を贈った後、脇に控える女官が杯を捧げ、器から酒を注ぐ。カーリーに捧げるという意味か、数滴を空中と地上に飛ばしてから女王が手渡す杯を、居並ぶ一人一人が飲み干していく。杯は相当の大きさがあり、下戸なら儀式だろうと彼は思ったが、苦にする様子の者は一人もいなかった。
 全員との挨拶を終えた女王が、戻った壇上から壮行の演説文を読み上げ、兵士の一人がそれへの答辞を献呈する。式次第が終わりに近づくと、それまで控えめだった軍楽隊の銅鑼。太鼓と合唱がピークに達し、女王が高らかに宣言した。
「母なるカーリーはこう言われた。インドと、その友邦に適するものを殲滅せよと。
 聖別された兵士たちよ。母は見ておられる。培った勇気を今こそ振るい、任務を果たされんことを!」

 コブレンツ・大聖堂。
 大通りに面した大聖堂のファサード(正面)を抜けると、万国共通、カトリック教会堂の例に洩れず、隅に電話ボックスのような小さい箱が鎮座している。中には中央を真っ二つに仕切り、それぞれ人一人がやっと座れる空間があるばかりだ。仕切りの中央には格子と、それを塞ぐ木戸があるばかり。これがカトリック教会特有の、信徒と任務にある聖職者が一対一になれる教理上唯一の空間、懺悔室だ。
 日曜礼拝の後、例によって懺悔をする信徒の列がボックスの前に出来てきた。担当の神父が聴罪司祭のスペースに入り、彼等の訴えに耳を傾ける。尤も少ない割合で信徒の不満の捌け口や放言欲発散の場であることが多く、聖堂の最高責任者でもある大司教は、ミサを終えると公邸であり司教館に引き揚げていた。
 懺悔の時間も終わり、おおかたの信徒が聖堂を去った午後、その司教館の二階にある執務室の扉を、今日の聴罪役僧だった司祭が蒼い顔でノックした。
「どうしたのかね?今日は直前になって急に代わってくれと言ったそうだね?まだ顔色が悪いようだが、大丈夫かね?」
「ご迷惑をかけて申し訳ありません。実は、至急ご相談しなければならない事態が発生しましたので。いや、本当はずっと前にご相談すべきだったのかも知れません」
「大袈裟だねえ……君の取越し苦労ということはないのかね?」
「そうであることを願いますが……多分これは、教会内で処理できる問題ではないと存じます。ひょっとしたら、関係当局に相談すべきことかもしれません」
「事件、かね?」
「もっと重大です。国家、いや国際的な陰謀ではないかと」
「おいおい……兎に角、最初から説明してくれないか?君自身のことかね?それとも、誰かの話を聴いたとか?」
「率直に申し上げます。数ヶ月前の懺悔で出てきた話です。教会の規則では、決して内容を明かさないことになっていますが、こと事件なり政治的なものになりますと、そういうわけにいくかどうか……」
「尤もだ。そういう場合に特例は認められるが……その、懺悔をした信徒と言うのは誰なんだ?」
「姓名はヘルマン・カウフマン。市内の旅行代理店に勤務するマネージャーなんですが。いや、だったと言うべきか……」
「ヘルマン・カウフマン?待てよ……ひょっとして先日、市内で銃撃されたという?」
「その通りです。実はその事件の数日前になる礼拝日、彼の懺悔を私が聞いたんです」
「確か、正体はネオナチだったとか。すると君が聴いた重大事と言うのは、そのネオナチが何か企んでいるという……?」
「そう申し上げたいところですが、実はそう単純でもないようなのです。最初から説明させて下さい……」

 十一月二十七日、ドイツ・ブロッケン山頂。
 丘の上で濃霧が発生すると、太陽の光が訪れた者の陰を霧の層に映し出す。近代まで人々はこれを巨人・聖霊などと考え、「ブロッケンの魔女」伝説も生まれた。所謂「ブロッケン現象」だ。
「この丘によく濃霧が発生、太陽がそれに映す影を聖人や怪物に見立て、この地には昔から多くの伝説が生まれてきた。今日の集まりがそれらと違うのは、生きた人間が起こす本物の歴史という点だ。半世紀以上世界中で犯されてきた誤りを、これは正す行動になるだろう。
 我々は生まれた土地も宗教も違う、だから『神に誓え』とは言わない。内なる自分自身に誓うのだ。この計画を完遂し、人類に正しい歴史を取り戻すことを。そして我々のような犠牲者を二度と出すことのない世界にすることを」

 十一月二十九日、デリー・チェンチェン共和国代表部。
「ロシア大使との会見は、無事済んだかね?」
「はい。しかしインドが主体で特殊部隊を投入するとは予想外でしたね」
「それだけ大きな関心を持っているということなんだろうね。今回は中国が、ロシア以上に絡んでいるとされているからだろうが、結果的に我々には有利に働くとは思わないか?」
 公使は、今回の彼の真の任務を承知している。
「同感です。インドが積極的に動いてくれれば、モスクワも今回の件を政治的に利用しづらくなりますから」
「あちらの窓口がロストフ大使と言うのも心強い。問題があるとしたらモスクワでの大使の発言力低下だが、これは我々も注意すると同時に、グローズヌイやCIAに任せたほうがいいだろう。
 君はどうするね?一応の任務は果たしたと言えるが、任期はまだ残っている。帰りたいと言えば帰れないこともないが……」
「そうですね……どうやら例の『荷物』、もう通過してしまったようですし、急ぎ戻ってすべきことはないように思えます。
 それより、ロシアが直接関与してないとなれば、やはり中国です。何のためにこんな計画を立てたのか、そして最終的にどうするつもりなのか。それを見届けるのが優先のように思えてなりません」
「そうだな。私も同感だ。決定権はないが、今言ったことをグローズヌイの最高幹部会に送っておく。あとは各国の出方次第だな」

 十二月一日、ブカレスト・ヘンリー・コアンダ国際空港。
 彼が故国の土を踏むのは二十年近くぶりになる。あの革命後障害はなくなった筈だが、国外ですべきことが増えてしまった身、それは叶わなかった。皮肉にもそれが、こういう形で実現するとは。
 迎えの車もないまま、シャトルバスで都心へ向かう。経済混乱は回復しない中、車中の掏り・置引きは勿論大小の犯罪が増えているらしい。尤も一方で、黒いものを白いと言わずに済むようになったことで、昔の時代に帰りたいという市民はいない。昔は昔でも、経済破綻が来る前はそれなりに豊かだったそうだが、そこまで知っている年配者もそろそろ鬼籍に入ろうという時代だ。全世界のブラウン管に映し出された広場に面する旧共産党ビルの一角に、彼の上司はオフィスを構えていた。今も昔も占める地位が劇的に変わったわけではないが、彼らが奉仕する国家は百八十度と言っていいほどその姿を変えてしまった。ルーマニアだけではない、東ドイツも、チェコも、スロヴァキアも、ハンガリーも、ブルガリアも……そしてロシアも。当時絶対に正しいと、そして永遠に変わらないとされていたものは、今跡形も残っていない。
「元気そうだね……弟さんには会ったかね?」
「ええ。パリで元気にやっています」
「それは何よりだ。息子さん、もう五歳になったのだったかな?」
「七歳ですよ。今年から小学校だそうです」
「そうか……君は未だに独り身かね?」
 上司の言葉に、彼は無言で苦笑した。
「大きなお世話かも知れんが、時代は用心を求められる時代はとっくに終わっているんだ。君も家庭を持って、自分の経験を伝える次の世代を育てることを考えるべきじゃないのかね?」
 大袈裟な言い方をするが、要は所帯を持って落ち着け、ということだ。こういう、ストレートに物事を伝えられない性格は相変わらずらしい。
「考えておきますが、今はまだ……自分自身にけじめをつけていませんから」
「妹さんと、『彼』のことだな?」
「……」
「神の思し召しなのかな……今回君に来てもらったのも、その『彼』に関するものだ」
「本当ですか?」
「どうも、旧東ドイツの連中と何か計画していたらしい。ベルリンから身分照会があって、協力して欲しいとのことだ」
「ベルリンですか」
「詳細はまだ聞いていないが、どうもチェチェンとか、ミャンマーとも繋がりがあるらしい。随分話が大きくなりそうな気がするが、まずベルリンと共同で状況分析に当たって欲しい。資料はこれだ」
「ネオナチ、ですか……」
「新興、と言うより比較的小規模の団体でね。尤も今回のターゲットはそこに潜り込んだ旧東のスパイということになる。少々複雑ではあるが……」
「ロシアは絡んでいないのでしょうか?」
「未確認だ。チェチェン絡みとなると、全く関係なしとは考えにくいが、紛争の真相が薄々明らかになっている状況で、クレムリンが軽々にこういう計画に手を出すとも考えにくい。ワシントンの黙認でもあれば話は別だが」

 マラガ、大通りに面した交差点。
「対象を発見。接触しますか?」
――まだだ。指示を待て……様子は?
「不審な挙動は……いや、周囲を気にしていますね。当方が気づかれた形跡はありません」
――そのまま監視。応援を遣る。指示を出すからタイミングを見て確保だ。
「了解です」
 無線が沈黙、二人は再び交差点に注意を集中した。通勤ラッシュを過ぎた交差点に人通りは少ない。対象の他には、同じようにスーツ姿の男女が佇んでいるだけだ。尤もそのうち数人は、彼らと同じ捜査員なのだが。
 遠くでサイレンの音が起こり、それが近づいてくる。
「応援がやっと来たか」
「いや……変だな?」
「何が?」
「これは極秘任務だ……何でサイレンなど鳴らす?」
「あ……では、これは?」
 二人は慌てて交差点に目を遣った。同様に狼狽する捜査員に気づいたか、対象が足早にその場を離れようとする。
「気づかれたか……やむを得ない。接触して同行を求めるんだ。拒否したら腕ずくでも……」
 そこへ丁度通りがかったバンが音もなく交差点を曲がり、助手席の奥に閃光が走ると共に対象が膝から崩れ落ちる。銃声らしき音は全く聞こえなかった。サイレンサーを使ったのだろう、と後刻鑑識は推測した。

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キングスクロス:プロローグ(12)

 東京。
「ミャンマー経由での移送計画は実在したわけだな。しかし直前になって中断された……原因は、議長暗殺か?」
「だと思います。因果関係があるかどうかはわかりませんが、以降内外当局・メディアの注目を集めており、計画実行には不適当と判断したのではないでしょうか」
「因果関係か。反政府勢力の犯行と政権は主張しているが、事実として今回の計画とつながっていると思うかね?」
「断定する材料がないのであくまで推測になりますが、反政府勢力がそこまで察知しているとは考えにくいですね。軍事政権側も、早々漏洩を許す筈はありませんし、仮に察知したとしても、暗殺と言う手段で阻止できる保証はありませんから。確かに今回は阻止できたわけですが、これはあくまで結果論でしょう」
「そうだな。他の可能性としては及び腰になった軍事政権の、反政府勢力に責任転嫁しながらの幕引きだが、トップを犠牲にしてとなると政権内部の権力闘争でもない限り不自然だし、そういう動きがあるとは聞いていない。となると……」
「他国が、計画阻止に動いた、と考えるのが自然ですね。国内反政府勢力とは別に、襲撃を実行した主体がいる。軍事政権の発表どおり反政府勢力と見えたとしても、それはカモフラージュでしょう」
「そして彼らは計画自体を察知していた。恐らく早い時期からね……何者なんだ?CIAか、MI6か……」
「それ以上はわかりませんがね……黙っていても教えてくれないでしょうね」
「どういう意味だ?教えてくれと頼み込むのか?日本に直接関係しているのでない限り、先方にしても教える義理はない。それを突かれれば終わりだぞ」

 ドイツ、コブレンツ。
「お話はわかりました」
 カップを置いたバルバラはそう言って、背後のファックスを意味ありげに振り返った。
「で、どう?あなたは承知している話ですか?」
「初耳です。でも、裏を取るならご自由に」
「そうですか。で、今言った情報がそのファックスから発信されたと我々は特定していますが、扱えるのは誰?貴方でないとしたら、従業員の誰かではないかと思いますが」
「アルバイトの学生も二人雇っているけど、今言った時期はバカンスで、旅行や帰省でこの町にはいなかった筈。店に出ていたとしたら、私の他には副店長のヘルマンだけ」
 バルバラは、勤務記録を確認しながら答えた。
「念のため、その勤務記録のコピーも取らせて下さい。その副店長は、今日は非番ですか?」
「いえ、所要で出ているだけ。すぐ戻ってくる筈ですけど……じゃあ、彼が?」
「そういうことになりますね。部外者がこの事務所に立ち入っていなければの話ですが」
「不在時は施錠しているからそれはないと思いますけど……防犯カメラを設置していますから、警備会社に映像はあると思いますわ」
「それも後で確認させてもらうかもしれません」
 マックスはそう言って無線を取り出し、応援を要請した。
「彼を連行するつもり?」
「シュタージとは違う。同道を求めるだけです。いや、ひょっとしたら……」
「何ですか?」
「最初に言っておいたほうがいいでしょう。貴方を含めて、警護の形をとらせてもらうかもしれません。命を狙われるかもしれないので」
「口封じ?」
「そう。だから覆面車両を手配しました」
「でも通りからは丸見えよ?」
「わかっています。マンションの裏手にある路地に車両を入れさせてもらいます。彼が帰ってきたら店内で事情を話し、裏口から乗り込んで署へ直行……」
 遠くで僅かに空気が振動、一瞬おいて表のほうで何かがどさりと落ちる音と同時に悲鳴が挙がり、三人は店頭へと飛び出した。肥満しているにもかかわらず、バルバラの動きは「現役」バリバリ」の二人に劣らず俊敏だった。
「ヘルマン!」
 長めの金髪を撫で付けた小柄な男が、左の首筋に深緋の花を咲かせて仰臥していた。第一発見者と思われる若い女が、へなへなと倒れこむ所だった。
「彼はどこへ行っていた?方向は?」
「文具屋よ!東の方角」
「とすると、撃たれたのはやはり通りの……」
 向かい側のビル、窓の暗がりに閃光が瞬き、咄嗟に伏せた頭上を不吉な風音と共に通過した銃弾が店のガラスを直撃。特殊防弾処理を施したガラスは貫通を阻止したものの、鈍い音を立てて半径数メートルの蜘蛛の巣を発生させた。ヘルマンが、無線に向かって怒鳴る。
「至急、至急!銃撃を受けている。参考人は被弾。救急車と増援の急行を要請!」

 広島。
 JR広島駅から続く大通りがまたがる橋を、相生橋と言う。江戸時代、備中(現在の岡山県)相生から呼んだ職人が設計したT字形の橋で、その後明治になってから石造に変更。昭和二十年の原爆投下では文字通り爆心地の至近だったために跡形もなく全壊するも、その後美しく修復、平和記念公園へのアプローチの一つとして県外にも知られていた。
 橋桁にかかる人形の異物を見つけたのは、毎朝河畔を散歩する住民の一人だった。通報で警察が急行、午前中に「異物」は撤去されたが、場所が場所だけに県外どころか、その日のうちに全国が知るところとなった。

 モスクワ・クレムリン大統領執務室。
「わかりました」
「どうだった?」
「先に結論から申し上げたほうがよろしいでしょう……『荷物』はもう、我がロシア領内に存在しません」
「運び出されたということだな……順を追って、説明してくれるか?」
「わかりました。チェチェン領内に至るまでの正確な日付は未確認ですが、二月二日、カザフスタンのアルマ・アタ、二月五日、トルクメニスタンのクラスノボツク、そして二月七日、フェリーでアゼルバイジャンのバクー、ここから次は長距離バスで二月十一日、クリミア半島のヤルタ。それも避暑地として人気の多い西海岸ではなく、東海岸の或る別荘に運び込まれていました。別荘の所有名義人は旧東ドイツの情報将校ですが、実際はあのフランシスコ・カディスが専ら使っているものだそうです」
「本当か!確か、ベネズエラ大統領の弟だったと思うが……」
「その通りです、自身は中東の石油王で、兄の政治資金も当初はここから工面していたと言われています」
「この計画に、ベネズエラが噛んでいる、と言うことなのか?」
「そうなります。『荷物』の最終目的地がカラカスと言うのも、これで信憑性が増してきます。話を戻しますと、その後六月二十八日、陸路オデッサに入り、またフェリーで黒海西岸へ向かっています。その後はまた行方不明……これが現時点で把握できている全てです」

 コブレンツ警察署・取調室。
「さて……まだ話していないことがあったら、全部話してもらえるかね?でなければ、我々もあなたを守りきれない」
「話したところで無駄かもしれないけどね?相手が手強いのは、あなた達も見たでしょう?」
「知っているのかね?」
「いいえ。具体的な素性を知っていたとしたらヘルマンだけでしょうね。でも、あらかじめ襲われるとあらかじめわかっていれば、あなた方に頼むより自分達で身を守ったほうが早いかもね」
「いいかな、マダム?あなたが全て話して、それでなおかつ守りきれなければ我々の責任だ。しかしそうでないなら、あなた方の責任だ」
「そういう責任だったら、取るだけの覚悟はできてるわ」
「できていても、我々の上司がそれで納得しなければ同じ事だ」
「わかったわよ……何から話せばいいの?」
「つまるところ、フリードリッヒ・ヘスについて知っていること全て。それと君の副店長、ヘルマン・カウフマンのことも話してもらう必要があるようだな」
「わかったわ。順を追って説明するわね。ヘルマンとは団体を立ち上げて以来の仲よ。知り合ったのは別の団体に入党していた時。知っていると思うけどその団体が潰れた後、かれの資金と私のコネで一からやり直すことにしたの」
「それが、『鉄の騎士団』というわけだな。彼はどうやって資金を用意したんだ?」
「貴族の家柄で、かなり遺産を相続していたの。私と違ってこちらの出身だったので取り上げられずに済んだものを、そのまま元手にしたってわけ」
「ヘスは?」
「ヘルマンが連れてきたの。面白い若者がいるからって。最初は素性を明かさず、あくまでカウンセラーとして接していたんだけど、最初から調べて全部知った上で近づいてきたみたい。彼が勝手に判断して私が事後承諾して……そういうこと。とは言っても勿論、順番は逆になったけど身辺調査はきっちりやったわ」
「父親の素性も勿論?」
「ええ。驚いたわよ。隠しておいてくれと頼まれたから、父親には話さずにいたんだけど、一度店の前をうろついていたの。そう……丁度事件の起きる直前。彼に話したら、案の定ばれたと言っていたわ。私たちが頭越しに明かしたんじゃないかと疑われたわよ」
「違うんだな?」
「ええ。未成年の場合とかは、私たちの判断で家族に明かすこともあるけど……だからばれたと知った時は、我々を監視している誰かの仕業とすぐわかったわ。そしてあの事件……まあ、生きた心地はしなかったわね」
「そうか……ヘルマンが言っていた『面白い』と言うのは、父親の素性のことかね?」
「つまり、それを折込済みで紹介してきたのか、ってこと?」
「そうだ。思い当たる節は?」
「確かに今考えるとそうだったのかしらねえ。その時は、彼の口から父親がどうこうという話をした記憶はないけれど。あくまで私が自分で調べて、初めて知ったことだもの。ただ、我々と考えが似ていたのは確か。多分一度挫折してグレて、その間色々考えているうちにたどり着いたのでしょうね……
 今度は私が質問してもいいかしら……どう、あの心中事件は我々と関係しているのかしら?ヘルマンがサッカーの審判の息子を、私に紹介してきたこと自体に理由があると思っているんでしょう?」
「現時点では特定不可能、というのが正直な答えだ。君たちのほうは公安、放火心中の件は我々刑事が追っていて、接点はあるが一つの線でつながるには至っていない。ただつながるとしたら……」
「我々もターゲットの一つ。違う?」
「可能性はあるとだけ今は言っておこう。その筋(ユダヤ勢力)による君たちへ活動妨害は今に始まったことじゃないが、今回は他に絡んでいる要素もあってね。我々の立場で言うのも変だが、とにかく今は君たち自身の為にも、不用意に動かずじっとしていてもらいたいというのが正直なところだ……
 今日は以上だ。何か判ったらまた連絡する。手続きが済んだら帰ってよろしい。多分店の後片付けで大変だろうからね」

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キングスクロス:プロローグ(11)

 南インド。
 ベナレスから列車で十時間。と言っても、内陸を山間部をのろのろ進む列車の速度から換算して、半島を対岸まで丁度半分横断した程の距離だろう。デカン地帯の、ど真ん中ということだ。
 駅からは現地警察差し回しという有蓋ジープまで。と言っても、目的地まであと数キロと迫ったジャングルの真っ只中で、彼はジープから降ろされることになった。
「目的地では、まだないのでは?」
「そうです。ただ、ここからは……」
 苦笑しながら現地警察のガイドは路肩を指した。髑髏を象った石碑が真っ赤な液体を被り鎮座している。鮮やかすぎるその色が却って、人の生き血でないことを証明しているが、これが建てられたであろう数世紀前はどうだったのやら。そしてその脇にぶら下がる、錆付いたプレートには、国旗の下に並ぶ数行の英文が国有地であることを記していた。
「マハラジャの所領ということでもありますが、公式には陸軍の敷地扱いです。民間人はもちろん、我々公務員と雖も無断立入りはデリーの参謀本部が許さない、という訳です」
「わかりましたが、しかし、ではここからは?」
「あなたの来訪は伝えてありますよ。間もなく迎えが来る筈です」
 警官の言葉を裏付けるように、二台の車が乗り付けてきた。一台は彼を乗ってきたのと同じジープだが、もう一台はデリーで時々見かけた白いアンバサダー。要人だけに充てられる公用車であるのは言うまでもない。
「久しぶりだね」
 半分予想していたのだが、リアシートから降り立ったのはロシア大使のロストフだった。
「ご無沙汰しています。大使にもご足労をおかけしたようで恐縮です」
「いやいや、今回の件では是非ともここに来る必要があったんだ。謝ってもらいたい相手がいるとすれば君じゃなく、そもそもインドや君たちを巻き込んでおかしな計画を立てた連中だな」
「は……」
「さあ、立ち話も何だ、戻ろうじゃないか。君には初体験だと思うから、インドのマハラジャの居城を見物していくといい」

 十一月十五日、ニュルンベルク。
 マックスの運転するワーゲンは、通りを疾走していた。
「データは持ってきたな?マダムの素性をもう一度復習させてくれないか」
「わかりました。バルバラ・ヒューゲル。通称『鉄の聖女』。ヘスの次男坊と違い筋金入りのヒトラー信奉者。これは父親譲りだからですが、その父親とは一九四五年の敗戦と分裂で二歳に生き別れになったきり。父親のほうは身分を隠して東ベルリンで暮らしていたが、一九五八年発覚、スパイの嫌疑をかけられシュタージの拷問を受けた後銃殺。彼女がこの事実を知ったのはベルリンの壁が崩壊した一九八九年でした」
「入党はそれがきっかけだったな。まあ、動機としては充分だな」
「そうですね。スタートは既成組織の平党員でしたが、それが摘発を受け解散を余儀なくされた後、自ら代表として新規組織、今の『鉄の騎士団』を立ち上げる。現在党員は約八十名」
「政治結社としては、決して大きくはないが……」
「宣伝に費用をかけていないんです。理由は二つあるようです。一つは政治結社という特色を隠すこと。現に、表向きは心理カウンセリングサークルと名乗っています。もう一つは、規模を大きくせず少数精鋭主義で行くことで、限られた経費で良質の……」
「戦士を育成する……だな?」
「だと思います。他のネオナチ同様、どの構成員もそれぞれ生業を持っています。彼女自身、普段は旅行代理店経営者兼カウンセラーとして暮らす一方、数々のアラブ系軍事教練キャンプに参加、内外の依頼を受けテロ行為にも数度関与していた疑いがあり、公安もマーク強化を検討したことがあるそうです」
「何と言うか、合理的な組織だな。彼女の性格かねえ」
「それもあるでしょうね。大なり小なり、秘密組織はそうなのかも知れませんが」
「我々も含めてかね?」
「どうですかね……ほら、着きましたよ」
 通りを路肩に寄ったワーゲンは、一軒の店から約二〇メートル離れて停止した。パーキングメーターにコインを入れると、石畳の歩道を歩き出す。職権乱用とも言える公務員、特に警官のパトカー違法駐車が問題になって以降、上部も路上マナーにうるさくなった。いつものマックスなら聞き流すところだが、今回はつまらぬ悶着で任務を中断されたくない。
 バルバラの預かる旅行代理店は、大きなマンションの一階をガラス張りにし、しかし派手なポスターを内部が見えないほどに貼り並べていた。
「いらっしゃいませ。どういう商品をお探しですか?」
 奥から現れカウンターに就いた女性は、そうにこやかに応じた。七十を越えている筈なのに、まだ四十、五十といっても通じそうな若々しさだ。
「商品じゃないんです。探しに来たのは人でね。フリードリッヒ・ヘス。ここに勤めていたそうですが?」
 二人が示す警察手帳に、バルバラの表情が引き締まった。
「ああ、フリートのことね……まだ見つからないんですか?」
「心当たりはないのかね?」
「前に来た、別の刑事さんにも答えたんですけど……その時と同じ。まるで見当もつかないんです」
「貴方なら知っているんじゃないかと聞いたんですがね、xxxに?」
「馴染み」の捜査員の名前を出すと、彼女の表情がまた動いた。
「なるほど……私のことは承知で、ここへいらしたのね?」
「そういうことです。ご協力いただけませんか?」
「奥の事務所に来ていただけますか?散らかってますけど、ここで話すお話ではないと思いますから」
 彼女はそう言ってカウンターを出てきた。表に「休憩中」の札を出すために。

 南インド、パンコット。
 邂逅地点から道は一転、下り坂になっていた。境界を示していたというあの石碑は、山の稜線に沿って引かれた境界線の一部だったのだろう。
 深い密林を抜けると、山奥とは思えぬ繁華な市街地を抜け、再び切り立った砂岩の山道を登りきったところにマハラジャの居城はあった。崖を巧みに利用して仕立てた難攻不落の城塞が、インド独特の丸屋根を無数に戴いている。数重になった城門を抜け、西欧様式を取り入れた宮殿の前で車を降りると、ターバンを巻いた執事の先導で、宮殿の中庭に面した一室に招かれた。中央には事務机と応接セット。どれも贅をつくしたものだが……
「ここは……執務室、ですか」
「陛下の私的な書斎でございます。ごく親しいお客様をお招きした際にだけ、この部屋をお使いになります」
 初対面でごく親しい、もない。馴染みらしいロストフのことを指すのかも知れないが、その紹介としてもいきなり呼び出しがくるというのは……ともかくそう答えた年配の執事が、銀盆に載せられたお茶のセットを応接セット中央のテーブルに置いて退出した。応接セットと言っても、インドらしく床に敷いたカーペットにじかに座り、それを低めの背凭れと、肘をクッションで支えるという、いかにも東洋風のものだ。どうやら初顔ではないらしいロストフのほうが、座り心地に馴れずにいるのが可笑しかった。
「陛下がお出ましになります」
 再び現れた先刻の執事の口上に続いて、どこに待機しているのか荘重な銅鑼の音と同時に、サリー姿の老女が一人、奥まった入口から現れた。
「ようこそ、遠い土地からご苦労でした。貴方が、チェチェン大統領のお使いですね?」
「・・・です。謁見の栄に浴し、恐悦至極です」
 事前に教えられていた作法などぶっ飛び、型どおりの挨拶しかできなかった彼を、しかし女王は咎めるでもなく緩やかな相槌で受け止めた。居並ぶ高官も、内心はどうかわからないがやはり、特に気にするような素振りはなかった。こういうハプニングには慣れているのだろう。脇に立つロストフも微笑していた。
「海外に出るのは初めてと聞きました。驚くことばかりではなかった?」
「御意。しかし、今回の騒動に比べれば、自分のことは大きくはないのでしょう」
「大変でしたね」
 女王は真顔になっていた。
「今回の件、デリーの政庁と軍司令部で検討したのですが、このまま見過ごしてはインドの利益と合致しない、との結論に達しました。この件については、首相もモスクワの大統領と直接話し、意見の一致を見ています。そこで」
 彼は無意識に居住まいを正した。
「インド連邦政府は今回の件に対して、非公式にですが介入することを決定しました。必要に応じて今後ロシアその他の国との共同作戦を取ることもあり得ますが、基本的にデリーの参謀本部が作戦を立案します。我々パンコットの特殊部隊が、その中核作戦実行を命じられました。詳細はこれからですが、申し出には確かにお応えできるだろうと、グローズヌイの大統領閣下にお伝えいただきたい」
「ありがとうございます。これで、安心して本国に戻れます」
「よかったですね」
 そこまで言ってから、彼女は真顔に戻った。
「当分含んでおいてもらいたいのですが、現時点ではこれはあくまで我がインドとロシア、そして貴方方のチェチェン政府だけが関知していることです。ロシア大使からは、ワシントンとも時期を見て情報共有すべきと助言をいただいていますが、タイミングについてはデリー政府があらためて判断することになっていますのでよろしく」
「承知しました」
「有意義なご訪問にして差し上げられて我々も満足しています。今夜はゆっくりしていらっしゃい。明日になれば、今までとは違って忙しくなるわよ?」
 彼は仰天した。デリーでの、彼の仕事ぶりをパンコットは承知しているらしい。ロシア大使が哄笑した。

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2008年8月 6日 (水)

キングスクロス:プロローグ(10)

「で、今日ぐらいは不快でない報告が聞けるんだろうね?」
「は……広州で建造中の『オリンピア』の件であります。船底に搭載する機関について、構造上無理があると言う報告が専門家のほうから出てきています」
「専門家か」
 主席は唇をへの字に曲げた。搭載する「機関」の正体を「専門家」達には教えていない。尤も、駄目を出してきたと言うことは、彼ら自身薄々気づいているのかもしれない。然るべく黙らせる算段をしておくべきかも知れない。
「どうなんだ?その『専門家』で解決できる問題なのか?内容上、そもそも不要に広げていい話でないのはわかっているね?」
「仰る通りです。現地の軍関係者もそれを憂慮しておりまして、一度直接ご報告の上ご指示があれば仰ぎたい、と申しておりました」
「それがこの接見嘆願ということだな?……わかった。呼びなさい」
「かしこまりました」
 秘書官が押した呼び鈴に応えるように、二人の陸軍軍人が入ってきた。一人は恰幅のいい管理職タイプ、もう一人は……軍人と言うより如何にも研究者タイプのヒョロリとしたタイプ。何やら衣紋掛けが、陸軍大尉の制服を背負って歩いている感じだ。背負っているのが制服でなければ、街頭で公安に誰何されそうなタイプにも見える。根っからの軍人と言うべき前任者だったら、いけ好かないタイプだろう。
「状況は聞いた……忌憚なく教えて欲しい。現在担当している技術グループで、この問題を解決できるかね?」
「無理です」
 あまりにもはっきりした回答に、主席のほうが苦笑した。
「重量上の問題かね?」
「そうです。一般のディーゼル、乃至ガスタービン機関を充てるのであれば客船対応の技術で充分間に合いますが、これは駆動部分だけでなく、周囲の『安全装置』を含めかなりまとまった設備を加えることになりますので、設計図を根本的に書き直す必要があります。彼らの技量で不可能というわけではありませんが、その場合は自然と、本船の真の姿を彼らも知ることになります」
「機密保持上の理由、ということだな。現在はまだ大丈夫なのか?設計作業が難航していると聞いたので、私はそこを気にしているのだが……」
「そこまでは多分。専ら現場の議論が、強度と予算の問題に特化していまして。尤も自分が、そのように仕向けてはいるのですが……」
「然るべく手を打つ必要はない、と判断していいのかね?」
「さて……何事にも絶対はないと言われればそれまでですから、念のためというご指示があれば何時たりと遂行する用意はありますが、現時点でその兆候があるのかというご下問でしたら、ノーです」
「ありがとう……今の『専門家』には、それとなく現場から去ってもらう方向で検討しよう。後を引き継ぐべきスタッフの人選は、君たちに任せていいかな?」
「ご指示があれば、いつでも」
「よろしい……下がりたまえ」
 軍官吏を下がらせ、再び二人きりとなると主席は応接セットに座を移した。初期段階で提出させた設計図のコピーを机上に広げる。特に接客時でなくても、執務の合間などリラックスしたい時はこの区画を使うのが主席流だ。
「問題はありませんでしたでしょうか?」
「まずは結構。機関の問題さえちゃんと抑えれば、他は何とかなるんだろう?」
「その通りです」
「進水式が楽しみだな……」
 主席の表情が、今日初めて緩んだ。カリブ航路を凌ぐ世界最大のクルーズ客船。それが北京オリンピックを控え竣工、開幕に向けて七つの海を巡る。海上の聖火リレー。それも文字通り、アテネで採った聖火を積んで。
 十五階建てのデッキに三等級のキャビンが並び、三層構造のメインダイニング、ホール、二層構造のアーケード中央には、最上階まで吹き抜け……
 空路を挟みながら欧米、アジアで強行した陸上の聖火リレーは、政府発表にも関わらず惨澹たる失敗に帰した。全ては三月のチベット動乱、そしてそれに対する世界中での抗議活動。アテネでの、採火式への暴徒侵入から全ての流れは決まっていたと言うべきか。ギリシア政府は型通り遺憾の意を寄越したが、行間に政府の冷笑を読み取らなかった政治局員は居ない。そしてパリでも、ロサンゼルスでも、シンガポールでも、長野でも。エベレストでは悪天候の為登頂は断念、それでも吹雪を逆用して真っ白な背景で成功を発表。なのに海外の反応は冷え込む一方だった。
 その後は新疆でも不穏な動きがあるとか。仏教徒(ラマ教)のチベット族と違い、元々聖戦思想を持つ回教徒の東トルキスタンは危険度ではむしろ優ると言っていい。これから火を噴くようなことが、なければいいが……

 チェコ・プラハ。
「話は聞いた」
「で?反対の理由は?」
「モスクワがつんぼ桟敷に置かれている」
「何?本当か?」
「正確には、置かれていたということだ。その後あらためて北京から事情説明があったらしいが、当初の経緯が経緯だけに、クレムリンは北京への不信感を払拭できないでいる」
「北京が勝手に計画したということか。お前は気づかなかったのか?」
「ありそうなことだと思ったんだ。西側と同じ、騙されたくちというわけだ。だか、察知したクレムリンが、それでも差し出されたチェチェンと言う餌に食いつく決断をすれば話は別だったが……」
「食いつかなかった、ということか?」
「ワシントンやデリーと頻繁に連絡を取り合っている。この三国間で他に、そうする必要がある外交懸案は今ない。決断まで時間はかけたようだが、結局モスクワは北京よりワシントンを取ったということだ」
「……」
「だから我々も、不用意に食いつかないほうが賢明ではないのか?以前に較べて沈静化はしているが、反革命政権の掃討作戦はまだ終わっていない。一歩間違えれば、いつ根こそぎにされてもおかしくないことを忘れるべきではない」
「それで全部か?」
「そうだ」
「わかった」
 ボリスは次の瞬間発砲し、永年の同志の眉間を吹き飛ばした。
「先刻、オデッサの同志から連絡があってね。荷物がこちらに着いたそうだ。もう我々に後退は許されないのだ。わかってくれ」
 もう何も映さなくなった瞳孔にボリスはそう語りかけ、物を言わぬ肉塊となった昨日までの同志を黒海の、文字通り黒い水面へ蹴り落とした。

 インド・デリー。
 砂色の公共建築物が、チャナカプリ地区の中央を縦断する大通りの左右に並んでいる。同じ砂色と入言っても、中国のそれが冷ややかなのに対し、ここでは赤みを帯びているせいか、血が通っているような気がする。
 中世に起源を遡るオールドデリー、イギリス統治時代に開かれ、今も国政の中心であるニューデリーを過ぎ、市街地の南西隅に位置するこの区域こそ、各国在外公館員始め在留外国人が居を定める、謂わば外国人街だ。尤も旧ソ連大使館の物件をそのまま使っているロシアと違い、チェチェンの代表部は区域のそのまた端に近い、雑居ビルのフロアー一つを借りたささやかなものだった。
 チェチェンから派遣されてきているのは公使が一名、一等、二等書記官が二名ずつ、あとは皆現地採用の事務方だ。ロシアへの、と言うよりヒンドゥー教を最大国教にしているインドへの配慮であり、現に現地事務員の半数はヒンドゥー教徒。それでもこの公使館内に限っては、インドで何かと言えば問題になる宗教対立の影はなかった。
 非常勤調査員と言う肩書でこの新しい職場に入った彼は、インド外務省への挨拶回りを済ませた後はロシアを含めた公使館を廻る。モスクワから戻っていたロストフ大使は微笑で迎えたが、彼の意図を知ってか知らずかはアッラーのみぞ知る、だ。
 着任の儀式を一通り済ませるとすることもなくなり、昼間はあってないような事務処理、休日は市内から近郊のアグラを巡る生活を続けていた彼に、公使を通じてインド政府からの呼び出しがかかった。内容は予想したとおり、ロシア大使との会見。期日は三日後。しかしインド政府が内々にであろうがセッティングしたその場所に、彼は驚きを禁じ得なかった。

 十一月十四日、ニュルンベルク。
「つまり、犯人は次男…フリードリッヒじゃないと?」
「違いますね。随分振り回されましたが、これはカモフラージュです。それも、わざわざ彼の犯行に見せかけるためのね」
「となると犯人は、やはり父親の疑惑絡み、なのかな?上部はFIFAからも結論を急がされているらしいが」
「恐らく、但し、次男坊が全く無関係とも限りませんよ」
「何が言いたい?」
「考えてみたんです。FIFAでの疑惑は八百長だったわけですが、事実だとして父・ウィルヘルムは何故、そんな馬鹿げた企みを引き受けたのか?莫大な謝礼を約束されたとも言われていますが、キャリアを某に振って大金を手にしても、後の人生、死ぬまでその不名誉を負って生きていかなければならない。そういうことは最も忌み嫌うのが、彼の生き方だった。関係者は皆そう言って、八百長疑惑の不自然さを指摘していました。憶えていますよね?」
「ああ」
「だがここに、フリードリッヒという不肖の息子を登場させると、話が見えてくるんです。と言っても、とっくに知られている酒やセックスの類じゃない」
「なるほど……ネオナチ入党の件だな?」
「そうです。それも今回の捜査で初めてわかったことで、多分父親は知らなかったか、知っていたが周囲には秘密にしていた……」
「なるほど!それをネタに脅迫したかな?公になれば『父親は父親、息子は息子』という理屈では誰も納得しないだろうからね」
「そうです。ドイツ国内もですが、今後国際大会で父親がホイッスルを吹くことはまず不可能です。その事実をネタに脅迫されたので、理不尽な八百長でも応じざるを得なかった……違うでしょうか?」
「いや、その推理は当たっているかもしれないな。しかしその秘密に通じていた相手となると、身辺近くにいた者か……その団体かもしれないな。団体ぐるみでないとしても、中の誰か……」
「そこから捜査を進めますか……この話、内務省も関心を示しているようです。もたもたしていると公安に手柄を攫われますね?」
「そうだな。局長に話してゴーサインを貰おう。時は金なり、だ」

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キングスクロス:プロローグ(9)

 東京・ヴェトナム大使館。
「只今戻りました」
「ご苦労だったな。しかし思わぬ展開になったものだね。フランスから事が公になるとは……」
「正直に申し上げますと、我々も少なからず困惑しています。これで余計に動きにくくなりました」
「そうだな……日本の警察と手を結べる望みはないのか?」
「今のところ、形跡はないですね。こういう事態になっても、どういうわけか未だ本気で真相解明に動く形跡がありません。望みは新たに立ち上げられた調査委員会ですが、顔ぶれを見るとキャリアのボンボンばかりで……」
「日本の警察は優秀だと進言したのは、君だった筈だが?」
「表現が不適切でした。いや、一人一人は間違いなく優秀な人材ですが、どうも最終決定権・捜査権を与えられてはいませんね。内外の批判をかわすため、形だけ立ち上げたものと言うのが、情報通での共通認識です。日本政府そのものが黒幕ではと将軍は仰った、あれは冗談半分だと認識していますが、ひょっとしたら冗談では済まないかもしれません」
「おい、おい……」
「敢えて言えば、気になる人物がいるにはいるのですが……」
「誰だね?」
「工藤義将。警視庁公安部付ですが、先日まで外事課担当。東大法学部卒で日本警察内ではエリート中のエリートでしたが、二年前或る事件に事実上連座、以降ラインを外れていました」
「エリート中のエリート……君がそう言うからには、余程の切れ者と思っていいのかね?」
「そのつもりです。ワールドカップ直前の、北朝鮮副主席狙撃未遂事件は覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、訪日中のことだったね……あの後副主席は亡命、日本では警備局長が急死、平壌でも粛清の嵐が吹き荒れたという……」
「そうです。この工藤と言う警察官は、副主席警備本部のキーマンでありながら、狙撃グループにも利用されていたと見られています。事件後雌伏を余儀なくされていたのはそれが原因ですが、その間表には立っていませんが二件の外国人犯罪捜査に参加、事実上彼の功績で解決に導いています。それが今回、名目上とは言え重要案件の調査担当としてカムバック……気になります」
「わかった……その人物をマークしていれば、何かわかるかも、ということだな?」
「そうです。彼自身の意思なのか、誰かの思惑が働いたのか、そしてその真意は?今はまだ霧の中ですが、少なくとも痴漢詐欺が警察を巻き込んだ大掛かりな謀略の一環であることだけはこれで間違いありません。いずれ、尻尾をつかんでみせますよ」

 二〇〇七年九月十七日、ルアーブル。
 戦後、「全てを鉄筋コンクリートで」という、当時としては画期的な工法で復興した、典型的な現代計画都市である。市庁舎や美術館の並ぶ中心地から歩いて十分ほどの距離に、そのアパートはあった。設計したのは建築家オーギュスト・ペレ。当時としてはあまりにも前衛的なそのデザインは、石造住宅に馴染んだ住民からは当初不評で、わざわざモデルルームを用意して意識改革から始めなければならなかったという。半世紀以上経った今なお前近代的に見えないその棟の一角が吹き飛び、焦げて崩れた断裂面から、血管か神経のように醜くひん曲がった鉄骨が突き出していた。
「……つまり、爆発元はその女性の部屋なんだな?」
「そうです。最近になってイギリス人の姪が同居を始めています。遺体はその、伯母と姪の可能性が大です」
「素性は?」
「伯母は数年前に図書館の司書を退いて、今は年金生活。姪のほうはパリで調剤師として働き、週末だけこのアパートに泊まっています。本人については、それ以上詳しいことはまだわかっていませんが……」
「何だ?」
「弟が、ルーアンの選手だそうです?」
「リーグ・1(アン)か!」
「そうです。現在遠征中ですが、クラブと連絡が取れました。間もなく駆けつける筈ですよ」

 ムンバイ。

 モスクワ・クレムリン大統領執務室。
「妙なことになったな……ミャンマーの件がつながっていたとは」
 ストロガノフは呟いた。イラクの某宗教指導者を通じての、チェチェン外交筋からのコンタクトに、クレムリンは仰天した。しかも背後に、アメリカとヴェトナムがついているとは。
「北京は何を考えているんだ?チェチェンを使っていると言うことは、明らかに我々を巻き込む意図があるということだ。それで、今になっても挨拶一つないというのは……」
「二つ考えられます。一つは、この計画自体が我々の国益と真っ向から矛盾する場合。しかし、台北や東京相手ならともかく、不用意に手を出せば火傷もしかねないことは彼ら自身よく自覚している筈ですから、これはあまり考えられません。過去の歴史を忘れ厚顔無恥に陥ったのなら話は別ですが」
「君に言われては、彼らのほうが気の毒だな……まあいい、二つ目は?」
「作戦を指揮すべき、北京で意見の相違が発生している場合です」
「仲間割れか?」
「それはわかりません。作戦遂行の是非そのものを争っているのか、単に作戦指導部内の主導権争いなのか。尤も、作戦そのものの目的すらつかめていない現時点では、推測の域を出ませんが」
「その通り。今は何より、それをつかむのが最優先だ。でないと我々も対応策を考えようがない。と言ってもワシントンが既に一枚噛んでいるとなれば、ある程度選択肢は限られるが」
 情報提供者はこれがクレムリンへ伝わることを計算の上か否か、デリーと連絡を取り合うことを示唆していた。デリー。第二次世界大戦後、国境問題で早くから北京とは火花を散らせていた仲で、冷戦が終結した今も、アメリカとヴェトナムのような関係修復への途はまだまだ遠い状態だった。
「二キータと話してみるか……」
「ロストフ大使ですか?」
 FSB長官の露骨な不満顔に、ストロガノフは苦笑した。印中ほどではないが二人の不仲は、今やクレムリンで知らぬ者はいない。
「気持ちはわかるが、本気でインドを動かすとなると、彼抜きで話を進めるわけにはいかない。それにインドは先日、カシミールで中国の国境侵犯未遂以降、神経過敏になっているらしい。最終的に組むかどうかは別として、つんぼ桟敷で進めるのは利口じゃない。私が大使館に電話をかけよう。口実は君が適当に考えてくれ。頼むよ」
「わかりました」
「それと……後は、チェチェン経由で持ち込まれた『荷物』の足取りだ。ミャンマー経由計画をアメリカが潰しに来たと言う事は、ただの衣装ケースなどではあり得ないという事だ。中身も勿論気になるが、どこからどう入って来て、今も我がロシア領にあるのか、それとも既に第三国へ運び去られているのか。どういう対応を取るにせよ、状況を少しでも正確に把握しないことには始まらない。出来るな?」

 十一月一日、ニュルンベルク。
 ホテル火災で消防に続き駆けつけた警察は、焼死者の身許を知って大騒ぎとなった。
 ウィルヘルム・ヘス。職業・サッカー審判員。公正なジャッジングでドイツ国内のみならず世界中に知られ、ワールドカップの決勝戦を捌いたこともあるあるベテランだが、過日の北京オリンピック最終予選でのジャッジを巡って或る疑惑が浮上、FIFA(国際サッカー連盟)の事情聴取を受けることになっていた。現場から発見されたのはウィルヘルム始め家族と特定されたがただ一人、同居していた筈の次男だけ遺体がなかった。フリードリッヒ。ヘス。かつては代表入りも確実とまでその才能を認められ、自らは叶わなかった父親の夢をも担っていたが、あの九・一一に居合わせたばかりに負傷、選手としてのキャリアを棒に振ってからは酒、薬とセックスに溺れる一家の厄介者になっていた。さらに捜査を進めていくうち、この若者がある小規模な右翼団体の一員であることが判明した。
「鉄の騎士団」。ご多分にもれずネオナチの流れを汲むが勢力・規模は小さく、各国当局の監視対象リスト中でも優先順位は下のほうとされていた。彼の入団は約半年前。警察はこの次男を重要参考としてマーク、捜査を全国に展開した。FIFAでの事情聴取の理由になっていた疑惑は、いつの間に捜査線上から消えたも同然になっていた。

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キングスクロス:プロローグ(8)

 二〇〇七年
 三人目の死体が出た。
 香山ミカ、十七歳、私立聖教学園高校三年。着衣を全て剥ぎ取った上、四肢を針金で緊縛、焼け焦げた表面にはガソリンの匂いが僅かに残っていた。直接の死因は、熱風を吸い込んだことによる気管支損傷と推定された。
 だがそれに加え、当初火傷で目立たなかったことだが、露わになった性器が損傷していくことがわかった。それも性行為という程度でなく、性器とその周囲一体が火傷で爛れるという凄惨なものだった。当初警察と報道機関は詳細の公表を控えたが、またぞろどこからか動画が流出、不十分な情報が第三者の好奇心を煽り、数日後には全国がその全貌をほぼ正確に把握するところとなった。一部の犯罪嗜好者が主にインターネットでその欲望を満たす一方で、警察はかつてない手口から、昨今増加しつつある在留外国人による犯行を視野に展開。しかし早くもその方針には待ったがかかった。

 二月二日、アルマ・アタ(カザフスタン)

 二月五日、クラスノボツク(トルクメニスタン)

 二月七日、バクー(アゼルバイジャン)
 バクーからの長距離バスが到着した。

 二月十一日、ヤルタ。
 有名なヤルタ会談の行なわれたニコライ二世のリヴァ―ディア宮殿や、高級レストランとなっているドイツ富豪の館「ツバメの巣」が並ぶ一帯を過ぎ、岬を廻った半島の反対側に出ると、嘘の様に人跡の絶えた風景の中、海岸線に屹立する岩山に貼り付く様に建てられた、一軒の別荘があった。名義人は旧東ドイツの情報将校だが、実際は中東の石油王が専ら使っているとの噂だった。

 六月二十八日、オデッサの大階段
「戦艦ポチョムキン」で有名な革命蜂起の舞台。上から見ると踊り場だけしか、そして下から見ると踊り場が全く見えない。

 六月二十八日、モスクワ・ヤロスラブリ駅
 北東のヤロスラブリから東へ向かい、極東・オホーツク海沿岸のハバロフスクまで延びる、所謂「シベリア鉄道」の始発駅で、九日をかけて走破する特急「ロシア」号もここから出発する。隣接するレニングラード駅の、西欧の薫り漂う雰囲気とは一味違い、白と褐色の本屋から、いかにもロシア的なとんがり屋根が朝方の街並みにそびえていた。
 今日も客車を渋い朱色に包んだ「ロシア」号が到着した。屋根のないホームに列車が停車すると、乗客たちは思い思いに客車のドアを開き、身長と同じくらいの荷物を抱えて降り立つ。余裕のある者は車内から、またはホームに待ち構えた赤帽に荷物を持たせている。
 エカチェリンブルグから乗車した一人の男が、意外に小さな荷物を抱えて降り立った。
 市内には八つの、まるで同じ設計図から建てたような超高層ビルが建っている。モスクワ大学、外務省、等々。元は、マンハッタンの摩天楼にコンプレックスを抱いたスターリンが建設を命じたもので、そのためエンパイア―・ステート・ビルそっくりの外観に外国人旅行者の……失笑を誘っていた。その後財政難、そしてソ連崩壊を経てしばらくプロジェクトは中断していたが、近年最後の一棟が、高級マンションとして竣工。それまでモスクワ市民はこれをいささか自嘲気味に「七姉妹」とか「スターリンのウェディングケーキ」と呼びならわしていた。ちなみにポーランドのワルシャワにも、社会主義政権期に同じような摩天楼が建てられた。「人民文化宮殿」と言い、しかし市民は「スターリンによるポーランドの墓標」と呼んでいたと言う。
 こういう、ロシアに愉快でない情報の場合、一般国民は知ることさえなく、ソ連滅亡(CISへの改編)後も国定の教科書には載っていない。教科書に自国の悪口を書いて喜んでいるのは、日本人ぐらいだろう。

 七月三日、モスクワ・キエフ駅
 ヤロスラブリ駅やカザン駅がロシア独特の雰囲気をもつのに対し、こちらはレニングラード駅同様、パリかどこかからそのまま移し変えたような洗練された西洋建築だ。
 黒海沿岸のオデッサへ向かう長距離列車

「チェチェンで?」
 ストロガノフは戸惑った。
「どういうことだ?チェチェンの反ロシア行為は『事実』だったということか?」
「それはノーコメントとさせてください。自分が気になるのは情報の内容もですが……」
「提供元がアメリカだ、ということだろう?」
「そうです。互いに掲げた『対テロ戦争』という看板がいい加減色あせ始めているのは重々承知の筈ですから」
「どうなんだ?こちらをけしかけて窮地に陥れる意図ということはないのか?」
「未確認ですが、確かに可能性は排除できないでしょう。ただ、イラク戦争の長期化で苦境に立っている今のホワイトハウスが、そういう選択肢をとるかどうかとなると……」
「わからないぞ?次の大統領選挙では、民主党が有利とも聞いているからな」
「仕組まれた『対テロ戦争』ですか……ともかくまだ判断材料が少ないですから。こちらは情報収集を続けます。何か新しい情報があったら、あらためて報告すると言うことでよろしいでしょうか?」
「それで結構。こちらはさしあたって、情報の真偽を確かめなければならんな。これは、現地の協力者に頼むとしよう。状況が把握できるまで、表立った行動は控えたほうがよさそうだ」

「久しぶりだな……どうした?」
「この間の、痴漢裁判覚えてるか?被告人が自殺したと言う……」
「ああ、家族が民事提訴したとか。でも、本部が扱うような性質の……」
「関係者が相次いで死んでいる」
「……」
「当日被告を警察に引き渡した駅員、取り調べた捜査員、そして裁判官の自宅は放火された。一事不再理の原則から、一度裁判所に送った痴漢事案を一から洗いなおすというのは滅多にないんだが、加害者側が冤罪を訴えていた上こういう展開になったことからマスコミが採り上げだしてな。上もやっと重い腰を上げ、非公式ながら再捜査に着手した。その非公式の捜査本部長が俺って訳だ」
「何が出てきたんだ?痴漢詐欺か?」
「図星だ。引き金を引いた人物も特定できた。何と、被告人の上司だ」
「理由は何だ?職場内のトラブルか?」
「まあ、まず聞いてくれ。被告人が勤めていた商社なんだが、日本の大手石油元売会社がベネズエラから原油を定期的に買い付ける契約を仲介することになった。これは、最近経済産業省がアメリカの要請で出した通達に抵触するんだが、被告人はこの担当者で、最後まで通達を理由に反対していたそうだ」
「……買付契約は?」
「めでたく締結。まあ禁止されていたわけではないし、あとは来月の正式発表を待つばかりだったんだが、今回の事件で流動的になっているらしい。そのせいで捜査本部には野党ばかりか与党の通産族からも圧力がかかっていて、なかなか進まないでいる」
「外交問題が絡んでいるのか。天の声でもあれば厄介だな」
「同感だ。実は現場でも、そのパターンを心配している。なにしろ今の総理ではな」
「なるほど……」
 政治の圧力。どちらからにせよ本来あってはならないことで、北朝鮮拉致事件などのように捜査が捩じ曲げられては、司法の独立どころか国権侵犯だ。世論はようやくそれに気づき始めているが、いざ現場がそれを実践に移せるかと言えば難しいのも確かだ。
「今週中を目処に、現時点で分かった分の報告書を出すことになっている。結局中間報告ということになるが、結果捜査が進展するのか、逆に妙な方向に行ったりしないのか。ちょっと嫌な予感がしているのも事実でね」

 グローズヌイ・外交部。
「チェチェン人が計画の中にいる?事実なのでしょうか?また、モスクワの謀略ということは?」
 彼は言った。前世紀末の対ロシア戦争の発端となったモスクワ市内の爆破テロ事件が、しかし実はFSBの謀略である可能性は、早くも事件発生直後から、彼らのみならず全世界の事情通の間で取り沙汰されていた。
「事実のようだ。最終確認は今やっている最中だが、これはCIAからの情報だからね。ワシントンがモスクワの意を受けていれば話は別だが、共和党の現大統領ならそれは考えられない」
「そうですか……モスクワの動きは?」
「FSBの担当者レベルはキャッチしているようだが、クレムリンに上がって、何らかの判断がなされた形跡があるかと言えば、ノーだ」
「わかりました。しかし時間の問題……なんでしょうね。対策は?」
「CIAと連絡を取り合い、怪しい人物の特定と所在確認を急いでいる。どこかのタイミングで、モスクワとも情報交換の必要はあると思うが……」
「現クレムリンとは、話したくないですがねえ」
「判るよ。利用される可能性は排除できないからな。アメリカが仲介してくれれば問題ない気もするが……ただ、どうしても心配なら窓口の人選を工夫するのも選択肢じゃないかな」
「お心当たりが?」
「駐インド大使のロストフ氏だ。停戦交渉で会ったことがあるが、若い頃から世界中を渡り歩いている根っからの外交官でバランス感覚もある、つまり我々としては話のわかる人物だ。モスクワに一時帰国したと聞いているから、薄々今回の件も承知していると思うね」
「わかりました。ご指示があればいつでもデリーに飛びますが、接触はあくまで内々のほうがいいですね?」
「ああ。仲介はインド政府に依頼してはどうかと考えている。今はビルのフロアーに代表部が間借りしているだけの関係だが、インドはロシアとも中国とも一定の距離を置いて物を言える、我々にとっては今後重要な相手になる筈だ。肩書はデリー領事館の、非常勤連絡員あたりで考えておくよ」
「わかりました。用意しておきます」

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2008年8月 1日 (金)

キングスクロス:プロローグ(7)

 二〇〇七年一月二十七日、上海。
 ウルムチ行き特快(特急)列車は、いつもどおり静かに発車を待っていた。蘭州、ウルムチなどかつて「シルクロード」と呼ばれたルートをほぼそのまま経由することから日本では「シルクロード特急」とも呼ばれ、史跡巡りを兼ねた海外の旅行者とそれを当て込んだツアーが盛んな列車でもあった。
 発車間際、ホームに黒塗りの高級車が横付けされた。党・政府最高幹部の専用車「紅旗」ではないながら、それに準じるベンツのセダン。中から数名の男性が降り立ち、今日特別増結されていた専用車両に乗り込む。男性の一人は、業務用カメラでも入っているようなジュラルミンケースを抱えていた。手荷物として客室に持ち込めるサイズをわずかながらオーバーしていたが、事前に連絡を受けていたらしく車掌も客室係もノーチェックだった。

 バルセロナ郊外。
 農園を思わせる広大な敷地に立つ別荘の書斎で、彼はその電話を取っていた。相手は時の国家元首……色々と噂の。
「元気かね、兄弟?」
「あまり元気ではない。理由は知っているだろう?」
「今シーズンも難しいらしいな?レアルが躓いたから楽勝と言うわけにはいかなかったようだな?」
「何の話か判らんか?」
「たった二人の兄弟じゃないか、惚けるのはよそう……全部、あんたの差し金だろう?」
 バルセロナ市内大都市で発生した連続殺人と、その捜査で浮上したリーガ・エスパニョーラの大規模な八百長疑惑。今や一昨年のイタリアを上回る好奇と軽蔑の十字砲火が、全世界からイベリア半島を襲っている。一応被害者ではあるが最大当事者たるFCバルセロナの窮状は、クラブ解散の危機に瀕したレアル・マドリードには及ばないながら深刻なものがあった。
「色々と大変なのは認めるよ……そちらほどじゃないがな」
 彼は話の矛先を逸らした。
「知っているのか?」
「情報化社会だからな。今朝そちらで暗殺された、野党大物のご遺族にお悔やみを言っておいてくれ。あれは私の幼馴染でもあったんだ」
「直接言ってくれんかね?私からでは絶対受け取るまいよ」
「そうだろうな。背景が取り沙汰されているようだし……話はそれか?」
「関係ないこともない。以前話しただろう?極東から大きな買い物をすると。その話を進めることにした」
「まさか……」
「反対か?」
「私は君の政治顧問でもないし、賛成も反対もない。ただ、血筋云々でなく一人の海外在住実業家として言わせてもらえるなら、タイミングは最悪だ。ワシントンは必ず尻尾を捕まえに来るぞ」
「こちらのブレーンも同意見だ」
「それでも……やるのか?」
「……白状しよう、やらざるを得ない状況まで追い込まれている。但し、ホワイトハウスの主が代わるまで隠し通せれば、事情は変わってくる」
「理屈から言えばそうだが……楽観的に過ぎるな。事態が拡大すれば彼、いや彼女もアメリカの面子の為には、間違いなくお前を斬り捨てる。それが政治と言うものなのは、お宅のほうがよく知っているんじゃないか?」
「芽はあるんだ……北京が仲立ちをしてくれる」
「本当か?」
「最初は嫌な顔をしていたが、北朝鮮の宗主国として振舞い続けるには、窮状の尻拭いも必要と言うわけだ。結局は損得勘定だが、それでも味方についてくれるとなれば事情は違う。その気になれば西海岸を更地にできる相手が、だ。わかるだろう?」
「話は判った……で、具体的には私に何を頼もうというんだ?」
「商品の運搬だ。経路は、恐らくヨーロッパから北米。詳細は追って連絡するが、実行はあと一、二週間後と思ってもらいたい。当初、別のルートも考えていたのだが、色々問題が発生してね」
「シドニーのテロ未遂、ミャンマー軍事政権首班暗殺……違うか?」
「……」
「それらの背後に、北朝鮮が絡んだ動きがあったことも、知っている者は知っているぞ。誰も気づいていないと思っているようなら、あんたも焼きが廻ったな。悪足掻きをする代わりに亡命の準備でもしたらどうだ?」
「わかった、わかった……全部、認めるよ。こうなった以上、北京も何とかしろと言ってきた。何とかなるのであれば、引き続き作戦続行のバックアップも約束してくれた。フロリダ沖に我々のような闘志が健在であることの利益は、彼らが一番知っている。カストロが耄碌した今となっては尚更な」
「議長同志が聞いたら怒るだろうな……いいだろう。テキサス出身のあの大統領やその後継者に、今後も世界の支配者面されるのは俺も御免だ。世界中の同志に協力できるというなら、その計画とやらに参加させてもらおうじゃないか。そちらの条件を提示してくれ。それに見合った運搬計画と見積もりを用意しよう」
「有難い。困ったときに助けてくれるのが、真の同志だ」
「水臭い事を言うなよ。そちらが落ち着いたら、一度こちらに来ないか?また地中海を眺めながら、ゆっくり飲もう」
 そう言って電話を切った彼の眼窩には、しかし果てしなく「水臭い」光が澱んでいた。結局口にすることはなかったが、あの口調は「八百長疑惑」の真相も全てお見通しなのだろう。断れば全貌を暴露する、ぐらいのことは言いかねないし、実際にやりかねない男だ。「たった一人の兄弟」として半世紀以上の付き合いだからこそ、現ベネズエラ大統領の為人はカラカスの誰より知っていると自負している彼だった。やられたらやられたで対応策がないこともないが、また莫大な費用と労力をかけるのも鬱陶しいし、ともあれこうなった以上、次には具体的な計画立案と来る。先方は自分に荷物を渡す前と、受け取った後のことも考えている筈に違いない。最終目的地は新大陸、実行予定は半月後、シドニーとミャンマーの事件……整理すべき点をメモに書き出す、彼の手が止まった。
 間近に迫った北京オリンピックに合わせ、連日のようにニュースで採り上げられるページェント。普通の人間……少なくとも「人道」主義の染みた西側の人間なら、絶対考え付くまい。しかし今のベネズエラ大統領がどういう人間か知り抜いている彼には、不意に浮かんだ疑惑を振り払うことはできなかった。まして、それに極東のあの国々が絡んでいるとなれば……。八百長の真相発覚どころでない、危険な賭けになると確信した彼は卓上のライターを取り上げ、書きかけのメモを灰皿の上で燃やした。掃除婦は秘密を守ることを知っている女だが油断はできない。黄色い炎で真っ黒く炭化した紙を橙色の線が再び舐め回し、完全に白い灰になるまで待った彼をはそれを手ずから粉々にすり潰し、厚ぼったい掌から伝わる熱を感じながら、人生最大の戦いへ闘志も新たに、受話器を取った。

 一月三十日、ウルムチ
 遠路上海から到着した特快が定刻を一時間遅れて到着。今年開催のオリンピックをいよいよ目前に、対外的にイメージダウンとなる大幅な交通遅延は北京・上海などの沿岸都市圏では嘘のように改善されていたが、まるで別の時間が流れているような西域に位置するこの都市では、そのような心配事はないかのようであった。

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キングスクロス:プロローグ(6)

 デリー、首相官邸。
 大通りに面し、砂色の赤い建物が多い中ひときわ目立つ白亜の執務室で、首相はヤンゴンから戻った補佐官を迎えていた。決して広くはないが洗練された緻密な造りの中庭には、何と噴水まであった。
「報告はもらった。ミャンマーのテロ事件に、対外勢力が絡んでいたというのは事実なのか?まあ充分あり得たと言えばあり得たこと、さして驚くにあたらないのかもしれないが……やはり、ワシントンか?」
「自分も最初はそう思いました。いえ、結論から言えば確かにCIAが関与し、第三海兵隊特殊部隊が作戦行動に参加していました。でもおも事件には、いや作戦と言うべきでしょうか、他にも関わっていた国がいたんです。アメリカ同様、あくまで極秘でですが」
「どこなんだ?アメリカにも近いとなると、やはりタイか?」
「違います……ヴェトナムです」
「何だって!」
 首相は、思わずティーカップを床に落とした。
「最初は自分も耳を疑いました。しかし、ドイモイ以降両国の経済的連携は強まりつつありますし、政治・軍事分野でも最近になって急速に関係修復の動きが出ています」
「敵の敵は味方……中国対策、だな?」
「でしょうね。理屈では何でもないことでしょうが、あの二国の場合はそれに踏み切るまで、実に長い年月を要したと言うべきなのでしょう。直接干戈を交えることの後遺症は、かくも深いものなのかとあらためて考えさせられました」
「ふむ……君に出張してもらったのは、あくまで北京の動きを探るためだったが、意外な土産物を持って帰ってきたようだね。カシミールでの越境未遂騒ぎが発端だったが、あれとどう繋がるのかはまだわからないな」
「仰るとおりです。ミャンマーの件に限っては、今のところ北京側から何かを仕掛けたという形跡は確認できていないので、二方向からインドに何らかの計画を仕掛けてきた、とは思えないですね。ただ日時が、あまりにも近接しすぎている。暗殺事件の余波がカシミールに及んだらしいと思われるとしか、現時点では申し上げられません」
「ワシントンか、ハノイか……ミャンマーへの『何か』を仕掛けた側が、その鍵を握っているような気もするが……」
「ご賢察。何なら、じかにお尋ねになられますか?」
「何?……まさか、このデリーに来ているのか?」
「正確にはアグラに滞在しています。お許しをいただければスケジュールを確認の上、接見の手配を進めさせていただきたく存じます」
「しかし、大丈夫なのか?君が見込んだと言うなら信用できる人物には違いあるまいが、非公式にせよ私がじかに会うことで、インドが難しい立場になることはないのだろうね?」
「これ以上、困った立場があるでしょうか?」
 第三者が同席していれば絶対聞けない補佐官のジョークに、首相は大笑した。
「わかった、わかった……一番早い空き時間となると、いつかな?」
「明日の午後四時から六時になります。議会からお戻りになり、カナダ文化使節を迎えての夕食会が始まる前です」
「それでいい。このデリーで会おう。手配を頼む」

 北京。
「参ったな。痴漢詐欺とは知恵を絞ったつもりかも知れないが、露見してしまっては元も子もない。やはり我々が直接実行したほうがよかったんじゃないのか?」
「それは東京の協力者から釘を刺されましたし、手口から足がついてはそれこそ元も子もありませんでしたから。確かに後始末の手口までは指示しませんでしたが、それでも当初は、関係者以外で因果関係を疑う声はありませんでした。まさかフランスから突っ込まれるとは想定外でしたが、地球の反対側では手の打ちようもありません」
「フランスに渡っていた若者だったな。手は打ったのか?」
「オリンピック代表からは外されたと聞いていますが、何しろ一万キロ以上離れていては、それ以上どうしようもありません。フランスはそれでなくてもスーダン問題で我々のオリンピック開催に冷淡ですから、むしろ召集取消しを祝福する声さえあると聞いています」
「資本主義者が!」
「ただ日本国内ではオリンピック協会、サッカー協会始めオリンピックに関わる主要団体上層部に再度手を打っています。今後同様のことが、少なくとも日本では起こらないとご安心ください」
「その言葉を信じよう……ワシントンは大丈夫か?」
「今のところ、勘づかれた形跡はありません。オーストラリアとミャンマーではCIAがうろついていましたが、今後は絶対安全なルートに変更しましたので、トラブル再発はない筈です」
「そう願いたいね。荷物は今、どこに?」
「カスピ海横断に成功したとの報告を受けています。これからは、例の土地を通ることになります」
「チェチェンか……ロシアはどうだ?そろそろ耳打ちしておかないでいいのか?敵に廻すつもりでないなら……」
「わかっています。モスクワの大使とも意見交換の上、タイミングを調整してみます」
「早めに頼む。万が一、敵に先を越されては話にならん」

 モスクワ・クレムリン宮殿の大統領執務室。
「全て『あれ』の移送計画の一部だった……と考えていいんだな?」
「自分の部下がそう、結論づけました……どうしますか?さしあたってはワシントンとの関係で、いざという時にどう対応するかですが……」
「ロストフなら、今すぐホットラインをつなげと言うだろうな」
「反対です」
「私は何も言っていないぞ?誰かの意見ではなく、あくまで私の状況予測だ」
「失礼しました」
「まあいい……君の推測には私も同感だ。今すぐご注進に及べば、我々も足許を見られるし、北京への有効なカードをあっさり切ることもない。ただ、ずっと、例えば最後まで黙っていれば最悪共謀していたと疑われても仕方ないのも事実だ。それでも構わないなら話は別だが……わかるな?」
「いずれカードを切るべきだ、と?」
「……この際、ロシアとしてのスタンスを確認しておくべきじゃないかな。まずもって、北京はどれだけ信頼に値するのかな?」
「は?」
「近々ソチ冬季オリンピックを開催することになったのは、北京も承知している筈だ。それがどれだけ微妙な立場かも。かつて我々はモスクワでの開催と引換えに国家の看板の架替えを余儀なくされ、彼ら自身も今まさに同じく、難しい立場に直面している。それが……この期に及んで彼らから直接の接触がない以上、仮に今後あろうとなかろうと、彼らに我々の存在はあまりないということだ。となると我々は我々で彼らに構わず、打つべき手は打っておくべきと思わないかね?」
「……わかりました」
「本件では君に、北京との実質的なパイプを任せることになると思うが、だからこそ今言っておきたい。彼らの動きには細心の注意が必要だと。北京との不協和音は今に始まったことじゃない……その事実は忘れないことだ」

 香港。
「ワシントンに、先を越されていただと?」
「今にして思うと変だったんですよ……チェチェンがやけに静かだと思ったら、デリーから大使が一時帰国。その後、グローズヌイの情報軍曹と接触していたこともわかりました。モスクワとチェチェンは表面化させないことを前提に手を結んだ、そしてその背後にデリーとワシントンがいる。考えたくはありませんでしたが、騙したつもりが騙されていたのは我々のようですね」
「マハラジャを乗船拒否したのは正解だったわけだ……しかし、最悪のシナリオじゃないか?こうなると、これからも相手は……デリーかワシントンかわからないが、間違いなく次々と手を打って来るぞ」
「どうしますか?次の寄港地はジェッダです。そろそろスエズを抜けて地中海に入りますが……」
「当面は予定通り移送を進めさせる。だが万一に備え、予備ルートをもう一つは欲しいところだ……何とかできないか?」
「できないこともありません……カラカスルートで、使えそうなのが一つあります。サービス業なので致命的ですが」
「何だね」
「バルセロナです」
「バルサ!まさか……使えるのか?」
「今の会長になって以来、あそこがベネズエラ反米テロ組織の隠れ蓑化しているのは公然の秘密です。それだけにアメリカのマークもありますが、FIFAなりIOCなりを抱き込めば何とかなる筈です」
「君の『何とかなる』は、どうもあまり当てにならないが……任せるよ」

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2008年7月31日 (木)

キングスクロス:プロローグ(5)

 広島。
 市内一の繁華街・新天地のアーケードを横切る小路の一つにその店はあった。深夜でも照明の絶えないアーケードと違い、数十メートルも入ると人家と、表の極彩色のネオンだけが暗闇に浮かんでいる。
「で、用件は?」
「或る会社員を一人、葬りたい」
「物理的に……と?」
 彼は声をひそめた。平日の深夜、それも閉店終了間近。客の姿は、彼ら二人の他に見当たらない。尤も店頭には、本日閉店のプレートがかかっていた……最初から。入口脇の看板の照明も、もちろん落ちている。
「場合によってはそうせざるを得ないが、現時点ではそこまで考えていない。具体的には現在の地位から引き摺り下ろし、現在している仕事をできなくしてもらえればいい」
「つまり、陥れる、だけということか?」
「できるか?」
 彼は傾けたグラスを卓上に戻し、相手を見返した。シンガポール・スリング。血のように真っ赤な強いカクテルだ。
「その気になれば手段はいくらでもあるが……いい方法がある。痴漢を起こしてもらう」
「痴漢?……詐欺、か?」
「そう。これなら十中八九、合法的に現在の地位を失わせることもできる。条例を制定している自治体で実行する必要があるのと、該当する職場・学校の規則次第だが、彼の場合勤務地が東京だし、会社の規則でも刑事訴追が懲戒対象となっているから問題ない。具体的なターゲットのプロフィールはこれだ」
 相手が差し出す封筒から取り出した履歴書のコピーを一読した彼は、口笛を吹いた。
「エリートサラリーマンじゃないか。しかも国際的な……背景はそれか?」
「……」
「知らないほうがいいということか。別にいい。それがこちらの流儀でもある」
「引き受けてもらえるということかな?」
「それは調査の上、あらためて最終回答をさせてもらう。その場合同時に、具体的な実行案も提示させてもらうと思うが、依頼主の身許がわかることは絶対にないから、その点は安心してもらいたい。連絡はこの番号にすればいいんだな?」
「裏に書いてあるほうだ。表の番号にはかけてこないでもらいたい。間違ってかけてきてもつながるまいが」

「そろそろ、計画の骨子を聞かせてもらえませんか?」
「ヒトラー信奉者に働いてもらう。彼等は未だ、全世界の嫌われ者だからな。我々の尻拭いをしてもらうのに、これほど格好の役者もいない」
「ヒトラーですか。ポーランドに侵攻するまでは、彼も上手いことやっていたように思えたのですが……」
「そう。イギリスやフランスは共産主義、具体的にはソ連への警戒感から彼の政策を事実上黙認し続けていたからね。彼自身はエレガントにやったつもりのようだが結果は最悪だ。その上フランスとも戦闘を始めてしまった。こうなると独ソ開戦後、英仏もソ連のほうと手を結ぶしか選択肢がなくなってしまった。ヒトラーの敗北は、英仏の敗北でもあったのだよ。彼等の中でそれを明確に理解していたのは、チャーチルだけかも知れないなあ」
「ただ、ドイツとフランスは、十六世紀以来の仇敵ですからね……ドイツをホロコーストの基地にしたのが、そもそもの間違いでした。現にロシアでは戦争の後も、連綿と民族浄化は遂行されていました」
「まあいい。問題はイギリス、フランス、そしてアメリカが余計な贖罪意識からユダヤに必要以上に肩入れした結果、とうとう本当に国旗と領土と軍隊を与えてしまったことだ。せめて日本のような憲法でも押し付けて玩具国家にしておけばよかったんだ。案の定、その後彼らがバレスティナで、ガザで何をしたかは知っているな?」
「しかし、日本型も失敗でした。中国大陸と朝鮮半島が火を噴いた結果、アメリカも日本に、自衛隊とか中途半端な名前で軍事力を持たせざるを得なくなった。尤も、ドイツとは同盟を結んだと言っても、日本人にはユダヤ問題が全く理解できておらず、だから早速千原某というような裏切り者が出た。皮肉なことに戦後は彼のほうが英雄になっていますがね」
「日本はなまじ中途半端に自由主義が入ってしまっていたからな。その意味では中国のほうが芽はあったが、ペテンで指導者にのし上がった毛沢東は権力の座を維持するのに精一杯で、農業政策で大失敗して何千万人も餓死させるなど行政能力はゼロ。文化大革命で政敵を葬ったお陰で畳の上で死ねたが、その後は……」
「他人任せに出来る問題ではないと言うことですね」
「ヒトラー信奉者は全ヨーロッパに依然多数いるが、各国がご丁寧にも監視対象にしているから、大きな組織は使えない。比較的規模の小さい組織を狙うことだな。と言っても見掛け倒しのチンピラ組織では困るが……」
「それならドイツ西部に、絶好の組織があります。早速、浸透要員を潜入させましょう……」

 北京。
「マンダレーから連絡です。内容は……」
「国内通過はできない。図星だろう?」
「……仰るとおりです。続けますか?」
「ん?……ああ、済まなかった。戒厳令下、ということだな?」
「そうです。それだけならむしろやりやすいのですが、なにしろ去年の暴動に続いてのことなので、他国メディアが鵜の目鷹の目で情勢を注視しています。持込みと国内の移動だけなら兎も角、そこからどのルートを採るにしても第三国に勘付かれるおそれがあるのです」
「あれほど行動は慎重にと言っておいたのに……我々としても、自業自得で片づけられない立場なのが厄介だが」
「どちらにしても、シンガポールルートは断念せざるを得ませんね」
「折角現地の有力者と話をつけたところだが、止むを得まい。となると、次は中近東か」
「イランですね。あそこは北朝鮮ともツーカーの仲ですし、難しくはないでしょう。我々が乗り出すわけには行きませんが、平壌にそれとなく伝えておきましょう。同時に、現地の(中国)大使館にも準備を指示しておきませんと」
「任せるよ」

 東京・ヴェトナム大使館
「何だ今のは!中国では『朝令暮改』とか言って態度がコロコロ変わると聞いたが、日本でそういう目に遭うとは思わなかったぞ」
「お察しします。お話を聞いた後、商社を洗ったところ」
「やはり北京が絡んでいるのかな?エタノール取引ではベネズエラから複数のルートを模索しているらしいが……」
「そのようですね、ちなみに前の担当者ですが……死んでいました」
「何っ!……殺されたか?」
「違います。或る犯罪で逮捕され、留置場で自殺したんです」
「逮捕だと?……まさかスパイ容疑か?我々との関係を疑われたわけでは、まだあるまい?」
「そうではないようです……痴漢です」
「はぁ?痴漢で逮捕だと?」
「今の日本ではあり得るんです。数年前から、東京や幾つかの行政区で実施されている条例で、痴漢をすると逮捕されるようになったんです。刑罰は罰金刑でそんなに重くないんですが、日本社会はこういうことに厳しくてね。それまで務めていた役所や会社はまずクビです」
「まさか……仕組まれたかな?」
「証拠はありませんが辻褄は合います。実はこの痴漢事件、今回だけでなく無実と思われるのに逮捕されたり、言いがかりをつけられて金品を詐取されるケースが激増、社会問題になってきているんです。それもこれも今言った、新条例施行後のことなのですが。
 ちなみに、彼と一緒に会いにきた若い社員も、どうやら他の部署に飛ばされたようです。そうして後任者は今日の通りの対応……」
「或る意味、殺されたのと同じなのかな……それにしても、打つ手なしで引き下がれと言うのか?ハノイも文句は言うまいが、何とか洗うことはできないか?遺族なり警察に接触する方法を、探ってみてくれ」

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2008年7月30日 (水)

キングスクロス:プロローグ(4)

 ミャンマー・ヤンゴン。
 中国大使館を出た黒塗りのベンツは、映画のセットのように人気のない大通りを政府庁舎へ疾走していた。
 戦車が警護する正門を通過すると、荷台に機関銃を搭載した無蓋ジープが駐屯地のように敷地を占領、瀟洒な筈の景観を台無しにしていた。
 北京なら考えられないことだ。立入制限区域の前までは鋼鉄製のコンテナを積んででもシャットアウトするが、その向こうには王朝時代以来の静謐を確保するのが北京のやり方だ。ヴェトナムと言い、誇るべき歴史を持たない民族はこれだから困る。
 行き交う車両は十中八九公用車だが、中国から輸入した筈の物はあまりない。一度糺した前任者は「中国車は故障ばかりするので使い物にならない」と逆ねじを食らったとか。一九七〇年代の戦争にもかかわらず事実上アメリカと手打ちしたヴェトナムでは、欠陥だらけの中国車には目を呉れず、日本メーカーと手を組んでオリジナルの低コスト二輪車を生産、中国車を駆逐してしまった。経済制裁で物資不足のミャンマーだから今のところそれはないが、勝手に平壌に靡いた皺寄せも来ていると言うし、いつまで「忠節」を期待できるか怪しいものだ。
 イギリス統治時代に建てられたという庁舎正面の車寄にベンツが停車すると、広報担当の下士官が現れ、慇懃に館内へ誘う。襟章からして、上級軍曹。非公式とは言え特命全権大使への待遇としては礼を失すると言うべきだが、こちらの来意を察していて、かつ乗り気でないという先方の意思表示と彼は察知した。
 大臣応接室にあたる部屋に通され数十分後、外交を担当する評議会メンバーの将軍が現れた。外務大臣といったところか。
「お待たせした……ご用件は、昨日書簡で受け取りました。結論から申し上げますが、最終決定はまだ出ていません。貴方方が本件に、何故リスクを冒してまで関与しようと言うのか、その真意を測りかねるからです。そしてリスクが高いと判断すれば、我々とて最終的にいいお返事を差し上げるわけにはいかなくなると、最初に申し上げておきます」
「……」
 特使はしばし無言だった。力関係を考えれば大言壮語に等しいが、どうやら先方はこちらの弱みに感づいているようだ。
「オリンピック、色々聞き及んでいます。内外で難問山積とか。ご苦労はお察ししますし、お手伝いできることがあればやぶさかではありませんが、当方にも当方の事情がありますのでね」
 将軍はそこで口を噤んだ。特使は思いを巡らした。申入れを容れる用意はあるが、交換条件があるということだ。
「事情、ですか。差し支えなければお聞かせ願えますか?当方で可能なことがあれば、お手伝いさせていただきたいと思います」
「恐れ入ります……いや、目新しい事をお願いするわけではありません。慢性的な問題でね」
「慢性的な問題、ですか。参謀本部に話しておけばよろしいでしょうか?」
「助かります」
 特使は安堵の一方で、内心舌を出した。武器の横流し。イランにも北朝鮮にもしていることだ。ただ、最近は大統領選挙を控えたアメリカが神経を尖らせている。実行するにしても、これ以上北京の存在を察知されない方法をそろそろ考えるべきだろう。
「北京に諮った上でないと正式なお返事はできませんが、ご要望にはお応えできると思います。必要でしたら可及的速やかにご連絡を差し上げますので、評議会でもよろしく検討をお願いできないでしょうか?」
「ありがとうございます。そういうことでしたら、評議会のほうも納得すると思います。具体的なご要望があれば必要なものは準備に着手させておきましょう。それでよろしいですね?」
「問題ありません。持つべきものは志を同じくする友人ですね。今後ともよろしくお願いしますよ」
 とんだ友人だなと思いながら、特使は将軍と握手を交わした。この後、北京に連絡を入れた瞬間から忙しくなりそうだ……。

 東京都中央区大手町、総合商社「日紅」本社。
 彼は最上階・会長執務室の、デスクで不機嫌だった。
「あの若僧はどうにもならんのか?確か、中国産の蕎麦粉輸入に反対したのもあいつだったな?」
「仰るとおりです。しかしその後、基準値を上回る農薬に加え漂白剤が検出され、リスクを考えて各社とも調達先を再検討中です」
「わかっているが、そうなる前に売上で他者に大きく差を開けられてしまったのも事実だ。これをどう埋めようかというときに、また安全性とか綺麗事を持ち出されたりしては困るんだよ」
 会長は苛立たしげに机を叩いた。
「申し訳ありません。その点はよく言って聞かせたつもりなのですが……」
「だが、伝わってはいなかったようだな」
 会長がじろりと剥いた三白眼に部長が怯んだところで、それまで無言だった秘書室長が割り込む。
「部長からお預かりした対案は拝見しましたが、どう扱うかはまず常務会の機関決定が必要です。それまで本件は、社長室で預かるということでよろしいでしょうか」
「時間はあまりないぞ」
「次の定例常務会までに、私がチェックしておきましょう。必要に応じて部長のご意見も伺った上で常務会の判断を仰ぐということで、どうでしょう」
「部長さえよければ、私は構わん……いいかね?」
「お任せいたします」
 部長は平身低頭だった。プロジェクト発案の功績は秘書室に奪われること必定だが、部門責任者の矜持はさらりと捨て去ったようだ。
「よろしい。他になければ退がっていい」
 部長が退室した後、二人はソファーに移った。
「どういうつもりだ?あんな対案を出したところで、先方は絶対承知しないぞ」
「仰るとおりですが、対外的な目もありますので形式的にでも対案の検討作業は立ち上げざるを得ません。勿論、計画は当初予定の内容通り話を進めます。二度手間になりますが、円滑に事を運ぶには致し方ないと存じます」
「あの若僧はどうする?万一トリックに気づいたら、間違いなくまた騒ぎ立てるぞ?プロジェクトからは当然外すとして、下手な場所に置いては障害になる」
「仰るとおりです……」
 取締役社長室長は上目遣いに会長を見た。
「また何か考えているな?」
「お察しとあれば、この際はっきり確認させていただいてよろしいでしょうか?」
「始まったな。言ってみろ」
「あの課長補佐……今後もわが社でお使いになりますか?それとも……」
「君は、どうしたいんだ?」
「会長のお考え次第です。扱いが難しいのは事実ですが、使いようであの企画能力は組織として見逃せません。今言えるのは、どちらを採るにしても完全なリスク排除は無理と言うことです」
「だったら話は早いじゃないか?リスクの小さいほうを採る」
「ならば、斬る、ということでよろしいですね?」
「よろしいもよろしくないもないのだろう?ただ、後々問題にならないような方法が都合よく……ひょっとして、私のコネを使おうと言うのか?君自身も、心当たりはあるだろう?」
「あるにはありますが、できれば今回は使いたくないのです。表に出なければと申し上げましたが、これはあくまで確率の問題で、百パーセント安全と言うものは存在しませんから」
「わかった……で、どうしようと言うんだ?」
「刑事訴追を受けさせては、どうでしょう?」
「社員規則か?」
「そうです。社内だけで処理しようとしては、裁判沙汰にでもなった場合に不利ですが、社外で起こった問題となれば話は別です。それも訴追する側と意思の疎通があれば、大抵のことは不可能でなくなります。具体的な方法は、検討後あらためてご報告させていただきたいと思います」
「社内には広げるのか?部長はどうする?」
「失礼ですが、部長にはご迷惑をおかけしない方向で進めたほうがいいと存じます」
 室長は唇の端を吊り上げた。つんぼ桟敷宣言だった。
「そうだな。結構尻の穴が小さい奴だし、びびって口を滑らされたりしてはかなわない。どうしようもなくなったら後刻因果を含めればいいだろう。一両日中ぐらいに具体案を報告してくれ。当分社内では私限りで頼む」
「承知しました」
 室長は執務室を退室した。これであの若僧の命運は定まった。そのプロセスについても、既に素案がある。後は然るべき相手とコンタクトを取り、手続きを取るだけだ。当然タダとは行かないが、彼には会長名義で預かっている潤沢な機密費がある。今日中にコンタクトが取れたら明日にでも「休暇」を取り……。

 ミャンマー・ネピドー。
 それまでのヤンゴンから、「王の都」を意味する名のこの土地に「首都」が移されたのはつい最近の二〇〇五年だが、人民の多くは、ここを真の「首都」とは思っていない。王政時代からの都を捨てた軍事政権の思惑が自分たちの利益のみと、知っているからだ。
 具体的な遷都理由については、内外情報筋やメディアが諸説を唱えていた、曰く、アメリカからの侵攻や内戦が起こった場合を考え、防衛上有利な内陸を志向した、曰く、時の元首で上級大将のタン・シュエのお抱え占星術師の命令によるものだ、曰く、ヤンゴンを中心とした都市部の教養階級を恐れ、政権中枢をあらかじめ移転して政権の強い地盤とし、市民運動、暴動、果ては革命が起こっても早期に鎮圧できる拠点としようとしている。
 パレードが近づいてきた。王政時代を思わせる巨大な彫像の列を縫うように進んでいく装甲ジープの列。その中央で、サイドカーに四方を挟まれ進んでいく無蓋リムジンに、時の軍事政権首脳が陣取り、立った姿勢で敬礼を受けている。
 俄かに起こった銃声から数瞬おいて、首脳の体がぐにゃりと車中に突っ伏す。しわぶき一つ聞こえぬとも思えた会場は、銃声と怒号でたちまち騒然となった。
 同日夜遅く軍事政権は国営放送を通じ、首脳・救国委員会議長の死亡と、午前零時を以って戒厳令を発する旨布告した。

 ハノイ。
「ヤンゴン入りしたばかりの特使が、再開予定の大使館視察もそこそこに、モウルメインの或る要人別宅を訪れています。その後特使自身はすぐヤンゴンに戻りましたが、翌日随員のうち複数が、ミャンマー陸軍の将校と共に北部のマンダレーに向かいました」
「マンダレー……確か、大麻の大農場があったところだな?」
「確かに、麻薬ビジネスではどちらもどちら。しかし今回のマンダレー入りの目的は、それだけではなかったと考えています」
「何だ?心当たりでもあるのか?」
「北京の大使館から連絡がありました。北朝鮮・ベネズエラ両大使館の動きが慌しいと」
「北朝鮮とベネズエラか。確かに仲良くしてもおかしくない間柄だが……それが具体的に今回、何かしようとしているとでも?」
「恐らく。その何かを特定するには至っていませんが、おおよその予測はつきます。あくまで予測ということでよろしければ、今ご報告させていただきますが」
「待て……核兵器、か?」
「真っ先に思い当たるのは、それです。一度頓挫していますし、現時点で蒸し返す損得は当事者のみぞ知る、ですが……」
「ワシントンが知ったら黙ってはいまいな……まだ察知していないのか?」
「ホワイトハウスに動きはありません。ラングレーも同様ですが、こちらは実のところ、勘づいていて動き始めている可能性も排除できません」
「そうか……ただ今回の場合、北京が絡んでいるようだとむしろ、ワシントンとは連携して行動することになるかも知れない。そのつもりでいてくれないか。覚悟はいいかね?」
「それはもう……大佐こそ大丈夫ですか?我々の世代は、それほどアメリカを意識しているわけではありませんよ」
「一本取られたな……まあいい、それなら安心だ。情勢の監視を続けてくれ」

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2008年7月24日 (木)

キングスクロス:プロローグ(1)

 二〇〇七年十一月十七日、カタールで実施された北京オリンピック男子サッカー最終予選で日本は対サウジアラビア戦に勝利し、翌年の本大会出場権を獲得した。
 しかしサウジアラビア側が異議を申し立てた。理由は前半終了間際に、一旦認められたサウジアラビア側の同点ゴールを、反則行為があったとして直後に主審が取り消したこと。それまで拮抗していた試合は、リズムを狂わされたサウジアラビア側が自滅するような形で日本が大勝、勝ち点差と得失点差からグループ順位が入れ替わったという経緯からも、おいそれと受け入れられるものではなかったのだ。異例のテープ事後審査で事実は確認されたが、反則行為の瞬間でなくオンプレーのゴールが決まった後に再ジャッジを下すという不手際がサウジアラビア側の疑惑を呼んだのだった。それでもサウジアラビア側が結局反則行為の事実は認めて異議を取り下げ、全ては決着……する筈だった。
 主審の本国、ドイツ国内で親族が拉致・監禁されていた事実が判明したのだ。最終的に全員無事に解放されたのだが、問題の試合と同時進行であったことが関係者の疑惑を呼んだ。FIFAは判定に関する再調査のための委員会を発足させたが、ニュルンベルクでの事情聴取を前に、主審は自宅で一家心中を遂げた。
 血が流れるという事態の中届いたこの報道に中東では対日感情が硬化、一部国際経済プロジェクトが影響を受けたと言われる。政経分離の原則がない中東を相手としては、結果論とは言え不用意な壱岐発言だったが、今までにない愛国スタンスが広く受けた結果、一夜にして言論界のヒーローに成り上がってしまった彼に、正面から挑む者はいなくなってしまった。
 JFAの岩渕会長は、FIFAとドイツ警察が調査中ということでコメントを避けた。実は壱岐に近いコメントを用意していたのだが、内部で対外影響を憂慮した内部が翻意させた事実は、関係者の中でもごく一部しか知らなかった。
 そんな中、政界では戦後最大の対外強硬派と見られていた安永内閣が倒れた。そして日本共和党が後継者に擁立したのは、前官房長官・福西保夫。前総理大臣・小宮山雄一郎の官房長官も務めるなど、政局キーマンとしての手腕は知る人ぞ知るであった。
 彼の指導により、以降日本は官民挙げて北京オリンピック一色に染まって行く。血塗られた出場権を手にした男子サッカーチーム関係者の心境に思いを致す者は、殆どいなかった。

 カラカス。
 フランシスコ・カディス大統領は、無人の執務室で一人思案に耽っていた。
 昨夜の野党党首変死以降、街は彼の任期中最も緊迫した空気が支配していた。自宅のガス爆発という警察の検証結果発表を支持者達は信じず、大統領府による謀殺説を唱えてゼネストを呼びかけた。会場となり得る広場や空き地はいち早く封鎖したが、警察だけでなく軍の戦車の威圧的な姿を外国メディアが伝えたことから事態は悪化している。軍からの報告では各所に不穏な動きがあり、対外的なスケジュールは全てキャンセルを勧められている。
 こんな筈ではなかった。選挙を制し、初めてこの大統領官邸のあるじとして入ったときは。海外はまだ静観を決め込んでいたし、民衆は変革を求めていた。いや、革命をだ。この執務室から発信される「上からの革命」を。
 石油国有化で外国資本はそっぽを向き、凍結を宣言した資産の大半もまんまと本国引揚げ、残ったのは「ベネズエラには投資するな」というマイナスイメージだけ。油脈枯渇を見越してようやく軌道に乗り始めたサトウキビ精製エタノールも、ブラジルら周辺諸国との競合の間隙を欧米に突かれ、利益も最近は頭打ちだ。そこに来て……
 こうなっては最後の手段しかない。一度は途中まで進めた計画を再度発動すべく、カディスは別室に詰めている補佐官をインターホンで呼び出した。

 同日午後七時過ぎ、平壌市内、通称三七号官邸内の大広間。
 金正一総書記一族の私的な食堂の奥にあるこの部屋は、別の施設での公式パーティー後、一部の幹部のみを集めて秘密の二次会が開かれることもある場所で、それは時に乱交も含めた下劣極まりないものだが、そのため北朝鮮の最高機密に属し、最高幹部でも実際に招待された者以外はこの部屋の存在すら知らない。
 その大広間の正面に据えたソファーに、金正一総書記は体を沈めていた。部屋の反対側に据えた超大型液晶テレビは電源が入っておらず、無言で考え込んでいる総書記の姿を映し出していた。表向き体調不良を理由に公の席から姿を消している彼はここ数日、公式に発表している近郊の別邸、通称一五号官邸ではなくこの公邸にこもっている。湖のような池やゴルフコースまであり離宮と言うにふさわしい一五号官邸とくらべると敷地面積では遠く及ばないが、特権階級と言えども厳しく出入りが制限される区画にあって、事実上金正一のプライベートエリアとなるこの場所は何でもありの治外法権地域でもあり、幹部とのパーティーに限らず時々お気に入りの女性たちを集め、昼夜を問わず快楽に耽る時もあった。
 カディスは本気で追い詰められたようだ。ホワイトハウスに乗じられる危険を冒してでもあの計画を持ち出してくるとは。しかし、危険に晒されるのはこの自分も同じだ。一万キロを越える太平洋と後ろ盾があると言うものの、先年の核実験以降はその後ろ盾との関係も目に見えてギクシャクしてきた。北京オリンピック開催を控えているというのは知っているが、それを理由に同胞の危機を見捨てようとしていることは理解できないし承服し難い。福西のように、なまじ力のない相手のほうが余程親身になってくれる。いざとなったときに頼れるかというと、また話は別だが。
 その平壌駐在ベネズエラ大使館からは、中国に察知されたとの連絡があった。黙っていても、北京から事実確認の問合せが来るのは時間の問題だ。問合せだけで済めばいいほうで、ひょっとしたら断念要請、いや最悪直ちにワシントンへご注進に及ぶかもしれない。スターリン死後のロシアが頼れなくなって以降は特に、中国の助力なくして共和国そのものの維持は不可能になっていた。韓国では左派政権が崩壊して政策変更。新政権はこちらの工作にも今まで以上に敏感になっている。ここは何とか北京の理解を取り付けて、この計画を実行するしかない。成功すればかつてのキューバと同じく、ワシントンに首輪をつけることになる。その利を説けば興味の湧かない筈はなかった。
 それも早いほうがいい。一日、いや一時間でも。彼は中南海ではなく、その近郊にある某所の電話番号をダイヤルした。この選択肢が北京にとっても好都合な筈だ。その程度の機転が利かないでどうする……。

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キングスクロス:プロローグ(3)

 ミャンマー・モウルメイン。
 ヤンゴン(旧称ラングーン)から河口をまわり、古くはイギリスを始めとする欧米人が多く居たこの避暑地も、今は要人の別荘以外はみながらくただ。
「つまり、我々に運び屋をやれと?」
「……」
「まさか、このための国交正常化だったわけではあるまいな?もしそうなら、の司令部も考えを変える可能性があると言っておく。あれ以降、やっと戻ってき始めた海外の投資がまた減り始めているんだ。今回だって、お宅に運び賃の当てがある訳ではあるまい?」
「中国が払ってくれる。お望みならドルで……」
「人民元でいい。ドルで渡されても、金融制裁の所為で決済できない」
「……」

 北京・中南海。
 主席は正面に起立した中佐を睨み付けた。今すぐ部屋から叩きだしたいところだったが、今や彼はパワーをバックにしている。国家主席たる彼以上のパワーを。
「貴様を軍から追放しておかなかったのは誤りだったかな?」
「わかりません。自分がいなくても、同じ経緯になったかもしれないからです」
 主席は目を三角にした。慇懃無礼とはこのことだ。
「なるほど。解放軍は最高司令官の顔を潰すことでは伝統があるようだからな」
 精一杯の嫌味だった。観閲式とは違う。部屋には誰も居ないから今回は問題あるまい。
「我々は祖国と党と同志主席閣下に忠誠を……」
「もういい……用件だけをいいたまえ。あの方は何をお望みだ?」
「ベネズエラの新指導者は、ワシントンの核に対抗できる力を望んでいます」
「核に対抗できる力は核以外にない……駄目だ。IAEAに加入している立場上からも、我が国から彼に譲ってやれるミサイルはない。そんなことをすればワシントンはソウルに加え、今度こそ東京の核配備を容認しかねん。いや、台北にもだ。デリーとモスクワに加え彼らが核を持てば、アジアの軍事バランスは崩れる」
「当方の分を分けるとは申しておりません。平壌が売りたがっています。我々はその仲立ちをするだけのことです」
「ほぉ?そこまで危険な橋を渡って、ワシントンが絶対に看過しないベネズエラの核武装計画の他に、我々は何を得るのかな?」
「ベネズエラ産砂糖きびエタノールの優先的な輸入権を得ます」
「確かに、尖閣諸島やシベリアでの計画に、東京は兎も角ワシントンが口を突っ込んできているこの時節、関心がないとは言わんが、それも成算があればの話だろう?君の説明を聞いた限りでは、どうも確信するに充分な材料は見当たらないが?」
「主席同志は、軍務についてあまりお詳しくないようですから」
「どうせ私は、職務上必要な以上には軍事音痴だよ。貴様が忠誠を捧げるあの方と違ってな」
「それは、誤解です。自分は祖国と……」
「やめろと言った筈だ」
「……」
「言い過ぎた。取り消すよ。しかしそう言うなら、言葉ではなく行動で示してもらいたいものだな。ずばり、私かあの方かどちらか一方を選べと言われたら、貴様は……貴官はどちらを取る?」
「……勿論、同志主席閣下です」
「躊躇ったな?」
「……」
「今度同じ過ちを繰り返したら、終わりと思うことだ。大体、今も言ったとおりワシントンがこの計画を万一察知したら、私があそこのあるじなら絶対に見過ごしはしない。それはどう考えているんだ?」
「もちろん秘密保持に万全は期します。万一と仰いましたが、その場合も彼にそう長い時間は残されていません」
「間違いなく政権交代する前提で話しているようだが……まあ仮にそうなるとして、新しいあるじは我々に好意的である保証はどこにあるんだね?」
「は」
「先日電話でだが、上院議員・前大統領夫人としての彼女と話したことがある。チベット問題を採り上げているのはあくまで選挙戦術だと言ってくれたがね。ただ逆にそういう戦術を弄する彼女を、我々はどこまで信用していいのかな?」
「は……しかし北朝鮮の問題は彼女も理解を」
「直接聞いたのかね?」
「いえ。しかし聞いた話では、秘書が……」
「そうかね?君の知り合いが話した秘書とやらにどの程度の発言力があるのかは知らないが、私に彼女自身が話したところでは、選挙対策と言うだけでなく、核拡散その他の北朝鮮問題悪化をこれ以上看過するわけにはいかない、でないと国内の保守派をこれ以上抑えられないし、東京やソウルも離れて行きかねない。だから我々が彼らをしっかり押さえ込んでおいてくれないと、彼女が政権を取ってもその運営に支障が出るし、そうなったら外交上過大な便宜を期待されても応えられないと、はっきり言われたよ。もし今後平壌やカラカスで不用意な動きがあれば、外交的配慮も何もなく現政権以上の決定的行動を取りかねないということだ。キューバ危機も、ヴェトナム戦争もそうだった……
 さて、私は君と電話の相手、どちらの言葉を信用したらいいのかね?」
「……」
「大体、あまりにも不確定要素が多すぎる。モスクワにも全く知らせていないというじゃないか?」
「あちらはソチの冬季オリンピック開催が決定したばかりです。できれば巻き込まずに……」
「気を遣ったわけだ。結構な配慮だな。だがそれを、今年夏季オリンピック開催を控えている祖国へも示して欲しいものだな」
「……」
「もういい。そこまで計画が進んでいる以上、認可するもしないもないのだろう?
 だが、今後はあの方ではなく、この私に全て報告すること。あの方にはそのように、私から説明しておく。それと、わかっていると思うがこの件は最高機密だ。軍・党・政治局の、私が認めた以外の何人にも洩らしてはならない。モスクワにもタイミングを計って耳打ちしておく必要があるが、これもこちらで判断する。質問は?」
「ありません」
「退りたまえ」
 彼が退室すると、主席は参謀総長を睨みつけた。
「あなたは『優秀な』部下に恵まれたようだね」
「お気を悪くされたと思います。本来なら、主席のお耳を汚すことなく処理すべきでしたが……」
「いや、今回の場合、今までのようにつんぼ桟敷では済まなそうだ」
「は……で、どうなさいますか?」
「問題はこれが、党と政府の今後に及ぼす影響だ。さっき話したが、彼らが担ぎ出そうとしたらしい青二才も、こと本件については全く関知していないらしい。上手く処理すれば、仮に失敗しても後継者問題と無関係というシナリオも不可能ではないということだよ。いや、そうせねばならんのだ」
「では……今仰ったとおり、計画は全て……」
「いや、経過は逐一把握を怠らないが、実行については現在のままあの方にお任せしようと思う。間に私なり政治局の人間が入るのは構わないが、あくまで実行は彼ら、意思決定はあの方……保険だよ」
 参謀総長は唾を飲み込んだ。主席は上海政財界への大鉈を決断した時と同じ目をしている。
「最高機密のご指示は、そのためでもあるのですね?」
「さよう。軍のほうは参謀総長、あなたに根回しをお願いしたい。政治局については私が然るべき人物をピックアップしよう。スケープゴートにするか、因果を含めるかも含めてね。たださしあたり、次期主席候補の二人は今後のために除外したほうがいいのだろうが。本日はお手間をとらせた」

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キングスクロス:プロローグ(2)

「本当なのか?魏同志が……本当なのか?」
 彼は二回、同じ質問を繰り返した。魏中虔。前国家主席。その任を彼に譲った後も永く軍事委員長のポストを放さず「垂簾聴政」を続けていたが、先年の上海市長更迭を中心とする政変で実権から大きく後退。同時に永年の人民軍(陸軍)偏重で弛緩した軍規粛正で、魏の子飼いと言うべき多くの軍幹部が更迭、軍部での影響力も揺らぎつつある。尤もそれも軍部から魏の影響力を速やかに排除する、彼の深慮遠謀の一つなのだが。
「確かです。政治局とは関係ない、つまり私的な形でベネズエラ大使館と人や電信の遣り取りをしているのを確認しました。大使自身、二度魏同志の自宅を訪問しています」
「ベネズエラか。毎度毎度の軽口でワシントンの感情を逆撫でしている、小五月蝿い連中だな。まあ、お蔭でこちらへの風当りも少しは穏やかになってきてはいるが、この時期に何をしようというのだろう?」
「特定はできていません。ただ香港の領事館からの報告によれば、北朝鮮とも頻繁に接触しているようです」
「平壌だと?」
「ええ。それもこの北京はさておき、お互い平壌とカラカスにも大使館を置いていながら、わざわざ香港で接触しているというのが気になります。内容をキャッチできればいいのですが、さすがにと言うか……」
「あそこは平壌の核を欲しがっていたな。ワシントンが承知する筈もないし、我々も頼まれて目を光らせてきたが……その可能性は、どうなんだ?」
「未確認、というのが正確な答えです。中央宣伝部を使えば探れないことはありませんが、そこに魏同志の息がかかっているという情報もあります。使うとしたら、こちらから情報を流して反応を見るのが精一杯でしょう」
「我が国の情報管理は完璧なんじゃなかったか?これでは日本並みじゃないか!」
 彼はテーブルを叩いた。
「東京が今の首相になって大人しくなっているのが幸いだが、引き換えに南朝鮮の親北政権は選挙で倒れてしまった。依然周辺情勢が難しい今、おかしな動きをこの北京でされてもらっては困る。たとえそれが魏同志であってもな」
「鄧同志に似てこられましたね」
「ありがとうと言っておくよ。あの方は周同志ほどのカリスマ性はなかったが、周同志にないしたたかさを持っておられた。だからこそ四人組の罠も生き抜いて最後の勝利者となった。棚ボタで登極した魏……同志とは違う」
 側近は無反応を決め込んだ。恩人でもある魏を彼が公の席でこのようにこき下ろしたことは未だにない。ようやく魏の勢力が後退していると言っても、今の独り言が外部に漏れれば利用しようとする政敵は雨後の筍のように現れるだろう。

「お話を整理しよう、大使。お国とベネズエラは或る取引をしようとしている。それもIAEAの承認を得ず。まず、その事実は認めますね?」
「他に方法は……」
「本当に方法がないかどうかはさて措き、その算段をここ(北京)でなさる意図は何なのかな?我々が気づかないとでもお思いでしたか?」
「もしご迷惑なら……」
「大使。我々は六十年前お国が出来た当時から、軍事面を含め積極的に支援し、アメリカと干戈も交えた。他では言いにくいことも言える仲だと自負しています」
「ありがとうございます」
「だからはっきり申し上げる。今回の、この動きは大変迷惑だ」
 大使は黙り込んだ。
「我々が来年、そしてその二年後に準備しているプロジェクトのことはご存知ですね?今でさえアメリカやヨーロッパでは、ナチスやソ連のそれと比較しての否定的な見方が未だに多いそうです。日本や韓国では政府が抑えているからまだいいが、今後の情勢如何ではその保証もない。しかもベネスエラは、アメリカの目と鼻の先。お国もだから目をつけたのでしょうが、その分対応にはなおさら注意する必要がある……意味がお判りかな?」
「キューバ危機の再現だ、と?」
「そう。だから以前疑惑が出たときも、我々はあなた方の間に入って考え直してもらった筈だ。それを、しかもこのタイミングで蒸し返そうと言うのは、ずばり我が国への背信行為だという意見が、我々の指導部にも出ていることを申し上げておきます」
「党中央同志は、そのような意図はないと仰っておられました」
 大使は顔をこわばらせている。電話ででも直接指示を受け、滅多な復命はできないということなのだろう。
「つまり、これは総書記同志直々のご指示だと?」
「そう、受け取っていただいて結構です」
「初耳ですね?」
「……」
「……正直なところ、これは私にお聞かせいただいても即答できるレベルのお話ではない。そうしなかったのは表沙汰にしたくない為、と解釈させていただきますが、その分当方としても相応の時間をかけて検討する必要があります。一両日中に、折返しこちらから連絡を入れさせていただくということで、よろしいですね?」
「一両日ですか?」
「必要な時間です。無理というなら、他に話を持っていくのも選択肢でしょう。尤も、当てがあればの話ですが」
 彼は大使をきっと見据えた。平壌が何を企もうと勝手だし、それに利用しようというなら利用されてやってもいい。但し、それはあくまで、北京の利益に反しない限度内でのこと……この際、それだけははっきりさせておく必要があった。本来ここまで立ち入った発言は外交部長の権限外だが、今回の場合は政治局も理解してくれるだろう。
「結構です」
 大使が退室した後、彼は隣室の書記を呼んだ。
「どう思う?」
「自分勝手な申し出ですね。ベネスエラは確かに事実上の同盟国ですが、以前から露骨にアメリカと事を構えかねない言動は、我が国の国益とは一致しません。ましてやこのタイミングで平壌から核を買うなど自殺行為だ。それでも勝手にやって勝手に破滅するなら兎も角、我が国まで巻き込まれては堪りません」
「同感だ。ただ気になるのは、総書記が電話で、我が国の指導部の意思決定について何か手応えがあるようなことを言っていたという点だ。私や君がまだ把握していないところで、もうこちらに何か働きかけているのかもしれない。政治局に具申するから、君は北京の両大使館の動きをフォローしてくれないか」

「外交部長から報告のあった件ですが」
 主席は一旦言葉を切った。
「今日の午後八時、平壌からのホットラインが入りました。正確なタイミングとしては、部長が大使を送り返した直後ということになります」
「事実なんですね?」
「そう。こちらも子供の遣いではなし、タイミング上の問題については釘を刺しましたが、とにかく変更はできないとのことでした。その際の説明では、要はカラカスの政情不安らしい。反政府勢力の背後にアメリカがいるという噂は確かのようですね」
「それで、一旦頓挫した計画を……しかし、ワシントンもそれは絶対に見過ごさないでしょうね」
「そう。ただワシントンも、お膝元のほうは穏やかでないですからね。中間選挙以降、内政・外交での後退は明らかで、今度の大統領選挙でも政権交代の確率は高いとされている。それまで待つ、という選択肢も当然あるはずですが、どうやら今のべネスエラにはその余裕もないようです。そうだったね?」
「はい。野党の大物を軟禁したのがきっかけで、戒厳令直前の情勢です。これ以上悪化すると、ミャンマーの二の舞もあり得ますね」
「ワシントンは平和維持軍投入も示唆していたな?」
「そう。それは我が国とロシアが安保理で抑えている。ミャンマーでもスーダンでも成功したものの、それで欧米との溝が開きつつあるのも事実だし、カラカスにはあまり当てにしないでもらいたいというのが実情だ」
「先方もそれは……」
「伝わっているさ。問題はその結果、とんでもないことを考え出したということだ」
「完全な忘恩行為ですな……で、主席同志は何とお答えになりましたか?断った、ということでよろしいのですね?」
「そう、ご報告できればよかったのですが……」
「主席!」
 同席者は一斉に眉を吊り上げた。
「まず聞いてください。先に説明するべきだったかも知れない。ホットラインが鳴る直前、八里橋から電話がありました」
「八里橋!」
 同席者は絶句した。
「そう。あそこに滞在しているのが誰かは皆さんご存知の通りです。そこから、このように言ってきました。平壌から自分宛に、或る依頼があった。自分は第一線を退いた身だからと断るつもりだったが、是非にと頼まれて出来なかった。あらためて政治局に接触があると思うが、よろしく頼む、と」
 同席者は顔色を失った。電話の人物は、後先を考えて判断したのだろうか?しかしそのように意思表示があった以上、主席を始め会議のメンバーが、いや十億人民がそれに逆らうことは許されない。
「決定事項……ということですね」
「やむを得ません。但し、これはあくまで平壌とカラカスの問題だ。我が国がどういうレベルで関わるにしても、最悪の場合第三国に無関係を証明できる形を残しておく必要はあります。その点は、軍事委員長同志にもはっきり申し上げました」
 第三国。ソ連が崩壊した今、北京がそこまで気を遣わなければならない相手は、太平洋の向こうに横たわるあの国をおいて他にない。スターリンが死に、歴代後継者の沈黙に続いてゴルバチョフが音を上げて以降、世界に社会主義を建設するというマルクスの理想は、音を立てて崩れつつある。総本山のロシアをはじめ欧州の社会主義政権は、時に流血を伴ないながら崩壊。ヴェトナムとモンゴルは衣装替えを図っており、カンボジアのポル・ポト政権は崩壊。アフリカや中東の所謂「第三世界」も、同時多発テロ以降は政権維持さえ困難になりつつある。
「とにかく手綱は我々が執るとして、いざとなった場合にどう逃げるか、ですが……」
 参謀総長が呟くように言い
「それについても八里橋から意見がありました。法輪功を使え、と」
「法輪功!彼らが、言うことを聴くでしょうか?それでなくても、我々の悪口を……」
「もちろん私が彼らの立場なら聴かないでしょうね。要は、実際に聴くかどうかではない」
「聴いた…ように見せかける、と?」
「さよう。まずは、そのための協力者が必要ですね。もちろん実際に言うことを聴かせてもよいが、必ずしもその必要はない。平壌とカラカスの協力者が法輪功にいた、という記録こそが必要で、あとはどうにでも処分すればいい。ただし、海外から要らぬ嫌疑をかけられないような方法でね」
「……」
「協力者の人選に始まる工作は、公安に任せます。我々は彼に、具体的に何をさせるかだけを決める。もちろん内外に公とならぬよう、全てに最大限の注意をもって計画を進めます。そういうことでよろしいですね?」

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2008年7月23日 (水)

キングスクロス:序文に代えて

 天安門広場で学生たちのデモが始まる直前、ポーランドで自主的な労働組合の存在を政府が正式に認め、六月に選挙をおこなうことが決められた(中略)。
 ポーランド共産党はマスメディアを支配し、選挙の仕組みを共産党に絶対有利なように定め、十二分の手だてを講じたにもかかわらず、勝つことができなかった。共産党の支配体制はずるずると崩れはじめた。
 つぎは東ドイツだった。市民のデモがつづいていた。十月、東ドイツの支配者、ホーネッカーは部下のクレンツにデモ隊に武力を使えと命じた。ホーネッカーが思い浮かべたのは六月四日の北京の弾圧だった。クレンツも同じことを思った。ところが、クレンツは中国がやったことを真似てはならないと考えた。武力の行使をしなかった。さらなる譲歩として、市民に自由な通行を許そうとしてベルリンの壁を開放した。壁の崩壊、つづいては東ドイツ政府の崩壊となり、共産党の独裁も消えた。
 同じ十月、ハンガリー共産党は民主的政党に衣替えしようとした。ところが、大多数の党員が党を見捨ててしまった。つづいてチェコスロバキアの共産党政府が滅んだ。
 十一月初め、チェコスロバキアの首都プラハの中央広場にビラが貼られた。
「ポーランド 十年間
 ハンガリー 十カ月
 東ドイツ  十週間
 チェコスロバキア 十日間」
 さらにブルガリアでも、独裁者の党第一書記が辞任を迫られ、選挙を約束することになる。
 東部、中央ヨーロッパに残る共産党の独裁政権はルーマニアだけとなってしまった。中国の党首脳はルーマニアの体制維持に懸命となった。十一月下旬、ルーマニア共産党の党大会が開かれ、出席した中共党の中央政治局常務委員の喬石(きょうせき)が「社会主義国間の協力」を語り、チャゥチェスク書記長が再選されると、江沢民が「熱烈祝賀」の電報を送った。その一カ月あと、チャゥチェスクは殺害され、かれの政権は瓦解した。
 プラハの中央広場のビラに一行付け加えられた。
「ルーマニア 十時間」

鳥居 民「『反日』で生き延びる中国‐江沢民の戦争」(草思社刊)

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2008年6月 1日 (日)

Time Up:エピローグ

 五月二十八日、安永重蔵(じゅうぞう)内閣官房長官、私見とした上で平壌の黄副主席狙撃関与を示唆。
 五月二十九日、北朝鮮政府、狙撃は魚前人民武力部長の支持勢力の仕業とし、首謀者ら魚派要人を粛清。
 同日、紀尾井町のロシア料理店「ゴバック」店主ヨシフ・イヴァノヴィッチ・アレーエフ、失踪。
 五月三十日、台湾の董毅(とうき)元総統、来日。
 五月三十一日、入江一郎・外務省アジア大洋州局北東アジア課長、執務中に急死。死因は急性心不全。
 六月二日、都内滞在中の台湾・董元総統、パーティーの席上で「二つの中国」について言及。中国政府はこれに不快感を表明、同時に日本政府へ善処を要請。
 六月五日、安永官房長官、董元総統は私的な訪日との理由から、中国の要請への対応は困難とコメント。
 六月七日、米国政府、ホノルルにCIA関係者を派遣、黄沢究副主席の亡命受容れを前提に事情聴取を開始。
 同日、ニューヨーク郊外のモーテルに米国民主党ジョシュ・ゲッパーズ上院議員と、馴染の売春婦の情死体。
 六月十三日、在日朝鮮人安智鉄、射殺体で発見。
 六月十六日、狙撃関与の疑いがある在日朝鮮人申広秀(シングァンス)、潜伏中の都内・代々木の雑居ビルで警視庁捜査員が発見、銃撃戦の結果射殺。この際、同行出動した公安部管理官・小坂井寛晃(こざかいひろあき)警視が殉職。
 六月十九日、水口嘉子外務大臣、一身上の都合を理由に辞任。マスコミは黄副主席狙撃事件による実質的な更迭と報道。
 六月二十二日、小坂井警視長の警察葬、青山葬儀所で厳かに執行。
 同日、佐々木篤警察庁長官、健康上の理由で退官。
 六月二十八日、在日Jリーガー・安智平とその家族、アメリカ大使館に保護を申請。館内での記者会見で「祖国はもうない」と語る。
 六月三十日、米国民主党ビル・ケイン上院議員、自宅で拳銃自殺。
 七月三日、金総書記の三男・金正云、留学先のモスクワから失踪。
 七月六日、第三国経由を含める北朝鮮への入出国および物資の送付・受取り、無期限で全面禁止。

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Time Up:十四.守るべきもの(下)

 五月二十五日。
 小田は、横浜市西区みなとみらいの警友病院に入院中の工藤を見舞った。
「処分が決定したんですね」
 小田が無言で渡す書類を工藤は受け取り、一読して驚きに目を見開いた。
「県警警備部管理官……横滑りですか」
「それのお蔭じゃないか?」
 小田が指した右腕の包帯を工藤は見た。もしあのナイフに毒でも仕込まれていたら、二階級特進だったかもしれない。だが、それをカウントして横滑りということは……
「まあ、解釈は自由だが、今の警察に人材を遊ばせる余裕はない。競技場に銃を隠した人物、当日西スタンド席を買った朝鮮人……君達もずっと寝ていられては困るんだ」
「我々……そう言えば所轄の斉木巡査……」
「復帰したよ。今日は競技場警備の筈だ」
「ああ……今日から再開でしたね」
 工藤は競技場の方角に視線を向けた。背後の窓外では、西日を受けたベイブリッジが朱色に輝いていた。
「井出さんは色々動いていたらしい。亡くなったのはショックだろうが、それで君も助かったんだよ」
「わかりました。本日はご足労さまでした」
 照れ隠しか工藤の厄介払いに苦笑をこらえた小田は、しかしドアに手をかけたところで呼び止められた。
「何だ?」
「そのポーカーフェイス、やめたらどうですか?」
 振り向いた小田は微苦笑を返し、敬礼を交わして廊下に消えた。

 横浜国際総合競技場周辺は一週間ぶりに賑わっていた。一ヶ月余り中断したJリーグの再開初戦で、サポーターが列をなす開門間近のゲート前では手荷物検査。北ゲート担当の斉木にとって、私的観戦はお預けということでもあった。
 背後の声に振り返った斉木は、サポーターの一団が中央に掲げた三浦達哉の遺影に胸が詰まった。抱える川上貴子が長髪を肩の所でばっさり切っているのが、痛々しかった。
「あなた達……ごめんね、お葬式にも行けなくて」
「知ってます。ニュース見ました。大変だったんでしょう?」
 そこへ非番で現れた中川に気づき、斉木は姿勢を正した。
「どうした?……あ、その写真……」
 中川の反応に、川上が怪訝そうに首をかしげた。
「あの、こちらは?」
「三浦君の敵を討ってくれた刑事さん。お礼を言いなさい」
 斉木の言葉に若者達も姿勢を正す。川上は目を潤ませていた。
「ありがとうございます。彼も喜んでくれると思います」
 中川は咄嗟に返す言葉が浮かばず、曖昧に頷き返した。
「僕だけじゃない。彼女も活躍して、今度昇進が決まってるんだ」
「おめでとうございます」
 今度は斉木が照れる番だった。彼女には巡査部長の内示が下りている。事件の後始末はオフレコとて説明するわけにもいかず、曖昧にうなずいた若者達は、入場を待つ列へ去っていった。数人が去り際に残した敬礼に応えて見送り、二人はしばらくそこにたたずんでいた。
「あ、あの、ご苦労様です」
「ああ。怪我はもういいのか?」
「はい、だいぶ」
 斉木は制帽を脱いで見せた。派手に包帯を巻いていた額にはコースター大の絆創膏が貼ってあった。
「なるほどね。あ、そうだ、このたびは昇進おめでとう」
「ありがとうございます。あの……実はSITに誘われてるんです」
「……そうか。伊東君は知ってるの?」
「はい。希望してできる任務ではないし、引き受けるべきだって……でも本心じゃないってくらい、わかります。あたし自身、今回の任務も全然想像してなかったし、それに……」
「『氏名削除』か?」
「それはSATです。それよりあたし、怖いんです。また人を撃つのが。今回も、凱通訳の発砲で反射的に彼女から銃口を逸らしてしまって……あたし、今度銃を握れるかどうか自信ない。SIT以前に警察官失格ですよね」
「気持ちはわかる。俺も、辞めようかと思ったが……あの後加藤に言われたんだ。やり逃げは許さんってね」
「……」
「全部終わったわけじゃない。俺が今後何ができるかわからないが、今辞めたら早紀にも、尚子にも顔向けできない気がするんだ。誰かが果たすべき任務に指名されたなら、全力を尽くすべきだろう」
「ありがとうございます……よく考えてみます」
 狙撃発生後の数日間は、その後の急展開もありマスコミが先を争って事件を追跡、早紀の悲しい正体に関する緘口令がなければ、今はひっそり悲しみに耐える片桐家、浮田家、松嶋家は餌食になっていた筈だ。
 斉木には守るべきものがある。守られるというべきか。加藤が今後誰かとやり直せるか否かは加藤次第だが、中川が今後何を守っていくべきか、早紀がそのヒントを遺したのではないか。
 一階北スタンド席の座面裏にはビデオテープ大の空洞。捜査の結果この座席はJリーグ中断前最後の試合時に破損、修理を依頼していたと判明、業者に捜査員が急行したがもぬけの空だった。
 当日、一味からチケットを受け取った早紀は拳銃を手に西スタンドで待機。北スタンド席も使ったのがカモフラージュか、当初西スタンド席が手に入らなかったのかは不明。去年のチケットは不注意と上層部は見ていたが、中川は早紀がわざと落としたと確信していた。保土ヶ谷への車中では「信じてる」と言っていたが、既に状況は察知していた筈ではああ言うしかなかったのか、それとも一縷の望みだったのか。
 メールにあった訓練所だが、元拉致被害者の証言では敵地工作地という区域があり、他の区域と厳しく隔離していたと言う。訓練と言えば凱通訳も、相当に具体的な指令を受けていたと見られており、鄭の遺志に反し早紀を守りきれなかった捜査員の、静かな憤りをかきたてていた。朝鮮人、安智鉄が入手したチケットもゲートでの半券回収を確認。関与は疑いなく口封じの可能性も大だが、首謀者を摘発し根を絶つまで、斉木に語った通りこの事件に完全解決と言う名のタイムアップはない。彼が退官を断念した、それが一番の理由だった。
 午後五時、定刻通り開門。オレンジや青、緑のライトアップで夕闇に浮かび上がった競技場が行列を飲み込んでいく。それを見届けた中川は斉木の敬礼に見送られ、駅の方へと戻り始めた。

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2008年5月30日 (金)

Time Up:十四.守るべきもの(中)

――酒井です。
「田村です。ご無沙汰しています……井出さんが急死されましたね。心臓発作との発表でしたが……」
――……実は稲生課長補佐のルートに名前が出てね。問題は情報を独断で稲生氏に流したことと、試合前夜、急に総聯幹部、それもあの魚珍禹派の人物と接触したんだ。
「よく察知しましたね。警察のスパイでもいたんですか?」
――いや、今回は先方がリークしてきたんだ。近年の日朝関係悪化、本国の経済破綻などに乗じ在日社会の一部を日本側が抱き込んでいて、その中の外事ルートに通報があった。尤もこの外事ルートだが厳密には警察じゃない、外務省国際情報局だ。
「国際……情報局?」
――国際情報局分析第二課(アジア・アフリカ・中近東担当)。情報収集が専門で省外の人材も受け入れていてね。肩書はあくまで外務省なので相手の警戒も緩く、警察では得にくい情報も……それによると近年相次ぐ後妻の病死や高官の事故死も全部謀略でもおかしくないそうだ。黄副主席は総書記の三男・金正云(キムジョンウン)の後ろ盾だったらしいし。
「お家騒動ですか」
――異母兄の金正南は、人妻に金正一が手をつけたという生い立ちも災いし、人望はなくてね。金正一はそれを承知で後継者に考えているが、貸しを作り、スターリン批判や四人組裁判のように自分の業績が抹殺されるのを防ぐためだろう。
 ただ、政府も極秘処理するらしい。内通者の存在の他にワシントンも絡んでいてね。
「本当ですか?」
――サロメと盧通商部副部長の直接接触をセッティングしたのは、実は民主党のジョシュ・ゲッパーズ……
「ビル・ケインが出馬した、前回の大統領選挙参謀……?」
――そう。敗北直後に解任されたがその後側近に復帰、次期選挙での雪辱を期していると言われている。
「しかしまさか?確かに民主党は親朝的ですが……」
――同性愛経歴問題で度を失ったかな。もしゲッパーズの独断でないとなれば、ボスのケインも終わりだろうが。
「アメリカが知っていたとすれば、当然周辺諸国も?」
――そう、それぞれ手は打ちながら、ね。北の数倍もの韓国警備陣然り、北京の盧康徳急死然り。
「そう言えば徳田信枝へのリークも旧ソ連工作員でしたが……しかし井出さんも機密保持には留意していた筈ですが、リークした人間でもいたんですかね?」
――……
「工藤君を競技場に閉じ込めたのも、その一環ですか?」
――……
「しかし、それでも動きがあったということは……」
――魚珍禹派とのパイプは公安だ。工藤君は小田君の監視だけだったから不問に付すとして、狙撃犯侵入を許した失策は看過できない。公傷と相殺し賞罰なし、一、二年頭を冷やしたあとは本人次第だね。
「局長の急死も、どなたかのご指示だったのでしょうか?」
 回線を暫時の沈黙が支配した。受話器の向こうの酒井は今どんな表情、どんな心境でいるのだろう?
――ちなみに当日の両首脳退避……再確認したら実は鄭の電話の直後、小田君に進言した人物がいたんだ。
「本当ですか?誰だったのでしょう?」
――裵中佐だよ。
「なるほど……確かにあの時、我々にそこまで判断する余裕はなかった。それもまたこの事件の教訓でしょうか……空席になった警備局長職を辞退されたとか?」
 受話器の向こうで酒井が苦笑した。
「大野新警備局長が残念がっておられました。白馬山荘の現場にもおられたそうですね」
――一区切りつくまで現場で見守るべきと、考えたまでだ。
「……今後対朝外交はどうすべきなのでしょう?」
――制裁新法全面施行。それが第一歩だな。あちらは依然毎年数百万人が餓死、時間的余裕もあまりない。先年の王氏、今回の黄副主席と要人も国を捨てる一方だし。
「黄副主席……大阪での出国劇は鮮やかでしたねえ」
 事件後予定通り関西を訪問した黄副主席はホテルで記者会見の席上、突然アメリカへの亡命意思を表明。蒼白の総聯関係者の制止を振り切り、いつの間に現れたアメリカ領事館関係者共々、府警の他自衛隊・駐日米軍までが警戒する中関西国際空港へ直行。全てあらかじめ打ち合わせていたかのように迅速で、北朝鮮政府が非難声明を出した時は既にホノルルへ東進する機上にいた。内外の反響は大きく、魚、黄という重鎮を相次いで失った金政権崩壊の秒読みを始めるメディアもある中、日朝両国政府だけが不自然な沈黙を守っていた。
 当日の試合直前、六万円でチケットを買った男は、作成されたモンタージュ公開で在日朝鮮人と判明。安智鉄(アンチチョル)。あの試合にも出場した安智平の弟だが五月以降行方不明。家族には総聯の用事で他出する旨連絡があり、在日社会ではよくあることで沈黙を保っていたが、今回のモンタージュ公開で遂に通報してきたのだった。新潟住まいの安智平に不審な動きはなく、計画への関与はないと外事は推測していた。
「警官の妻、北のトップを狙撃……見破れなければ大変でしたね。今回は、付け入る隙を与えずに済みましたが……北はまたこういう陰謀を仕掛けて来ると思われますか?」
――当分は大人しくしているだろうが……中国も北京の吉川典子病死や魚珍禹急死など、黙認していた可能性が大だ。かと言って日本が解明を試みれば……
「歴史問題を持ち出し横槍ですか。さっさと……」
――無駄だよ。中国に、歴史問題を決着させる意思はない。
「カード……ですか」
――尖閣諸島問題や反日暴動……対日政策全てに使えるのだから。日本が誠意で対応する限り……
「……」
――潮時かな。台湾問題も含め、あらためて考えるべきだね。
「アメリカや韓国はどうでしょう?今回の件が政策に影響する可能性は?」
――歴史をカードにしている点は韓国も同じだしねえ。アメリカだって、また民主党政権にでもなれば……
「結局、日本が自力で対処するしかないと?」
――独力で有事に対処できてこその危機管理だからね。尤も、近年のアジア情勢下で国民の意識も変わりつつあるし、今後はその行方次第だろうが。

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2008年5月29日 (木)

Time Up:十四.守るべきもの(上)

 水口外相の公用車は宵闇の衆議院第二別館前を疾走、首相官邸の車寄に滑り込んだ。大階段を登り執務室に足を踏み入れた彼女は、応接セットに端坐する田宮真砂子(まさこ)に絶句した。先年内外を驚かせた電撃更迭の後を襲ったのは他ならぬ水口で、その後は絶交状態だった。
「お久しぶりです……私も関係するお話ですか?」
「私がそう判断しご足労願いました」
 そう言いながら部屋に現れたのはこの官邸のあるじ……小宮山雄一郎(ゆういちろう)だった。
「総理!ご無事ですか?お怪我は?」
「この通り五体満足です……田宮先生が北京にお持ちのパイプからメッセージが届きました」
 腰を降ろした小宮山は顔から笑いを消し、本題に入った。
「先刻、報告を受けましたが……事実なのですか?」
「イランも同じ事実を確認しています。情報照合の結果、一部の独断などではないと結論づけました」
 同席していたイラン大使が、小宮山の言葉に頷いてみせた。
「警察は早くから察知していたようですが、私には何も……」
「まあ、現場でどう判断したかはわかりませんが、結果的にはよろしかったのでは?」
「……」
「先方は内々に処理したいと伝えてきました。決裂は避けたいようです」
「なかったことにする、ですね?」
「安永(やすなが・内閣官房)長官は激怒するでしょうが機密保持のためです。但し同時に今後の戒めとして、関係者には超法規的措置を講じます」
 水口は蒼白になっていた。
「対朝外交方針も変更――ですか?」
「今は事態収拾が最優先ですが……」
 小宮山は一旦言葉を切り、あらためて水口の顔を見据えた。
「潮時でしょう。あくまでカードのつもりでしたが、勿体ぶらず速やかに実行すべきだった。それが真の、歴史の清算にもなる……ご理解いただけますね?」
 室内を重苦しい沈黙が支配した。それは水口にだけでなく、近隣諸国に理解的な田宮にも苦渋の決定だった。
「刀と言えば、日本刀は時々素振りで空を斬ることが大切とか……至急各方面に指示しますので、よろしく」
 小宮山はそう言って立ち上がった。

 翌未明、香港を発った中国民航ツポレフ一五四チャーター機は垂直尾翼中央に五星紅旗を浮かび上がらせ、月夜の雲海を一路北上していた。
 中国の亡命受容れが魚珍禹に伝えられたのは午前〇時過ぎ。テレビとパソコンは急に不通、新聞を買いに行かせた部下は戻らない。情報から隔絶され用心深くなっていた魚だが、人民武力部政治委員の朱文甫(スムンボ)が北京に入れた電話口で先方が確約したと聞いて愁眉を開き、急かされるまま支度、空港へ直行。服務員が勧めるワインで一眠りの後トイレに立ち、便器に座ったまま思いに耽る。黄が訪日中だが何か異変……と思い到った瞬間ドアが開き、正面に立った服務員が抱えた毛布から飛び出した銃弾が魚の心臓を貫いた。服務員姿の許貞恵が客室に戻ると、蒼白の朱が着席していた。
「同志のご協力で祖国の危機は救われました」
「……」
「何か召し上がられますか?」
「――要らん!」
 怯えを怒声で隠した朱に許は乾いた微笑を返し、永遠に空席となったテーブルから、下剤を混入していたワイングラスを持ち去った。
 数時間後、北京首都空港に着陸した中国民航機から或る物体が降ろされ、定刻を遅れ待機中の定期便に積み替えられると、朝焼けの中を平壌へ飛び立っていった。

 中川への、監察の事情聴取は未明に終了。始発で帰宅すると、部屋のパソコンに見慣れた送信元のメールが届いていた。

 差出人名をどうするか迷いました。貴方がこれを読む時には……全て知っている筈ですね?
 私の運命がねじ曲られたのは二年余り前。新潟に帰省中、東京にいた筈の恋人の、目立たない場所で会いたいというメールに赴いた、海岸近くの林で覆面姿の男達に襲われ、袋に閉じ込められて小さな船に乗せられました。数日後、山間の収容施設でやっと目隠しを外され、中央ホール正面に飾られた金一成親子の写真で、自分が北朝鮮に拉致されたとわかりました。
 絶えず、互いの猜疑心を煽る工作……そしてある日、囚人同士殺し合え、生き残った一人だけ帰してやると言われました。鈍っていた判断力で理解できたのは、ここで死ぬか皆を殺すかの二者択一。それでも最後の二人になった時自ら喉を掻き切った女性の、死に際の微笑は今でも憶えています。
 次に送られた施設でも再び…そして最後に生き残った私の前に鄭が現れ、静かな山奥のコテージで銃を始めとした武器の扱い、素手で相手を倒す方法などあらゆる戦闘技術を叩き込みました。訓練は過酷でしたが彼は初めて、私を一人の人間として扱ってくれました。
 一年後、中国旅行中の女性としてやっと日本の土を踏んだ私は、今度は松嶋早紀にすり替わり…貴方と出会いました。警察官と知った時は迷いましたが、鄭は好都合と言いました。上部の判断で、彼は不満そうでしたが。
 拳銃はスタンドの発煙筒騒ぎの隙に座席を壊し、修理業者が仕込む手筈です。騒ぎを起こさせた学生は鄭が口を封じ、それに気づいた斎藤さんは私が殺しました。その後移った……先が飯田さんの部屋とは計算外でしたが。その飯田さんにアジトを突き止められたのは多分まだ貴方を愛していた、彼女の勘だったのでしょう。そして私にも隙があった…貴方を愛してしまったから。また一緒に、サッカーを観たかった…
 北朝鮮による日本人拉致は何百人にもなりますが、その一部は日本に戻っているのです。正体を隠し、いつ来ると知れぬ指令を待ちながら。こんなことで血を流すのは私で最後にして下さい。
                         中川 早紀

 警察が調べたところ、発信元は五月十五日午後、町田市内のインターネット喫茶。店員の証言では同時刻黒いキャップの若い男が入店、二十分程で立ち去ったと言う。服装から警察は、片桐幸子と断定。鄭が語った約束に触れていないのは、実現しないとの覚悟ゆえか。
 着信は試合当日午後四時。全てが終わる頃届くよう送ったのだ。

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2008年5月27日 (火)

Time Up:十三.銃声(下)

 正面玄関の真下に一般用の駐車場がある。マイカー来場が全面禁止の今日は関係車両がまばらに駐車しているだけで、神殿のように支柱が並ぶフロアーは上階の異変も知らぬげに、がらんと静まり返っていた。
 長島と、女性捜査員に伴なわれた許がエレベーターで現れ、隅に停車していた覆面パトカーに滑り込むと、静かに駐車場を後にした。上空には非常時に備え、狙撃銃を構えるSATが乗り込んだ警察のヘリコプター。
「北京経由だったな?」
「十八時二〇分成田発の、ノースウェスト一一便です」
 長島がバックミラー越しに運転手へ目配せ、サイレンを起動したパトカーは第三京浜を南へ加速し始めた。
「鄭少佐の罪は消えないが、最後の選択を私は理解する……もし君が相手だったら、我々は阻止できたかな?」
 車内を支配する沈黙に、運転手がバックミラーから二人を覗き込んだ。
「……ご想像にお任せするとしか答えられません」
「まあいい……とにかく君の働きで最悪の事態は防がれた。上からも別途、平壌に謝意が伝えられる筈だ」
「ありがとうございます」
 虚ろに笑い返した許は、泣き腫らした視線を再び車窓に向けた。いつしか首都高速に入っていたパトカーは一旦減速して横浜駅真上の急カーブを通過すると、一路成田へ再び加速していった。

 鄭の死体を担架に乗せた救急隊員が、六階からエレベーターで戻ってきた。確認した崔はしばし瞑目、李が痛ましげに見遣る。斉木も井口に支えられ近づいてきた。かなり派手に出血したが、銃弾はこめかみをかすっただけだったのだった。他には転倒時にかすった手の甲の擦り傷。
 駆けつけた救急車の一台が、腹部を撃たれたSPを搬送。応急処置を受けた工藤が同乗。もう一台には密封された鄭、早紀と凱の死体を乗せて。
 救急車と入れ替わるようにに次々と駆けつけてくるパトカーの赤色灯が、正面玄関周辺をネオンのように照らし出す。その一台から降り立った田村を、中川は虚ろな目で見上げた。
「副主席一行は?」
「新横浜駅特別室に入った。予定通り、間もなく新幹線でここを離れる。車中で京都府警に引き継いだら、これからは後始末だな」
「……」
 田村の後ろからは、斉木と井口も近づいてきた。包帯で頭の傷を縛った斉木の美貌の上半分には、茶色に乾いた血が放射状に広がっていた。
「中川さん、大丈夫ですか?」
「ああ」
 そう答えた中川だが頭の中は真っ白で、自分の声も隣室の話し声のようだった。
 震えの止まらない手で拳銃をホルダーに収め、柳沢が腕を取って立たせる、その時耳元で
「貸しは、確かに返してもらった」
 という声に中川が振り向くと、加藤が横顔を向けたまま
「部屋代は心配するな」
 と言ったきり、照れくさそうにすぐ体を離した。中川の頬を熱い物が濡らし、柳沢がまた口をすぼめてその肩を叩いた。三台目の救急車が到着、斉木が井口と山崎に伴なわれ彼女が乗り込もうとした時
「斉木巡査、小田さんから伝言だ」
 呼び止められ振り返った斉木に、直立不動の田村が与えたのは、言葉でなく敬礼だった。原が、磯貝が、柳沢が、裵が、崔が、李が、朴課長が、加藤が、中川が、周囲の捜査員・警官が次々と倣い、斉木も答礼。しばしの後、自らも敬礼していた救急隊員に促された斉木達が乗り込乗り込んだ救急車は、敬礼の列の中をゆっくりと滑り出した。

――こちら警備本部。各員、状況を報告。
「港北署交通課、斉木巡査。現在……競技場東側を通過。間もなく労災病院」
――美奈子、大丈夫か?
 無線に割り込んできたのは、警護で白バイのハンドルを握っている筈の伊東だった。
「……秀晃?今、どこなの?」
――新横浜駅に着いた。黄副主席一行は、ホームに移動中だ。
「そう……あたしは大丈夫。額をかすっただけ」
――よかった……結婚しよう。
 井口と山崎は救急隊員と失笑を交わし、斉木は赤面。無線機からは誰かの咳払いが聞こえてきた。
「ちょっと……これ、皆に聞こえてるわよ」
――俺じゃだめか?
「そうじゃなくて……だって手に怪我したし、銃は握れるかもしれないけど、もう前みたいには……」
――何言ってるんだ。俺が守ってやる……だめか?
「……ありがとう」
――それ、OKの返事と思っていいのか?
「……バカ」
 斉木は目尻を湿らせた。減速した救急車は左折すると東ゲートへのスロープ下をくぐって労災病院の敷地に入り、救急入口へ近づいていった。

 各メディアは夕方を待たず一斉にこの事件を、外交的影響への憶測も交えながら報じた。殺されたビール販売員、被弾したSPと斉木の他はパニック時に二十余名が負傷。北側一階では、頭部が粉々になった男の死体を発見。所持品中にはリモコン起爆装置。斉木が仕留めた販売員が持っていた箱は二重底だった。過激派の手配リストと照合した結果、どちらも日本紅衛兵メンバーと判明。ダイナマイトを隠し持ち、屋根に仕掛けて廻っていたと思われた。なお、狙撃犯の身許については、警察は確認中と発表。

 午後五時半過ぎ、平壌近郊・十五号官邸大広間。
 金正一は正面のソファーに体を沈めていた。向かいには家庭電器卸売業の在日が献上した大型液晶テレビ。換金すれば数家族を餓死から救える代物だ。
 先刻から流れているのは親善試合終了を待たず相次いだ、突発事態とその後の動きを断続的に伝える臨時ニュース。体調不良を口実にここ数日、敷地面積は公邸である三七号官邸(市内)の十倍以上、湖のような池やゴルフコースまであるこの別邸で、これ幸いと好みの女性を集めての連日の淫行でゆるんだ、金の顔の下半分が怒りで痙攣していた。
「なぜだ?計画は完璧だった筈だぞ?何で、こうあっさり失敗した?誰の仕業にするんだ?国外マスコミに、どう説明する?黄の自作自演にするか?」
 全て金の自作自演と知っている側近には笑止だが、放っておけは金は糸の切れた凧のように迷走、弾道ミサイル再発射も言い出しかねない。
「日本側が調査要員でも送り込んでこない限りごまかせます。第一、黄副主席には各国マスコミも張り付いており、今自作自演説を持ち出しては逆効果――」
 側近の言葉は鋭い破壊音で中断、金が投げつけたリモコンを画面に飲みこんだ液晶テレビは一瞬で粗大ゴミと化した。彼の癇癪の犠牲となって、常時携えた護身用旧ソ連製自動拳銃で射殺された者は数知れず、一度ならずそれを目撃している側近は、破滅の予感に蒼白となった。
「ならどうする?中国に逃げるか?尤も先方の立場上北京もまずいだろうし、そう、魚が逃げ込んだ香港……」
「そう、魚人民武力部長です!」
 側近は半ば無意識に叫び、一人喋り続けていた金は面食らって、怪訝な顔で見返してきた。
「お前、何が言いたい?魚にとりなしてもらおうと?いや、それはだめだぞ。魚はガチガチの強硬派で、国外での受けは悪いから逆効果……」
「いえ、魚前部長が全ての黒幕だったことにするのです」
「そう、思い出したぞ、しくじったらそういう筋書だったな……しかしそれで収拾できるのか?」
「脈はあります。情報源の日本警察高官が」
「何だ?」
「急死したそうです」
「急死?……なるほど」
 金はにやりと笑った。
「日本も表沙汰にしたくないということだな?だったら問題ないじゃないか。中国に連絡してとっとと手配しろ」
 害虫を駆除するように命じた金の表情に浮かんでいたのは、重臣への敬意など薬にもしたくない悪意だった。
「これでやっと、邪魔な奴を始末できる……」

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2008年5月26日 (月)

Time Up:十三.銃声(中)

 紅白に塗り分けた全長百三メートルのレールは黒煙であっという間に包まれ、煙間からちらつく炎に観客がパニック、出口へ殺到し始めた。階段を踏み外し転倒、下敷きになるまいと逃げ惑う者。同伴者を見失ったカップルの悲鳴。親とはぐれた子供の泣き声。スタンドに突入した工藤らは、身動きが取れなくなった。
 爆発音に紛れた銃声を聴き取った長島と許は、コンコースの階段を駆け上がった。六階エレベーター脇には、写真を確認するまでもなく警備陣の頭脳にはっきり入力された顔の男が、うずくまっていた。
「鄭少佐!」
 真っ先に駆け寄った許に昔の階級で呼びかけられた鄭は、ゆっくり顔を上げ微笑した。
「……仏心が命取りになったな。この手で訓練したのを忘れていた、私のミスだ」
 捜査員達は言葉を失った。彼に重傷を負わせられる、そしてほぼ確実に場内にいる人物と言えば……
「彼女も場内だな?」
 鄭は無言で頷いた。スタンド突入を諦めた工藤や朴課長が周りをばらばらと囲む。
「訓練していた頃、何度か脱走を図った。私が一人で連れ戻し、また逃げる、の繰り返しだった」
 遠くを見る目つきになり語り続ける鄭を、捜査員達は無言で見守った。
「今回の任務を前に両親に会わせると私は約束した。帰国すれば何とかなると思ったが……」
「もういい……ご両親には我々が会わせる」
 長島はそう言って、鄭の真直ぐな視線を受け止めた。
「……」
「以前、少佐は私を死なせたくないと仰いました。私も少佐に、ここで死んで欲しくはありません」
 やっと口にできた。平穏な任務に就いていた頃からの想いを。あの事件を境に特殊任務志願、過酷な訓練に耐え、そして何度も夢にまで見た再会。だが、彼女が人知れず慕っていた男の腹部に出来た染みは広がりを止めないばかりか、路面にもゆっくりと溜まりを作りつつあった。
 沈黙を破るチャイムと共に開いたエレベーターから救急隊の担架が現れたが、思わず生気を取り戻した警備陣を最後まで裏切る銃声、そして皆が気づいた時鄭は、重傷と思えぬ素早さでエレベーターに乗り込んでいた。再び銃を構え殺到した警備陣は鄭の
「寄るなあッ!」
 という一喝、否、その左手にある手榴弾に立ち竦んだ。
「死ぬだけが責任の取り方ではあるまい。協力してくれれば相応の処遇……」
「全て調べたのだろう?付け足すことはないし、こうなった以上平壌も絶対に生かしておくまい」
「少佐……」
 もう半分泣き顔の許に微笑した後、鄭は警官達を見まわし
「彼女を止めてくれ。私がそう言ったと言えば充分だ。ご主人によろしくな」
 と言い、扉に引っかかっていた担架を蹴り飛ばした。逃がすまいと跳びかかった工藤の腿に鄭の投げたナイフが突き立ち、工藤は足を抱えて転倒。扉を閉ざしたエレベーターはゆっくり下降を始めた。
「少佐!」
「下の階だ!手榴弾を持っているぞ!退避!」
 許と長島の絶叫を砲撃のような衝撃か吹き飛ばし、床に叩きつけられた警官達が起き上がると、エレベーターの扉から漏れる薄い煙、そして階下からもう一度伝わってきた衝撃を最後にコンコースから緊張が去った。
 泣き崩れる許、歯を食いしばり足を抱える工藤を見ながら、長島は一つの怨念が終息したのを感じ、暫時立ち尽くしていたが、その最期の言葉を思い出し、無線に手を伸ばした。

 中川がたどり着いた貴賓室に人影はなく、いち早く退席した両首脳を追い正面玄関に向かう。グラウンド方向からも銃声。後で聞いた話では西二階スタンド席に不審者を発見、しかし間を措かず見失ったという。
 長い階段を駆け下りる両首脳にSPが張り付き、他の警官が周囲を固める。頭上からは、逃げ惑う観客の悲鳴や足音。西ゲートは急遽締め切った筈だが、鄭達にしてみると無理にVIP席近くの席を確保する必要はなかった。スタンドにうまくパニックを誘発すれば、警備突破は簡単ではないか。
 階段の下にやっと見えた正面玄関の向こうで、エンジンをかけた車列がドアを開け放ち待機。両首脳が専用車にあと数歩と近づいた時、銃声と同時にSPが一人崩れ落ち、中川達が一斉に銃口を向けたその先に
 西ゲート広場へ上がる階段の下で、早紀が拳銃を構えていた。中川と視線が絡み合い、怯んだようだったがそれも一瞬で、車内に身を沈めようとしていた首脳に銃口を向けた。
「やめろ!」
 柳沢が叫びながら発砲、裵が両首脳を突き飛ばすように後部座席に押し込み、車列はサイレンもけたたましく赤色灯の光を撒き散らしながら、駐車場へ向け猛発進した。
 それを見た早紀は踵を返し、階段へ物凄い勢いで走り出した。リンク上から車列を狙うつもりだったようだが、斉木と井口が階段の上から銃を構えていた。背後から肉薄する加藤を制し柳沢が
「そこまでだ、早紀さん」
 と、彼女の仮の名を呼びかけた。
「……」
「鄭栄秀は死んだ……『止めてくれ』。これが遺言だ。意味がわかるか?」
「!……」
 早紀の顔が歪み、しかしなおも動かない銃口を見かねたように崔が語りかけた。
「片桐、幸子さんですね?」
「!」
 銃口の後ろで彼女が動揺している。彼のことを知っていても、この場に現れるとは予想していなかった筈だ。
「崔泰映と言います。鄭栄秀の弟です。韓国から、兄を追って来ました」
「――」
「さっきの電話を、あなたもお聞きになったと思います。
 ご主人とやり直せませんか?ご両親ともお会いになればいい。今ならそれができると思います。
 歴史問題では私も思うことがあります。しかしそれを理由にこういうことを続けるのが正しいとも思わない。もう終わらせるべきです」
 下がりはじめた銃口に合わせて捜査員達が包囲環をせばめる中、柳沢が再び声をかける。
「新潟のご実家にも警備をつけた。銃をおろして全て話して欲しい。それかあなたにできる償……」
 突然炸裂した二発の銃声に続いて早紀の銃口が火を噴き、血飛沫と共に斉木が倒れた瞬間には、再度反転した早紀の銃口は加藤の眉間をぴたりと向いていて、加藤が二階級特進を覚悟した時
「クマンドゥダラ(やめなさい)!」
 裵の叫びと共に、彼の体は誰かの体当たりで横に吹き飛び、早紀の銃弾はそこにできた空間に飛び込んだ中川の眼前の路面に火花を散らした。一瞬後(おく)れ時ならぬ白煙。中川の応射が、柱に設置された泡消火装置に命中したのだ。雷鳴のようなSATの斉射をかわすべく早紀は後方に跳躍、柱の一つに背を寄せ動きを止めた。殺到した銃口が二重三重に囲む脇を、駐車場から再び現れた車列が猛スピードで通過。専用車の側面に赤い液体が飛散する。警護の白バイの一人が通過しざま、路肩の光景に一瞬視線を向けたようだった。
 車列が白煙を吹き飛ばした後も、目を見開き微動だにしない早紀に近づきかけ、中川は凍りついた。紅白に染まった泡消火装置のパイプが、彼女の左胸から突き出ていた。中川の銃撃で出来た破断面に、背中からぶつかったのだ。銃口をかきわけ進み出た山崎が脈拍と瞳孔を確かめると振り返って首を横に振り、瞼を閉じさせた。
 裵の横では凱通訳が倒れていた。手にした拳銃の銃弾は加藤の拳銃を吹き飛ばし、そしてその頭蓋は裵の銃弾で吹き飛んでいた。これが彼の、本当の任務だったと誰もが直感的に悟った。
「ウェ(なぜ)?」
 静まり返った空間に響いた、裵の問いに答えられる者もなく
「ウェ!」
 二回目の絶叫を聞きながら、中川はその場に座り込んだ。両手の指は銃身に食い込んで離れなかった。

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2008年5月22日 (木)

Time Up:十三.銃声(上)

 中川が二階西スタンドの屋根裏に入ると、処理班が既に作業を進めていた。
 一時五十五分で飲食物の呼売りは打ち切られるので、販売員を装うのは今のように難しいが、一般観戦客ならゲートさえ通過すれば、巡回中の警官・警備員も見逃す可能性が高い。スタンド入口でのチェックも、斎藤が解き明かした徳田信枝逃走計画と同じトリックを使えばいい。
 つまりチケットを入手した共犯者が入場、二人に検札済のチケットを渡した後は、洗面所などに潜む。二人は手にしたチケットでスタンドに入り、席に着いて時を待つのだ。ほぼ満席のスタンドで、座席番号でもわからない限り、二人の所在を特定することは不可能に近かった。
 最初に爆発物が発見されたのは東側。間もなく西側でも一個目を発見。スタンド奥の通路前、斜めに延びた直径約一メートルの支柱先端にダイナマイト一本を電磁石で固定、無線のアンテナが氷柱のように突き出ていた。
「うまく仕掛けたな。これなら、どの方向からも電波をキャッチできる」
「屋根裏になりますが、侵入したのでしょうか?」
「いや、天井の四隅に隙間がある。投げ縄の要領でロープを引っ掛け引き上げたんだ。一、二個所の爆発で屋根が倒壊することはあるまいが、全体に仕掛けられていたら……」
「八十四分(ぶん)の二十……では、支柱四つおきぐらい?」
「多分な。とにかく一個でも多く処理しよう」
 観客の視線を気にしつつ爆発物解体に着手。階段入口は立入禁止だが機動隊の盾は外側だから、爆発すれば屋根裏の中川達は一巻の終わりだ。
 一つを片づけると、左右に折れ曲がり続く薄暗い通路を移動。試合は、交替した日本側キーパーが失点を許さず、双方とも無得点のまま前半終了。公式戦顔負けの緊迫した展開に観客も気を取られ、通常にない警備の配置と動きには全く気づいていないようだが、それで得をするのは狙撃犯や爆破予告犯も同じなのだ。
 二個目はやはり四つ先の支柱で発見。班長は全処理班に支柱四本毎のチェックを指示した。
 屋根中央のブースに入ると、窓からは広いグラウンドが箱庭のように一目で見渡せた。室内を隈なく調べたが異状はなく、東側ブースも同様との報告に拍子抜けしつつ一同が部屋を後にしようとした時

――港北警察署からのお報せです。

 との場内アナウンスに皆は顔を見合わせた。スタンドの大型スクリーンには、鄭の顔写真が表示されていた。

――先日より発生しています連続殺人事件につき、容疑者の身許が発表されました。お心当りの方は至急最寄の警察までご一報下さいますよう、ご協力をお願いします。

「女の共犯者がいたんじゃありませんでしたか?」
 中川にちらと目を遣った班長が、班員の言葉を咎めた。
「おいっ……ともあれ、逮捕状は間に合ったようだな」
「プレッシャーか。でも、逆効果になったりしませんかね?」
「大丈夫だろう。プロの工作員なら、この程度で暴発すまい」
 そう話していた処理班員の一人がふと、床から小さな紙片を拾い上げ
「あれ?去年のJリーグのチケットだ。何でこんな所……」
 中川は心臓が止まりそうになった。驚く処理班員の手から紙片をもぎ取る。表には覚えのある開催日時。震える手で裏返した中川の目に見覚えがある筆跡が飛び込んできた。

 N―XXX―XXX
 W―XXX―XXX

 ロスタイム直前のスタンドでは、北朝鮮ゴール前に上がったボールを、いつの間に現れたフォワードがヘディング。ふわりと浮いたボールはすがりつくキーパーを嘲うように放物線を描き、ゴールへと吸い込まれていった。
「どうした?」
「あの――ここの警備配置は何時ですか?」
「今朝だが?正確には九時十分から待機しているよ」
「昨夜は?」
「夜間か?いや、無人だった筈だ。もちろん施錠していたが」
「じゃあ、これは誰が?」
「さあ……」
 ブースに詰めていた捜査員の言葉に、中川から血の気が退いていった。
「昨日の競技場全体チェックでは、このブースも?」
「ああ。間違いない」
「最後にチェックしたのは何時ですか?」
「ここは……確か八時過……」
 捜査員がそう言った時乾いた爆発音が反響。見ると北側の屋根裏から白煙が立ち上っていた。
「どうした?」
 班長が無線機に怒鳴った。
――N二三エリアで爆発。例のダイナマイトの模様。
「被害は?」
――取り付け部に約五十センチの亀裂。構造物へのダメージはない模様。人的被害は未確認。
 ブース窓から見下ろすと、暴行を働いた北朝鮮選手の退場処分で騒然としていたスタンドが、今の異変にざわついている。グラウンドでも審判が試合を中断、選手が不安げに立ち尽くしていた。
 無線に小田が割り込んできた。
――今の爆発は何だ?
「北スタンド屋根裏の推定二個所。被害状況は確認中」
――爆発物は処理中だったな。進捗は?
「東スタンド、南スタンド、状況を報告」
――東スタンド、全ポイントをチェック。処理爆発物は五個。
――南スタンド、十五個所をチェック。処理爆発物は四個。
「西スタンドは九個所をチェック。処理爆発物は三個」
――マルタイは貴賓室に移動。それと鶴見署管内、東洋石油京浜埠頭で徳田信枝らしい女性を確保。
――試合は続行ですか?
――主催者に確認中だ。
――しかし、狙撃犯は依然所在……
「それなんですが……」
――中川か。どうした?
「二階西スタンド奥のブースに、鄭が侵入した形跡」
 中川の言葉に、居合わせた処理班や捜査員が仰天した。
――……西スタンドのブースと言ったな?爆発物は?
 小田が問い返してきた。
「ありません。今、確認しました」
――VIP席を狙うなら東側じゃないのか?西側からでは二階スタンドに遮られ死角だぞ?
「しかし、昨夕から今朝まではノーマークだったそうです。その間に潜入、ここで夜を明かしたのでは?」
――侵入したという根拠は?
「床に紙片。裏に書込み。筆跡が早……片桐幸子と酷似」
――……内容は?
「英数字が二列。N―XXX―XXX、もう一つはW―XXX―XXX」
――スタンドの座席番号では?NにWなら北と西ですね。
 割り込んできた警備主任の言葉が、中川の頭の中で弾けた。視線の先、西二階スタンド中央最前列の放送席両脇には、切欠けがあって……
「正確な位置は、わかりますか?」
――西は二階ホーム寄り、前から三列目。北は一階バックスタンド寄りの中程です。
「三列目……その席から、VIP席が見えませんか?」
 数秒の沈黙の後、最悪の答えが返ってきた。
――見えますね。
 警備主任の言葉を聞いていた、工藤の携帯電話が鳴った。
――小田だ……聞いたな?
「聞きましたが……間違いないのでしょうか?所轄……」
――無駄口を叩いている時間はないと思うが?
「わ、わかりました」
 工藤は防災センターを飛び出した。先行した捜査員からの無線報告が入ってくる。
――空席でした。入場したかどうかも確認できません。
「そうか……SATは、各ゲートに一小隊ずつだったな?」
――はい。
「東と南の小隊は西ゲートに先回り、警護支援。北の小隊は一階北スタンド、西小隊は二階スタンドを警戒。CRAWは該当範囲のスタンドをローラー。急げ!」
 その時大きな爆発音と共にブースの窓ガラスがびりびりと震え、外を見ると移動式のカメラが火を噴いていた。スタンド屋根に渡したレールに吊り下げ、グラウンドの試合を中継する物だ。
 中川は、無意識にブースを飛び出していった。

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2008年5月20日 (火)

Time Up:十二.キックオフ(下)

 同じ頃、横浜市鶴見区。
 徳田信枝は、京浜運河に面した埠頭に立っていた。アナーキズムの女神と称され、学生運動家のカリスマだった頃の丈なす黒髪は半ば白くなった上、長い逃亡生活の間に切り落とされパーマで縮れている。鋭角的な風貌にも心労で皺が一面に刻まれ、若い頃の輝きを失っていた。
 埠頭には彼女の他に数人の同志だけ。彼らの手で脱走、北朝鮮に再び渡る手筈も整っている。腕に嵌めた旧東ドイツ製の時計は午後二時半直前。間もなく港湾職員を装った協力者の手引きでミャンマー行きの貨物船に便乗、東シナ海上で密かに乗り換え半島西岸に上陸の予定だ。
 ハイジャック機で最初に北朝鮮に渡った時が彼女の闘争人生の絶頂だったようだ。東欧各国で相次いだ社会主義政権崩壊と金一成の後継者争いで間もなく平壌も不穏となり、反米政権がまだ健在だった中東に渡ったが、米国同時多発テロ以降はそこも安住の地ではなくなった。
 身を寄せていたヨルダンばかりかリビアまで変節、アフガニスタン・イラクは政権崩壊。もはや祖国ではない日本で一時拘束、少し廻り道だったがそれも今日まで……激変する世界情勢に心身共憔悴しながらも、彼女の双眸にはようやく往年の光が戻りつつあった。
 ビルの陰から、職員の服装をした男が二人近づいてきた。
「徳田信枝、か?」
「ええ」
「話は聞いている。こっちへ」
 二人に続いて彼女達が埠頭の端まで来ると、黒い船体の貨物船が出航の準備をしていた。
「これに乗ってもらう。船室はブリッジ真下だ。船長には荷主の親族だと言ってある」
 男はそう言って脇に抱えた紙包みに手を突っ込み、しかし取り出したのは密航用偽造パスポートではなく、黒く光る拳銃だった。
 不意を突かれた同志達の中でいち早く徳田信枝は男に体当たり、腿に被弾しながら拳銃を奪い取ったが、同時に物陰に隠れていた警官がばらばらと現れ、タラップへ向きなおった彼女の行く手を阻んだ。中央には拳銃を構えた永井ら警視庁公安三課員。待ち伏せされていたのだ。
 一発発砲すると海岸線沿いに逃走。曲線的な外観が埠頭と不釣合いな覆面パトカーが停車していた。運転手の頭を銃弾で吹き飛ばしハンドルを奪う。乗り込もうと助手席のドアに取り付いた藤堂顕治が背中を撃たれて倒れ、急発進した覆面パトカーに頭部を轢き潰され即死した。
 彼女はローリングしながら埠頭を逃げ惑ったが、陸上の出入口はいち早くバリケード封鎖、車の行く手も次々とパトカーが塞いでいくその時
 眼前を斜めに横切る引込み線に、機関車に牽引された何十両ものタンク列車が進入してきた。貨車の側面には大手石油会社のマーク。ブレーキを諦め回避しようと急ハンドルを切ったのが裏目に出てコントロールを失った覆面パトカーはスピン、タンク車の一両に突っ込んでいった。
 大爆発に続いて発生した火災が完全に鎮火するまで三十分、消火剤で真っ白の覆面パトカー運転席から女性が引きずり出され、直ちに救急車で搬送。着衣や頭髪は根こそぎ焼け落ち、全身真っ赤に焼け爛れた顔は両目と口を可能な限り開き、苦痛と絶望に歪んでいた。

 その男は頭部を便器に突っ込んだ格好で絶命していた。後頭部が吹き飛び、脳漿が流れ出している。第一発見者の警備員は蒼くなり震えていた。白いユニフォームの競技場スタッフも次々集まってきた。
「ビールの販売員というのは確かですか?」
「間違いありません……殺されたんですか?」
「背後から撃たれています。銃声は聞こえませんでしたか?」
「いえ。コンクリートの打ちっ放しですから、そういう音がすれば反響した筈ですが……」
「販売員というと、売店の店員ですか?」
「ビール会社の委託職員です。サーバーを担いでスタンドを売り歩くんです」
「しかし、身許を示す物は身に着けていませんが?」
「競技場出入りを示すビブス、ビールサーバー……そういう類がなくなってますね」
「まさか……」
 顔色を変えた柳沢は無線を手にした。
「殺人です。後頭部損傷。撃たれたと思われますが、銃声はなかった模様。サイレンサーでしょう」
――ビール販売員というのは確かか?
「発見した警備員が顔を見て、間違いないと言っています。それと、身に着けていた筈の制服やビールサーバーが見当たりません」
――奪われた?では……
 その時、捜査員の誰かが怒鳴った。
「止まれ!」
 捜査員達は一斉に階段の方を見た。七階から現れたビール販売員が一人、逃げ出すところだった。そして鈍い銃声と同時に、トイレ脇の壁面から飛び散る火花とコンクリート片。販売員が牽制で撃ってきたのだ。斉木が咄嗟に応射し、頸部に被弾した販売員は駆け下りようとしていた階段の外へ悲鳴と共に転落、数階下の路面に背中から激突。ビールサーバーが破裂し、褐色と赤色、二種類の液体が路面に泡まみれの汚らしい池を作っていった。
――どうした?
 無線の向こうで小田が怒鳴った。斉木は自分の銃声に腰を抜かしている。
「ビール販売員姿の不審者が発砲、応戦の結果制圧。身許、生死、トイレの死体との関連は未確認」
――わかった。井口巡査部長と斉木巡査は本来任務に復帰。他の者はスタンド入口に待機。爆発物処理班は作業再開、中川巡査部長はその支援。
 小田の声で捜査員達は再び慌ただしく動きはじめた。無線には、七階エレベーター前で警備員が倒れているとの報告。脇には、乗り捨てられた車椅子。彼女が今、場内にいるとすれば、ずばり狙撃実行の意思に他ならない。遭遇した時、それを止めることはできるのだろうか?

――はい、井出です。
「工藤です」
――……
「もしもし?」
――君も暇だねえ?
「は?……あの……」
――試合はもう始まったんだろう?
「ご存じだったんですか?」
――テレビが生中継しているんだ。ご存じも何もないよ。
「は……」
 井出の口調にある焦燥と険を敏感に察知した工藤は、嫌な予感がした。
――それで?
「通報のあった京浜運河で、徳田信枝と思われる不審者を確保。逃走を図って事故を起こし、意識不明の重体で病院に搬送中です。身許は現在確認中ですが」
――公安の網にかかったか。本人に相違なければ、その件は一段落だが……
「あと、李芳姫は別途、競技場に入りました。事前に解決できればよかったのですが……」
――君らしくない判断ミスだが、まあ、サロメの線がなくなった以上致し方ない。それより昨夜、君は不用意に警備の配置を動かしたそうだな?
「――」
――私が知っていたのは意外かね?
「――は……い、いえ」
――君には小田君の監視を命じていたが、君自身のことは想定外だったようだな?
「――だ、誰が?」
――そんなことはどうでもいい。問題はその混乱に乗じ、狙撃犯が場内に潜入したらしいことだ。小田君も気づいたようだし、もし最悪の結果になれば君の責任は免れないぞ。
「それは……」
――私なりに手は尽くしたが、本事案も最終段階だ。当分連絡も入れなくていい。
「――」
――今回の総書記観戦は急遽決まったが、その時の長官に私は大丈夫ですと答えた。その後長官も替わられたばかりだし、狙撃を阻止できなければ、私が詰腹を切ることになるだろう。
「――」
――盧氏からの情報リークまで明るみになれば判断ミスでは済まなくなる。君も最悪のタイミングでとんだ失態をしてくれたな。失望したよ。
「局長?もしもし、も――」
 いつの間に切れていた電話を握ったまま、工藤は血の気を失ってその場に立ち尽くした。

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2008年5月18日 (日)

Time Up:十二.キックオフ(中)

 一時五十分、山崎が、付近のスーパーで買い込んだジュースを捜査員達に配る。会場と周辺の自動販売機は、全て販売中止だ。
「サンキュー」
「中川さん、リラックスしてください」
「え?」
 含み笑いした山崎の視線を追った中川は、初めて自分の貧乏ゆすりに気づき苦笑。それに励まされたように、斉木が恐る恐る話しかけてきた。
「あの……すみません。こんな形でご一緒するとは……」
「……いいよ。仕事なんだから」
「そう言っていただけると我々も気が楽になります」
 今まで無言無表情だった、不精ひげに青いキャップの男が微笑、初めて口を開いた。
「申し遅れました、都筑北署刑事課巡査部長の井口(いぐち)です」
「井口というと……」
 柳沢が目を丸くした。
「斉木君が二位になった射撃大会県予選の優勝者……確か、そうだな?」
 その県予選こそCRAWの……と気づいた捜査員達が唸った時、場内から大きな歓声。時刻は、一時五十五分。選手入場に国歌吹奏が続き、VIP席では両首脳が何度目かの握手。何ごともないような光景だが、脇の裵が周囲に走らす鋭い視線が、緊迫した現実を思い出させた。
 二時、キックオフのホイッスル。この試合が無事タイムアップを迎えられるかどうかはわからない。その意味でこのホイッスルは警備陣にとっても、最後の戦いの始まりだった。
 二時三十五分、無線に港北署通信室から割込み。
――中川巡査部長に、外部から入電。
「誰からだ?」
――名前は言いませんでした。男性の声ですが……
「男性?」
 早紀かと思った中川は、戸惑った。
――もしもし?どうしますか?
「こちらに転送して下さい」
――はい……どうぞ、お話し下さい。
「もしもし……」
――ご主人ですか?
 中川は全身の血液が退いていった。無言電話でローマ字の暗号を伝えてきた男の声だった。
「鄭だな?どこだ?」
――……
 捜査員達は周囲に視線を走らせた。彼はどこかで自分達を見ているのか。
「用件は何だ?」
――メールを見た。前の恋人が殺されたと……
 山崎が片手でゆっくり輪を書いてみせた。通話を引き伸ばして逆探知するつもりだろう。中川は無言で頷き携帯を握りなおした。
「彼女も一緒なんだな?」
――……
「……競技場は我々が固めた。もう入れないぞ」
――大した自信だな?だが私も、最初から生還は期していない。
「そうして、過ちを重ねるのか?」
――何だと?元々日本のせいで半島……
「また日本のせいか?圧制の責任転嫁ばかりしていては、半島統一など夢のまた夢だな?」
――他人に言えた義理か?まだ血を流さないとわからないようだな?
「わかったとも。お前達の将軍様が全ての元凶だとな」
――黙れ!
「無駄な忠誠心は、もう捨てたらどうだ?十年前お前達一家が受けた仕打ちを忘れたのか?」
――……
「今からでも自首すれば、日本政府がお前を保護する。罪は償ってもらうが、可能な補償があれば考えよう」
――それはもう手遅れだ。
 咄嗟の出まかせと見破ったか、鄭は乗ってこなかった。
「稲生課長補佐や三浦という青年を殺したからか?それに斎藤刑事や尚子、いや飯田――」
 電話は切れていた。テレビ画面では、脇の捜査員と話していた裵が正面に向き直るところだった。笑顔がこわばって見えたのは、今の通話を彼女も耳にしたせいか。
――逆探知は?
 数秒の沈黙を破ったのは、小田の割込みだった。
――発信地点は横浜市北部。十中八九この付近でしょう。
「やはり場内をマークすべきでは?既に潜入した可能性が大です」
――だが、いつ潜入したというんだ?場内は昨日、徹底的にチェック……待て、再度確認する。
 無線は一旦沈黙。もう入れないという言葉に鄭が返した落着きの意味を中川が考えていた時、加藤が
「あっ!」
 と叫んで小型テレビの映像を指した。
「両首脳がまだVIP席にいます。貴賓室の筈では?」
「スタンドプレーですか」
 山崎が笑えないギャグを飛ばし、加藤に
「茶化してる場合か!」
 と一喝された。縮み上がった山崎を尻目に、加藤は柳沢に食い下がる。
「スタンドの警護を固めるべきです。相手も折込み済でしょうが、大っぴらにやったほうがプレッシャー……」
「それはわかるが、指示……」
「スタンドに入るな、目立つな、これでどうやって警護しろって言うんですか?」
 爆発寸前の加藤を柳沢が持て余していた所で、無線が再び喋りだした。
――未明、不審車が現れた際、手違いで数十分間警備網に空白が生じていた。具体的な形跡は確認されていないが、潜入のチャンスはあったようだ。
「わかりました。それと……両首脳がまだVIP席です」
――今の件を伝え打診するが、状況は変わるまい。
「……」
――時間がない。各員、至急配置につけ。
 中川達が追われるように北スタンド下の管理事務所に入ると、机上の図面を前に、爆発物処理の班長が警備主任と話していた。
「そろそろ前半終了ですね」
 警備主任が言った。時計は二時四十分を過ぎていた。
「ではハーフタイムにロスタイムを加え、あと一時間十分余りですか」
 試合は前半十一分、北朝鮮フォワードのファウルに怒った日本ゴールキーパーが相手を突き倒し退場処分。日本は一人少ない十人で、残りの長い時間を戦わなければならない。
「紛失したダイナマイトは二十個でしたね?」
「はい」
「その数で競技場全体の破壊は無理ですね。東海大地震規模の災害を想定した設計だそうなので」
「そうですか。予告では人的被害を仄めかしていましたが」
「そのつもりなら本体に仕掛ける必要はない。例えばスタンドの屋根の一部を爆破すれば充分です」
 中川達は天井に目をやりながら、班長の淡々とした口調にむしろ慄然とした。
「この屋根は鉄骨にステンレス葺きで、仕掛けるとしたら多分支柱周辺ですが、東西スタンドで各十八個所、南北各二十四個所、合計八十四個所全てに仕掛けるのは無理ですね」
「トイレは?」
「今朝再チェックしました。スタンドも入口から内側は同一空間で、極端に言えば死角はないんです。あるとすれば座席の下などですが、今日に限らず不審物への警戒を呼びかけており、何かあればすぐわかる筈です」
「では、マークするならスタンドの外でしょうか?」
「ただ、洗面所や売店の利用者もいますし……とにかくゲートでもチェックしており、唯一のチャンスは昨夜ですが、万一そうなら文字通りノーチェックで何でも持ち込めたことになります。正確な入場者数はわかりますか?」
「五万五千二十八人と報告が入っています」
「あくまで私見ですが予告内容から爆破決行はタイムアップ直後、そして今言いましたが仕掛ける場所は十中八九屋根ですね。本当に持ち込めたかどうかは後にして、今はそれを前提に対処しましょう」
「わかりました。処理班は?」
「既に各スタンド後方に待機、準備させています。そこで今可能な人数で手分けして、屋根を調べてもらえませんか?爆発物は発見し次第我々が処理します」
「爆発物となると競技場側に頼むわけには行きませんから我々警察でやるしかないですね?」
「そうなりますね」
「しかし、こちらは……」
 首脳の警護も、と柳沢が言いかけた時、警備員のトランシーバーからの悲鳴が室内に炸裂した。
――六階の男子トイレで、ビールの販売員が死んでいます!
「何っ!死因は?」
――わかりませんが、後頭部から大量に出血――
 柳沢が真っ先に部屋を飛び出して行った。

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2008年5月16日 (金)

Time Up:十二.キックオフ(上)

 斉木がハンドルを握る覆面パトカーの助手席に加藤。中川は柳沢とCRAWの男に挟まれ後部座席中央。まるで容疑者の連行だ。途中二つの検問所は加藤が警察手帳を示して通過。二つ目の検問所にいた交通課の警官が、姿を消したと思ったら思わぬ姿で現れた斉木に絶句した。
 競技場では場長と警備主任の出迎えを受け、手分けして一般入場者ゲートへ。各ゲート前には開門を待つ入場者が、チケットを手に長蛇の列をなしていた。
 十二時丁度、開場。各ゲート前では入場者の手荷物・身体を検査、缶・ペットボトル飲料は用意したコップに移し替える。ゴミ減量化とフーリガン対策と称していたが、実はこれも爆発物チェック。七年前のコンフェデレーションズカップでは混乱もあったが、米国同時多発テロ、そしてワールドカップを経た今は来場者も協力的で、作業は滞りなく進んでいく。早期告知の他、日本紅衛兵の爆破予告の影響もあろう。
 十二時半、各ゲート前に開門前に行列を作っていた、入場者はすべて入場。どのゲートにも、二人の姿は一向に現れなかった。
 一時六分、小宮山首相がプライムホテル到着、黄副主席の客室に入ったとの連絡。ホテルでは、小田ら警備陣が慌ただしく動いている筈だ。裵中佐もこれ以降は、表向き警護される側として両首脳に随行することになる。
 一時十五分、西ゲートを一時閉鎖。事情を知らない一般来場者が現れると、他のゲートに誘導した。
 一時二十分、両首脳が客室を出たとの連絡。ホテル正面に始まる沿道では警察車両が路肩を固め、環状二号線も十分前から進入禁止となっている。当初の予定にはなかったが徳田信枝のネット暴露を小田が逆手に取り急遽計画を変更、一時封鎖を決断したのだった。
 一時二十四分、両首脳の車がホテルを出たとの連絡。小田も警護指揮車で随行している筈だ。競技場で待つ捜査員にも緊張が走った。
 一時半、パトカーと白バイに先導された黒塗りの車列が競技場北側に現れた。車列中央には最前部に日朝の国旗を立てた、一般車より窓一枚分長いリムジンカー。
 本国から航送してきた防弾仕様の総書記専用車だ。外務省が発給した青い外交官専用ナンバープレートを着けているが、航送時に着いていたナンバーは「2・160000」。金正一の誕生日を冠したこのナンバーは、北朝鮮では党幹部だけが使用を許されるという。加えてあまり目立たないが前部ボンネットのグリル上端中央には、やはり最高幹部専用車のしるしである小さなランプ。それらからこの警備任務の重大性を、警備本部のごく一部の捜査員だけがあらためて読み取った。
 正面玄関に進入した車列は専用車を中央に横付けして停止。西ゲート広場への大階段脇には、報道で黄副主席観戦を知った来場者が、専用車から降り立った両首脳を黄色い声で歓迎。人垣から大きなどよめきが起こったのは、小宮山首相観戦の情報が事前になかったせいだろう。
 一時三十五分、西ゲートの入場を再開。両首脳が入った貴賓控室の周囲には両国のSPを中心に制服私服の警官を配置し、万全の警備態勢。これで、第一関門は突破したことになる。
 二人の姿は、まだ現れなかった。

 一時三十八分。
 新横浜駅新幹線口ロータリーに架かる陸橋上で、朝鮮人らしい男が西側一階席のチケット(額面七千円)を買ったとの連絡。成立しかけていた商談に割り込んできたその男は終値の倍額を提示、買い取ろうとしていたダフ屋と口論となり、警官が駆けつけた時には売り主も男も姿を消していた。
「いくらで買おうとしていたんだ?」
「言えませんねえ。こっちも信用が大事なんで」
 生活安全課捜査員と顔見知りの、アロハシャツに茶髪のダフ屋が横柄な口を利いているところへ、競技場から飛んできた加藤が割り込んできた。
「買い取ろうとしたチケットの席の番号は?」
「W一五入口の付近だったのは覚えてますけど……」
「西スタンド一階……危ないな。二階ならVIP席から死角だから別だが」
「しかし、鄭が手に入れようとした席は二階ですよね?身を隠すのが目的なら、位置はあまり関係ないのでは?」
「うむ……その男はどこへ消えたんだ?特徴は?」
「背が高くて、金髪で、赤いジャージを着ていましたよ。確かあれは北朝鮮代表のユニホームじゃないかな」
「だから朝鮮人、だと?金髪と言わなかったか?」
「染めたか、脱色したんでしょう。顔はどう見ても東洋人でしたよ。中国か台湾、せいぜいシンガポールまでかな」
「この男か?」
 加藤が鄭の写真を取り出して見せたが、案に相違してダフ屋は首を横に振った。
「もっと細長い顔でしたね。頬に北朝鮮国旗のフェイスペインティングもしていましたよ」
「で、金額で揉めたそうだが、お前が売り主に提示した価格は?」
「……三万」
「額面七千円のチケットをか?いくらで売るつもりだったんだ?」
「いくらでもいいじゃないですか」
 加藤は捜査員の制止を無視してダフ屋の胸倉をつかんだ。
「いいか、その男は北朝鮮工作員で、副主席暗殺を企んでいる可能性がある。協力を拒むならスパイ容疑で逮捕するぞ。下手すれば内乱罪で死刑だな。さあ、それでも信用とやらを大事にするか?」
 ダフ屋は蒼白になって震えだした。
「わ、わかりましたよ。相場は五万です」
「それをその男は、いきなりお前の倍額と言ったんだな?」
「ええ」
 ダフ屋は答えた。もし供述が事実ならその男は、成り行き次第では十万円出してでもチケットを買い取るつもりだったことになる。
「売り主のほうの特徴は?」
「グレーのスーツに水色のネクタイ……急な仕事で観戦できなくなったという感じでしたね」
「二人はどっちに行った?」
「駅のほうじゃないですか?あんた達が来て、俺が慌てて振り返った隙に……」
「我々は駅から来たが、そんな二人連れは見なかったぞ?」
 別の捜査員が言うと、ダフ屋は隅にある身障者用エレベーターを指し
「あれじゃないですかね?我々も時々、移動や取引場所に使いますが」
「二手に分かれよう。もう取引が成立して別れたかもしれない」
 加藤は駅前の通りへ急行、、北朝鮮代表ジャージ姿の男性を片端から職務質問したが、該当する人相の男は見つからない。人種差別と反発する相手もいて、作業は難航した。
「まずいな……韓国か北朝鮮の捜査員がいればいいんだが、駅周辺にはいなかった筈だな?」
「ええ。一部が警備本部に連絡係で残っているだけで、他は全員競技場に向かっています」
 そこに、駅構内へ向かった捜査員から連絡。横浜線新幹線口手前で売り主の男性を発見。ダフ屋の推測通りエレベーター内で取引、六万円で売り渡したと言う。チケットの席番号は未確認。買い主はその後競技場に直行した模様。
――駅周辺の職質は中止。競技場に先廻りして下さい。
「了解」
 無線を切った加藤はその足で競技場へ引き返した。売り主の男は任意同行、ダフ屋も連行される筈だ。
 それにしても、額面七千円のチケットが六万円とは。差額の行き先は、一体……

 一時四十三分。
 環状二号線から右折した白い乗用車が、JR小机駅手前の新羽踏切前に現れた。競技場方向へ右折しようとしたがこの日は関係車両以外進入禁止で、仕方なく小机駅前のロータリーに乗り付ける。助手席から長身の若い男が一人降り立った。上半身には日本代表の青いジャージ。顔中に紅白で日章旗をペインティングしているが、頬が塗り重ねたように黒ずんでいた。後部座席には、金髪の鬘が置き去りだった。

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2008年5月13日 (火)

Time Up:十一.試合当日(下)

「CRAWだ」
 二人を、小田はそう紹介した。
「クロウ……なるほど、カラスですか?」
「Civilian terrorism Response Assault Watch team(文民対テロ急襲・監視チーム)。知っての通り日本神話の象徴でもあり、日本サッカー協会のマスコットでもあるが、墓地で屍肉を漁るなど死のイメージもある。この任務には相応しいコードネームだろう?」
 誰の発案か小田の薀蓄に、しかし笑顔で応じる余裕のある者はいなかった。最小限の装備であたることになるその任務が、見た目の装いとは裏腹に、格段に危険であることは容易に想像し得た。
「この二名を同道してもらう、それが条件だ。本来任務は狙撃犯捜索と、適宜必要な処置の実行。所定装備のSATも別途待機させているが、原則秘密行動だからスタンドに入れるわけにはいかない」
「あ、だからこの格好?」
「そうだ。本警備に際しこのコードネームで、複数の特命私服警官を選抜、競技場と周辺に配備してある。いずれも射撃では、恐らく諸君の誰より優秀な者だ」
「つまり、監視――ですか?」
 中川の言葉に小田は微笑を消し、無言で見返しただけだった。場合によっては中川自身が、処置の対象になり得るということだ。
「目立たないよう覆面を使え。署長、所轄の覆面に空きは?」
「現在二台が稼動、残り三台のうち一台は予備なので、二台までなら廻せます。警務課に指示しますか?」
「お願いします。以上、質問がなければ各員配置に……」
 就け、と小田が言いかけたところで、また電話が鳴った。
「今度は何でしょうね?」
 口走って加藤に睨まれた山崎が舌を出し……電話を切った小田の険しい表情に笑顔を消した。
「どうしました?」
 隣席の夏木が訊ねた。
「JR東海本社に脅迫電話です。新幹線に炭疽菌を撒いたと」
「ええっ!」
 捜査員は顔を見合わせた。柳沢は瞑目、加藤は机に肘を突いた手で頭を抱え、山崎は天を仰ぐ。申し合わせたように難問続出だ。
「仕掛けた場所は不明。列車に限らず、駅その他の施設が標的の可能性もあり、全列車を停め捜索中です」
「身代金などの要求は?」
「特になし。JRから愛知県警に、録音テープの提出がありました」
「と言うとそのテープは今……名古屋?」
「ええ。現物は間に合わないので、こちらで録音・解析します。ダビングになるので音質は少し落ちますが」
「場合によっては、黄副主席の移動経路も変更必要ですね?」
「とにかくまず上に報告します。経路を含めたスケジュール変更の要否は、状況を把握して判断するしかありません」
 電話口の向こうで、井出の声が裏返った。
――新幹線に炭疽菌だと?徳田信枝の一味か?
 小田はさっきの工藤の興奮ぶりを思い出し、内心冷笑した。
「その可能性が大ですが、現時点では特定できていません」
――ダイヤは回復するのかね?移動手段の変更は?
「手配しますが、現時点の最優先事項は事実確認と……」
――もういい。何とか早急に事態を打開したまえ。
 電話が一方的に切れ間もなく、愛知県警からテープ再生準備が整った旨連絡。皆は全身を耳にし、流れてくる会話に意識を集中した。

――はい、JR東海でございます。
――よく聴け。新幹線に炭疽菌をばら撒いた。
――炭疽菌……え、えっ?
――我々を欺いた罰だ。せいぜい慌てるがいい。
――もしもし、君は一体――

 音声はそこで切れていた。通話時間は十五秒。仮に事前に察知していたとしても、これだけの時間で逆探知は無理だったかも知れない。
「欺いた罰……これはJRへの罰という意味ですかね?」
「単純に考えればそうですね。だとするとまずJR、特にJR東海で最近何かトラブル……」
 小田がそう言った時、
「あっ!」
 捜査員の一人が叫び声をあげた。
「先日新横浜駅で発生した、新幹線ジャックでは?」
「なるほど……では犯人は『日本紅衛兵』ということになるな?」
「そうですね」
「目的は、追跡捜査の攪乱かな?」
「復讐もあるのでは?JR東海だけでなく、警察や日本政府への」
 井出は早急に何とかしろと言ったが、現場にいない小田達に打てる手は限られている。まず新大阪までの沿線各都府県警察に日本紅衛兵メンバーの手配写真を電送、各駅への聞込みを指示。一方で警視庁と防衛庁に連絡し、科学防護隊と自衛隊の生物兵器対策要員の待機を手配。十分、二十分と時間は容赦なく過ぎていく。
 警視庁から報告が入ったのは、それから三十分近く後。
――「日本紅衛兵」メンバー、藤堂顕治(とうどうけんじ)と思われる男性が今朝の新大阪行き「のぞみ一一三号」で目撃されていました。
「そいつはどこだ?今もその列車に乗っているのか?」
――いえ、違うようです。
 この列車は名古屋発六時四十分「ひかり四三二号」として八時四十三分に東京着、折り返しで定刻の九時三分に発車していますが、この男は東京駅発車間際に、乗り間違えたというふうにホームに飛び降りたそうです。その後の足取りは捜索中。なお現在、この「のぞみ一一三号」は例の電話の後、新富士駅に停車中です。
「科学防護隊……いや間に合わないな、静岡県警と自衛隊に連絡、大至急新富士駅に要員を派遣」
 指示を受けて捜査員が各方面に電話をかけていたが、数分で電話口から顔を上げると
「県警と陸自に連絡しましたが……困ったことになりました」
「どうした?」
「付近に化学処理専門の部隊がいないんです。一番近いのは陸自の駒門(こまかど駐屯地・静岡県御殿場市)ですが、ここにいるのは第一高射特科大隊、第一戦車大隊と第一機甲教育隊だけです」
「では、一番近い化学処理部隊は?今どこにいるんだ?」
「ここです」
「え?」
「東部方面第一師団の化学防護小隊が、横浜駐屯地で待機中です」
「……待てよ?その部隊はここをカバーしているのか?」
「そうです。ですから、それを廻すわけにも……」
「私が話す……もしもし、お電話替わりました。警備本部の小田です」
――あ、小田監察官ですか?今、そちらの方にご説明……
「状況は伺いました。こちらをカバーしながら、新富士駅に部隊を派遣する方法はありませんか?」
――練馬に第一〇一化学防護隊がいます。ただ、長官直属の部隊なので、動かすには許可がありませんと……
「わかりました。警察庁から長官宛に要請を入れます。それで決裁が下りればいいのですね?」
――お急ぎならすぐ手配なさったほうがいいですね。練馬には、いつでも出動できるよう用意させます。
「了解しました。ありがとうございます」
 小田の電話に始まる、幾つかの手続きの後、現場に急行した部隊から報告が入ったのは四十分後だった。
――ありました!
「そうですか……それで、間違いなく炭疽菌だったのですか?」
――それが……これ、違いますねえ。
「はあ?」
 そこで、静岡県警の捜査員が替わった。
――品川発車直後、九号車の洗面所床に白い粉がこぼれていたそうです。乗客の通報以降、洗面所は使用禁止の措置がとられています。
「わかったが、それで危険はないのか?炭疽菌とわかるまでの間、そばの通路を通った乗客もいるだろう?」
――それが、床の濡れていた個所に散乱していたのですが、ご存じかどうか、炭疽菌は水分に触れると膨張する筈なのに全くその形跡がない。試しにヨード液を垂らしたところ……
「ヨード液?では、まさか……」
――紫に変色しました。お察しの通り、これは片栗粉です。どうやら一杯食わされたようですね。

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2008年5月11日 (日)

Time Up:十一.試合当日(中)

「……ええっ!」
 一同は仰天した。
「中止できないんですか?危険です!」
 捜査員の悲鳴に、小田は一瞥して言い返した。
「それがベストだが、政治的ダメージも免れない。進むも地獄、退くも地獄、ということだろう」
「……」
 捜査員は仏頂面で着席、鄭の足取りを追っていた捜査員が報告。十五日早朝、逗子マリーナでクルーザーが一隻紛失。捜索範囲を江ノ島電鉄・小田急・JR各駅に拡大した結果、小田急江ノ島線鵠沼海岸駅上りホームで同日正午頃、鄭によく似た男が目撃されていた。
「女と一緒ではなかったか?はっきり言えば片桐幸子とだ」
「連れがいた形跡はなし。時間をずらしたか別ルートを取ったのでしょう。クルーザーは捜索中。鵠沼付近で乗り捨てたと思われますが、既に処分したかもしれません」
「処分か。しかし近辺の海岸ならすぐ見つかりそうだが?」
「海岸じゃありません、海底です。船底に穴を開け泳いで逃げれば勝手に沈没してくれます。海岸から自動運転で沖へUターンさせてもいい」
「わかった。海岸と付近の海底を捜索。あとは鵠沼海岸からの足取りだが、町田に二泊していたらしいな?」
「ダイヤ次第では乗り換えなしですから。その後はこちらを目指した筈ですが、新たな目撃情報はなし」
「検問の配置はどうしますか?」
「当初通り。不用意にいじって穴ができては元も子もない」
 小田のその言葉に、工藤の背中を冷汗が流れ落ちた。
「一般客のマイカー来場は最終的に全面禁止だったな?」
「はい。早くから電車・バスでの来場を呼びかけており、影響はない見通しです」
「その件は再度主催者に確認。交通課は沿道および付近で不審車両を警戒」
 そこへ、東京に行った捜査員から連絡。警視庁に片桐幸子の、失踪前の恋人の記録があったという。
「警視庁に……記録?まさか――」
――死亡しています。
「――」
 捜査員は思わず顔を見合わせた。
――二〇〇六年十月二日。失踪の約半月後ですね。永倉敬介(ながくらけいすけ)、当時三十二歳。江東区の荷役埠頭、赤信号の交差点でタクシーに無人の大型トレーラーが追突、タクシー運転手もろとも即死。交通事故として処理されていますが、不審な点が二つありました。まず、被害者と現場付近の接点がなかった点。二つ目は信号機の故障。
「故障……?」
――色を切り替える回路のショートで、赤のまま変わらなくなっていたのですが、実は四日前に定期点検したばかりで、その時には全く異常なかったそうです。
「細工したかな?」
――当時の捜査員もそう疑ったそうですが、結局証拠不充分……つまり闇の中ということです。
「わかった」
 小田は電話を切り顔を上げた。
「聞いての通りだ。片桐幸子の恋人は、失踪の半月後死亡。一応事故扱いだが、状況から十中八九殺人だな」
「……彼女は、このことを知っているのでしょうか?」
「微妙だな。知らないまま、の可能性も排除できないが……」
「教えてやったらどうでしょう?」
 加藤が言った。
「何を言っているんだ!」
 中川は思わず席を蹴って立ち上がったが、小田は冷静だった。
「では聞くが、それで狙撃を阻止できるのか?いや、この期に及んでなお、彼女はなぜ名乗り出てこない?」
「それは……」
「考えられるのは、彼女の家族が事実上人質になっていることだ。片桐家、松嶋家および浮田家には警護を手配したが、第一、既に付近にいる筈の彼女にどうやって教える?テレビやラジオでは彼女が聴いていると限らないし、内容次第ではパニックになる」
「競技場の大型スクリーンや受像機があります。それも狙撃計画云々や片桐幸子の名前まで流す必要はありません。永倉敬介、他殺の疑いとか……」
「それもだめだな。一度事故と断定したものを覆して公表するに、今からでは手続がとても間に合わない」
「あの……片桐幸子本人に伝わればいいんですよね?」
 山崎がおずおずと手を挙げた。
「メールで送ればいいんじゃありませんか?」
「メール?」
「はい。テレビやラジオなら裏付けも必要でしょうが、本人だけに送る分には問題ないのでは?」
「だがどこに送るんだ?彼女はパソコンを持……」
 言いかけた小田におしかぶせるように、工藤が叫んだ。
「そうか、携帯電話か!」
「失踪と同時に携帯電話もなくなっています。処分していたり電源が切ってあればアウトですが」
「そして、恋人が殺された、と伝えるわけだな?」
「そうです。鵜呑みにしないまでも、警察が疑っていると知れば動揺する筈です」
「よし、やって見ろ」
 山崎は自分の携帯を操作していたが、肩を落として顔を上げた。
「電源が切れています。送るだけは送りましたが」
「くそ!」
 加藤が机を叩いて叫び、今度は柳沢が割り込む。
「アパートの留守番電話はどうでしょう?メッセージを入れて、外部からの確認を待つんです」
「可能な手は打て、か……いいだろう」
 柳沢が携帯電話をかけ終わるのを待って、中川は手を挙げた。
「監察官」
「今度は何だ?」
 小田はうんざりした表情で視線を投げかけた。
「自分を行かせて下さい。直接伝えます」
「だめだ。理由は説明した筈だな?」
「……」
「不服そうだな?」
「警察官として理解はできますが、当初から本件に関わってきた捜査員として納得できません」
 小田は苦笑した。
「何だそれは?君は警察官と捜査員を使い分けるのか?」
「自分は真剣です」
「それがふざけているというんだ!大体君は本件から外された筈だろう?何でここ……」
 工藤が声を荒げる。未明以降の不安が爆発したのだが、本人は気づいていない。
「お願いします」
 上半身を九十度に折った中川になおも言い募ろうとする工藤を、小田は制した。
「教えることには、反対じゃなかったか?」
「納得はしていませんが、阻止の可能性があるなら……」
「可能性ゼロとは言わないが、限りなくそれに近いのは同じだぞ?」
「わかっています」
「彼女が抵抗したらどうする?撃てるか?いや、君が撃たれる可能性も大だが?」
「覚悟はできています」
 中川はそう言い、笑いを消した小田を見返した。会議室は水を打ったように静まり返り、全員が中川を見つめる。その中に加藤の顔もあった。小田は先日の、井出の電話を思い返した。行過ぎないよう釘を刺されたとあの時は解釈したが、囮捜査になるまいとも言ったり、選択肢に考えていたふしがある。もちろん何かあればまず小田の責任だが上司の井出もただでは……
「……いいだろう」
「監察官!」
 小田の左右に座った幹部捜査員が一斉に目を剥いた。
「但し……」
 小田はそこで夏木に耳打ち、夏木はじっと小田の顔を見返した。
――よろしいんですね?
 夏木が小声で言うのが左右の、数人の捜査員だけに聞こえた。
――お願いします。
 無表情で返した小田に、夏木は諦め工藤に耳打ち、工藤の退室を見届けた小田は中川に視線を戻した。
「条件がある」
「?」
「関係者である君を本任務に関わらせるわけにいかない。しかし別任務で競技場に出向くなら話は別だ」
「――あ」
「爆破処理班を向かわせた。君はそれに合流、処理任務支援と本部連絡。そこで……」
 そこへ戻った工藤に続き現れた男女の、場違いな服装に一同は唖然とした。上半身にはブルーの日本代表ジャージ、女は梳き流した茶髪にバンダナ。崔と李は顔を見合わせ、山崎が恐る恐る声をかける。
「――美奈ちゃん、何してんの?」
 女は、斉木だった。

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2008年5月 6日 (火)

Time Up:十一.試合当日(上)

 同時刻、三十五階スイートルーム。
 ソファーに座った黄沢究の正面に小田と原、脇に朴課長、彼らを左右に見る位置に裵。そして黄の通訳である凱哲洙(ケチョルス)がソファーの真後ろに立っていた。小田が話し終えて数秒、躊躇した凱の不自然な沈黙を黄が怪しみ振り返る。案の定朴に促された凱の言葉に、彼は蒼白となった。
「いや……いつかこうなるかもと予感はしていた」
 黄の沈んだ声が客室の天井に響く。裵は無言。小田も無言で黄の、次の言葉を待った。
「私の意見に義兄は時々いやな顔をしていた。私は義兄のためにそうしてきたまでだが……」
 しばしの沈黙の後、原が進み出た。
「黄副主席、最近の微妙なお立場で、充分手は尽くされたのでは?最悪のシナリオが現実となれば物流は決定的途絶、そうなれば……お分かりですね?」
「……」
「ご家族がご心配ですか?」
「それはない。子供はいないし、私の親兄弟ももう亡い。だが、部下やその家族は……」
「ご心配はわかりますが、恐らく今の状態もそう続かない。その時平壌が武力に訴えでもすれば……」
「……考える時間が欲しい。せめて、あと一日」
 黄の言葉を最後に、小田らは客室を辞した。
「言質は得られませんでしたね……力不足でした」
 詫びる原に、小田は微笑を返した。
「あちらにはあちらの事情があるからな。ともかくあとは、我々の任務を全うするだけだ」

 五月十八日、未明。
 国際総合競技場は全ての入口を閉鎖、警官と民間の警備員が警戒していた。日没以降、サイレンの鳴りをひそめ車両が続々と集合。工藤は防災センターでコーヒーをすすっていた。昼間の再チェックに井出は満足したようだ。小田は特にコメントしなかったが、万全を期すという大義名分がある以上文句のあろう筈はない。
 異変発生は、東の空が白みかけてきた午前四時。
――ホテルで異臭!
 無線からの通報に、工藤は飛び上がった。
「状況を報告!」
――よくわかりません。
「何を言っている!至急確認しろ」
 指示を出した後、室内を苛々と歩き回る工藤を警備主任が見上げ
「工藤さん、落ち着いて下さい」
「わかっていますが……」
 その時、サイレンの音がして工藤は再び飛び上がった。
「今度は何だ!」
――西ゲート付近に不審車!
「何っ!どこだ?特徴は?」
――黒っぽいミニバン。新横浜元石川線を、港北インター方面から接近中――
 黒っぽいミニバン。無人駐車場の不審車では?工藤は逗子の崖下でスクラップになった盗難車のことも、現場からの報告待ちもすっかり忘れ、防災センターを飛び出した。
「全員、亀の甲橋南側交差点に集合!封鎖だ!」
 競技場周辺は移動を始めた車両で慌ただしくなった。駆けつけた工藤が見ると、往来のない高架道をミニバンが一台進んでくる。
「ライトも点けてないな……乗っている人間はわかるか?」
「無理ですね。暗い上にこの距離……」
「狙撃班!」
 駆けつけたSAT一小隊が一斉に、アメリカ製レミントンM七〇〇狙撃銃を構えた。
「いや、待て。そのスコープは赤外線だったな?」
「?……はい」
「運転席をチェック」
「――無人です」
「――見せてくれ」
 小隊長が差し出した暗視スコープをのぞきこんだ工藤は背筋が凍った。ハンドルの向こうに並んだ座席に、人影は見当たらない。
「どういうことだ?」
「遠隔操作でしょうか。まさか爆発物……」
「とにかく停めるんだ。狙撃だ、タイヤを狙え!」
 一斉に火を噴いたレミントンM七〇〇の銃声が寝静まった平野に響き渡り、ミニバンは蛇行しながら路肩の縁石に乗り上げ停止。爆発物処理班が駆けつけたのはその三十分後だった。
「ホテルの異臭騒ぎの状況は?」
「駐車場五階、宿泊客の乗用車のトランクで時限発煙装置が作動。処理は完了、人的被害もなしです」
「それだけか?……車の持ち主は?」
「捜査員が客室に赴いたらもぬけの殻だったそうです。どうも計画的だったようですね」
「駐車場五階……訪日団の車両がある九階は?」
「大丈夫です。陽動かとも考えましたが客室も異状なし。黄副主席以下、全員無事を確認しました」
「そうか……」
 小田が対応したなら遺漏あるまい。職務遂行の完璧さで工藤の知る限り彼の右に出る者はなく、私大出ということで軽く見ている工藤が脅威を感じたのも一度や二度ではない。処理班は機動隊の盾に援護されながら接近、破壊した窓ガラスから腕を差し入れ開錠、数人の技官が上半身を車内に突っ込み調べていたが、数分後一人が両腕で頭上に大きな丸を作る。危険なし、の合図だ。皆がほうっと息をつく中、責任者が工藤を手招き。ハンドルの下、運転席の床にナイロン製のバッグが転がっていて、ジッパーが半分開いた中身は……割れた風船だった。
「これで動かしていた……のか?」
「トリックは簡単です。ブレーキペダルの上に押し込み、その状態でエンジン始動、希望時刻にタイマーで風船を割りブレーキを解除すれば自動的に発進します。AT車ならエンストの心配もありません」
「この道を狙ったのは、急カーブを避けたかな?」
「多分。最初に計算してハンドルを固定しておけば、かなり長距離を走らせることができます」
「乗り捨てたのが直線区間の始点とすると約三十分前……」
 工藤は急に不安になった。何かおかしい。ホテルの異臭もだが、この騒ぎの、本当の目的は何なのか。ひょっとしたら、何かの陽動……?そこで工藤ははっと周りを見渡し……
「おい――なぜ皆集まってるんだ?」
「えっ?それは……」
「馬鹿者!持ち場の警備はどうした?全員戻れ!」
 工藤は怒鳴り、自ら呼び集めた警官と車両を元に戻させた。何も起こっていなければいいが……

 その二十分後。
 余人を退けた署長室で受話器を置いた酒井は、何とも表現しがたい微笑を浮かべていた。

 午前七時半。
 鄭と早紀はその部屋を出た。南側から数時間前に潜入、夜明けを待っていたのだ。床に落ちた小さな紙片に、鄭は気づかなかった。

 港北署内で夜を明かした中川は、シェーバーを手に洗面所に立ったが、途中でバッテリーが切れ往生。その時真横から別のシェーバーが突き出され、見ると加藤が隣の鏡に正対していた。白のシャツにグレーのネクタイ。滅多に見ない地味な身形だが、それにしても外で一仕事終えてきたような……
「……許したわけじゃないからな」
「わかってる」
 午前八時半。
 身支度と朝食を済ませ、本番前最後の警備会議。競技場から一旦戻った工藤もいる。小田は、任務を解いた筈の中川を一瞥したが何も言わなかった。
「まずNISから連絡。本日未明、北京滞在中の北朝鮮・盧康徳通商部副部長が急死」
「急死……ですか」
「同地の韓国大使館筋の情報では、北朝鮮大使館での心臓発作。例により詳細は不明。本警備との関連有無も現在不明なのでさて措き」
 小田はそこで一旦言葉を切り、再び中川を一瞥してから言った。
「科捜研から片桐幸子の生体鑑定の報告。結果は、クロだ。それと昨夜、外事から新たに報告」
 小田は原を促し、昨夜受けた報告を繰り返させた。
「浮田秀美の鑑定結果も恐らく同じだろう。これで片桐幸子失踪、一年前の交通事故、全て辻褄が合う。当警備本部は鄭栄秀および、中川早紀こと片桐幸子を狙撃実行犯と断定。捜査員は直接の接触は極力避け、遭遇しても絶対に単独判断で行動せず、指示に従うこと」
 中川は唇を噛んだ。
「それと、試合だが……小宮山総理が来られる」

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Time Up:十.両刃の剣(下)

「サロメの動きも、考えれば不自然です。なにしろ、当の試合前日に香港へ飛ぼうとしたのですから」
「言われてみれば……しかし、では何のために?」
「香港に滞在中の重要人物……思い出して下さい?」
「……魚珍禹か!では、それが彼女の標的?」
「辻褄は合います。魚は計画の御輿(みこし)ですから。しかし、本気で狙撃を防ぐならまず狙撃犯を狙う筈だし、指令の電話一本で済むのを、その世界で有名なサロメに依頼したのも不自然です。実はこの魚珍禹、金一成存命中は金正一と対立、その後和解していますが依然危険な相手でね」
「なるほど。しかし君達は、サロメの動きからよくそこまで読み取ったなあ?」
「それじゃありません。最初に発表された総書記訪日の日程表です」
「日程表?別に不審な点はなかったと思うが?」
 小田はそれを聞いて表情をゆるめた。
「実は私も、先刻指摘されて初めて気づいたんだが……」
「……あっ、空路、か?」
「そう。大韓航空機爆破事件以降、金正一は絶対に飛行機を使いません。先年のロシア訪問も、数時間でひと飛びのモスクワまで特別列車で片道数日。なのに今回は……」
「用意されていたドタキャンか……」
「日本紅衛兵然り。北朝鮮は彼らにとって地上の楽園、なのに日朝親善試合が標的。真の標的が黄副首席と、彼らも知っていたと考えるのが自然です」
「昨日は未発表の黄副首席観戦に言及していたしな……それも平壌のリークかな?」
「でなければ第三国か。一課が各国大使館とエージェントの動静を観察中です」
「冷戦の遺産か。しかしそういう事情だと、警察だけでの対応には限界があるな?」
 小田はゆっくり頷いた。
「先ほど長官に電話を入れ、大至急総理のお耳に入れていただくようお願いした」
「観戦中止、か?」
「それも進言した。多分政治的判断も絡んでくるが、最悪の場合は直接説明する予定だ」
 小田はそう言い、真上を指した。
「話を聞いた黄副主席が信じるかな?」
「長年中枢にいて心当りの一つくらいはある筈だが、自ら犠牲を引き受ける可能性もある。我々ができるのは、他の選択肢を用意するくらいだな」
「黄氏は麻薬取引や通過偽造など違法行為にも関わっていたとか?例えばアメリカに亡命すれば刑事訴追の可能性もあるが、それを覚悟で決断できるかな?」
「それは黄氏に限りません。平壌のほぼ全幹部が何らかの違法行為に関わっていますし、司法取引なり恩赦なり知恵は出すでしょう。まあ賭けですが」
 原の言葉に無言で頷きながら、賭けか、と小田は思った。警備会議直前、三浦達哉死亡の参考人として鄭を手配した旨報道。NHKと大手各局はテロップだけだったが、「テレビ神奈川」はモンタージュを映像公開。それにしても重大任務の成否を、結局賭けに託すことになるとは……
「……だが全て事実なら、人間の考えることではないな」
 田村の表情は険しくなっていた。
「同感ですがこれが現実なんです。工作員は皆、日本人を人間と思っていない。だから我々もそのつもりで対する必要があるんです」
 磯貝は整った目元を寄せて言い、言葉を結んだ。
「浮田秀美の生体サンプルも分析を指示した。結果が出る頃は全て終わっているだろうが」
 小田はそう補足した。
「全てね……今回の相手は凄腕らしいが、当方は警察だけで対抗できるのだろうか?」
「最善は尽くしていますが、本当なら自衛隊の治安出動を要請すべきですね。空挺団とか、過日ようやく実戦配備の特殊作戦部隊とか。日本もそうして、独力で有事に対処できる一人前の国家になっていく筈です」
「なるほど。ところで片桐幸子も、自分の正体発覚はもう気づいている筈だが、それでもなお計画通りに行動しているのは、やはり家族の安全が理由かな?」
「恐らく。新潟・香川両県警にも連絡、片桐家、松嶋家と青葉区の浮田家に警備を手配した」
 小田はそう言ってから、再び表情を和らげた。
「お前も少し休めばどうだ?と言っても、あと数時間しかないが」

 十五分後、署長室に柳沢と加藤が呼び出されると、執務机の脇に小田が立っていた。
「至急、君達の耳に入れておくことがある……金総書記来日中止の第一報を聞いてどう思った?」
 小田がそう言うと、加藤が冷笑を浮かべた。
「また日本への嫌がらせでしょう。飛行機は嫌とか口実……」
「やめないか……ではやはりあのテープ通り、標的は初めから黄副主席だったのでしょうか?」
「そのテープだが……君達は勝手に解析したそうだな?」
「出過ぎました」
「結局それが突破口になったが、今君達は微妙な立場だ……わかるな?」
 小田は工藤がするような、頭ごなしの叱責はしなかった。それだけに柳沢達にはこたえた。
「申し訳ありません」
「話を戻すが、外事が気になることを言っている。本件は最初、つまり金正一訪日決定から全て計画的だったと……」
 小田の話を聞き終えた後、二人はしばらく無言だった。
「……自作自演ですか」
「外事はスケジュールを見てピンと来たそうだ……総理のお耳に入れたところ、自分も行くと言い出された」
「まさか――」
「盾になると仰ったそうだ。危険はお覚悟の上だろう。翻意いただくよう、なお手は尽くすが……」
「この話……当然極秘ですね?」
「会議には朝下ろす。署長もそういうことでお願いします」
「わかりました」
 二人が退室しようとした時、小田が柳沢一人を呼び止めた。
「何でしょう?」
「加藤刑事課長だが……ちゃんと食ってるのか?」
「は……あ?」
 机上に放り出された封筒を、取り上げてのぞいた柳沢は紙幣と同封の紙片にはっとし、取り出して一読すると強張った顔を上げる。射るようなその視線を正面から受け止めた小田は無言で頷き……
「士気に障る。何か食わしとけ」
「……承知しました。ご配慮、感謝します」

 同時刻、警察庁。
 佐々木は長官執務室で、静かに夜明けを待っていた。
 亡き後藤元官房長官創設の内閣安全保障室初代室長として官邸機能の充実にも尽力、退任から久しくして、またもの警察不祥事を機に計らずも長官職を拝命、そして……あの白馬山荘での不祥事まで蒸し返されるとは。やや過剰な権力志向を差し引いても後を託すべき人材と目をかけてきた井出だったが、現場から一連の報告を受けては公僕・佐々木に選択肢はなかった。舞鶴港からはイージス護衛艦隊も急遽出港したとのニュース。防衛庁の公式発表は臨時訓練とのことだったが、防衛施設庁出向の経験からその意味するところも直ちに理解、支度は今のうちにと、隣室の秘書官に筆の用意を指示した。

 さらに間もなく、港北署女子洗面所。
――はい、伊東です。
「……」
――もしもし?……美奈子?美奈子だな?
「……秀晃……あたし、怖い」
――どうした?……何があった?
「……」
 それきり携帯電話を切った斉木は、しばらくして気を取り直すと鏡の前にブリーチセットを並べ、着衣が汚れないよう肩にバスタオルを巻くと、濡らした髪を真直ぐ垂らして鏡をのぞきこみ……
「何やってんだ、あたし?」
 ため息混じりに言うと、薬液のチューブに手を伸ばした。

 ほぼ同時刻。
 警視庁から連絡。町田市内のカプセルホテルに、鄭らしい男性が滞在していたと言う。チェックインは十五日深夜、チェックアウトは十七日早朝。このホテルでは都内ながら「テレビ神奈川」の電波も引いており、昨夜のニュースを見た従業員が通報したのだった。チェックアウト後の足取りは不明。

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2008年5月 4日 (日)

Time Up:十.両刃の剣(中)

 小田は午前〇時を過ぎても警備本部に詰めていた。ホテルの防災センターでは全館の様子をモニター中だ。競技場の工藤からは夕刻、配置一部変更を得意げに報告してきた。警備本部中枢から外した意趣返しなのは明らかだが、一々意識するのも任務の邪魔と割り切っている小田だった。
 神奈川県警刑事部管理官兼警備部付の田村利洋(たむらとしひろ)警視が、携帯電話を手に戻ってきた。小田や酒井と同じ慶長大学卒業。工藤の後を引き継ぎ、昨夜以降この連絡所を預かっている。
「東戸塚から新たな物証は出ていない。ビルの所有者が、早く取り壊したいと陳情してきたよ」
「曰く付きのビルだったとか?」
 コーヒーを手に腰を降ろした田村に、小田は井出には絶対見せることのない、穏やかな微笑を向けた。
「テナント契約の目処もついていないそうだ。ビル建設前の駐車場に戻る可能性が大だな」
 小田は苦笑した。
「関係者も気味悪いんだろう。気持ちはわかるが……」
「そうだな。しかし狙撃犯が、あの片桐幸子だったとは」
「押収した遺留品を科捜研に送り、DNA鑑定の最中だ」
「三十年前のパターンか。ただ洗脳は失敗、あの金賢姫(キムヒョンヒ)を教育した田口八重子(たぐちやえこ)のように、朝鮮人工作員の教育係に転用したとか?」
「そうだったな」
「でも新潟では写真も配布、大々的に捜していたよな?一年前戻っていたのに、なぜわからなかったんだ?」
「整形して入国したようです」
 同室していた磯貝が会話に割り込んできた。
「君、その情報はまだ裏付け中だぞ」
 原がたしなめる。彼らは先刻警備本部に戻り、小田に報告を終えたばかりだ。
「すみません」
 小田も苦笑した。
「軽率だな。田村管理官の注意を引いてしまった。聞きたくて仕方ないと顔に書いてある」
「別にいいよ」
「磯貝君、話してやってくれ。明朝には全体に広げることになる」
「片桐幸子と中川早紀の同一人物説浮上後、我々は再入国手口の解明に着手しました。松嶋早紀の居住地は横浜近辺のため、過疎地の沿岸に多い密入国ルートではなく、別の日本人に化け堂々……」
「日本人という根拠は?例えばドミニカ人はビザなしで入国できるから、工作員がよくなりすますらしいが?」
「その可能性も考えましたが……覚えていらっしゃいませんか?二〇〇一年五月……」
「金正南(キムジョンナム)の密入国騒ぎか!金正一の長男の……」
「そうです。少なくとも以降その手口は危険だし、同じ日本人なら化けるにしてもリスクは小さい。そこで松嶋早紀の交通事故から逆算、同年代女性の入国記録をチェックの上、消去法でやっと一人に絞りました。浮田秀美、三十一歳、OL、横浜市青葉区あざみ野南二丁目在住。同月中旬、観光ツアーで中国から帰国、数日後に自殺」
「中国……?」
 思わず顔を見遣った田村に、磯貝は頷き返し言葉を続けた。
「この途中……四泊五日の北京・上海コースだったのですが、同室の女性が北京のホテルで病死」
「……続けたまえ」
「吉川典子(よしかわのりこ)、三十二歳、OL、死因は心臓発作。遺族が現地に飛ぶなど混乱はありましたが、ともかく予定通り旅行を続け帰国。五月十六日に帰国。鄭栄秀も同日の同じ便で入国。こちらは通関時に中国のパスポートと職業資格証書を提示しています」
「職業資格証書?何だ、それは?」
「優秀なエンジニアやコックに与えられる技能証明書で、面倒な出国手続がこれを持っていれば簡単に通るんです。当然容易に手に入る代物ではないのですが最近は偽造・出国まで請け負うブローカーが暗躍し、日本円で千五百から三千あれば簡単に手に入ります。鄭の場合も恐らくこれでしょう」
「つまり彼女は浮田秀美、そして松嶋早紀と五日間に相次ぎ二度整形したと?肉体的に無理がないか?」
「一回目は早めに済ませたのでしょう。旅行会社のデータベースに侵入、身代りをピックアップずれば、二回目の整形、すり替り、入国まで一週間で充分です」
「自殺というのも口封じかな?死亡時の状況は?」
「帰国以降自室に籠りきりで家族も漠然と心配、死亡の報せを聞いた第一声も『自殺だったのですか』で、警察も発作的な自殺と断定。勤務先には帰国後休暇を延長する旨、本人を名乗る電話がありました」
「アリバイ工作……かな?」
「恐らく。ともかく家族が失踪同日通報、警察が捜索を開始したが最悪の結末……というわけです」
「……」
「失踪が五月二十日、投身自殺が二十一日、事故が二十日。失踪後直ちに整形、すり替わったとすれば時間的な辻褄も合います。外部との不審な通信記録はありませんでしたが、前もって打ち合わせておくかプリペイド携帯電話など別途手段を確保しておけば問題ない筈です」
「その事故も狂言かな?轢き逃げだったとか?」
「はい。犯人は逃亡中、車は盗難車でした」
「で、本物は消されたか……いや、拉致か?」
「恐らく。それも以前は日本海側での発生が定説でしたが、今ではそうとも限りません。例えば環状八号線、甲州街道を通り、長野の信濃大町から日本海に抜けるルートがあります。我々は『大町ルート』と呼んでいるのですが北朝鮮は全国にこういう工作ルートを開拓しており、実際、沿線で不審な失踪が複数発生しています。松嶋早紀の場合は勤務先の法律事務所が国道十六号線付近。ルートこそ違いますが条件は同じなんですよ。記憶喪失も、怪しまれた場合の口実でしょうね」
「そう言えば彼女を診察した医師も不審火で焼死だったな。しかし三名も犠牲者……」
「四名です」
「え?」
「言いましたよね?北京のホテルで彼女の……」
「ルームメイトか!……一服盛ったか?」
「それとも、すり替わった片桐幸子か。日本人同士、飲食物を勧められれば怪しまず口にしたでしょう」
「詳細はわかったが、一度頓挫した日本人工作員計画をなぜまた蒸し返してきたんだ?」
「確かに洗脳がうまくいかず一旦打切り、しかしその後東欧の社会主義政権は次々と崩壊、一方ワールドカップ日韓共催。実際は開催権争奪戦にFIFAが出した妥協案だったのですが金正一は日韓の急速接近と解釈したか、この頃進展しかけた日朝関係も再度硬化しています」
「待ちたまえ。では狙撃計画自体が金正一の指示だと?最初は彼自身が来る予定だったんだぞ?」
「だが実際に来たのは黄沢究です。そして鄭らがその名前をやり取りしていた。ドタキャンのずっと前からね」
「黄は金正一に最も近い親族だが……つまりお家騒動か?」
「恐らく。そこで日本に公式派遣。ドタキャンは名代という箔付け狙いでしょう。しかも犯人が警官の妻となれば……金正一の考えそうなことだ。例の金賢姫も日本人を装ってましたし。
 わかりますか?日本の陰謀に偽装してのライバル抹殺、それが本事案の真相なのです。成功時はそれに乗じ外交攻勢、いやそれ以上のことも考えているかも知れません」
「しかし……これが公になれば致命傷だし、サロメ、李芳姫と、計画阻止に動いているのはどう説明する?」
「諜報活動は金正一が全て掌握、その許可なくこういう重大計画が動くことはあり得ません。阻止の姿勢を見せているのは失敗した時の逃げ道でしょう。第一まともな判断力のある相手がテポドンを撃ってきますか?」
「テポドン?人工衛星の打上げ失敗という平壌の公式発表は?アメリカが追認したから私もてっきり……」
「あれが弾道ミサイルだったのは公然の秘密です。それに、当時のアメリカは民主党政権ですよ」
「――」

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2008年5月 3日 (土)

Time Up:十.両刃の剣(上)

 小田がプライムホテルで大野の電話を受けたのは、成田で全てが終わった数分後だった。
――サロメが死んだと聞いたが、本当かね?
「成田に捜査員を遣り確認中です。部長がもうご存じとは……」
――局長もご存じだ。また別ルートらしいが、指揮系統の混乱も甚だしい。
 小田は苦笑した。まるで自分が叱られているようだ。
「自分の監督不行届きです」
――通報では片桐幸子となっていたとか?どうなってるんだ?こんなガセネタに振り回され……
「ガセネタでは済まないかもしれません。と言うのも、実は遺留品中に台北行き中華航空一〇一便と、同日台北発香港行き同六一九便の航空券があったそうです」
――つまり香港を目指していたということか。しかしこのタイミングで……いや、それより問題は、通報者が彼女の正体を知った上で片桐幸子と言って来たのなら……罠か?
「我々にサロメを片づけさせようと。だとすれば、残念ながら我々はまんまと乗せられたことに……」
 その時、割込みの電話がかかってきた。
――局長かな?どうせまた嫌味だろう。君も大変だねえ。
「仕事ですから」
 小田はそう言い挨拶した後、回線を切り替えた。
「小田です」
――井出です。電話中だったようだね?
「申し訳ありません。ご報告が遅れましたが……」
 小田の報告に、井出の反応は案の定厳しかった。
――まんまと逃すよりはましだが、これで重要な手がかりがまた減ったのも事実だ。大体、すぐ空港にも連絡していれば、この結果は防げたんじゃないかね?
「出国の可能性は低いと考えましたので。結果責任は認めますが、確保できても情報を得られた可能性……」
――もういい……で、どうするつもりかね?
 警備本部となった会議室に居合わせる捜査員を気にして、小田は声をひそめた。
「李芳姫を起動しましょう。サロメの線が消えた今は、唯一の対抗策です」
――わかった。一旦切るが、そのまま待っててくれ。
 小田が大野に電話を入れたのは一時間近く後。一階上の大宴会場では、市長が主催する夕食会の最中だ。
「李芳姫の起動が決定しました。間もなく別途指令が出ます」
――では、さっきの電話はやはり……
「局長です。観戦が公になった点は気にしていないと黄副主席は言ったそうです。尤も、我々に気を遣ったのだろう、と局長は仰っていましたが」
――相変らずひとこと多い人だ……李芳姫をやはり使うのか。両刃の剣になるおそれはないのかな?
「先日、局長も全く同じことを仰っていました」
 大野が電話口の向こうで噴きだした。井出と、小田や大野の意見が一致することは珍しい。
――それにしても奴らはどうやって、サロメの動静を……
「コインロッカーかもしれません」
――コインロッカー?
「殺された柳慶国が川崎駅前のホテルに番号を残していたのですが、発見時は空でした。その数時間前、つまり殺害翌早朝に何者かがこのロッカーを物色した形跡があり……」
――そうか。その中にサロメの情報が?
「ニューヨークでサロメと接触していたとの情報をCIAがキャッチしました。柳はサロメとのパイプ役として、彼女の動きも把握していたのでしょう」
――では、殺害してロッカーの中身を奪ったのも……
「監視カメラの映像では、鄭とは別人だったようですが、状況から十中八九共犯者でしょう」
――しかし、次々と面倒が出てくるな。片桐幸子の件を聞いた時は……いや今もまだ信じられないが……
「事実関係を確認するまでは、自分も半信半疑でした」
――そうか。しかし君も貧乏くじだったな。かと言って今更替えにくいし……
「お気遣いありがとうございますが、これは今指揮を執っている自分の責任に変わりはありません。然るべき命令がない限り粛々と任務を遂行するだけです」
――よく言った。君がその覚悟なら私も腹をくくろう。こちらも可能な手は打つが、結局は現場の君達次第だ。
 午後十時、黄副主席の就寝を待ち集合した警備陣は、ナタリー・江死亡の報せに当惑した。
「これで狙撃は我々の手で阻止する他ないが、相手は既に警官他複数の人間を殺害している。そこで最後の手段に、毒を以て毒を制することにした」
 小田の言葉で部屋の隅から立ち上がったのは通訳の姜警部補。いつもの黒縁眼鏡はなく、おかっぱの前髪もピンできっちり留め、額を生え際まで見せていた。
「姜警部補が?確か、京畿道警察外事所属……」
「そう。だがこれは今回特に用意した仮の肩書きで、本当の身分は、朝鮮社会主義人民共和国九〇七特殊部隊付偵察小隊長、許貞恵少尉だ」
 それに合わせ彼女が一冊の赤い手帳を取り出して見せた。表紙には金字で後光付きの人民共和国旗、内側には折返し襟の、軍服姿の彼女の写真。日本の捜査員は顔を見合わせた。
「九〇七特殊部隊、ええと……」
「部隊付偵察小隊長。任務は警察で言えば監察、と言ったところだ。コードネームは李芳姫。鄭から直接訓練を受けた経歴もある。今後は別行動で……」
「射殺する、と?」
「最悪の場合」
 李芳姫こと、許貞恵少尉はそう答えた。朴課長が照れ臭そうに頭を掻いた。
「最悪の場合と言ったが、説得も試みるということか?」
「はい」
「できるのかね?」
「お答えしなければいけませんか?」
「いや、結構」
 彼女の哀しげな目に夏木は質問を引っ込め、隅では捜査員がひそひそ話しこんでいる。
「そういうことだったか……」
「あれ、お前、何か気づいていたのか?」
「裵中佐だよ」
「え?」
「来日当初から北朝鮮側の捜査員が数名、裵中佐の周囲に張り付いているだろう?」
「ああ。実質的な護衛……いや、監視かな?」
「多分な。ただこういう時必ず女性、今回は彼女が入る筈と思ったがそれがない。理由がわからなかったが、いつでも別行動を取れるようにしていたんだ」
 私語をたしなめるように小田は咳払いし
「以降は、片桐幸子の所在確認。不審者は任意同行。同時に京都、大阪、福岡の各府県警にも連絡。以上」

 許と朴はホテル最上階の、バーのカウンターにいた。来日当夜、小田らと初めて会った場所だ。
「とうとう少尉の出番が来てしまったな」
「……」
「後々のことを考えると避けたかったが、致し方ない」
「わかっています。そのつもりでやってきたのですから」
「うむ……」
 朴の吐く煙草の紫煙がフロアーの空調に渦巻きながら、沈黙の中をゆっくりと天井に昇って行く。それを目で追っていた朴が、思い出したように再び口を開いた。
「この後は、自室に戻るのかね?」
「……それって、お誘いですの?」
「ドアを閉めた途端お陀仏は御免だがねえ。尤も少尉から誘って来たら、なおさら要注意だが?」
「まあ!随分ですのね。これでも恋人の一人くらい……」
「いるんだろう、近くに?」
 朴のそのひとことで、許の笑顔が凍りついた。
「隠していたつもりらしいが、一応私も刑事だからね」
「――」
「鄭栄秀。図星だろう?」
 許は無言で頷いた。
「いつからだね?訓練以来か?」
「ずっと前からです……私が初めて入隊した時の指導員でした」
「なるほど。しかし、それでは辛いだろう?」
「任務ですから」
「そうだな。我々は上の判断を信じ、遂行するしかない」
「ええ……お先に失礼してよろしいですか?」
「その前に一つだけ、いいかね?」
 許は振り返った。笑顔を浮かべる余裕はなくなっていた。
「彼は元気だったかね?」
「……」
「説得には応じなかったか……引き止めて申し訳なかった」

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2008年5月 1日 (木)

Time Up:九.攻勢(下)

 同時刻、ホテル四階。
 トイレから警備連絡所に戻る原がふと見ると、通路の灰皿を前に柳沢が一人、紫煙をくゆらせていた。
「『出世したければやめろ』。言われませんでしたか?」
「自分もまだ出世できるんですか、警視?」
「……」
「……すまない。君に愚痴るのは筋違いだったな」
「いえ、自分でよければ……一本頂けますか?」
 原の言葉に柳沢は微笑、火を点けてやった。
「研修以来ですね」
「そうだな」
「あの頃は小田さんや柳沢さんが目標でした。それが……」
「またその話か?第一、私は不祥事に連座……」
「いいえ、自分は当時警務部にいたので知っています。あの査問自体……」
 そこへ工藤が慌しく現れ、原は口を閉ざす。工藤の手には携帯電話があったが二人に気づくと慌ててしまい込み、足早に駐車場方面へ去っていった。
「それで考えるようになりました。自分が警察官として一体何をできるか、何をすべきか」
「それでも続けてるじゃないか?」
「『今やるべきことをやるしかない』。そう自分を納得させているだけですよ」
 通路の向こうには、ホテル棟六階分の吹抜けがある。一階のカフェテラスも営業を終え無人、六階から淡く降り注ぐ照明が巨大な空間を静かに照らしていた。
「標的は最初から黄副主席だったとか?」
「……君は専門家として正直なところ、どう思う?」
「充分あり得ますね。裏付け中で具体的には言えませんが、今になると思い当たる点もあります。本来なら我々が最初に気づくべきでしたが」
「敵さんがそれだけ上手(うわて)だったということさ。それより……大きな声では言えないが、大丈夫なのかな?工藤君は小田さんの監視に熱心なようだし、加藤はあの状態だし」
「確かに、ここ数日の加藤課長の様子は気になりますが、任務に支障が出ているのですか?」
「いや、むしろ普段より機敏に動いてくれている。黄副主席もいよいよ明日横浜入りという今は、正直大助かりだ。でも私は普段の彼をよく知っているから、逆に不安なんだよ」
 原が唸り、二人はしばらく無言で、立ち昇る紫煙を目で追った。
「……黄副主席の国会演説は、大反響のようだね?」
「初めて戦争責任抜きで、拉致問題に言及しましたからね。尤も二〇〇二年の被害者初送還時も、日本側が永住帰国を決定すると、一時帰国だった筈と言って逆に拉致呼ばわり。それを考えると、今日の演説も我々は言葉通りに受け取れないんです。外務省は手放しで喜んでいますが」
「……まあいい。今やるべきことをやるだけと君は言った、それでいいんじゃないか?何が正しい答えか、それは一つだけなのか、気にしてばかりでは何もできまい?」
「ありがとうございます」
 原はそう言って笑顔を見せ、煙草を揉み消した。
「今日はもう休むのか?」
「いえ。裏付け作業がまだ途中ですので」
「大変だな。まあ、よろしく頼みますよ、警視?」

 五月十七日。
 工藤は競技場の全要員も動員、会場内外を最終的にチェックしていた。当日までの競技場詰めを小田に命じられたのは昨夜。直後電話で井出に確認すると、佐々木長官直々の指名だという。小田の監視は中断だが、今はこの任務完遂を出世の足がかりにと意気込んでいる工藤だった。
 二階スタンド最後部は狭い通路に囲まれ、屋根裏へは通路の数個所にある階段を上がって行く。大型スクリーン裏、変電室の囲いには施錠、当日は入口前の通路も封鎖予定だ。
 説明を受けながら見て回っていた工藤の足が止まった。
「あれは?」
 工藤が指した二階東側スタンド中央の屋根裏には、工場の監視室のようなブースがあった。
「ああ、あれですか。アメリカンフットボールで監督が入る指令所です。試合中はあそこから無線で、選手のヘルメット内蔵のイヤホンに指示するんだそうです」
「VIP席までの直線距離は?」
「そう、約百メートル……ははあ、狙撃されないかと?」
「……大丈夫ですかね?」
「どうでしょう?西側は死角で、東側は競技場スポンサーのエンブレムが正面を塞いでいますが……」
「場内設備の制御は?」
「防災センターを押さえていれば問題ありません」
「念のため、明日は警察の人間を詰めさせましょう。警備拠点にはいい位置です」
「夜間はどうしますか?」
「ゲートを押さえていれば大丈夫でしょう」
「わかりました」
 工藤はあらためてスタンドを見渡した。
 VIPや関係者を迎える区域、照明を含めた屋根裏、駐車場。ブースの警備補充は井出の耳に入れれば問題ない筈だが、訪日団に随行中の小田にも報告しておこう。事後で充分だろうとも思ったが、試合前日の無用な軋轢は、避けるに越したことはなかった。

 同日、神奈川県警は極東興産への令状を執行、中区の本社を始め十数ヶ所を家宅捜索。装甲車に、情報を聞きつけたマスコミまで押し寄せ、現場はどこも蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
 そんな中、都内の日程を終えた黄副主席は首都高速横羽線経由で横浜入り。みなとみらい21地区を視察、夕刻新横浜に到着予定だ。科捜研では片桐幸子のDNAを鑑定中。ババ抜きよろしく結果を待つ捜査員の、一番長い一昼夜が始まった。東戸塚から見つかったビニール片の泥は斎藤が殺されたグラウンドと一致。二つの警官殺しは同一犯と断定、合同公開捜査に移行。斎藤も遅ればせながら警視正に二階級特進した。
 午後一時十二分、警視庁に通報。片桐幸子らしい女性が午後四時二十五分成田発台北行き中華航空一〇一便に搭乗するという。写真に走書きを添えたFAXの通話記録によれば、発進元は新宿駅西口周辺のコンビニエンスストアー。直前の離日に疑念を抱きながらも、警備本部は空港周辺に緊急配備を発令。だが新横浜の警備連絡所は、時を措かず警視庁から転送されてきたFAXに絶句した。そこに写っていたのは、中川早紀でも片桐幸子でもなかったからである。

 新東京国際空港第二旅客ターミナルに、千葉県警と新東京空港署の捜査員が張り込んでいた。搭乗手続が始まって彼らが焦りはじめた頃新宿発リムジンバスが到着、捜査員の一人が乗客の中に不審な男を発見した。男性にしてはほっそりしていて、帽子の下には大きなサングラス。捜査員達がばらばらと包囲、一人が問いかける。
「片桐幸子だな?」
 短い沈黙の後、男は返答の代わりに拳銃を抜き放ち発砲。脚に被弾した捜査員が崩れ落ち、男は関係者出入口の方角へ走り出した。悲鳴と共に逃げ惑う客を掻き分けターミナルビルを出た捜査員達は男の姿を見失ったが、次の瞬間ビルの陰から一台の作業車が凄い勢いで走り出した。運転席でさっきの男がハンドルを握っていた。サングラスが外れたその横顔は、FAXで送られてきた女だった。
 砂漠のように続く灰色の敷地を作業車は逃げ回り、追跡するパトカーがタイヤを撃ち抜かれ次々と脱落。一台の応射を受けパンク、バランスを失った作業車がスピンしながら傾き横転した次の瞬間
「止まれ!」
 怒号が無線に炸裂、次々と急停車したパトカーの鼻先をかすめ、垂直尾翼に梅の花を描いたジャンボ機が離陸滑走して行く。作業車から這い出した女が訝しげにこちらを見、爆音の下で捜査員が指すジャンボ機に振り返った彼女の顔が凍りついた次の瞬間、ナタリー・江は搭乗する筈だった中華航空一〇一便の前輪に轢かれ、血飛沫と共に無数の肉片となって路面に散らばった。
 新横浜の警備連絡所から、FAXの写真が片桐幸子ではないとの回答が現場に届いたのは、その直後だった。

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Time Up:九.攻勢(中)

 徳田信枝逃亡の一報に、井出は羽田へ向かう車を急遽Uターン。小田が彼から電話を受けたのは、黄副首席国会訪問の最中だった。
「民間に犠牲が出たのはまずいですね」
――それはわかっているよ。
 小田の反応を皮肉と取ったか、井出の口調は厳しかった。
「ただ攻勢のチャンスかもしれません。彼女は自ら正体を暴露、国内に逃げ場をなくしました」
――気楽なものだな。
 井出は皮肉を返してきた。
――爆破予告にあった口座には確かまだ二回分、四十万ドルが未振込みだが、どうすべきかな?
「払い続ける意味はありません」
――逆効果の危険もあるが……片桐幸子にもそうするんだろうね?
「――」
――黙っているつもりだったのかね?
「遺留品を科捜研(科学捜査研究所)でDNA鑑定中で、同一と確認できてからご報告の予定でした」
――確認結果は後として、すぐ報告すべきだったな。不祥事続きで世論も厳しい。君が疑われる可能性もあるんだぞ。
 井出はねちねちと続けてきた。
――一年前、横浜市内で一緒にいた女性とも同一人物かな?
「やはり遺留品の鑑定待ちです。ただ一味の可能性は大です」
――その捜査員が共犯の可能性は?
 小田は暫時瞑目、考え込んでから言葉を継いだ。
「聴取した心証はシロですが断定はできません。以降警備任務からは外しました」
――当座はそれでいいとして……情報もそこから漏れたか?
「捜査員の死亡はいずれも中川早紀の周辺で、辻褄は合います。現在は失踪、今後情報漏れの心配はありませんが、警備は見直しが必要です」
――間に合うのかね?黄副主席も明日横浜入りだが……その捜査員に接触してくる可能性は?
「泳がせると?しかしそれは囮捜査になりませんか?」
――民間人でなければ問題ない筈だが……ただ、行過ぎだけはするなよ?君は否定的だったがサロメという選択肢もある。盧氏は今日日本を離れ連絡が取りにくくなるが、一応考えておいてくれ。じゃ。
 情報が下りなかったり正規のルート外で報告を受けたり、今回の井出の動きは不自然すぎる。もう看過できないと小田は思い、切れた携帯電話をしまった。

 二時間後、所沢のダイナマイト紛失で埼玉県警から報告。この業者のワンマン経営者が借金していた事業者金融が、極東興産の子会社だったのだ。
 その時、パソコンを叩いていた捜査員が叫んだ。
「ネットに、徳田信枝を名乗る書込み!」

 再度日本政府に告ぐ。指定した口座に要求した金額を振り込め。期限は五月十八日、サッカー朝日親善試合終了時。さもなければ共和国副主席他、観客の安全は保証しない。

――日本の警察も随分舐められたものだな……中央の対応はどうだ?
 受話器を通した大野刑事部長の声は、うんざりしているように小田には聞こえた。
「広報が対応中です。佐々木長官は立腹されていたそうです」
――そりゃそうだろう。しかしどうしたものか……
「局長から伺ったのですが、中国に楔を打ちます」
――中国?
「現情勢下で北朝鮮への直行は難しく、韓国も国際テロリズムには神経質です。そこで先手を打ち、領内通過拒否を要請するそうです」
――相手がウンと言うかな?
「台湾の元総統がまた訪日を希望しているとか?前回は当時の田宮(たみや)外相が今後認めないと発言しましたが、その田宮外相も更迭されているし、カードになるんです」
――元総統訪日……確かに強いカードだが、このところ日中関係も冷え込み気味だし、切り方が難しいな?
「最悪ODA(政府開発援助)見直しのカードもあります。当然北京は反発するでしょうが、テロ支援国と見なされれば五輪どころではなくなる。日本はただ毅然と対応すればいいのです」
――ノーと言えない日本の警察官僚としては頼もしい意見だねえ。まあ君の口から出すのはリスキーだが、上から意見を聞かれたら私から進言してみよう。
 効果はすぐ現れた。中国政府は外交部が臨時に記者会見、魚前人民武力相が亡命を希望しても受け入れないと表明。徳田信枝のとの字も出なかったが、彼女が聴いていればノーの意思表示と理解する筈だった。
 夕方、脱走事件の犠牲者が無言の帰宅。ダンプカーに轢かれた大学生の父親は、徳田信枝は人間の屑だ、政府は威信をかけ検挙、厳正に処断すべきと語った。護送車運転手の、小学生の息子はカメラに向かい、革命なんて糞食らえと叫んだ。世論は、殺人を犯して『闘争』を続ける彼女に反発、都内では総聯幹部宅に火炎瓶が投げ込まれ、知事が冷静な対応を呼びかける事態となった。
 余波は国内にとどまらなかった。北京では、当初こそ緩やかだった北朝鮮代表チームのマスコミ対応が一変、インタビューでも顔を曇らせる選手の背後に、厳しい顔の関係者がフレームインするようになった。
 早紀を診察した脳外科医死亡の状況も判明。同時期被害者宅付近で連続放火があり、捜査中だが犠牲者はこの脳外科医一人。これだけなら偶然だが、直後、助手に脅迫電話があったのだ。内容は「秘密を漏らすな」。助手は心当りがなく、家族に危害が及ぶともあったので黙っていたのだ。警備本部は記憶喪失の件と推測、事件の再調査を要請した。
 事態は依然予断を許さぬながら警察は一連の事件発生以来、ようやく攻勢に転じようとしていた。

 同日深夜、新横浜プライムホテル。
 或る電話を受けた小田は、工藤を廊下に呼び出した。
「何ですか?」
「夕方局長に電話したら、徳田信枝の件で雷を落とされたよ」
「そうですか」
 世間話など絶対にしない小田の言葉に、工藤は戸惑った。
「片桐幸子の件ももうご存じだったよ。どうやら私より前に誰かが報告したらしい」
 二人の視線が鋭く交錯し……先に逸らしたのは工藤だった。
「そうですか……戻ってよろしいですか?」
「待ってくれ、実はその話じゃないんだ……」
 小田がひたと当てた視線に、工藤は嫌な予感がした。

 客室に戻った崔と李は、無言で窓外の夜景を眺めていた。黄副主席が宿泊予定のスイートルームと数室隔てたここからはみなとみらい21地区の、赤く瞬く警戒灯を遠く臨むことができた。
「何を考えているの?」
「考えることはない。すべきことは決まっているのだから」
「そうね……」
 空間を支配した短い沈黙の後、気配も見せず崔が襲いかかり、しかしそれを見切った李がかわす。
「何をするの!」
「あと数日で、全て決着する」
「……死ぬつもりね?」
「!……お見通しか」
「私を甘く見ないでよ」
「軍人の、か?それとも女の?」
「……」
「すまない……兄は、本当は」
「『冷たい人間じゃない』。あなたを見ればわかるわ」
 合法・非合法の人・金品が行き交い、誘惑と危険に満ちつつ充実した国境警備任務は十年前、隊の通信兵に耳打ちされた家族の連行で突如打切り。持合せの小金だけを手に豆満江を渡り、中国から韓国にたどりつくまで半年、厳しい取調べの後の再就職まで半年、全てのその後を知ったのは出国から二年後だった。その後、選抜された軍人を特訓、しかし最高点をつけた李を副官にあてがわれ、華燭の典も挙げたのは同胞への心遣いか、無期限の監視か。
「だから彼女も辛いばかりじゃなかった筈……一挙に解決なんてできない、今は努力を重ねるだけ。違う?」
 崔の顔がやっとゆるんだ。
「死体に抱かれて喜ぶ女とは、思わないでね」
「今夜は私の負けだ。喉が渇いたな」
 崔は苦笑して立ち上がると冷蔵庫に向かい、ビールを二本取り出して一本を李に投げ与えた。

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2008年4月29日 (火)

Time Up:九.攻勢(上)

 中川の、報告書のペンはさっきから一行も進んでいない。
 尚子は斎藤が残した口座の名義を、振込みという手段で特定。鄭が勘づくとまで計算したか否かは永遠に謎だが、とにかく同夜東戸塚に直行、銀行に張り込んだ。彼女がそれきり応援を要請しなかった理由がずっと捜査陣の疑問だったが、銀行に現れたのが早紀なら説明はつく。
 あの時点で早紀は捜査線上に浮かんでいなかった。だから尚子は怪しみながらも、単身あのビルに足を踏み入れたのだろう。となると、稲生課長補佐殺しや斎藤殺しも実は……
 不意にコーヒーの紙コップが置かれ、気づくと柳沢が立っていた。照れを隠す時の癖で口をすぼめている。
「すみません」
「いいんだ。それより、額の傷、どうした?」
「階段で転びまして……」
 嘘だった。家宅捜索戻りの加藤に屋上で一発殴られ、以降ひとことも交わしていない。中川とだけでない、唄を忘れたカナリヤのように私語を受け付けず、食事も碌に摂っていない。署内一饒舌で大食漢だった彼の異状が、署内の空気を重苦しくしていた。一昨日以降の事態の急変は中川や加藤だけでなく、警官達が直ちに嚥(の)み下すにはあまりに過酷だった。
「告別式、行かなくてよかったのか?お前、事情聴取で通夜も行ってないだろう?」
「……柳沢課長こそ、よろしかったんですか?」
「私は昨夜行った。今日は留守番だ」
 空いていた席に柳沢が腰を落とす。部屋の隅のテレビでは、羽田に降り立った黄副主席が、タラップ上から笑顔で手を振っていた。
「空港周辺は厳戒態勢なのでしょうが、警護する側から見るとどうも心配で……」
「まあな。SATが配備に就いているから大丈夫の筈だが」
「SATですか……」
 各都道府県警では誘拐・人質事件に備え特殊捜査班「SIT」を配備しているが、それと別に警視庁ほか七都道府県警機動隊がテロ対策に配備しているのが特殊急襲部隊「SAT」である。
 一九七七年、ダッカハイジャック事件を契機に西ドイツ(当時)の対テロ特殊部隊を手本にして、警視庁と大阪府警に特殊部隊を創設。当初は極秘だったが一九九六年五月、神奈川を含む五道県警への増設を機に公表。二十名編成の一個小隊が数班に分かれ、ハイジャック・立籠り事件や今回のような要人警護に出動するが配置情報は原則極秘。
 だが何より彼らを他の警察官と区別しているのは「名前削除」の制度だ。SATを拝命すると警察官名簿から名前を削除、外部からは所在が全くわからなくなる。隊員をテロから守るのと、任務で犯人を死傷させた隊員の刑事訴追防止が目的で、今なお彼らは名を持たぬ、警察内でも秘密に包まれた存在なのだった。
「片桐幸子の件……昨夜監察官から聞きましたが、まだ……」
「半信半疑かね?わかるよ」
「監察官もそう仰っていましたが……急展開と言うか、どうやって同一人物だと?」
「偶然の一致だろうが……北朝鮮関与説浮上以降、片桐家には一部方面から嫌がらせの電話やメールが未だにあってね。それで新潟県警がここに照会、ピンと来た捜査員が新幹線に飛び乗った」
「そう言えば最初は、警戒するような口調でしたが……」
「馴初めは去年、だったな?」
「丁度一年前です」
「その時点では総書記訪日計画自体なかったし、最初から計算ずくだったわけではなさそうだ。しかしその後、何か指令……」
 二人は思わず顔を見合わせた。無言電話、ホテルへの移動、鶴見川の死体に始まる連続殺人……
「あの無言電話が?」
「シグナルだったのかもな」
「でも、ホテルには……」
「それなんだが実は、外線から男の声で一度だけあり、フロントが名前を訊き返したら黙って切れたそうだ。直後、携帯に着信があった。用心したか室内に目ぼしい遺留品はなし」
「備付けのメモ帳にも?」
「斎藤警部の手帳にあったような跡もなかったよ」
「上の何枚かが破り取られていませんでしたか?」
「そう言えば確かに……じゃあ?」
「メモした後下の紙も破り取り、筆跡を隠したか……」
「下敷き代わりに何か挟んだか……」
「ただ、手帳には残っていた筆跡が……」
「いや、その説明もつく。手帳は下のページを取り忘れた、ホテルでは注意していたか昨日の朝回収した」
「でも事件当夜、彼女はホテルから……」
「出ていないと言うんだろう?」
「そうです。ロビーや通用口……」
「それは確認したが、訓練を受けていたなら他にも……」
「窓――」
「だったようだ。窓枠に細い物でこすった痕があった。客室は隣のビルの裏手に面していたから、夜間なら目撃されず、ロープでもあれば充分可能だった筈だ」
「――」
「無言電話だが……録音したと言っていたな?テープは?」
「はい、席の抽斗にあります」
「多分提出することになるが、今聴いてみようじゃないか。通信室でデッキを借りよう」
 再生したテープには、最初は中川や早紀の「誰だ?」「何か言って下さい」という声しか聞こえなかったが、BGMのように流れる重低音に気づいたのは、デッキを操作していた通信室の警官だった。
「あれ?」
「どうした?」
「この音、早送りすると話し声に聞こえませんか?」
 二人はヘッドフォンに飛びついた。早送りしながら再生すると、重低音が読経にも似た発声に聞こえてきた。
「この部分だけ、増幅できるか?」
「できますよ。ちょっと待って下さい」
 増幅すると、それは中年の男が読み上げるアルファベットの羅列だった。中川はそれを紙に記してみた。

 BJJXJEAH
 YKHM
 KR
 SW
 KWMR

「これは……暗号でしょうか?確か斎藤警部のメモ帳にも……」
 中川の声はかすれていた。先日コンビニで見かけた、鄭の顔が脳裏に浮かんでいた。
「それと、ホテルのメモ帳……斎藤警部が見つけたのは口座番号だったが」
「……YKHMは、横浜でしょうか?」
「なるほど、母音だけを抜いた、か。では他の行も……」
「同じ暗号の可能性が高いですね。何が入るんだろう?」
 そこへ、喪服姿の加藤が姿を見せた。
「柳沢さん、こんな所で何してるんですか?」
「加藤、こいつの奥さんち家の無言電話の話、覚えてるか?」
「ええ、それが何か?」
 加藤は相変わらず中川と視線を合わせようとしない。
「どうやら暗号だったらしい」
「えっ!本当ですか?」
「二行目以外が解けなくてね。平文(ひらぶん)から母音を抜いたのと思うが……」
「あっ、わかった!」
 叫び声を立てたのは、入口から覗き見していた山崎だった。
「本当か?」
「多分、こうだと思います」
 彼女はそう言ってペンを取り上げ、余白に追記した。

 BJJXJEAH
 YOKOHAMA
 KIIRO
 SAWA
 KIWAMERU

「きいろ、さわ、きわめる……何だそれ?」
「この三行を漢字に直してみて下さい。わかりますか?」
「漢字……あ、黄沢究か!」
 一同は色めきたった。
「一文字ずつ訓読みにして暗号化したか。だが一行目は?」
「これは数字じゃないでしょうか?一、二、三を、アルファベットに置き換えたのではないかと」
「Bは二か。そうするとJが〇、Eが五……」
 置き換えた数字を含め、全文字列があらためて書き出された。

 200X0518
 YOKOHAMA
 黄沢究

 警官達はしばし無言だった。あの無言電話ではこの日付、場所と同時に、つまり金総書記訪日中止発表のずっと前から名代・黄沢究副主席の名前もやりとりされていたことになるが……

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2008年4月22日 (火)

Time Up:八.真実(下)

 五月十六日、午前。
 魚は香港のホテル「和平飯店」にいた。昨年オープンした、上海の老舗ホテルチェーン第一号店だ。
 数年前五人の日本人一時帰国に猛反対した魚の危惧が的中、彼らのの証言から内情を暴露された偵察局の恐慌を嘲うように、外交条件は厳しくなる一方。年明けの決定もまたもやの瀬戸際外交で偽遺骨の二の舞になりそうな気もする。
 客室のテレビに頼らず毎日内外の新聞を取り寄せ、インターネットもチェック。平壌・東京の主要ニュースは常時確認しているが、同時に首都圏で相次ぐ事件にまでは注意が及ばなかった。平壌にも自分の動きは筒抜けらしいが、それが公表された時点で、彼は容易に手を触れられぬ存在になっていた。これもあくまで北京と平壌が状況を静観しているにすぎないという状況認識も、いつしか魚の脳裏からは薄れつつあった。

 同じ頃。
 徳田信枝を乗せ、前後に警護車を随えた護送車は第三京浜北見方料金所を通過、新多摩川橋を渡り都内に入った。新幹線ジャックの送検手続後神奈川県内から今日移送、この後は警視庁で、十年前の菱和ビル爆破事件の取調べだ。終点の多摩川インターチェンジからは、環状八号線を首都高速渋谷線用賀インターチェンジへ。極秘の移送経路をどこで嗅ぎつけたか、並走するマスコミの車両がカメラを構え、警察は彼らの無遠慮な取材にも警戒しなければならなかった。瀬田交差点で国道二四六号線を横切ると用賀インターチェンジの標識が現れ、この後首都高速に上がれば桜田門へは直行だ。警備陣に一瞬の隙が生じた。
 突然路地からトラックが飛び出し、車列は進路を遮られ急停止。その路地は一方通行で元々進入禁止、しかも今日は工事を口実に封鎖していたと警備陣が思い出した時は既に遅く、後ろの警護車側面に手前の路地から乗用車が突っ込み、助手席の警官が圧死した。
 トラックの荷台とマスコミの車両から次々と飛び降りた黒ずくめの集団が、ライフルを手に護送車を包囲。運転手は発進・突破を試みたが、タイヤを打ち抜かれた護送車は脚を挫いた獣のように停止。一人が運転手の頭部を撃ち抜くと同時に、爆薬がロックを吹き飛ばし、数人が車内に突入していった。
 再び車外に現れた襲撃者達の中央には徳田がいた。応援に駆けつけた警官達との間で激しい銃撃戦が始まる。それでも人数でははるかに警察側が有利で、制圧は時間の問題と思われたその時
 対向車線からダンプカーが突っ込んできて警官と通行人を撥ね飛ばし、後方の乗用車に衝突して停止。警官達がそれに気を取られた隙に徳田と襲撃者達はトラックの荷台に飛び乗り、走り去った。異変発生から全てが終わるまで、五分と経っていなかった。

 同日、鎌倉市扇ヶ谷。
 北鎌倉から真南へ坂を登りきったこの高台は、源氏山公園を中心に市街を北西から見下ろす、奥座敷のような位置にある。東麓には寿福寺などの参拝・観光客の姿もあるが、観光スポットもない南麓は茂みの間に人家が点在する閑静な住宅街だ。
 飯田家の正門からは緞幕を張った玄関まで花環が並び、祭壇中央、遺影の前には警部昇進(二階級特進)の真新しい辞令。酒井以下港北署員の他、韓国警察の姜警部補らも参列。加藤は無造作に伸ばしていた髪を整え、斉木は受付に立っていた。自身警察官である尚子の父親は悲しみをこらえ弔問客に応対。母親は落胆で寝室を出られない状態とのことだった。
 出棺の時刻になると霊柩車がバックして玄関に停止、白木の棺を加藤らが担いで納める。行く手の人垣を警官が整理すると霊柩車の長いクラクションが葬列の出発を告げ、脇に下がった加藤が叫んだ。
「飯田警部に、敬礼!」
 全警察官が一斉に敬礼。斉木は我慢できず敬礼したまま泣き出し、他の弔問客からも泣き声が沸き起こる。
「飯田さん、見ててください。中川さんを騙して飯田さんを殺した犯人を絶対許さない。敵はきっと討ちますからね」
 斉木の隣で敬礼する山崎がそう呟いていた。霊柩車を中心に人ごみを掻き分けながら門を出た車列は、斎場への坂道をゆっくり滑り出した。
 精進落としまで手伝う予定だった斉木に、至急戻るよう連絡。理由の説明はなかった。港北署に戻った彼女を工藤が導いたのは、しかし交通課とは別の薄暗い一室。机の隅に一人の男が座っていた。撫で付けた長髪に、面長の顔の下半分を覆った無精ひげ。それが誰か思い出した彼女は、自分に用意された任務が何かを悟った。

 人民共和国旗を尾翼中央に染め抜き、黄沢究副主席ら訪日団一行を乗せた北朝鮮政府専用機は、日本海を一路東へ滑空していた。韓国領空通過中は同空軍のF15戦闘機が前後左右をぴたりと護衛、日本領空からは航空自衛隊と交替の予定だ。
 金一成が死後を託した三人の副主席で最もその信任が高かったのは、政治学者だった外交顧問の王長耀。他の側近が金父子への幇間に堕していく中、彼は自分の担当にとどまらず正常な国政運営に尽くしてきた。
 だが、父親の死だけを待っていた金正一は、早速王を最高人民会議議長に指名し形式上のナンバー二に棚上げ、独断で政治を動かし始めた。学者として純粋に理想の社会主義を目指していた王は祖国の現実と将来に絶望、一九九九年、外遊先の北京から澳門を経て韓国へ亡命する。
 西側でも「北朝鮮最後の良識的政治家」と評価されていた彼の亡命に、体制早期崩壊の推測が内外を飛び交い、一族や友人、側近は全員処刑、教え子他数千人が管理所送り。金は怒りと危機感から軍・党・行政府のリベラル派を一掃し、皮肉にもこれで彼の独裁体制が完成した。
 王長耀亡命の余波は黄の立場も微妙にした。大学の恩師でもあった王の指導で優秀に成長した黄の存在は、独裁者金正一には脅威となっていた。外交を巡る魚との対立が修復不可能になったのも裏で金が糸を引いた結果で、魚の失脚という形で今回は勝利したが今後も油断は禁物だ。
 今回の訪日も内部では成果を疑問視、ドタキャンはそれを耳にしての癇癪、との噂もある。真相がどうあれ準備した訪日団の、困難は承知で団長を引き受けたが、帰国後その不協和音をどう収拾するか。気に障れば高官だろうが射殺する金のこと、最悪血を見ずに済むまいと思うだけで黄には頭痛の種だった。

 裵明珠は、東京国際空港(羽田)国際線旅客ターミナルVIP待合室で、専用機の到着を待っていた。待遇こそ最上級だったが、金の母親は金一成の先妻、一方裵の祖母は後妻。そして金と腹違いの裵母娘への厚遇があくまで表面上のことなのは、半島情勢通の間では公然の秘密だった。
 金は後妻の親族に気を許すことはなかった。父親に偏愛された後妻への憎悪と、とって代わられるかもとの猜疑心からだ。今回の任務も敵同士を互いに噛み合わせるいつもの手だと、永年の経験から裵は勘付いていた。
 VIP待合室には彼女達北朝鮮側の他、韓国・日本関係者も待機中だが、日本側責任者の井出警備局長は副局長を名代に寄越し、庁舎内で過激派リーダー逃亡への対応中。突発事態といえば、金の飛行機嫌いは周知の事実なのに空路移動を日程に入れるとは。ドタキャンを知った当初は、単なる計画上の手落ちかと思ったが、これも実は何か意図があったのではと彼女が思い至った時、専用機が日本領空に入ったと連絡が入った。
 数十分後、北朝鮮政府公用機として建国史上初めて日本に飛来した専用機は、定刻通り羽田に着陸。警備陣が陰謀の核心に迫りつつも最後の決め手をつかめないまま、事件はいよいよ最終段階に入ろうとしていた。

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2008年4月20日 (日)

Time Up:八.真実(中)

「別命あるまで待機。退がりたまえ」
「管理官」
「何だ、柳沢君?」
「ホテル・グレコの客室です。引続き確保しておいてはどうでしょう?戻ってくる可能性もあります」
「……勝手にしたまえ」
 二人は退室、刑事課へ戻りはじめた。
「斎藤警部の手帳に残っていた数字を覚えているか?」
「000で始まる……何かわかったんですか?」
「三輪(みのわ)銀行東戸塚支店から通報があった。昨日午前、女性が電話で口座情報を問い合わせてきたと」
「銀行口座ですか」
「戸塚区品濃町五四X。銀行番号、店番号、普通・定期などの口座種別、そして口座番号。相手はこの番号を言い名義を尋ねてきた。銀行側は顧客情報なので回答を拒んだそうだが。そして名義は」
 柳沢は一旦言葉を切り、深呼吸した。
「本多正勝」
 中川は息を呑み、思わず立ち止まった。
「では、あのビルはアジト――」
「戸塚区品濃町五三X。ベッドタウン駅前の廃ビル……条件は最高だ」
「銀行への電話も――彼女?」
「そう名乗ったそうだ。昨日はそれきりだったが、今朝のニュースに慌てて通報してきたんだ」
 二つの警官殺しはいよいよ同一犯の可能性大、という言葉を柳沢は呑みこんだ。
「でもその後、どうやって口座を特定したんでしょう?」
「直後、少額の入金があった。名義と支店名はその時に確認したんだろう。あれが銀行口座とはよく気づいたが……」
「そう言えば昨日、預金を下ろすとか言っていました」
「じゃあ、その時にカードか何かを見て気づいたか」
「……」
「銀行は直ちに口座を閉鎖したが、少し後都内、港区高輪のコンビニにあるATMから引出し要求があった。これが鄭に間違いなければ足取りも追えるだろう」
 中川は言葉がなかった。一昨日の夜も卓上には問題の口座番号、話題は鄭と一緒にいた女。早紀はそこから状況の切迫を察知。尚子もそれを不自然と感じ、何か違うと言ったのだ。尚子に預けた結果逆に早紀を追い詰め、尚子まで死なせたとしたらあまりに皮肉だ。
 二人が戻ると刑事課にざわめきが走り、しかし言葉をかける者はいない。さっきはまるで理由がわからなかったが、事件と早紀の関わりを先に知ったのだ。着席した中川の肩を柳沢が叩いた。
「飯田君の敵はきっと討つ。管理官の様子では部屋代、経費から出そうにないが。カンパかな」
 程なく中川早紀宅への家宅捜索令状発行、強行犯係は中川を残し出動。何人かの視線に振り返った中川の前を、加藤の拒むような無表情が去っていった。

 数時間後、港北署刑事課応接室に、高松から上京した早紀の両親の姿があった。
「遠路ご足労いただき、恐縮です」
「いえ、この度はお騒がせしまして。こちらも心当りを捜したのですが……」
「そうですか……早速ですが娘さんは一年前、交通事故で入院なさっていますね?」
「?……ええ」
「それ以降のことを、できるだけ詳しく伺えますか?」
 新潟県警の事情聴取を、隣席の小田は黙って見守っていた。夫妻を山崎が駅前のホテルに案内した後、空いた席に小田が移り、署員が淹れ替えてくれたお茶をすすりながら訊ねる。
「同一人物と……思うかね?」
「十中八九。病歴も一致します。採取した生体サンプルの照合結果次第ですが、一年弱で戻ったのも不自然です。拉致被害者の多くは三十年以上経っても戻らないのですから」
「裏がある、と?心当りがあるのかね?」
「彼女ですが、学生の頃射撃クラブに入っていまして……」
「――」
「国体県予選で四位入賞。これが目的ではとの見方も当初からありました」
 小田は瞑目した。どうやら、中川にはあまりに残酷な筋書が用意されているようだ。

 同夜、港北署刑事課取調室。
 机を挟み、中川の向かい小田が座っている。机の傍らに工藤、入口脇には記録係の警官が一人。
「斎藤警部殺害現場に、別人の頭髪があった件だが」
「はい」
「ホテル・グレコから採取した頭髪もDNA鑑定に廻した。最終結果は後日だが、同一人物の可能性が高いそうだ」
「……」
「それと、片桐幸子とも同一人物の可能性が出てきた」
「まさか……」
「我々も実はまだ半信半疑だが、それで辻褄が合うのも事実だ。片桐幸子の生体サンプルは今取り寄せている」
「……」
「知り合った時期は?」
「昨年六月、金沢区の総合病院です。交通事故の後遺症で……」
「記憶喪失……だったね」
「?……はい」
「アプローチは彼女から?」
「いえ……自分からです」
「彼女の反応は?特に動揺する様子はなかったか?」
「戸惑っていました。でも、じっと自分を見つめる視線で感じたんです。彼女は自分を求めていると」
「じっと見つめた、ね?」
「は?」
「彼女からのアプローチとも解釈できるな?」
「……」
 思わず言葉を失った中川に、失言と思ったか小田は一瞬表情を緩めた。
「先月以前、彼の存在がちらついたことは?」
「自分は、全く気づきませんでした」
「異変はそれ以降か……なぜすぐ報告しなかった?」
「関連があるとは思いませんでした。本件着手後は気を配る余裕もなく、彼女もそれ以降異状はないと……」
「それは私も聞いたが、状況がこうなると全てを疑う必要がある。無言電話自体、狂言の可能性……」
「それはありません」
 工藤の割込みにむっとした中川が言い返し、小田は咳払いした。
「彼女が計画に関わっていた場合、警察の動きも漏れていた可能性があるが、心当りは?」
「……」
「……あるんだな?」
「かなり……」
「かなりじゃない。業務情報漏洩は職務規定違反だぞ。監察官も最初に、一切口外しないよう仰った筈だ」
 相変らず気に障る工藤の口調だが、正論とて中川も反論できなかった。
「話を戻そう。記憶喪失の件だが、病院に問い合わせたところ、精密検査を担当した脳外科医は火災で死亡」
「――」
「警察官だと、彼女が知った時期は?君から話したのか?」
「はい、退院祝いを兼ねた初デート時です。所属も話したのはプロポーズ時……二月十四日になります」
「彼女の反応は?すぐOKしたのか?それとも……」
「一週間後です。未明に突然電話で……」
「鄭のアパートから、女が消えた時期と一致するな」
「……」
 そこへ捜査員が現れ、廊下に一人出て行った工藤が、二、三分して小田を呼び出した。
「先月中旬、倒産した所沢の建設業者でダイナマイトが紛失していました。工場は既に人手に渡っていますが、先々月破産管財人が訪れた際は異状なかったそうです」
「一ヶ月も前じゃないか!なぜ今まで……」
 小田の表情が険しくなった。
「倒産と同時に経営者が失踪、その混乱で……」
「爆発物だろう?管理――」
 小田は思わず、工藤と顔を見合わせた。
「業者内に内通者が?」
「あり得るな。経営者の失踪も気になる。追跡調査……」
「埼玉県警が既に着手しています」
「あちらの捜査結果待ちか……CRAWを起動するぞ」
 小田の小声で、工藤の表情に緊張が走る。
「そうですか!……李芳姫も?」
「いや、そちらはまだだ。上のOKが出ていない」
「わかりました」
 小田は工藤と取調室に戻った。
「続けよう。奥さんと片桐幸子が同一人物なら、問題は帰国した目的だが、新潟県警から気になる話を聞いた」
「?」
「学生の頃射撃クラブに所属、国体県予選で入賞。新潟ではこれが拉致の目的との見方もある」
「――」
「中川巡査部長、今日はここまでにするが、別途監察の事情聴取がある筈だからそのつもりで。いいね?」

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2008年4月17日 (木)

Time Up:八.真実(上)

 戸塚区上倉田町。東海道線と並行する道路を左折、蛇行する坂道を東に登った脇に早紀のアパートはある。駐車場代わりの空き地にパトカーが停車していて、到着した中川に二人の男が近づいてきた。
「中川巡査部長だね?」
「はい」
「この部屋に任意立入り調査の指示があった。奥さんが所在不明なので、代わりに立会ってもらいたい」
「……と言っても、拒否はできないのでしょう?」
「まあ、そうです。鍵は、今お持ちですか?」
「はい……」
「開けて下さい」
 二人に倣い手袋を嵌めると、部屋に入りぐるりと見まわす。流しにユニットバス、六畳の和室にはカラーボックスが数個。しんと澱んだ初夏の気だるい空気が、人の気配のないことを示していた。
「君が最近、ここに来たことは?」
「先月十三日です。それ以降はずっと外泊です」
「そうか。その後彼女が立ち戻ったかどうかだが」
「所在不明が一昨日深夜で、戻ってきたとしたら昨日以降ですが、見た限りその形跡はないですね」
 箪笥の最上段には貴重品が入っていた筈だがめぼしい物はなく、閉めかけた中川の手が奥の、がさっという音に止まる。手を突っ込み取り出した茶色い封筒には、黄ばんだ古便箋に、早紀とほぼ同い年のカップルが写った一枚の写真。戸塚署の捜査員が後ろからのぞきこみ
「奥さん……ではないですね」
「違います」
「そうですか……おや?どこかで見たような……」
「え?」
 県警本部の捜査員も手を止めのぞきこんできた。
「そう言えば……だめだ、思い出せない。中川巡査部長、心当りは?」
「さあ。でも確かに、何か見覚えはありますね」
「有名人かな?奥さんにそういう知り合いは?」
「そういう話を聞いたことはないですね」
 首をかしげてからもう一度目を落とす。一緒に写っている男性には全く見覚えがなく、ただ何となく自分に似ているなと中川は思った。便箋には十一桁の数字。電話番号と思われたが、先頭数桁を見ると近県のものではなさそうだ。期待半分不安半分でダイヤル、しかし電話口に出たのは、案に相違して中年の男の声だった。
――はい、片桐ですが。
「突然お電話致します。私、神奈川県警の――」
――警察?
 男の声が一オクターブ跳ね上がり、三人を驚かせた。
――幸子が見つかったんですか?
「幸子――さん?」
――違うんですか?
 中川は混乱した。
「もしもし……そちらは、片桐さんと仰るんですか?」
――そうですよ。どちらにおかけですか?
 片桐と名乗った男の声は明らかに硬くなっていた。単に機嫌を損ねた風ではなかった。
「〇二五―XXX―XXXXですが、違いましたか?」
――いえ、それなら確かにうちの番号です。どういうご用件か、差し支えなければお伺いできますか?
「幸子さんというのは?ご家族ですか?」
――娘です。
 片桐は、ようやく声のトーンを戻し話し始めた。
――片桐貞夫(さだお)といいます。タクシーの営業所をやっております。勘違いしたようで申し訳ありません。
「いえ、こちらこそ突然お電話しまして……」
 中川の頭の中で何かが引っかかった。片桐幸子。どこかで聞いたような……
――それで、あの、今日お電話いただいたご用件は?
「実は……私事で恐縮なのですが、一昨日家内が失踪……」
――失踪?
 叫びに続く数秒間の沈黙。相次ぐ不可解な反応に三人は顔を見合わせた。
「もしもし?」
――ああ、失礼……どうぞ続けて下さい。
 心なしか片桐の口調が改まったように思えた。
「滞在中のホテルから姿を消しまして、今アパートを捜しましたらこの番号が見つかり、こうしてお電話したのです」
――そうでしたか。それはご心配ですね。ええと……中川さまと仰いましたね?
「はい。家内は早紀と申します。旧姓は松嶋、香川県高松市出身、現在は横浜市在住。どうでしょう、お心当りは?」
――松嶋、早紀……申し訳ないが私ではちょっと……ただ娘と同い年になりますから、お友達かもしれません。東京の短大におりましたので。
「なるほど……家内も大学以降首都圏在住なので可能性はありますね。差し支えなければ娘さんにもご確認……」
――ここには居りません。
「あ、では現在もまだ東京にお住まいで?」
――いや、そうではなく、幸子は……
「……あっ!もしかして……」
 やっと思い出した。
「あの、行方不明になった片桐幸子さん――ですか?」
――その通りです。
 あらためて手にした写真を見る。肩で切り揃えた髪、造作の小さい顔。数年前新潟で失踪した、あの女性に相違ない。意外な展開に、聴いていた二人も顔を見合わせた。
「それは……大変失礼しました。もしお心当りがありましたら、いつでもご連絡ください。番号は、O四五―XXX―〇一一〇です。港北警察署刑事課の中川と言っていただければ通じますので、よろしくお願い致します」
 挨拶して受話器を置いた中川は言いようのない疲労を覚え、その場に座り込んだ。
「奥さんがあの片桐幸子と知り合いとは……そういう話をお聞きになったことは?」
「いいえ、全く」
「変だねえ?かなり大きく報道された事件だから、奥さんに心当りがあれば普通、君や周囲に話すと思うが?」
「確かに、そう言われますと……」
 中川もそれ以上は何とも言いようがなく、ただ、ひどく胸騒ぎがした。
 部屋を出てから、近所に聞込みをかける。中川と面識のある住人もいて協力的だったが、ホテルに移って以降彼女を見たとの証言は得られなかった。

 早紀を捜しに行きたいのを我慢し署に戻った中川に、小声で喋っていた刑事課の捜査員達が黙り込んだ。不自然な反応に戸惑う間もなく柳沢が現れ、射るような加藤の視線に送られながら中川を捜査本部に引っ張っていった。
「奥さんは戻っていたか?」
「いいえ……?」
 なぜ急に、早紀の行方が問題になっているのか?尚子の死とも何か関係があるのか?渦巻く中川の思考は工藤の次のひとことで中断された。
「これ以降君は連続殺人と黄副主席警備から外れてもらう」
「!――」
「奥さんのアパートとホテル・グレコに被疑者不詳で家宅捜索を申請した。君、何か持ち帰った物は?」
 中川が震える手で取り出した便箋と写真を、柳沢は手袋を嵌めて受け取る。証拠品扱いなのだ。
「……理由を伺ってよろしいですか?」
「新潟県警から問合せがあった。行方不明の女性、片桐幸子宅にここの警察官で中川と名乗る電話があったと」
「……」
「事実なんだな?」
「彼女の部屋に、知らない電話番号があって……」
「つまり、片桐家と気づかず電話したと?」
「はい。最初は誤解されたようでしたが、事情を説明して納得してもらいました。それが何か?」
 理由もわからぬ立入り調査と任務解除に反発する中川を、工藤はじろりと睨み返した。
「昨日早朝、ホテル・グレコに現れた不審車の特徴が、昨夜目撃されたミニバンと一致した」
「……本事案に、家内が関与していると?しかし、それだけの接点では……」
 その言葉を待っていたように、工藤は一枚のモンタージュを机上に置いた。
「鄭のアパートの、以前の住人が、当時出入りしていた女性を今月三日に新港地区で目撃していたんだ。こちらに来てもらい、さっき作成したモンタージュがこれだ」
「――」
 先日のダブルデート、斎藤の死、尚子のアパートからの失踪、そして尚子の死。ここ数日の疑問の答えを眼前に突きつけられた中川は真っ白になった頭で、早紀そっくりのモンタージュを見つめた。

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2008年4月14日 (月)

Time Up:七.暗転(下)

 五月十五日午前四時前後、神奈川県逗子市葉山町。
 国道一三四号線から乗用車が転落、炎上。相模湾岸にせり出したカーブに停止中で、気づかなかった後続車が追突したのだ。逗子警察署は当初単純な事故と考えたが、その後転落した車が港北署で手配中の盗難車と判明、大騒ぎとなった。
 現場はトンネルを出た直後の急カーブで見通し最悪の事故多発地点。警察もミラー設置など対策を講じていたが、後続車の運転手は追突された車の全照明が消えていたと供述した。そして、車内にも周辺にも遺体や負傷者は見当たらず、不審者の目撃情報もなし。単なる事故ではもはや済まなくなってきた。
 約一キロ東にはJR逗子駅と京浜急行新逗子駅があり、警察は運転手が車を捨てた後、どちらかから乗車したと推測。捜査員が両駅へ急行したが、目ぼしい目撃情報は一向に得られなかった。

 朝の会議で、鶴見川から発見された銃弾の鑑定結果報告。ベルギー製ブローニング自動拳銃。表面に、微量の血液反応が残留。血液型はB型、下流に死体が挙がった稲生課長補佐の物と同一だ。これで彼が鄭に殺害された可能性が一層強まったことになる。
 新川崎で爆死した男の身許は、朝鮮人・柳慶国と確定。渡米していた政府高官の護衛で、どうやらその高官が例のサロメとの窓口だった模様。そのサロメの消息は依然不明。要点は謎ばかりのまま、中川達現場捜査員にとって、事態は不本意な方向に向かいつつあった。
「奥さんの行方はまだわからないのか?」
 会議終了後、柳沢がついでという感じで訊いてきた。
「はい。ホテルにも戻っておらず、連絡もありません」
「心当りは全部当たったのか?」
「こちらの知人も、それぞれの実家も全て当たりました。高松の彼女の実家からは、お父さんが今日上京されるそうです」
「例の無言電話との関連はないのかな?」
「自分もそう思ったのですが、ホテルにはなかったと……」
「あったのかもな」
「えっ?」
「わからんか?心配させまいとして黙っていたのかもしれないぞ」
「……言ってくれればよかったのに……」
「捜索は後回しとして、各自身辺には気をつけてくれ。斎藤警部に続き飯田君までこうなると……」
 柳沢はそう言い、一輪挿しが中央に置かれた机をちらりと見た。
「情報が漏れていると――」
 それまで話を聞いているのかいないのか、押し黙っていた加藤がうめくように言った。
「私も考えたくはないが、調査も始まっているかもしれん。とにかく今言えるのは斎藤警部と飯田君の殺害犯が、それは鄭の可能性が高いが未だ逃走中ということだ。それも多分、斎藤警部の拳銃を所持したままな」
「奴は今、どこにいるんでしょう?例の不審車、監視カメラの映像からナンバーを読み取って照会した結果、一週間前に八王子で盗まれた物だったとか?」
「うむ。横浜へは国道一六号か、川崎街道から四〇九号のどちらかと見て聞込みを開始している。あとは昨夜、東戸塚からの足取りだ。どちらも当面は各管轄の報告待ちだが、実は磯貝警部から気になる話を聞いてな」
「さっきの会議に出なかった話ですか?何でしょう?」
「発見現場は海岸線まで岩が突き出た磯で、問題の車はその岩の一つの上に落下した状態で発見されたんだが、その助手席ドアの把手から硝煙反応が出たそうだ」
「助手席?ではその車に乗っていたのは複数名……」
「その可能性が高い。運転席には指紋も残っていたから、運転席の硝煙反応の一部を拭き忘れたわけではないようだ」
「そうですか」
「あと、飯田君の通夜と告別式は鎌倉の実家だそうだ。全員、用意しておけ」

 鄭は一人、小田急江ノ島線を北上する普通列車に乗っていた。幸子は数本後の列車で追って来る筈だ。
 事の起こりは三輪銀行の口座閉鎖。銀行に確認すると、警察を名乗る女性から不審な電話があったと言う。異変を直感し東戸塚のアジトに戻った鄭を、保土ヶ谷から山を越えてきた幸子が待っていた。その口から、警察が口座番号に関心を持ったと知った鄭は、翌々早朝のアジト放棄を決めたが、その支度中携帯電話が鳴り……
「本多です」
――鄭少佐ですね?
 聞きおぼえのある相手の朝鮮語に、鄭は心臓をえぐられる思いがした。
「許――貞恵(ホジョンヘ)か?……今、日本だな?」
――お察しの通りです。あれから、もう十年になります。
「……それでお前は、私の支援に来たのか?それとも……」
――残念ながら、阻止するためです。
「お前にできるのか?私はお前の教官でもあったのだぞ?」
――そう指令を受けています。
「そうか……ふ、是が非でも粛清しようということか」
――今なら間に合います。
「どういう意味……そうか、中止しろと?」
――そうです。ご承知下されば指令は無効……そういう条件でこの任務を引き受けました。
「本当に無効になると思うか?」
――……
「……お前もわかっている筈だ。黙って、国に帰れ。優秀な人材のお前を無為に死……」
――そんなにあの女のほうがいいのですか?
「何だと?」
――あの女は日本人です。少佐はその女のために……
「違う。彼女はあくまで……」
――手段ですか?
「……彼女も承知の上だ」
――そうですね。彼女が今も少佐に従っているのは人質……
「何が言いたい?」
――何も。我々もやっていたことですから。
「……」
――南鮮も日本も察知しています。少佐もお気づきの筈です。私が失敗しても誰かが指令を実行するでしょう。この意味はわかりますね?
「……」
――お願いです、私と一緒に祖国に戻って下さい。私は……
 飯田と言う女刑事が踏み込んできたのはその時だった。幸子の機転で切り抜けたが、危険を察知した鄭は直ちにアジトを放棄。決行直前になって、次々と障害が立ち塞がってくる……

 同日午前、合同警備陣に合流した、鄭と瓜二つの韓国陸軍士官に日本側メンバーはまたも驚かされた。
 崔泰映(チェテヨン)少領(少佐)。数日前朴課長が話していた鄭の、他ならぬ脱北した双子の弟。姓が違うのは韓国の親類からもらったのか。女性の軍人が同行していた。李相美(イサンミ)大尉。副官と紹介されていたがそれだけの筈はなく、恐らく監視も兼ねているのだろう。
 午前、北朝鮮政府は外交ルートを通じ、金正一総書記の訪日中止を日本政府に通告。但し政府訪日団は予定通り派遣、そのトップは黄沢究・副主席兼最高人民会議議長(国会議長)となることも併せて伝えられた。日本当局はこれに半ば当惑、半ば安心。前者は、日本がまた軽視されたという悪印象、そして後者は、狙撃計画の自然消滅への観測。名代が黄沢究というのも、日本側を失望させなかった理由の一つだった。
 金正一の同母妹の夫、つまり金正一の義弟で、金の叔父が引退した後は金一族のナンバー二。外交・財政にも明るく、国外の評価はむしろ金正一以上。王長耀亡命で空いた最高人民会議議長職を兼ねた今は政府のナンバー二でもある。そういうわけで外務省を始め日本政府には、当初以上の期待が広がっていた。翌日発見される暗号文が、そのような甘い期待を吹き飛ばすとは露知らず。

 中川が尚子に替わって赴いた鶴見署も、二転三転する事態に慌ただしい動きをみせていた。程なくここもまた、公然と警備本部と連携行動をとることになろう。黄副主席の到着をいよいよ明日に控え、全警備関係者の緊張は最高潮に達しつつあった。
 そういう時中川に、港北署から呼出しがかかった。出頭先は、早紀のアパートとのことだった。

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2008年4月13日 (日)

Time Up:七.暗転(中)

 中川達が現場に急行すると、既に鎮火したビルは外壁が半ば焦げ、末期の虫歯のような情けない姿を月夜に晒していた。爆発と火災に驚いた住民が、初動捜査班の張り巡らしたロープの外側から不安げに廃墟を見上げている。最も損傷が激しい五階フロアーが爆発現場と思われた。
 遺体は四階から五階への階段で発見、その前に加藤が立ち尽くしていた。被せられたシートを中川がめくった下に、尚子は一番見たくない姿で横たわっていた。
「建替え……プレートには一九九四年十月竣工とあったが、十年余りでか?」
 柳沢が初動捜査班の警官に事情を聴いているところに、戸塚署の捜査員が割り込んできて補足を始めた。
「実はこのビル、竣工と同時に二階から四階に入った居酒屋チェーン店が周辺住民とトラブル頻発、そして昨年末、酔った客が向かいのマンション住民を刺殺。それで終わればまだよかったのですが……」
「と言うと?」
「放火です」
「え?」
「殺された住民の遺族が、居酒屋に放火したんです」
「――」
「一月中旬、客や従業員計十名が死亡、放火犯は直後自殺。居酒屋は修繕・営業再開したものの三月に閉店、店長の自殺を経てチェーンは放火犯の遺族と和解、他のテナントも気味悪がり立退き。一応建替えと言っていますが資金繰りは全くついておらず、ビルが建つ前の駐車場に戻るとの噂です」
「確かにそんな事件があったな。チェーンは倒産、社長は自殺未遂で植物人間……」
「そうです。当事者の殆どが悲惨な末路をたどっていて、以来このビルは呪われていると言われています」
「銃声を聞いたという情報は?」
「聞込みを始めていますが、今のところそういう供述は出てきていないですね。この通りビル自体もぬけの空で、周囲は住宅地と言っても深夜ですし、目撃者も今は爆発と火災で失念している可能性があります」
「サイレンサー(消音器)付きの銃だったかな?だとすると銃声での死亡時刻推定は……」
「難しいですね。爆発の傷に生活反応はないので、それ以前だと思いますが」
 会話を背中で聞きながら死体を見下ろす。至近距離からの銃撃。尚子は何の目的でここを訪れたれたのか?最後に洩らした確認したいことと関係があるのか?まだ連絡が取れない早紀のことが一瞬脳裏をかすめ、中川はそれを慌てて振り払った。
 覆面パトカーの目撃時刻は午後七時前後。彼女は県警本部から真直ぐ乗りつけ、数時間頑張っていたのだ。付近の住人からは、十時過ぎに銃声らしい音を聞いたとの証言。近辺で深夜若者が鳴らす爆竹とその時は思ったようだが同時刻そういう騒ぎはなく、これが殺害時刻と推定された。
 爆発の発生は十時半。その約十分前、現場付近から走り去るナンバー不明の黒っぽいミニバンが目撃されていた。戸塚警察署に設置された捜査本部はこのミニバンに注目、緊急配備を発令した。
 焼け焦げたフロアーの窓は全て紙とガムテープで目張りされていたが、隣接マンションの住人が夜間、室内から漏れる光を目撃。目撃時期は以前入居していた歯医者が立ち退き数ヶ月後の今年初め。そして翌日事情聴取を受けた歯医者は、そんな目張りはしていないと供述した。
 フロアー隅からは半分焼け残ったビニールの断片が見つかり、捜査員達は色めきたった。外部には微量の乾いた泥が付着。斎藤が殺されたグラウンドの土と成分が一致すれば、同一犯の可能性が強まることになる。凶器の銃は見当たらず、犯人が回収し逃走したものと思われた。
 港北署へ戻ったのは午前二時過ぎ。能面のような無表情と化した加藤を、柳沢の意を受けた中川はホテル・グレコに誘った。一抹の期待も空しく依然無人の客室で、男二人缶ビールを空ける。普段なら饒舌になる加藤が一言も発しないので一向に酔えないまま、三十分後早々にベッドに潜り込んだ加藤がひとこと言った。
「ぶっ殺す」
「え?」
「政治的配慮なんて糞食らえ」
 加藤は毛布を頭から被ると、手だけ伸ばして灯りを消した。
 目を覚ますと、カーテンの外は白み始めていた。寝息を立てる加藤の枕に、涎でない染みがついていた。
 早紀はどこへ行ったのか?いや、生きているのだろうか?ふと喉の渇きを覚え、サイドボードのコップに手を伸ばした中川の目が備付けのメモ帳に止まった。昨日は全く手付かずだった筈の用紙が、数枚なくなっている。
(破り取られた?まさか……)
 中川は暫時、残されたメモ用紙を呆然と見つめた。

 数時間前。
 鄭が運転するミニバンは環状二号線から打越交差点を右折、横浜伊勢原線に入った。
「さっきは、よくやった。お蔭で助かった」
 車内の沈黙を破ったのは鄭だった。早紀は返答しない。
「口座番号から足がついたか……間一髪だったが」
「……」
「その銃は処分する。予備を手配しておいてよかった……」
「――」
「やはり、今のうちに殺(や)るしかないか」
「――あたしが殺る」
「お前には無理だ」
「……」
「大体、お前があの刑事を始末した時証拠を消し忘れたのが原因だろう?いいか、この作戦に……」
「失敗は許されない。わかってるわよ」
「なら、なぜこうなったんだ?これが朝鮮人だったら、最悪の場合処分……」
「……」
「もういい。終わったことだ……予定より早いが、夜が明けたら別行動だ。合流場所と日時はわかっているな?」
「あたしを殺して」
 鄭が思わずぎょっとして見ると、早紀の目には涙が浮かんでいた。
「……」
「いっそ処分したらどう?もう、人を殺すのはいや」
「……それは言うなと言った筈だ」
「……」
「やはり最初の指令通り……」
 早紀が鄭をきっと睨んだ。
「もしあなたが彼を殺したら――」
「……そうだな。お前の腕なら私も殺られるかもしれない。だがその時はお前も、いやそれだけでなく新潟――」
「やめて!」
 早紀は泣いていた。鄭は苦悩に顔を歪めた。
「お前は黙って任務を実行していればいいんだ。それで犠牲も最小限ですむ」
「あの約束はやっぱり嘘だったのね?」
「何?」
「両親に会わせてくれるって」
 鄭の視線が動揺に泳いだ。
「……嘘ではない」
「これじゃ意味がない。やっと日本に帰ってきたのに……」
「……」
「……もういいわ。その代わり約束して。彼を殺さないと」
「……いいか、忘れるな。あの男はお前の正体を……」
「わかってるわ。でも……」
「何だ?」
「あの人は、本当にあたしのことを愛してくれた」
「それは、松嶋(まつしま)早紀としてのお前をだろう?」
「――約束してくれるの?どうなの?」
「しなければ?」
「世界中にばらすわよ。あなたがしようとしていること全部」
「やめろ、本当に殺し合うことになるぞ」
 鄭の言葉が脅迫半分告白半分と気づいたか、早紀は黙り込んだ。
「あの女刑事のように、いずれあの男とも対決することになる……お前はその手で殺せるか?」
「……」
「無理だろう?だから脅されようが私がやるしかないんだ。お前のためにもな」
「選択の余地はないんでしょう?」
 鄭のほうがぞっとするくらい冷ややかな早紀の言葉を最後に、車内を再び沈黙が支配した。
 国道一六号から金沢逗子線を経て金沢区を抜け逗子市に近づいた頃、鄭に押しつけられた紙片を早紀が開くと、アルファベットで始まる二行の文字列が書き連ねてあった。
「?」
「当日事前に潜入、入場する同志からこの席のチケットを受け取る。北スタンド席の、座面裏の空洞に拳銃を隠してある」
「……」
「もうすぐ下車地点だ。用意しろ」

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2008年4月12日 (土)

Time Up:七.暗転(上)

 三人が上階の捜査本部に行くと、斉木が戻っていた。鄭と思われる人物が競技場に現れていたと言う。
「やはり!いつの試合だ?」
「試合じゃありません。見学ツアーです」
「見学……何ですって?」
 磯貝が目をぱちくりさせた。
「見学ツアー。普段立入りが出来ない施設の一部を、専属スタッフの案内で見学できるんです。休日を中心に月数日、一日数回の実施で、四月の担当スタッフが、似た見学者を見たそうです」
「似ているだけじゃねえ……裏付けは?申込みの記録とか」
「記録はないそうです」
「はあ?」
「前売券は販売していますが、申込みは不要なんです。東ゲート前の売店がツアーの出発点と受付を兼ねていて、見学者はスタッフの案内でVIP席や正面玄関……」
 黙って聞いていた工藤が、急に険しい顔で割り込んできた。
「ちょっと待て……どこの誰ともわからない人間に、そんな所まで見せているのか?」
「は、はい」
 工藤の剣幕に斉木は萎縮、とりなすように磯貝が話を戻す。
「四月と言ったわね?正確な日付は?」
「十三日の日曜、十三時の回を担当したスタッフの証言です」
「丁度一ヶ月前ね。正確な見学ルートは?」
「東ゲートから入場、南スタンドを通り西スタンドのVIP席・記者席・選手控室・正面玄関、そしてグラウンドから北側コンコース経由で東ゲートに戻る。特に事情のない限りこのコースだそうです」
「しかし、一ヶ月も前だろう?その担当者の記憶は確かなのかな?」
「それが実は三日前、全く同じ聞込みをした警官がいたそうです。しかも鄭の写真を持って」
「三日前?私はそんな指示……」
 工藤は首をかしげ、そして声を上げた。
「あっ、斎藤警部か?」
「そう名乗ったそうです。いつ勘付いたかは不明ですが」
「下見かな……その人物が途中で姿を消したり、ということはなかったんだな?」
「最初に人数をチェックの上、スタッフが前後に付くので異状があればすぐわかるそうです。それに当日は業者の出入りなどもあり、そういう隙があったとは思えません」
「わかった。念のため、その見学ルートも再チェックの重点個所に加えておく。栄署に報告は?」
「はい、今とりあえず電話を入れ、これから戻るところです」
「よろしい……で、お前達は何だ?」
 工藤はそこでやっと、まともに柳沢達のほうを見た。
「斎藤警部ですが、中川の夫人とホテルから外出していたことがわかりました」
「……殺しとの関連は?」
 つまらなそうだった、工藤の表情が変わっている。
「不明です。事件当夜のアリバイはあります」
「いや……そもそも奥さんが何で同じホテルにいたんだ?」
 柳沢は、無言電話の件から全て話す羽目になった。
「……わかった。保土ヶ谷署に所在確認を手配しておく」
 中川が刑事課に戻ると、加藤や山崎達も川浚いから戻っていた。
「栄署の事件も、やっぱりあの男が絡んでたって?」
「ああ。そっちは?」
「見つかったよ、一発」
「銃弾か?」
「実は川の中じゃなくて、橋桁に落ちてたんだ。前回はそこまで思いつかず見逃していたわけだが」
 加藤はそう言いながら、ブランド物のズボンに付着した草を取り除いている。管理職らしく土手で叱咤激励にとどまらず、自ら草地に入り捜索に加わっていたようだ。
「そんな所に証拠を残すとは、らしくないが……」
「土やゴミが溜まっていて、音がしないので気づかなかったんだろうな。それと今朝現れたミニバンだが、実は先月十九日の夕方、亀の甲橋付近で似た不審車が目撃されていた」
「本当か?」
「ああ。二人程で大きい荷物を運び出していたそうだ。午後五時頃だから死体が挙がる約半日前。銃弾のほうは早ければ今夜中に鑑定結果が出るそうだ。殺害現場も決まりだろう」
「そうか……」
「どうした?もっと喜べよ……あ、カミさんのことか」
「いや、それは保土ヶ谷署に捜してもらうことになった」
「そうか。尚子も安心するだろう……もう鶴見署に戻ってる筈だな。知らせてやろう」
 加藤がそう言い受話器を取ったが、数分後困惑顔で電話を切り
「あいつ、一時間半前に、県警本部からこちらへ向かったらしい」
「午後六時頃……帰宅ラッシュに捕まったとしても遅過ぎますね?横羽線から第三京浜にしろ、一般道にしろ」
「それだが実は、県警本部を出る時、確認したいことがあって寄り道すると言っていたそうだ」
「確認したいこと?」
「詳しくは言わなかったそうだ。ただ昼間ATMに寄った後しきりに考え込んだり、電話をかけていたらしい」
「ATM……何かしら?」
 山崎達が首をかしげる中、中川は急に胸騒ぎをおぼえた。早紀に続き、尚子までどこかに消えたような……

 尚子の運転する覆面パトカーは、日の落ちた横浜新道を南下していた。県警本部からは、港北署と逆方角だ。
 川上ランプから蛇行する細道を通って東海道線の高架をくぐり東戸塚駅東口。元々人家もなかったこの地も駅に続き大型商業施設が開業、高層マンションも次々新築中だ。車を駅付近の路肩に停め数時間後、或るものを見つけた尚子は、駅前ロータリー北側に面した武南銀行脇の路地に入っていった。
 路地の向かいには荒れ果てたビル。吹晒しの階段を登っていくと、家財道具を運び出しがらんとしたフロアーはプールの底のようにしんと静まり返り、床の一部が窓からの月明かりに照らされ、蒼白い多角形となって夜闇にぼうっと浮かんでいた。
 五階フロアー扉に足音を忍ばせ近づくと、室内からかすかに男の話し声。一旦六階との間まで上がると、拾ったコンクリート片を投げ落とす。乾いた音に話し声が止み、人の気配が近づいてきた。ドアが勢いよく開いてから二呼吸おいて尚子は拳銃を真直ぐ室内に構え、銃口の先でやはり拳銃を構えた男と、暫時そのまま睨みあった。
「鄭栄秀ね?」
 尚子は訊ねたが、常時携帯の写真と照合するまでもなく、鄭栄秀はなぜここが突き止められたのかという風に目を見開き、やがて獲物を狙う獣の目になった。
「……そうか、銀行に妙な電話をかけたのはお前か?」
「鶴見川の死体もあなたの仕業ね?総書記狙撃計画も?」
「……」
「初めから全部計画だったの?彼女の結婚も?」
「お前には関係ない」
「ならいいわ、直接訊くから。ここにいるんでしょう?」
 その時背後に音もなく立った人影が尚子の後頭部に硬い物を押し当て、唇の端を吊り上げた鄭が、眉間に狙いを定め近寄る。その一瞬の隙を突いた尚子が失神したように膝から崩れ落ち、次の瞬間鄭と人影の銃口は、あろうことか互いの眉間を向いていた。そして尚子は人影の背後からその側頭部に銃口を押し当て――
「やっぱり早紀さんね?」
「……」
「どうしてあなたがここにいるの?」
 返事はなかったが、早紀の手にある斎藤の拳銃が何より答えになっていた。一転守勢に立った鄭の顔から笑いが消えた次の瞬間、早紀は室内に身を投げ、尚子は咄嗟に覆い被さる。体を離さなければ撃たれない、その判断は正しかったが次の一撃は予想外の所から放たれた。早紀が肩越しに発射した銃弾は尚子の顔を三分の一吹き飛ばし、余勢で階段の踊り場まで転げ落ちた尚子は、手すりに後頭部を思い切り打ちつけて止まった。
 階段を降りた鄭が、尚子の絶命を確認して戻ってきた。そして、まとめてあった荷物をつかみあげると、茫然と床にうずくまっていた早紀を引っ張って階段を降り、近くの路肩に停めたミニバンで走り去った。その約十分後、ビルは轟音と共に火を噴いた。

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2008年4月11日 (金)

Time Up:六.失踪(下)

 聞込みの結果、柳が数日前、川崎駅前のホテルにチェックインしたと判明。都内滞在中だった彼が別途行動拠点を確保していた点に、警察は注目した。
 客室備付けのメモ用紙には、四桁の数字の走書きが残っていた。他にめぼしい遺留品がないまま聞込みに出た捜査員が、駅東口地下街の一角に注目したのは四十分後。鞄を描いた看板。コインロッカーの標識だ。
 看板脇に口を開けた狭い通路を通り、中に並ぶロッカーの林に入っていく。地下街のロッカー室は合計三個所。最初と二番目で該当する番号は見つからず、二人は最後に、ホテルに一番近いロッカー室に入り……
「あったぞ!」
「本当ですか?」
「間違いない。ホテルにあった番号だ」
 だがその時、二人は突然なだれ込んできた男達に囲まれ、狭い空間で彼らと顔を見合わせ――
「あれ?お前達、何でこんな所にいるんだ?」
「お前らこそ、何なんだよ?」
 二人を囲んだのは川崎署の捜査員だった。
「ここが麻薬取引に使われると、今朝電話の通報(タレコミ)があって張り込んでいたんだ」
「麻薬取引?」
「ああ。でもお前達は、新川崎の変死体を調べてたんじゃ?」
「そうだがホテルの客室に番号が残っていて、それがここではと思ったんだが……開けて見るか?」
「……待て、爆発物かもしれない」
「まさか――」
 二人は顔色を変え……同僚達の失笑を買った。
「その必要はない」
「……ああ、もう調べたのか。で、結果は?」
「まあ、見てみろよ」
 マスターキーを借りて開かれた、ロッカーの内部は空だった。

 磯貝を送り届けた中川は、ホテル・グレコに電話を入れた。早紀からは連絡がなく、駐車場には不審車の目撃情報……じっとしていられなかった。フロントから客室を呼び出してもらったが応答なし。
「外からの連絡はありませんでしたか?」
――はい。外線は一切取り次がないよう特に承っておりますから、それはもう……
「外に連絡した形跡はありませんか?交換台を通した分だけでも結構ですので……」
――かしこまりました……もしもし、今確認しましたところ、室内から外線への通話記録はございません。ただ、携帯電話ですとか、ロビーの公衆をお使いの場合は、こちらではわかりかねますが……
 フロントマンも不穏な匂いを感じたか、声が上ずっていた。
「そうですか……あの、室内の様子の確認はお願いできますか?」
――それは……少々お待ち下さい。
 ハンドルを指で叩きながら苛々と待つ中川に、加藤が話しかけてきた。
「どうした?」
「早紀が尚子の部屋を昨夜飛び出したきりなんだ。ホテルに戻ったかもと思ったんだが……」
「昨夜?まさか、俺の電話とは関係ないよな?」
「さあ……」
 中川が説明に窮したその時、携帯がまた喋り出した。
 長い保留音の後に出てきたのは、チェックインの時に中川がいろいろ注文を伝えた支配人だった。
――もしもし、お部屋を確認したいとのことですが……
「できますか?」
――それは、可能でございますが、ただお客様のプライバシー上、私共だけで立ち入りますと問題になりますので、大変恐れ入りますがもし中川さまがよろしければ、確認の立会いをお願いできますでしょうか?
「わかりました。今、実は駅前でして……早ければ五分後にはお伺いできると思いますが」
――結構でございます。それでは、まずフロントのほうへお越し下さいませ。
「わかりました。その際はあらためてご連絡します」
 一度電話を切り、署にかけ直す。早紀がホテルにも戻っていないと聞いた柳沢は、電話の向こうで唸った。
――そう言えば、例の不審車も現れているか……まあ目と鼻の先だし構わんが、済んだらすぐ戻って来い。警備連絡所の引越やら聞込みやらで、猫の手も借りたいくらいなんだ。
「了解。ありがとうございます」
 覆面パトカーのハンドルを加藤に引き継ぐと、徒歩でホテル・グレコへ。フロントには支配人がフロアーの責任者、警備員と共に中川を待っていた。
「お待ちしておりました」
「ご迷惑をかけます。早速お願いできますか?」
「かしこまりました。ではご案内させていただきます」
 客室へ向かうエレベーターで中川が無意識に取り出し嵌めた手袋に、乗り合わせた老夫婦がぎょっとした顔をし、支配人はまずいと思ったが今更脱いでくれとも言えなかった。中川だけが全く気づかなかった。
 スペアキーで客室に入ると、一昨日は散らかっていた室内が妙に片づいていた。尤もスーツケースも、クローゼットの衣類もそのまま。引き払ったという感じではないが、とにかく早紀はあの後この部屋に戻り、再び姿を消したのだ。文字通り身一つで。

 警備連絡所移設などでごった返す署に戻ると尚子は鶴見署へ引き返しており、中川も磯貝と共に、今度は捜査員としてホテル・グレコへ向かった。
 加藤が睨んだ通りだった。フロントの記録だけで斎藤は夜間外出が五回、外線電話が受信、送信共三件ずつ。だがその他に、支配人は重大な事実を明かしたのである。
「実は四回目に外出された際、お連れの方がいらっしゃいまして……」
 支配人は中川をちらりと見て語尾を濁した。
「……家内ですか?」
「はい」
 磯貝が、何の話なの?と言うように中川のほうを振り向く。
「どこへ出かけていたか、わかりますか?」
「さあ、そこまでは……一時間前後で戻られましたので、付近でお食事なさった程度かと」
「そうですか……」
 これだけなら斎藤が気を利かせたとも考えられるが、五回目の外出後斎藤は戻ってこなかったのだ。永久に。
「五回目の外出時、家内のほうはホテルにいたんですね?」
「さあ……午前一時以降は、フロントの担当者も事務室待機でして……ただ監視カメラが常時作動していまして、出入りがあれば映っている筈です」
「調べさせていただけますか?」
「わかりました。当日のテープを持ってまいります」
 同夜フロントで早紀の出入りが目撃されていなければ、外出したとしてもその後、正確にはフロント業務を再開する午前四時半までの間ということになる。磯貝と中川は映像をチェックしたが、問題の三時間半に、怪しい人物が通過した形跡はなかった。
「他に出入口はありませんか?通用口とか、非常口とか」
「両方を兼ねた出入口が一階裏にありますが、常時警備員がおり、出入りがあればわかる筈です」
 当日担当のフロントマンと警備員も、早紀らしい人物の外出は目撃していないと証言。半ば安心し、半ば戸惑いながら磯貝と中川は署に戻った。
「事件当夜、中川夫人は外出していなかったんですね?」
 刑事課で柳沢が磯貝に確認した。課長の加藤は二度目の川浚いの指揮で不在だ。ここ数日は生来落ち着きのない彼があちこち動き回っている代わり、柳沢が事実上刑事課を仕切っていた。尤も実際に指揮するのは警察庁と県警で、キャリアと言っても所轄の人間である柳沢や加藤は、半ばすることがないのが実情だったが。
「はい。監視カメラにもフロント通過の形跡はなく、通用口は内側から施錠されていました。偽証か、映像に細工でもしていれば話は別ですが」
「ただ、斎藤警部も殺された直後だし、放っては置けない。所在確認を手配しましょう」
「昨夜失踪した後、保土ヶ谷方面に向かった様子はないようです」
 中川が補足する。
「しかし、そうなると山の中に入ったことにならないか?」
「ええ。今朝も尚子とそれを心配していたんですが……」
「とにかく報告だ。磯貝警部もお願いします」

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2008年4月 5日 (土)

Time Up:六.失踪(中)

 朝、中川が出勤すると尚子が席にいた。やはり鶴見署の事案は聞込み範囲拡大だという。気まずい沈黙に、知らぬ振りも白々しいと思っていると、尚子のほうが先に口を開いた。
「彼女から連絡は?」
「ない。ホテルにも戻ってないらしい」
「こっちもだめ。派出所も彼女らしい通行人は見てないって」
「でもあの派出所からは一本道だよな?戻っていない、通ってもいないじゃ、あとは山しかないが……」
「うーん……あ、買出しで財布空っぽ。預金下ろさないと」
「……」
「……ねえ、あの時、私達、誤解されるような状況だった?」
「うーん……言われてみるとそうは思えないけど、彼女がどう受け止めたかの問題だからねえ」
「何か違うような気がするけど……参ったなあ、柳沢課長にばれたらどやされるわよー」
 尚子がそう言ったとたん、背後からの
「誰にどやされるって?」
 という声に二人は飛び上がった。
「柳沢課長!お、おはようございます」
「奥さんのことか?……どうした?」
「あの……逃げました」
「あァ?」
 柳沢は、口をあんぐりと開けた。
「買物に出ていたらしく部屋を空けていたんです。で、二人で居たところに帰ってきて……」
「お前達が一緒にいたのを見られた……わけか?」
「……はい」
「馬鹿か、お前達は」
 柳沢は苦笑した。早紀ばかりか、彼も誤解したようだった。
「しょうがないなあ……わざわざホテルから移した意味がないじゃないか?」
「すみません」
「では早速だが、これから新川崎に行ってくれるか?」
「新川崎……そう言えば未明、不審な死体が出たとか?」
「どうも朝鮮人らしい。磯貝警部が確認に出向くそうだ」
「わかりました。尚子は……鶴見署戻りだったな?」
「うん」
「そうか。じゃあ」
 中川は何の気なしに、磯貝を迎えに階段を上がっていった。

 JR横須賀線新川崎駅脇空き地の爆死者が北朝鮮政府関係者らしいと判明したのは、早朝のことだった。
 横須賀線は東京―大船(おおふな)間を東海道線と併走しているが、品川―鶴見(通過)間だけは大きく山側に迂回している。一九八〇年、それまでの貨物線にルートを変更したからだ。ここにあった新鶴見操車場も現在は旧日本鉄道建設公団清算事業団所有の貸地。それも大部分は草地のままで、住宅や工場が密集する中にぽっかり穴が開いたようになっていた。
 幸警察署への第一報は午後十一時四十二分。現場は空き地を区切る跨線橋に挟まれた、最も幅の広い個所。一面に雑草が膝丈まで生い茂り、死体があるなど昼間でも遠目にはわからない。確認を終えた磯貝は警備連絡所に連絡を入れた。
「間違いありません。都内で失踪した柳慶国です」
――通商部副部長に随行し訪米中だったとか?
 小田はもちろん柳の日本滞在を知っていたが、そんなそぶりはおくびにも出さない。
「ええ。その帰途に入国していたようです」
――死亡推定時刻は?
「鑑識の推測は午前〇時頃。遺体に乱れはなく、ここまで自分で歩いて来たようです」
――死因は?第一報では爆死と聞いたが?
「間違いありません。爆発による内臓破裂です」
――自爆テロか?いや、無人の草地でそれはないか……
「ですから他殺の線が一番強いですね。強いて言えば誰かを抱込み心中しようとしたか……」
――足取りの見当は?あたりが住宅街なら、目撃情報も割とあると思うが……
「聞込みはこれからですが、付近で不審な人物や車が目撃されていないか注意してみます」
 その無線へ、鶴見署の殺人事件捜査本部が割り込んできた。
――事件に関係あると思われる不審車を見つけました。
――本当か?どこだ?
――新横浜駅前、ホテル・グレコ脇の無人駐車場。住所は新横浜三のX……
 何気なく聞いていた中川は、びくりとした。
――詳しい状況は?その車は、まだそこにあるのか?
――いいえ、今朝六時頃現れて、すぐ出て行ったそうです。
――乗っていた人物の特徴は?
――そこまでは……目撃したのは向かいのコンビニ店員。羽沢方面に走り去ったそうです。
 犯人らしい人物が今朝、何と港北署の目と鼻の先に現れたとは。それも確か、早紀をホテルに移した際の駐車場……偶然だろうか?

 小田は報告を受け考え込んだ。あの男、柳慶国が単なる盧通商部副部長の護衛とはもはや思えないが、とにかくこういう最期を遂げた意味を即断するには情報が少なすぎる。
 不審車の監視映像チェックを指示した後屋上で井出に電話。工藤が電話していた場所とは知る由もなかった。
――……例の件と関係あるのかな?小田君、君の考えは?
「この状況で無関係とするには不自然とだけは言えます」
――そうだな。だがその場合、君の……
「責任ですか?」
――そうは言っていない。
「……」
――別に責めてはいない。行過ぎもあったように思うが、君の発言は正論だった。あの提案をあっさり呑んでいれば、日本の警察はくみ与しやすいと思われたろう。
 井出の言葉を、小田は文字通りには受け取らなかった。あの夜殆ど発言しなかったのも、問題となった場合の逃げ道だろう。その際、何が正論かなどは問題にされまい。
「……ありがとうございます。問題はサロメへの依頼がストップされるかどうかです」
――君はどう思う?平壌は断念するかな?
「しないと思います。最初からそのつもりで、サロメという一流のプロに依頼した筈です。何としても狙撃を阻止したいと言っていた、これは本音でしょう。問題はその過程で新たな犠牲者が出かねないことです」
――同感だ。今の状況で平壌がカードを手放すとは私も思えない。だが小田君、ここは思案のしどころではないかね?日本の立場に関わるからあの夜は言わなかったが、このカードが狙撃犯への牽制にもなるのだから。
 小田は受話器を持ち直した。
「方法論として賛成しかねます。一度こういう前例を作ると、今後に禍根を残します」
――君の意見は覚えておく。それと、我々が被害者と会ったことは絶対に秘密だぞ。
 井出の声が明らかに不機嫌になっていたが、工藤のように一々機嫌取りに廻るつもりはなかった。
「しかし、何も情報がないと警備にも支障があり、サロメ絡みとだけ下ろしてマスコミにも身許……」
――いや、平壌の了解を得てからだ。先日は先方から接触してきたくらいだから問題ないと思うが、稲生氏の時のような騒ぎは避けたいからね。
 稲生課長補佐の身許をスクープしたのは、第一発見者の知人だった「テレビ横浜」役員と判明。大手テレビ局「パシフィックテレビ」系列局だが、たびたび独断でスクープを流すなど業界内の問題児だった。
「わかりました。ところでサロメとは別に、例の……」
――李芳姫(イバンヒ)かね?そう、君は昨夜直接会ったんだったな。
「はい。平壌の政情も不透明ですし、問題が発生した場合日朝二国だけでは対応が難しくなります。CRAW(クロウ)も準備していますが、それだけでは不充分かと」
――そうか。ただ、CRAWもだが両刃(もろは)の剣(つるぎ)にならないよう、投入のタイミングは難しいが……
「それと、稲生課長補佐の死体ですが、競技場付近で目撃証言が出てきました。鑑識の死亡推定時刻とも一致、これから再度の現場検証を手配します」
――確かそこは一度調べた筈だな?もし今回何かあれば、最初は何をしていたのかということになるが?
「……」
――まあいい。何か進展があったら、また報告してくれ。
 井出は言いたいだけ言って電話を切った。

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2008年4月 4日 (金)

Time Up:六.失踪(上)

 午後十時。
 中川の運転する覆面パトカーは環状二号線を右折、鶴見溝ノ口線を鶴見署へ向かっていた。
「大枚をはたいてチケットを探してただけじゃなかったか。同一人物かな?」
「でない、としても十中八九、共犯者ね」
「三浦という学生も、口を封じられた……?」
「多分ね。発煙筒騒ぎとの因果関係がまだネックだけど」
「斉木が何と言うか……」
 鶴見署で用事を済ませ、港北署へ戻るだけになって、尚子が保土ヶ谷に寄ると言い出した。
「何だよ、忘れ物?」
「バス停前のコンビニで買出し。冷蔵庫が空っぽなの」
「あれ?あそこ、二十四時間営業じゃなかったか?」
「そうだけど、今日は改装工事で十二時に閉店だって」
 二人きりのドライブは去年肉体関係に終止符を打って以来だ。アパートに寄ると荷物がほどけた中……早紀の姿はなく、中川は咄嗟に顔色を変えたが、尚子は落ち着いていた。
「買物かなあ。あたしがして来たのに」
「おい、大丈夫か?こんな時刻に……」
「多分。最寄の派出所にも警戒してもらってるし」
「だからって、あまり……あれ、本当に空っぽだ」
「一人暮らしだと、どうしても外食かコンビニものになるから」
「確かにね。俺も今はそうだし」
「一年経つのかな?いや、一年半……」
「いや、一年と二ヶ月だ」
 尚子は口笛を吹いた。
「へえ、覚えてたんだ」
「何だよそれ」
 中川は苦笑した。尚子だけがその苦笑の意味を知っている。買い込んた食料品を冷蔵庫と戸棚に詰め込み、向かい合って座る。真ん中の卓袱台には、やはり買ってきた緑茶の缶が二つ。
「ビールにしたいとこだけど、まだ勤務中だし」
「わかってる……そっちは進展あり?」
 中川は缶のリングに指をかけながら話題を変えた。
「ゼロ。聞込みの範囲、拡大になると思う。多分高津区・宮前区。梶ヶ谷貨物ターミナルあたりまでね」
 尚子が地図を引っ張り出して、捜査会議よろしくたどり始めた。
「この犯人も鄭かしらね?」
「鑑識は背後からの絞殺だろうって。自殺の動機も思いつかないし」
「同居していた女の犯行かもよ」
「どうかなあ?そっちは素性がさっぱり浮かんでこないんだよ。手口が違うから可能性はあるけど」
「でも、斎藤さんはずっと鄭を追っていたのよね?いくら変装してもその鄭が近づけるかしら?」
「それもそうだが……どちらにしてもリスクを冒して口を封じるには、相応の理由があった筈だ」
「つまり、何か決定的な証拠を斎藤さんが……?」
「それだが実は、手帳に残っていた筆跡を調べたら妙な数字が出てきたんだ」
 中川はそう言い、チラシの裏にその数字を書いて見せた。
「000で始まるのかあ。電話番号……じゃないよね?」
「違うらしい。電話会社に確認したらこんな番号はないって」
「そうね。携帯なら090……」
 その時、中川の携帯が鳴った。加藤からだった。
――すまん。移動中だったか?
「飯田の部屋だ。不審な動きはない……どうかしたか?」
――いや……斎藤警部殺しの犯人な、鄭じゃないかも知れんぞ。
「本当か?」
――着衣に長さ約二十センチの頭髪が付着。斎藤警部の物ではないが鄭も短髪らしいから、第三の人物の存在が浮上している。特定はまだだが、多分女性か若い男性……だとさ。
「わかった。すぐに戻る」
 中川は電話を切ると、今の会話を尚子に話してやった。
「同居していた女ってのが、ますます怪しいわね」
「お前もこだわるねえ。女の勘か?でも確かに、今捜査線上に挙がっているのは……」
 開け放たれた玄関の暗がりに立つ人影にまず尚子が気づき、中川も振り返ると、コンビニの袋を提げた真っ青の早紀だった。中川が何か言う間もなく、早紀は袋を放り出し駆け去って行った。

 同時刻。
 鄭は見渡す限りの空き地に立っていた。幅だけでも百メートルはあろうか。周囲は住宅や工場が密集しているが灯りは数える程だ。駅を挟む真北には水晶のような外観の超高層ビル。二〇〇一年のように旅客機を突っ込ませようか。警備強化の面でも立ち遅れている日本だし、やる気になれば容易の筈だ。JALかANAか、いや、またKAL……
 恐ろしい思案にふけっていた鄭の眼前を、通勤客を満載した下り電車が通過していく。そして腕時計が十一時半を指すと同時に、携帯電話が振動。次の瞬間、遠慮会釈もなく飛んできた銃弾が、応射しながら横に跳んだ鄭の頬に赤い斜線を残し背後に飛び去る。同時に何かが倒れこむ音。枕木跡らしい畦が並ぶ砂利地に、鰓の張った容貌の男が片膝を突き、銃を構えたまま歩み寄った鄭を憎悪の籠った目で睨み上げた。
「何者だ?」
 鄭は日本語で訊ねたが、その答えは朝鮮語で返ってきた。
「見忘れたか?貴様の妹に殺された……」
「確か管理所送り……そうか、賄賂を積んだか。半日本人の女に手を出す兄貴が兄貴なら弟も弟だな」
「よくそんなことが言えるな?貴様の体にもその血……」
「黙れ」
 鄭の顔が歪んだ。陰で表情は見えない筈だが、語気から怒りを感じ取った柳は暗い笑いを浮かべた。
「思い出したくないか?」
「敵(かたき)討ちか?それなら私は、敵を討った恩人の筈だが?」
「恩人だと?」
 柳は笑顔を消し鄭を睨みつけた。応射を受けたらしいズボンの片足が濡れていた。
「確かにあの後俺の一家は管理所に送られ、半年のうちに相次いで死んだ……貴様を葬るまで俺の敵討ちは終わらない。死んだことになっているから丁度いい、今引導を渡してやる」
「引導か。だが、そのざまでどうやるつもりだ?お前の敵討ちは永久にお預けだな」
「終わっていないと言った筈だが?」
 そう言った柳がまたにやりと笑い、咄嗟に鄭が数メートル跳び退った次の瞬間、彼が立っていた草地に倒れこんだ柳は数秒後、鄭が引導を渡す余裕も必要もなく、懐中の手榴弾の閃光と共に上半身を四散させた。
 列車の、急ブレーキの悲鳴を聞きながら、鄭は肉片の間から黒くすすけた金属片を捜し当てると、素早くその場を立ち去った。

 早紀を追って出た尚子が、空しく戻ってきた。念のため尚子はアパートに残り、中川は一人で港北署に戻った。
「本当に戻ってきのたか?折角だから一晩いればよかったのに」
 加藤の冗談にも、中川は咄嗟に返しかねた。
「覆面を戻さないといけないからさ」
「そうか……それと栄署の事件、顔写真を配布・聞込みを始めたぞ。帽子、サングラス、付けひげを書き加えた物も加え二種類だ。まあ時間が時間だし明朝本格続行予定だが、早速面白いものが出てきた……何だと思う?」
「さあ?」
「イランが動いている」
「イラン?」
「例のJリーグの試合で大使館付武官、つまりスパイを外事が目撃していて、最初は無関係と思ったがその後鄭の住所にも姿を見せていてね。さあ、これは偶然でしょうか?」
「つまり……イランも計画に?」
「わからん。接触の形跡はないらしいが……まず明日は競技場関係者とサポーターを重点的に当たるそうだ」
「全然手伝えなかったな。悪い」
「後で取り返してもらうさ。まあ、斉木が張り切って動いているが」
「へえ」
「サポーターの意地かね。でも斎藤警部の件とも関連ありなら、今後は署を挙げての聞込みになるな」
「あとは斎藤警部の足取りか。昼間は我々と同一行動だったから、夜……か」
「こういう結果になると、大人しくしていたとは思えない。単身捜査していたんだ。ホテルで聞けばわかるだろう」
「ホテルか……」
 ホテル・グレコ。昨日まで早紀がいた……

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2008年4月 1日 (火)

Time Up:五.合同警備(下)

「二つ年下ですが、収監前から男の出入りが絶えなかったようで、関係を持った保衛員を彼女がトラブルから刺殺。居合わせた兄の鄭が半日本人(パンチョッパリ)と罵り、これは半分日本人という意味の悪口ですが作業用ハンマーで滅多打ち。ただ逆にこの事件で見込まれたか間もなく出所、平壌近郊の部隊に転属しています」
「……随分と生々しい話ですが、信頼できるソースからの情報なのでしょうか?」
 暫時の沈黙を夏木が半信半疑の質問で破り、朴課長が割り込んで補足する。
「先年わが国に亡命してきた元兵士の証言で、軍内部にはかなり知られていたそうです。管理所送りの人間が無事出獄、しかも復帰したとなると異例中の異例だそうなので。騒ぎの発端となった看守も別の収容所送り、そして鄭は数年後……」
「死亡。違いますか?」
「記録ではそうなっていました。つまり彼は、もうこの世にいない筈の人物なんです。超エリートだった彼を、しかも生きているのを死亡扱いにするなど、北では通常あり得ません」
「国内でも公表できない任務に就いている、と?」
「恐らく。現時点の所在とその目的は大体お察しと思いますが、今日強調しておきたいのは、彼が最高の訓練を受けた、最も危険な戦闘員だという事実です」
「母親が慰安婦、妹がプレイガール、か……大阪に潜伏していた頃の鄭の身辺には女性の影がなかったらしいのですが、そういう経歴が原因でしょうか?」
「恐らく。鄭の親族はその後全員死亡。死因は不明ですが、口封じかもしれません」
「なるほど。こちらでは身辺に女がおり、工作員だというのが府警の意見でしたが、やはりそう思われますか?」
「間違いないでしょう」
 朴課長がそう言い切り、通訳の女性捜査員がなぜか居心地悪そうに俯く。死んだ筈の工作員が絡む狙撃計画、そしてそれを追う南北の情報機関。この事案がどういう帰趨をたどるとしても恐らく明るみにされないであろう事実を前に、日本の捜査員達は顔を見合わせるばかりだった。
「よろしい。当警備本部も、韓国・北朝鮮側担当者を迎えた本日以降は、総員常時臨戦態勢」
 小田がそう言い、最初の三国合同警備会議を終えた。

 同日夜、プライムホテル五階大宴会場。
 南北朝鮮警備担当者の歓迎会は、NIS責任者を総書記に見立て、夕食会の予行演習を兼ね行われた。
「お前のカミさんも呼べばよかったな」
 加藤が話しかけて来た。
「馬鹿言え。任務中だぞ」
「冗談だよ。でも結構、参ってるんじゃないか?無言電話の次は殺人と、身辺でこう事件続きじゃあ」
 加藤達には早紀を尚子のアパートに移したと、今朝話した。斎藤殺しとは関連ない筈だったが、一応皆の耳にも入れておいたほうがいいという、柳沢の判断だった。
「まあ、ただ今後は尚子が目を光らせてくれるから、もう大丈夫だと思う」
「そうだな……お前は飲まないのか?」
 加藤はそう言い、手に持ったビールのグラスを掲げた。
「この後、鶴見署に用事があってね。警官が飲酒運転しちゃまずいだろう?」
 中川が答えたところへ、尚子が韓国警察の女性捜査員を連れて現れた。朴課長の通訳をしていた捜査員だ。
「ご紹介するわ。こちら、姜成基(カンソンギ)警部補。韓国警備陣は警察とNISの合同なんだけど、警察の通訳で日本語の他に英語も少しおできになるそうよ」
「姜です。どうぞよろしく」
 姜警部補は控えめな笑顔を見せた。
「警部の加藤です。ようこそ日本へ」
「中川巡査部長です」
 三人はたどたどしい英語で挨拶した。
「今日は実際に会場周辺をご覧いただきましたが、全体のご感想はどうですか?」
 加藤が質問、英語のできる尚子が補足する。それに答える姜警部補の日本語は、中川達が驚く程流暢だった。
「そうですね、この町は今まさに変わりつつあるという感じでしょうか。駅周辺はかなり市街化しているのに対し、競技場周辺は最近になって開けたようですね。ビル一つを見ても川の対岸に蜃気楼を見ている気がしました」
「そう、ここは新幹線が開通するまで何もない野原だったんです。正面口周辺に早くからホテルやオフィスができてきたが、当時を知っている人物からの又聞きでは、反対側の篠原口周辺はその後も長い間田畑のままで、珍しがった外国人がホームから写真を撮っていたそうです」
 唾を飛ばし喋る加藤の脇腹を中川がつつくが一向に気づく気配がない。姜警部補は微笑しながら聞いている。
「しかしワールドカップ以降、この町は再び変わりつつあります。ちょっと大袈裟に言えば、歴史が作った町と言うことになるでしょうか」
「今回の試合も、その歴史の一つになるというわけですね」
「その通りです。お蔭で我々も目の回る忙しさですが」
 そこに朴課長がひょっこり割り込んできた。
「わかるよ。それで何かあれば真っ先に矢面に立たされるのは我々警察なのだからね。大阪の刑事さんのように、命だって落としかねないし」
「お恥ずかしい限りです」
「お気の毒だったが、今回は相手が相手だからな……尤も、専ら相手をするのはNISや軍で、私も直接お目にかかったことはないがねえ」
 弔意は弔意として日本側の不用意な対応への批判を、朴課長の口調に感じたのは中川だけだろうか?とにかく今回日本側が手にしている情報量は、韓国のそれにくらべて格段に落差があるようだ。
「あの、一つ伺ってよろしいですか?」
「何かね?」
「爆破予告の件ですが……」
「お前、急に話題を変えるなよ」
 加藤が突っ込みを入れた。
「いや、私でわかることなら何でもお答えしますよ」
 朴課長は微笑して言った。
「以前、お国の映画でサッカーの南北親善試合をテロリストが襲撃するというのがありましたよね?あれで見た液体爆弾でCTXでしたっけ、実在するんですか?」
「ああ……あれはあくまで映画の上のフィクションだよ。私も爆発物は専門外だが、少なくとも本当に無味無臭の液体爆弾というのは、どこの国もまだ開発していない筈だ」
「そうすると、ゲートでの検査さえ徹底すれば、現在知られている爆発物はチェック可能と思っていていいんですね?」
「液体爆弾は物理的な衝撃には敏感だからね。将来はともかく、当分はこのレベルのチェックで充分対処できる筈だよ」
 そこに警察庁の捜査員が現れ、二人の韓国人が合流して宴会場を去ったのを機に、中川は府警捜査員がいる一角に移動した。斎藤に早紀の件で世話になっていた、その礼を言うつもりだった。
「そうだったの、そんなことがねえ」
「問題は、犯人がどう斎藤警部に接触できたかになると思います。相手が本当に鄭だとしたら、警部ものこのこ現場へついて行ったとは思えませんし。誰かが誘い出したか……」
「変装していたのかもな」
「変装ですか」
「奴らがよく使う手だよ。帽子とか、ひげとか……」
「付けひげですね」
「ただ奴らの場合は巧妙でね。普通黒か白一色のところを、わざと半分だけ白くして自然に見せたりするんだ。それも頭髪脱色用の薬液……」
「――」
「どうかしたの?」
「いえ……」
 中川は咄嗟に言葉を濁した。
「その、鄭はどういう変装が多かったのですか?好みとか、あったんでしょう?」
「そう、多かったのはサングラスかな、あと、黒っぽい帽子だとか……」
 一杯も飲んでいない中川の頭の中が二日酔いのように激しく回転を始め、中川は慌てて加藤の所へ飛んでいった。耳打ちを受けた加藤は柳沢の所へ。明日には栄署管内にも鄭の顔写真が配布される筈だ。

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2008年3月30日 (日)

Time Up:五.合同警備(中)

 ニュースで斎藤の死を知った早紀の動揺は大きく、ホテルを出たいと言い出した。
 無言電話との因果関係はまだ不明で、鄭らしい男の形跡も途絶えているが、問題は移す先で……考えた結果、尚子に預かってもらうことにした。電話で連絡すると、手荷物だけを持ちタクシーで直行。昔の女に妻を預けるのは複雑な心境で、それは尚子も同様であるに違いなかった。車中で、ふと早紀が一枚の紙片を取り出した。
「ねえ、これ……」
「ん?」
 それは、去年のJリーグのチケットだった。時々沈みがちの彼女を見た中川が手配、そして得点シーンに見せた彼女の笑顔。間もなく法律事務所へも復職、以降はお守りのように、肌身離さず手許に置いている。
「また、一緒に行けるよね?」
「もちろんさ。詳しく話せないけど、今度の任務が終わればゆっくりできる筈だ」
「……わかった。信じてる」

「……いいのか?」
 翌朝、中川の報告を受けた柳沢はそう訊いた。二人の関係を彼は知っている。
「いくつか選択肢は考えたのですが、今回はできるだけ遠い場所にしたかったので。ただ、ホテルはチェックアウトしていませんし、荷物も大半はそのままです。成り行き次第ではまた戻るかも知れませんし」
「大変だな。それと警備連絡所だが、斎藤警部殺しの捜査本部設置でプライムホテルに移設だそうだ」

 韓国・北朝鮮の合同警備陣到着は同日午後。午前の定期便でソウルから飛来したのだが、オブザーバーの筈の韓国の、人数・質共北朝鮮の数倍の陣容、次いでその北朝鮮側警備陣トップ人事に日本側捜査員は驚いた。
 裵明珠(ペミョンス)。父は古参の党幹部、そして母親は誰あろう金正一の異母妹。そのため金一成の生前は母親共々溺愛を受けていたが、それが裏目に出て死後は母娘をライバル視していた金正一の冷遇下、その出自なら免除される筈の地上軍(陸軍)に任官、それでも若くして中佐の地位にある。
 全警備メンバーが顔を揃えたのを機に韓国側責任者のNIS高官を総書記に見立て、今日は試合当日の予行演習。ホテル三十五階フロアーから業務用エレベーターを六階で降り、吹抜けに面したガラス張りのテラスを抜け駐車場棟へ。フロアーには結婚式場・宴会場など他の施設もあるが、当日は部外者が立ち入らないよう日時をそれぞれ調整、テラス側面には防弾シャッターが降ろされる。
 駐車場最上階には用意された車両が待機。最初に港北署の車両を県警外事課で用意するとの申し出に、気前がいいなと中川達署員は思ったのだが、いざ今日外事課から廻されてきた車両に一同は仰天した。真っ赤なスポーツカーあり、白のミニバンありと、どう見ても警察車両ではない。
「カモフラージュが習慣でして」
 県警外事課の捜査員がちょっと照れながら言った。
 車種も色もばらばらで、警備訓練と部外者にはまずわからないだろう珍妙な車列が新幹線高架脇を廻りホテル正面にさしかかった時、中川がハンドルを握る先頭車両に乗り込んだ韓国警察の責任者・朴重吉(パクジュンギル)課長が、向かいにそびえる黄土色のビルを指し訊ねた。
「あれは?」
「武南銀行の事務センターです」
「事務センターというと、管理部門が入っているのですか?」
「違います。預金データから定期預金の満期通知や残高報告を作成、顧客に発送しているんです。管理部門は、みなとみらい地区の本社にあります」
「つまり、顧客データを扱っているわけですね」
「そうです。当日は銀行と連絡を取り合い、ホテル正面前は車列通過時に限り閉鎖します」
 朴課長と並び後部座席に座った原が答える。助手席で通訳するのはグレーのスーツとおかっぱ頭に黒縁の眼鏡をかけた、韓国警察の女性捜査員だ。
 ホテル前から環状二号線を横切りそのままいちょう通りを直進、鳥山(とりやま)川を渡りきると、右手に広がる河川敷では、ワールドカップを契機に陸上競技場やテニスコートもある運動公園を整備中だ。ゆるやかな左カーブと交差点を通過し、新横浜元石川線に合流すると左前方に、直径約三百メートルの競技場が、周囲を圧倒するように横たわっていた。
 北西から入場、蛇行する通路を正面玄関前ロータリーに到着。手前の西ゲート真下には三十台収容の駐車場と、ゲートへの広い階段が立ちふさがって、場外からはよく見えない。
 正面玄関を入ると中央奥のグラウンド入口を挟み、右側がエレベーターホール、左側ホール壁面には、ワールドカップの丁度一年前に寄贈された巨大な記念レリーフ。エレベーターを上がった貴賓控室の上階、両開きの扉を抜けた所がVIP席である。入口脇に四つ並んだ小さな窓はもう一つのVIP席と言うべき貴賓室で、はまっているのはもちろん防弾ガラスだ。
 移動予定経路視察を終え、南スタンド下の防災センターへ。場内の全電源・動力を制御する競技場の心臓で、試合当日はここにも警備連絡所が置かれる。
 口火を切ったのは朴課長だった。
「二、三点伺ってよろしいですか?」
「どうぞ」
「正面玄関が死角になっていない個所があります。関係者用階段付近と南側はうまい具合に隠れていますが、北西隅と西スタンド外側の階段から見通せますね。当日は警邏を立てるか柵を設け、内側に近寄れないようにして下さい……ゲートでの検査で、金属探知機は?」
 朴課長はそのくらい当然でしょうという口調で言った。
「もちろん使います。観戦時はどちらの席を用意しますか?」
「と言うと……斜め後ろの貴賓室のことですか?」
「そうです。観戦中の安全という点では格段にベターです。ずばり密室ですから」
「平壌に確認しておきましょう。正面玄関まで、ほかに経路は?」
「一階駐車場から脇に上がるスロープがあります。通常はシャッターで閉鎖していますが」
「競技場からの経路は?」
「労災病院北側交差点を右折、中央通りを駅前に出ます」
 プライムホテルに戻った一行は、新たに連絡所として確保した会議室に入った。
「今朝ソウルにご連絡の通り、日本では要注意人物として本多正勝こと朝鮮人・鄭栄秀をマークしています。まずこの人物の、正確な情報が欲しいのですが」
「わかりました。一九六X年平安北道生まれ、一二四特殊部隊元山連絡所第五二班対日工作担当」
「特殊部隊所属というと、やはり工作員ですか?」
「ええ。それも人民武力部(国防省)でなく党が管轄している金正一直属の部隊で、一般の徴兵ではなく十代の少年を拉致、訓練も他の部隊と全く別個。その代わり待遇も最上級で、一般軍人とは雲泥の差だそうです」
「超エリートだったわけですね」
「そう。しかし十年前、彼のキャリアは突然絶たれた。なぜだと思いますか?」
「さあ?」
 そこで朴課長は北朝鮮側の責任者に目配せした。あとはあなたから話しなさいということらしい。
「母親が、日本の従軍慰安婦だったそうです」
「……」
 日本人捜査員は、思わず顔を見合わせた。
「戦前日本に協力的だった者は、共和国ではまずまともに暮らせません。白眼視という程度でなく、遠縁に至るまで管理所(収容所)送りは免れません」
「慰安婦という理由で、そこまで?しかしそれでは家族の経歴にも影響するのでは……」
 そう言いかけ
「あっ、隠していたのがばれた?」
「そうです。それで一族もろとも管理所送り。表向きの罪状は贈賄。半年後、所内で殺人を起こしています。具体的には一緒に収監中の妹に保衛員(看守)が手を出し……」
「その看守を殺したのですか?」
「妹をです」
「――」

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2008年3月28日 (金)

Time Up:五.合同警備(上)

 神奈川県警本部長は、本部庁舎の執務室で不機嫌だった。
「私は、こういう事態を恐れていたんだ」
「申し訳ありません」
 小田は執務机の前で頭を下げた。死体が丸腰だったので最初は誰も気づかなかったが、斎藤は個人所有の拳銃を携帯していたのだ。自宅にあった拳銃がないとの連絡に、県警は騒然となった。遺留品中にも該当する拳銃はなし。それは殺害犯が拳銃を奪った可能性を示していた。
「もう一度確認するが、斎藤警部が所持していたのは警察拳銃ではないんだね?」
 机の脇に立つ大野は内心の苦笑を噛み殺し、厳粛な表情で小田に質問してきた。
「はい。府警および県警で、持出しがなかったことを確認。拳銃も正式に登録された物でした」
「なら一安心だが、そもそも拳銃携帯で上京というのは尋常でない。もしその朝鮮人が犯人なら、そういう相手との接触時に問題はなかったかどうか……」
 県警本部長は、それを理由に県警の責任を回避したげだった。
「仰る通り手落ちがあったなら問題ですが、経緯に充分通じていた筈の斎藤警部の行動としては不自然です」
「しかし……いいかね、これは警官殺しなんだ。しかも現場は連絡所設置署管内、それも目と鼻の先と言うじゃないか?いつ……まさか内部から漏れてはいないだろうね?」
「現在のところ、末端から漏れた形跡はありません」
「末端からはだと?君は私も疑っているのかね?」
 県警本部長は達磨のように紅潮、大野がやれやれと言うように視線を天井に投げた。
「失言でした。申し訳ありません」
「もういい……だが、マスコミが勘づいた以上……」
「仰る通り、経緯がどうあれ公開捜査しかありません」
「売られた喧嘩、でもある。受けて立つしかないが……」
「全関係者に拳銃携帯を発令しますので、ご了承願います」
「わかった……ご苦労だった」
 小田は大野と肩を並べて退室した。
「案の定と言っては不謹慎だが……」
「問題は府警への説明ですね。県警に任せるか中央を間に入れるか、局長と相談しますが迷うところです」
 その足で、検証が続く現場に直行。死亡推定時刻は昨夜〇時前後。グラウンドを囲む金網が暗がりで切り破られ、地面には、矢倉の下まで何かを引きずった跡。犯人は無抵抗の被害者をグラウンド外から運び、ロープで首を吊り下げたと思われた。
「犯人の足跡は?グラウンドの泥が付いた筈だが?」
「それがあいにく、直後の俄雨で流れてしまったようです。グラウンド内の足跡も、靴底の溝とか模様が残っていませんでした。一番上にビニールのカバーか何かを履いて入ったのでしょう。これでは靴の種類の特定は無理ですね」
「現場検証で我々も使うやつだな」
「グラウンドを出て外したとしたらお手上げです。逆に見つかれば手がかりになりますが……」
「そうか……咄嗟に袋か何かで代用しても、計画的犯行なら不用意に証拠は残すまい。目撃情報は?午前〇時前後なら終電で帰宅する住民もいた筈だが」
「それが、昨夜は丁度例の俄雨に気を取られたか、これといった目撃情報はまだ出てきていません」
「続けてくれ。足跡に細工した分油断して、他に証拠を残しているかもしれない」
 小田はそう指示すると見廻した。高層マンションも数棟点在しているが周囲には街灯もなく、夜間は真っ暗に近かったと思われる。斎藤はなぜ、このような場所に現れたのか?

――井出ですが……
「小田です」
――君か。どうだったね?
「県警本部長は立腹しておられました。先に鄭を検挙していれば斎藤警部殺害は……」
――防げたのではないかと?
「ただ犯人が誰にせよ斎藤警部の動きを察知していた、つまり情報が漏れていた可能性があります」
――君は本部長も疑ったそうだね?
「……」
――今、電話で泣きつかれたばかりだよ……ついでに少し話したが、犯人が近辺にいた可能性では私も同感だ。
「恐れ入ります。そこで今後の対応ですが、本部長にも申し上げましたが、公開捜査しかありません」
――しかし府警も黙っていまい?面子もあろうし……
「そうですが、鄭への対処が後手に廻った同士、理解は得られる筈です。言い訳ととられると確かに面倒ですが……」
――うまくやることだな……平壌対策はどうする?
「鄭の情報をリークしましょう。我々がマークしていると。目算が当りにせよ外れにせよ、何か動きをする筈です」
――暴発のおそれはないか?試合の準備も進んでいるし。
「は……」
 小田は言葉を濁した。北朝鮮代表は海外クラブ所属選手が北京入りし、一足先に最終調整中のチームに合流。中でも安智平(アンチピョル)ら数人の在日Jリーガーには日本のマスコミが張り付き、連日のように親善ムードを盛り上げていた。
「いつまでも後手に廻っていては甘く見られます。今は正面検挙の姿勢で、プレッシャーをかけるべきです」
――君の言い分は尤もだが大阪府警、それに明日には韓国・北朝鮮の警備陣も来日するから事前に調整したほうがいいね。平壌へは私からも盧氏に話しておこう。

 同日午後、大阪府警の捜査員が新幹線で上京してきた。
「申し訳ない」
「顔を上げて下さい。泳がせるという指示なら致し方ないでしょう」
 斎藤の直属の上司、外事課長代理の長島明洋警視(ながしまあきひろ)は、警備本部捜査員の平身低頭を、穏やかにそうフォローした。
「……やはり鄭の仕業なのでしょうか?」
「現時点では最優先マーク対象です。捜査線に浮上後は姿を消していますが」
「生活圏外に潜伏先を確保していたかもしれませんね」
「女の所かもしれません」
「女?」
「アパートに出入りしていた形跡があり、素性を確認中です……大阪では全く異性の影がなかったとか。同性愛主義者、との見方もあったそうですね?」
「それは半分冗談だったんですが、身辺に女っ気がなかったのは事実です。斎藤の意見も同じだったと思いますが、その女も一味でしょう……遺留品は?」
 警務課から届けられた遺留品が机上に並べられた。ショルダーバッグの中で持ち主を待っていた下着の替えや洗面用具、死亡時に身に付けていた財布、手帳……
「これは……ページが破られていますね」
 手帳の異状に気づいたのは長島だった。
「えっ?」
「ここに、鄭とは断言しませんが犯人に不都合なことが記してあったなら、奪った可能性は大ですね」
「何が、書いてあったのかな?」
 府警の捜査員達はなおもページをひねくり回していたが、一人が急にシャープペンシルで塗りたくり始めた。
「どうした?」
「これですよ」
 一見白紙だったページに、白く一行の数字が浮き上がっていた。

 000X―XXX―X―XXXXXXX

「これは……?」
「ペン先の跡が次のページについていて、拓本の原理でそれを浮き上がらせてみたんです」
「何かな?電話番号にしては長いし……」
「他の何かとの組合せかもしれませんね」
「かもしれないが……各電話会社に確認だ」
 番号を控えた捜査員が電話に向かう一方、他の捜査員達は残されたページや他の遺留品を調べたが、手がかりになりそうな物は何も見つからなかった。
「電話の線も望み薄ですね。000で始まる番号は、現在国内に存在しないそうです」
「だが実際にこのページが消えている。もし殺害犯が奪ったのなら、この数字は大きなヒントになる筈だ」
 長島はそう言い、あらためて県警の捜査員達を見た。
「あなたがたに解読をお願いしたい。ここでキャッチした情報のようなので。よろしいですね?」

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2008年3月24日 (月)

Time Up:四.工作員(下)

 五月十一日。
 横浜国際総合競技場は時ならぬ人の群れで溢れていた。新横浜駅周辺の商店会が毎年主催している行事で、五月に入り日中は汗ばむ気候とて、来場者の中には半袖も目立っていた。
 競技場のゲート内側はスタンドに接した数層のコンコース。その外側は地上に達する吹抜けで、周辺には主催者や後援企業のブースや出店が所狭しと並んでいる。警備本部と別に港北警察署も東ゲート広場隅に設置した広報ブースに尚子が加藤と座っていると、斉木達交通課の警官がやって来た。交替の時刻である。
「ご苦労様です。どうですか、人の出入りは?」
「お隣に食われて閑古鳥だよ」
 加藤が顎で指した消防署のブースには、荷台に家屋の模型を組んだトラック。模型が地震そっくりに揺れる、防災訓練の実演用だ。内外で災害が相次ぐ近年は関心も高く、体験見学者の長蛇の列が絶えなかった。
 ブースを離れると東ゲート手前、警備本部付近の出店でたこ焼きと飲み物を買い、広場中央の大階段に腰を降ろす。正面の仮設ステージ上ではアマチュアバグパイプ愛好家グループの、ゆるやかな演奏が流れていた。
「中川のカミさん、結構気晴らしになったみたいだな」
「そうね」
 尚子は言葉少なに答えた。彼女が以前中川と付き合っていたのを加藤は知らない。
 観客席の中から時ならぬシンバルの音。次の演目である韓国民族音楽の演奏だ。白と黒に赤、青、黄のラインという、五色で構成した衣装、そしてシンバルを交えた独特のリズム。打楽器だけで構成されているが、大陸的というべきか、和太鼓より開放的で流れるような旋律だ。
「外国人も目立つわね」
「まあ、さすがに六年前程じゃないが」
 欧米系と思われる金髪の白人、黒髪のラテン人、肌の露出が少ない中近東らしい女性、そして黒人。日本を始め各国代表チームのジャージ姿も目立つ。
 会場のあちこちをビールの販売員が巡回している。背負ったサーバーから伸びるホースの先に注ぎ口があり、注文を受けるとコップに注いで売るのだ。試合で彼らが場内を売り歩く姿は今や風物詩となっていた。
 このイベントに合わせ港北署が今年「一日署長」として招いた若手女優、黒崎麻由美もまもなく競技場へ巡回に来る。今朝の朝礼で制服に全身を固めた彼女は、全署員を前に用意された原稿を読み上げた。
「本日は『港北パフォーマンス二〇〇八』警備任務ご苦労様です。去るワールドカップでは地域の皆さんとも協力、各国チーム関係者、観戦者の安全と円滑な大会進行を確保した労を大とするところであります」
 ここまではお決まりの素人スピーチだが、彼女はその後にこう続けた。幹部署員やマネージャーが急に慌てたのは、当初の原稿になかったのか。
「なお先日も当署管内で立籠り事案が発生、幸い速やかに解決しましたが昨今の情勢の中、テロ他の事案発生は充分予想されます。今後も各員が、あらゆる事態で職務を完遂されるよう期待して本日の訓示と致します」
 訓辞を結ぶと、全署員の敬礼に本物顔負けの機敏さで答礼。あの新幹線ジャックで思うところがあったようだが、彼女も知らない、否、決して公表できない任務を抱える警備任務関係者には一層重い「訓辞」だった。
 次の演目が始まったのをしおに、東ゲートをくぐり場内へ。外部の喧騒が嘘のように静かなコンコースからは、入口越しにグラウンドが見える。今日開放している入口の一つからスタンドに入る。各入口脇に立つのは私服ながらスーツに無線のイヤホン、見る者が見れば警官とばればれだ。加藤がエスコートを気取り肘を開いたが尚子は気づかず、取り残された加藤に警官の一人が吹き出し、睨まれると慌てて真顔になった。
 収容人員七万二千人のスタンド内側には陸上競技用トラックに囲まれた、長さ百七メートル、幅七十三メートルのグラウンド。四隅の仮設フットサルコートではアマチュアチームが試合中。このスタンドが無料開放される機会は滅多にないが、チーム関係者や休憩をとる来場者くらいしかおらず閑散としている。二人は入口に近い座席に腰掛けた。
「あそこで総書記が観戦するのね」
 尚子が指した先、二人が座った丁度向かい側の一階西スタンドの中央だけ、座席の色が淡いピンクとなっている。さらにその中央奥、半透明の仕切りに半ば隠れVIP席が並んでいた。仕切りは防弾ガラスで、万一の時はその陰で身を護るのだ。
「この距離で、例えばここから狙ったりできるか?」
「うーん、私は無理ねえ。美奈ちゃんならできるかな」
「腕前の問題かあ?いくらなんでも拳銃じゃ遠すぎるよ。やはりライフルとかでないと」
「あ、でも銃とは限らないかも」
「と言うと?」
「UAEのアトランタ五輪予選だったかな、バックスタンドからグラウンドに撃ち込まれた照明弾がVIP席の来賓に命中して、耳が取れる重傷になったんだって」
「嘘だあ」
「中近東のサポーターも過激らしいわね。やっぱりアトランタ五輪予選で、ホーム側のシリアがクウェートに負けてた試合の最中、グラウンドに何が投げ込まれたと思う?」
「さあ……」
「コンクリートの破片」
「へ?」
「シリアサポーターが座席を壊して投げ込んだの。クウェートの選手にぶつけて無効試合になるのを狙ったみたい。でも審判が倒れた選手に『勝っているんだから立て』って言ったら、起き上がって競技に復帰したんだって」
「フーリガンか。サポーターが座席の上に立っているのはよく見るが……」
 二人の会話を裏付けるように、一階北スタンドで業者がブルーの座席を取り替えている。出店で買った烏龍茶を加藤が差し出すが、狙撃計画で頭が一杯の尚子は礼を言い受け取ったきりで、それ以上の反応を期待していた加藤は仕方なく仕事の話に戻る。
「今の照明弾の話さあ……事故を装った計画的テロということはないのかな?」
「それなら間違いなくニュースになってたと思うけど……暗殺じゃなくて実は脅迫とか、別の目的だったのかもね」
「どの程度警戒すべきか、情報量が少ないからなあ……例えば西スタンドからなら拳銃でも狙えるし」
「でも、入口の金属探知機でチェックできる筈よ?」
「そうだけど、今は非金属のものもあるとか……」
「そう言えば、映画で見たけど……どうかなあ?至近距離ならともかく、ある程度火力も要る筈だし。そんな代物が出回っているのかどうか……」
「今はなくても、じき現れるだろうけどね。いたちごっこさ」
 加藤はそう言いながら、あたりを見廻した。
「でもこうして見ると、大きいよなあ」
「試合でスタンドにもっと観客がいると、見た目にはそんなに感じないのよ。その分、迫力がすごいけどね」
「ふうん……」
 それにしても彼らはどうやって計画を実行するのか。自分達はそれを防ぐことができるのだろうか?

 五月十二日。
 新横浜駅前から環状二号線を北上、製材所のある角を左折すると、港北消防署所有のグラウンドが広がっている。その中央に大きな矢倉が組まれていた。救助訓練用で鉄骨に板張り、高さ十メートル近い物だ。
 定期点検に来た消防署員が、内側にぴんとぶら下がった男の脚を発見。板の陰で、遠くからは気づかなかったのだ。恐る恐る懐中電灯を向けると、男は安眠妨害を咎めるように両目を剥き睨みつけた。首にロープを巻き、四肢を垂らしたまま。消防署員は悲鳴をあげ、這うようにその場を離れた。
 消防署からの連絡に警察が急行。地上に横たえた遺体のシートをめくった港北署の刑事は息を呑んだ。
 男は斎藤だった。

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2008年3月23日 (日)

Time Up:四.工作員(中)

「ところで、当分ご滞在の予定と思いますが、宿泊先はお決まりですか?」
「柳沢課長、その件でちょっと……」
 しかめ面の工藤や目をぱちくりさせる加藤、興味ありげな斎藤を残し、中川は柳沢を廊下に連れ出した。
「何だ、急に?」
「ホテル・グレコに泊まってもらうわけにいきませんか?早紀が……心配で……」
「待て、お前……それは公私混同だぞ」
「自分もどうかとは思いましたが、身辺に不審な男も……」
「ああ、例のコンビニの……鄭に間違いないのか?」
「正直、まだ自信はありませんが、相手が鄭なら、警部に滞在してもらうだけでも……」
「抑止効果か……しかし、下手すると囮捜査になりかねないが?」
「それは大丈夫でしょう。これは言わば警護事案ですから」
「まあ、本当に逮捕してしまったら、それこそ囮捜査だが……とにかく話してみよう」
 斎藤は意外にあっさり承諾した。工藤がいればややこしくなったかもしれないが、斎藤に会い府警への義理は済ませたつもりか、姿を消していた。
「無言電話の主が鄭なら、自分の姿を見れば二度と現れんでしょう。府警に報せればどっと押しかけてくるでしょうが、それはまずいようですね?」
 斎藤はそう言って、悪戯っぽく笑った。

 夕刻、他出から戻った小田に、加藤らが斎藤を引き合わせた。京都から大阪、福岡と、今回の総書記訪問予定地をまわって来たのだという。
「発見しても今は泳がせる方針なので、それは含んでおいてもらいたい……府警はまだ知らないとか?」
「はい、休暇をとって自分の一存で参りました」
「今後協力を要請する可能性もある。当方で連絡すれば一存で来た君の立場があるまいから、自身でやってもらいたい。必要となればフォローする」
「ありがとうございます」
 中川の案内で斎藤が退室した後、小田は警察庁と県警本部に連絡を入れた。
――大阪府警か。面倒なことにならなければいいが……
 大野は慎重だった。
「わかりますが、府警は重要参考人の情報をかなり持っています。局長も了解済みです」
――ならいいが……まあ、様子を見るか。

 同夜、柳沢と中川は「三千院」で早紀を斎藤に紹介した。内々の歓迎会も兼ねており、加藤以下港北署の捜査員・警官も数名同席していた。
「ご迷惑をおかけします」
 言葉少なに挨拶する早紀に斎藤は笑い返した。
「事情は伺いました。相手の正体は不明だそうですが、刑事が同じ屋根の下にいれば手は出さんでしょう」
「助かります。自分が付いているべきなんですが、手が廻らず困っていたんです」
「こういう時はお互い様ですよ」
 斎藤が中川に返したその時、尚子の携帯電話に着信。発信元を確かめ
「美奈ちゃんだ……はい、飯田です」
――斉木です。どうしたんですか?伝言があるって聞いたから署に戻ってきたら、飯田さんも中川さんも退勤したって……あっ、どこかで飲んでます?
「げ、ばれた?大阪府警の刑事さんを接待中。駅前の『三千院』だけど、今から来る?」
――ああ、この間の……今からだと、十分くらいかかりますけどいいですか?
「いいわよ。じゃ、待ってるね」
 そう言い尚子は電話を切った。
「栄署か……あっちの事件はどうなったのかな?」
「栄署の事件と言いますと?」
 斎藤が食指を動かした。
「先日水死体が挙がりまして、その犠牲者が少し前に不審な人物と接触していた形跡があったんです。そういうこともあって警備になかなか専念できずにいます」
「なるほど。そう言えば例の徳田信枝逮捕もここでしたね?」
「ただ、北朝鮮を目指していたらしいのに乗っていたのは岡山行き、持っていた切符は新大阪行き。どう乗り継ぐつもりだったのか、指揮した警視庁の公安も首をかしげていました」
「こういうことではないですか?現在博多直通列車は全て『のぞみ』で、本数が減った分窓口は発覚の危険が大きいので、用心し比較的地味な岡山行きを選んだ。乗継ぎなら行先もカモフラージュできますし」
「なるほど」
「乗換えの謎も解けます。東京から徳田信枝らが乗り込む一方、恐らく仲間が新下関までの切符を用意、新大阪駅ホームで素早く切符を取り替える。その後仲間が新大阪までの切符で改札口を出る一方、彼女らは新しい切符で別の列車に乗り継ぐ。新しい切符の手配なども必要ですが、連絡を取り合えば充分可能だった筈です」
「だとすると新大阪駅でも列車の動きには注意していて、失敗もいち早く察知した可能性がありますね?」
「同感です。連絡をいただいて直ちに新大阪駅に捜査員を派遣しましたが、やはり空振りでした」
 斉木が到着したのは十分後。一緒に戻った伊東は今度の総書記警護で予備要員に指名、今日は訓練に直行したという。今や港北署のほぼ全署員が、何らかの形で警備任務に駆り出されていると言ってよかった。
 一口で警備と言うが、サッカーの試合などの大規模事案になると準備だけでも半端でない。今回のような要人警護のほか会場内外の秩序維持、前後数日間の来場者、選手、チーム関係者の安全確保。時には一部観客の所謂フーリガン化にも備えねばならず、国際試合ともなれば一定期間一般の立入りを禁止。
 その上、任務に携わる全警官の食事、寝場所、便所などの準備責任も費用も所轄持ち。不足が出れば公費補填はあるが、そうなれば余計経費節減も強いられる。特権だらけの上部と違い「貧乏暇なし」が警備現場の現実で、場数を踏み要領を心得ている者も多いとは言え、署員の苦労は部外者の想像を越えていた。
「で、どうなった?」
 斎藤に挨拶し斉木が座るのを、待ちかねたように加藤が訊ねる。
「被害者が現場にいた理由がわかりました。恋人の近所だったんです」
「恋人?」
「川上貴子(たかこ)、二十一歳。大学の同期生です」
「あれ?その名前は前に聞いたが、住所は確か……?」
「はい、最初に交友関係を調べた際、住所は大学の女子寮でそれは事実でしたが、実は付近に住んでいる従妹が海外旅行中で家の鍵を預かっており……」
「事件当夜はそこで一緒だった……と?」
「はい。数年前県下で発生した連続婦女暴行以降、女子寮が出入りを厳しくしています。実はそれまで度々異性の連込みがあり、それが以降お蔭でぱったり止んだのですが、一方で寮生の外泊が増え……」
「何だ、自業自得……」
 加藤が笑って言いかけ……眉を吊り上げた斉木の形相に黙り込んだ。
「被害者はその家の……あれ、そんな時間に何で外にいたのかしら?買物?」
「今日、この川上貴子に会ってきました。実は事件直前口論して被害者が家を飛び出し、それきりになったのだそうです。それで、事件には自分も責任があるのではとの思いから、余計にショックだったようです」
 話しながら昼間の様子を思い出したか、斉木は顔を歪ませたかと思う間もなくぽろぽろと涙をこぼし始め、他の者の何人かが加藤を睨んだ。
「あれ、何、俺のせい?」
 狼狽する加藤に代わり、柳沢が話を戻す。
「一万円男のほうは、どうなった?」
「競技場関係者やサポーターをあたった結果、Jリーグの試合で要注意人物が目撃されていました。ホーム側自由席に一人でいた男性で、特徴は黒い帽子とサングラスに白髪まじりの口ひげ。試合中もスタンドのほうばかり見ているので不審に思ったと目撃者は証言しています」
「黒い帽子に、サングラスと口ひげか……いかにも変装って感じねえ」
 首をかしげる尚子の横で斎藤が目を光らせたことに、居合わせた警官達は誰も気づかなかった。

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2008年3月22日 (土)

Time Up:四.工作員(上)

 やはり同時刻。
 小田は都筑センター北の百貨店屋上にいた。買物客の姿も絶えた一角のイタリア料理店では、ディナータイムのテーブルに一つずつ置かれた古風なランプが鈍く瞬いていた。
 半ば髪が白い、小柄な人物が近づいてきた。港北警察署長・酒井雅昭(まさあき)警視長。非番の今日はスラックスにスポーツシャツ。一方の小田もシャツの裾はGパンの上、前髪も額に垂らし、重大任務を帯びた警察官僚のイメージはない。
「わざわざ来てもらって申し訳ない」
「いえ、自分がお願いしたことですから。尤もご心配通り、あちらを出た後気をつけていたら、尾行がついていました。一旦横浜に出てまきましたよ」
「そうか……」
 会話が一旦途切れ、酒井が示したベンチに二人は並んで腰を降ろした。
「大野君から電話があったよ。即答できる話でないから返事は保留しているが……さて、何をしろというのかな?」
「確認しておきますがこれは、あくまで今回の任務遂行が目的で、それは部長にも進言しています」
「任務……」
 酒井は遠くを見る目になった。

 一九九四年十二月、国外逃亡中と思われていた日本紅衛兵メンバーが都内で目撃され、警察は山梨、長野方面へと追跡を開始したが、同十八日、捜査網を突破した一部メンバーが白馬山麓の山荘に潜入、管理人の妻を人質にその後十日間籠城。有名な「日本紅衛兵白馬山荘事件」である。
 その辣腕を「カミソリ」と綽名された警察庁長官・後藤雅史(ごとうまさし)警視監が指揮官に指名したのは警務局監察官兼警備局付・佐々木篤警視正(現警察庁長官)。警視庁精鋭と共に乗り込んだ彼は郷党意識の強い長野県警もよく掌握、工事用鉄球クレーンなどを駆使し同二十七日に突入、民間人を含め十数名の死傷者を出しながらも全員を逮捕し人質を救出した。人質は直ちに入院、捜査員が病室で事情聴取する他は衰弱を理由に面会謝絶。犯人と一週間以上起居を共にしていた彼女からの捜査情報漏洩防止が真意だった。
 だが直後、そこまでして遮断した事情聴取内容を某新聞地元版がスクープ。先を越された他紙は大騒ぎになり、すわ内部漏洩かと思われたが、真相は新聞記者が病院職員を装い病室に潜入、盗聴していたのだった。
 犯人は盗聴器の電池交換に再度侵入したところを建造物不法侵入・公務執行妨害で現行犯逮捕、だが以降の捜査は突然打切り。そして年明けの阪神・淡路大震災、地下鉄サリンという大惨事で忘れ去られていった。
 警察でも特に処分はなかったが、病院警備責任者の長野県警・酒井警備部長は間もなく警視庁地域部付部長、そして神奈川県警港北警察署長に転任。カモフラージュにワンクッション置いた、巧妙な左遷だった。

「君の任官前の話だが?」
「局公安課から漏洩との噂もあり、万一事実なら今後のためにも然るべく対処すべきでしょう。これは大野部長のお考えでもあります」
「当事者としては、コメントしかねますが?」
「……」
「第一、判決も数年前に確定しており、当時の記録を再調査するにも警備局の了承が要るが、現警備局長がうんと言うと思うかね?」
「長官に直訴する選択肢もあります。あの時も上部の意向に盲従せず指揮を執られたとか。ですから今回……」
「小田君、それはいけない」
 小田の言葉を酒井が語気鋭く遮る。ベンチの真後ろには巨大な観覧車がそびえ立ち、イルミネーションが二人の背中を蒼白く照らしていた。
「現場にも理解のあるあの方だ、確かに否とは仰るまいが、だからなおさら瑕をつけることはできない。何よりも、今回の警備任務に支障となる行動は厳に慎むべきだろう」
「申し上げた筈です。その任務遂行が目的だと」
「……」
 酒井のキャリアを狂わせたあの事件とその張本人。正面に向き直り陰になったその胸中は、横にいる小田にも読み取ることはできなかった。
「もう少し考えさせて欲しい……時間がないのはわかっている。数日中に大野君に電話するよ。今後この件で君と話すのもなしだ。実は、そのように頼まれていてね」
「は……」
「監視というのは、工藤君のことかね?」
「……」
「君達の関係はすぐわかった。ここ数日は結構楽しませてもらったよ」
「それは、お見苦しいものを……」
 小田は苦笑するしかなかった。
「まあ、事情はわかった。時間は大丈夫かね?確か今夜中に、京都へ向かう予定では?」
「最終の新幹線です。今からでしたら何とか」
「では、あまり引き止めてはいけないね。返事は、今言った通り大野君にしておくよ」
 酒井はそう言ってニッコリ笑うと、すっかり日が落ちた屋上を夕闇の中に去っていった。

 五月十日。
 鄭を追っていた大阪府警察の捜査員が上京。邦人失踪や五百円硬貨偽造で、以前からマークしていたと言う。
「新横浜も随分変わりましたね。『のぞみ』も結構停まるし」
 新幹線で現れた捜査員はそう言った。警備部外事課・斎藤剛(さいとうつよし)警部。後退の始まった生え際に細い垂れ目、一見どこにでもいる、くたびれた中年サラリーマンだ。
「以前もいらしたことがおありですか?」
 加藤が質問する。代わりに言葉をかけるべき工藤は、仏頂面で黙り込んだままだ。
「プライムホテルですか、あの煙突みたいなホテルがまだなかった頃です」
「そうですか。プライムホテルは十数年前の開業ですから、それより前ですね」
 お茶を持参した警官が刑事課応接室を退出すると、あらためて本題に入る。
「この人物は約一年前から横浜にいたようですが、それ以前の情報がまるでないのです。把握されている範囲で、もう少し詳しく知りたいのですが」
「いいですよ。本名は鄭栄秀(チョンヨンス)、北朝鮮平安北道出身、現在四十歳。これが顔写真です」
「やはり朝鮮人でしたか……」
「大阪の総聯支部とは全く接触せず、出入りしていた組でも素性は知らなかったようですが。それも特定の組の構成員ではなく、何かあった時の……」
「隠し弾かね?」
 工藤が訊ねた。このタイミングでの大阪府警出現に内心当惑していたが、追い返せば角が立つし、必要ならその役目は小田に押しつければいい。
「そのようです。凶悪事案にも関与の疑いがありマークしていたのですが、立件寸前に逃走(ドロン)で上からは大目玉です……こちらではコックに化けとるとか?」
「中華街です。事件に関わった形跡は現在なし」
 加藤が答えた。
「大阪におった時とえらい違いですな……初めて入国が確認されたのは八年前。最初は工事現場で作業員をしていたがその後コックに転職」
「凶悪事案というと、銃器の扱いもできた……?」
「でしょう。その後どうやら一度帰国、再入国も魂胆あってのことでしょうな」
「工作員の可能性が大ということですね……そちらの上部に本件は?」
「いえ、まだ知らん筈です。まあ、それでもアンテナは立てていたので、今回こうして再会できたわけですが」
 斎藤はそう言い、机上の写真をとんとんと指で叩いた。
「わかりました。現在当方も重要参考人としてマーク、当面公表はしませんが県下を中心に所在確認中です」
「そうですか」
「それともう一つ、鄭はここで或る女性と頻繁に接触していたらしいのですが、お心当りは?」
「接触言うと、蒲団の中ではないですな?」
 斎藤は冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。
「記録によると相手は皆男で、ホモではと話していたくらい女ッ気はなかったですよ。帰国中異性に目覚めたのでなければ、まあ十中八九一味でしょう」

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2008年3月20日 (木)

Time Up:三.爆破予告(下)

 五月三日。
 中川と早紀はJR関内駅の改札前にいた。本番を一週間後に控え一日だけ出た休暇を利用、二人と尚子とのダブルデートをセッティングしたのは加藤。連休の最中とて街は内外の観光客で一杯だった。馬車道の老舗カフェレストランで加藤、尚子と待ち合わせ、新港埠頭の赤れんがパークで小休止。六年前に古い倉庫やホーム跡を大改修、石畳と芝生が広がる公園だ。映画を二本観ると外はもう日が傾き、引込線跡を遊歩道に整備した汽車道を桜木町駅前へ出てイタリア料理店で夕食となった。
「あたしは、男のところにいた女ってのが気になるな」
 早紀がトイレに立った隙に、仕事の話になる。外交懸案がまだ山積する中の総書記訪日、指揮官は警備局付ながら警務局監察官。何かと異例ずくめの警備任務だが、加藤の言葉によれば今回は何でも佐々木篤(ささきあつし)警察庁長官の指名人事で、佐々木自身帯びたこの肩書こそ思い入れではと熱っぽく語る加藤に、あの無愛想な監察官への想いを読み取った中川だった。
「素性不明というだけではね……最近は見かけないとかで、住人の記憶も曖昧だし」
「でも、さっき港北署に電話したら、今日のガサ入れ(家宅捜索)では身の回りの物に加え写真や手紙類が見当たらなかったそうだ。ちょっと出かけたという感じじゃないな」
 加藤が二皿目のパスタを注文しようと手を挙げながら言う。スリムな体型からは想像しにくいが署内で知らぬ者はない大食漢だ。
「処分して高飛び、か?」
「多分。今は港南署扱いだが、こいつとはまた関わる予感がする」
「そいつも一味かな?尚子、どう思う?」
「それが一番自然ね。警備会議で言ってた、活動支援ネットワークじゃないかしら」
「モンタージュでもばら撒けば手っ取り早いのに」
「それができれば最初から指示が出ているさ。北朝鮮絡みらしいんで慎重なんだろう」
「政治的配慮か……飯が不味くなるな」
 加藤がそう言い、運ばれてきたミートソースのラザニアを頬張ったところで、戻ってくる早紀の姿が現れた。
 食事を終え再び屋外に出ると、昼間渡ってきた汽車道はイルミネーションでライトアップされ、黒く横たわる運河の上に浮き上がっている。その時前を歩いていたカップルを、尚子が微笑して指した。
「あ……!」
 加藤の大声に振り返り赤面したのは、伊東と斉木だった。
「あ、どうも……」
「お前らもデートかよ……そう言えば栄署の仏さん、犯人の目星はまだだって?計画犯行だったらしいが……」
「ええ。だから私、一サポーターとしても許せないんです。絶対捕まえたいですね」
 早紀の前とて話はそれきりになったが、中川達もその後の経緯は聞いている。
 三浦達哉の失踪直後、付近で争っている人物二人を住民が目撃。通報で急行した警官とすれ違いで、相手らしい男が立ち去っていた。とどめを刺さず逃走した点も、警官の気配に慌てたと考えれば説明はつくのだ。被害者が現場付近にいた理由は未だ不明だが、犯人にも全く土地勘のない場所での犯行だとは考えにくく、調べれば必ず接点は見つかるだろう。
「あ、そうだ中川、お前昨日千円貸したろ?持ってるか?」
「ああ……ちょっと待ってくれ」
 中川が取り出した財布から落ちた紙片を、加藤が素早く拾い上げ
「ん?何だこれ」
「あっ!やめろって」
「何、何……あ」
 それはJリーグの観戦チケットだった。今度は中川が赤面、早紀が微笑する脇で、尚子がきまり悪げに黙り込む。目の前にあるのは早紀と観に行った去年の物だが中川のJリーグ観戦は最初でなく、そしてその時のチケットをまだ持っていることを、尚子は誰にも話せずにいた。
「茶色いものがくっついてるな。枯れ葉……じゃないよな?一年前と言うと春先だし」
「そうだな……ああ、桜の花びらだ。駅への道筋、花見代わりに通った覚えがある。そう言えば、このチケットを手配してもらったのも斉木だったな」
「そうか、奇遇だねえ……記念に飲み直すか。中華街脇に落ち着いたバーがあるんだ」
 加藤が尚子を引っ張るように、先に立って歩き始めた。

 同時刻。
 周りに誰もいない港北署屋上で、工藤が携帯電話をかけている。呼出し音に続いて、井出が出た。
――井出です……昨夜の首尾はいかがでした、だろう?
「い、いえ……」
――間違いない。サロメの依頼主はやはり平壌だ。狙撃犯を返討ちにするから黙認しろと言ってきた。役者が違うのか、手出し無用に近いことを小田君が言っても笑っていたよ。内心はどうだったかわからんが。
「小田さんらしいですね」
――しかし日本の立場上、一度正論をぶつける必要はあると思って引き合わせた。反応は案の定だったが。
「さすが局長です」
――お世辞はいい。それより捜査状況は?
「港南署管内の男の部屋を今日、令状が出たので捜索しました。どうやらこの男が本件のキーマンのようです」
――外事の情報だったな。
「ただ、いずれにせよこの男が浮上したとなると、稲生氏がどこからの情報で動き出したかも……」
――何が言いたい?
「被害者が計画を察知したルートが明るみになれば……」
――心配かね?そうだねえ、稲生氏にリークしたのは……
「しかし、その指示は――」
――何かね?
「い、いえ、何でもありません」
――……確認しておくが、誰にも気づかれていないだろうね?
「はい、それはもう……」
――ならいい。外務省も入江課長限りだったらしく、石崎局長は「訳がわからない」と言っていたが、公になれば私も君も身の破滅だ。そこは、くれぐれも気をつけてくれたまえ。
「わかっています」
――……今日は休養日だったな。小田君の様子はどうだ?妙な動きはしていないかね?
「はい。先程横浜駅前の映画館に入ったとの報告がありました。現在は観劇中の筈です」
――港北署長の様子は?
「さあ……都筑区内のご自宅では?特に監視はしていませんが何か?」
――いや……しかし、監察官警備局付とは考えたねえ。案の定長官は一も二もなく賛成したが。
「全てを勘案した上、最善の策を考えたまでです」
――まあいい、そういうことにしておこう……
「ところで昨夜、徳田信枝の件は話題になりましたか?」
――いや、そう言えばその話は出なかったな。一〇〇万ドルの要求もそれきりだし……当の徳田が拘置中のせいかも知れないが、それも逆に不気味だな。この後菱和ビル事件で送検予定だが、移送時に逃走を企てる可能性もある。警視庁にも念を押しておこう。
「どうでしょう?徳田信枝の件もカードに使えませんか?」
――どう使うんだ?下手すると弱みを握られかねんが?
「今回の狙撃計画では、平壌に日本への借りがあります。そこで、徳田信枝から接触があれば拒否してくれと。そうすれば今後の日朝関係にもプラスになる筈だと」
――なるほど、平壌側が拒否すれば、渡朝要求自体宙に浮くわけか……わかった、盧氏に私から連絡を取ろう。君、これは誰かに話したかね?
「いえ、局長お一人ですが……伏せておきますか?」
――関知している人間は最小限にしたい。当面私限りで頼む。
「わかりました」
――狙撃計画と日本紅衛兵、別件らしいがうまくいけば同時に解決できるかもしれない。表にはできないが、後々君のことは悪いようにしないから、この調子で頼むよ。
「ありがとうございます」
 電話を切った工藤は額の冷汗を拭った。咄嗟の思いつきだったが井出の機嫌は損ねずにすんだと、人心地を取り戻した彼の唇に自嘲の冷笑が浮かんでいた。

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2008年3月17日 (月)

Time Up:三.爆破予告(中)

 同夜の捜査会議で、本多正勝なる人物につき報告。港南区上大岡のアパートには依然不在、「十全閣」にも先月十六日以降出勤・連絡なし。
「半月の間行方不明……匿っている女でもいるのかな?」
「そうかもしれません。実はアパートの住人が数度、女性を目撃しています。いつもサングラス姿で、顔を見られるのを避けていたようです。ここ一年は姿を見せていないそうですが」
「そもそもこの本多という男が本星なのかどうか。磯貝君の話通りだと、女のほうも気になるが」
「現時点ではチケット裏取引以外、接点はありません。部屋を見れればいいのですが……」
「わかった。家宅捜索令状申請と、外事の記録チェック。この男が北朝鮮絡みならデータがある筈だ」
 工藤の指示で会議が終わりかけた時
「あの……」
 挙手した者がいた。中川だった。
「何だ?」
 工藤は面倒臭そうに発言を許可した。
「この男、見ました」
「何?」
 工藤は目を剥き、全捜査員の視線に中川はたじろいだ。
「日時は?」
「四月十九日夕刻。都筑区大棚町四五〇、トウェンティーフォー大棚店の正面」
「おい……それ、お前ん家(ち)の近所だろ?」
 加藤が頓狂な声を挙げた。
「本多に間違いないのか?」
 工藤が訊いた。
「そう言われますと、自信はありません」
「もう少し詳しく状況を聞かせてくれ」
「はい。同日十八時半頃同店を訪れ、約五分後、店内より視認。道路の向かい側からこちらを見ており、店を出たところ姿を消していた」
「他の客や、店員を見ていた可能性は?」
「咄嗟に確認しましたが、その男の視線の範囲にいたのは自分だけだったと思います」
「だとすると強盗の下見とか、店自体がトラブルを抱えていた可能性は低いが……君自身、心当りは?」
「公務上、恨みを買うようなトラブルですか?」
「公私全般でだ」
 首をかしげた中川を、尚子が心配気に見上げている。
「傷害を三件扱いましたが、いずれも不起訴処分。事件関係者に、似た人物はいなかったと思います」
「わかった。中川巡査部長は、その三件を再チェック。コンビニには都筑署に聞込みを指示。以上」

 同時刻。
 小田が赤坂Oホテル地下一階のバーを訪れると、井出はカウンター席を過ぎた一番奥のボックス席の下座にいた。テーブルを挟んだ上座には、スーツ姿の男が二人。
「こちらは朝鮮社会主義人民共和国の盧康徳(ノガントク)通商部副部長(経済産業副大臣)、隣は護衛の柳慶国(ユキョングク)氏。訪米からの帰途で、都内に滞在中だ」
 井出の紹介に小田が戸惑いながら名刺を取り出すのを、盧康徳は流暢な日本語で制した。
「今夜我々が会うことは極秘にしたいので、私も勘弁させてもらいますよ……どうぞ、座って下さい」
「失礼します」
 井出の隣席に小田が腰を降ろすのを待っていたように、早速本題に入る。副大臣クラスとなれば井出より上位だが、小田への言葉遣いは気味悪いぐらいに丁寧だった。
「今度の総書記訪日警備の、陣頭指揮を執られるとか?」
「はい」
「狙撃計画があるとか?」
「……つまり、事実だと?」
「否定したら、信用していただけますか?」
 小田が返答に窮し横を見ると、井出は薄く笑っていた。
「最初に、ずばりお伺いします……狙撃計画リークは、お国の意向ですか?」
「ごまかしは効かないようですね。そう、私が井出局長にご相談しました。背景からちゃんとご説明する必要がありますね。続けてよろしいですか?」
「どうぞ」
「実は先日、政府内で大きな人事異動があったのですが、こういう時損をした者はよく、手段を選ばず取り返そうとするものです」
 例の政変を盧はそう表現した。
「つまり、今回もそのケースだと?」
「その通り。局長に伺った通り、優秀なかただ」
 盧は笑った。井出も笑っている。笑わなかったのは小田と柳だ。会話が核心になかなか触れないが、彼らは自分に何かをやらせようとしている。その内容も、小田は大体予想がついた。
「通商部副部長と伺いましたが?」
「四月に拝命したばかりです。今回の訪米もアメリカ側との顔合せが目的でした」
「その通商部が接触してこられた真意が、失礼ですがよくわかりません。お国の通商部は、こういう案件も扱われるのですか?」
「小田君、その言い方は失礼だぞ」
「いや、尤もな疑問ですよ。小田さんは私の、一つ前のポストをご存じないようですから……組織部副部長(内務副大臣)でした」
「では……これは平壌の内意、と解釈していいのですね?」
「結構です」
「もう一つ。サロメを雇ったのもあなたがたですか?」
 小田が言った途端三人は顔色を変え、柳のほうは右手をわずかに浮かしている。小田は、その背広の下に隠した拳銃に気づいていた。何かあればこの男は躊躇わず、小田に銃口を向けるだろう。
「確かに、共和国は内々に彼女と契約を交わしました。内容は狙撃計画の阻止」
「……」
「お願いしたいのは、契約の実行を妨害しないでいただきたいということです」
 案の定、と思いながら小田は盧を見返した。
「法を犯しても?」
「彼女はプロです。無用な殺人は避ける筈です」
「無用かどうかは関係ありません。目的が何であれ犯罪行為があれば検挙する、それが治安というものでしょう」
「責任を取らせてほしい。共和国の国内問題であり、我々の手で解決したいということです」
「……お話はわかりました」
「では、お願いできますか?」
「それは、できません」
 柳がごくりと息を呑み、盧は瞑目し考え込む。井出は無表情。沈黙が暫時ボックスを支配した。
「なぜですか?日本にも悪い提案ではない筈ですよ?」
「そうでしょうか?テロの対応を国外に委ねるわけには決していかない……お国もそれは同じ筈です。例えば先年の小宮山(こみやま)首相訪朝時、日本の右翼が潜入・狙撃したら、責任を転嫁できたと思いますか?」
「それは……」
「それと同じです。万一の場合はお国も相応の対応を取らざるを得ない筈だし、他国への信用も失墜します。お国が責任を取るという理屈がその時通るか否か、あなたもよくご存じの筈です」
「なるほど、最悪の事態も想定しておいでなのは賢明です。だがあなたは、一番大事なことを忘れている。失礼ながら……日本の警察は独力で狙撃を防げますか?」
「……」
「小田さん、おわかりと思いますがこれが万一公になれば私の首ぐらいでは済まない、それを覚悟で打ち明けたのは狙撃を何としても未然に防ぎたい、それだけです。申し上げたくなかったが彼らは、恐らくお国のどの警察官よりも優秀なスナイパーです」
「それでもしなければならない。自分もあなたを信頼してお耳に入れますが、いやもうご存じかもしれませんが、警備本部で関心を持っている変死事件があります」
「……」
「我々はこの事件の延長に狙撃計画があると考えています。犯人が既に潜入している可能性もあり、今はあくまで単独対処の建前を貫くべきです」
「それは君の判断することじゃない」
 既にという小田の言葉に、潜入を看過した平壌への非難を察知したらしい井出が割り込んできた。
「いや、小田さんの仰ることは正論ですよ。お国には優秀な警察官がいらっしゃいますね」
「恐れ入ります。お国がこの件を真剣に考えているのは、今日あなたがリスクを冒して重要な情報を下さったことでよくわかりました。今後も何か事態に変化がありましたら、何卒ご協力をお願いします」
 小田はそう言い起立、深く頭を下げた。

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2008年3月16日 (日)

Time Up:三.爆破予告(上)

 五月一日、港北署大会議室。
 正面に新横浜駅・競技場周辺の地図が張り付けられ、捜査員が見守る中、工藤がその前をゆっくり往復しながら、警備の細部を一つ一つ確認している。
「マルタイ(警護対象者)のスケジュール。十七日に横浜入り、夕刻新横浜プライムホテル泊。十八日、客室で昼食後一時半出発。一時三十五分、競技場に到着し待機。正面玄関真上の西一般ゲートは、マルタイの通過前後十分に限って閉鎖。二時キックオフ。四時半に新横浜駅直行、十七時十分発『のぞみ四五号』で京都へ移動」
「競技場までの詳細な経路は?」
「いちょう通りを直進、ワールドカップ大橋を渡り労災病院北側、新横浜元石川線経由で競技場北側に到達。復路は労災病院北側交差点で新横浜元石川線を右折、新横浜駅着」
 話し疲れたのか、工藤はそこで一旦言葉を切った。
「この他には、環状二号線を駅前まで南下、新横浜元石川線に入る経路もあり、予備経路に充てます」
「駐車場の扱いは?」
「屋内は関係者専用とし、一般利用は屋外駐車場に制限。但しこちらも状況次第では全面禁止、電車・バスのみでの来場に変更」
「チケットはもう完売……だったな?」
「五輪代表などだと直前まで割と空席もありますが、今回はワールドカップに出場するA代表クラスの試合で、発売初日にほぼ売り切れたそうです」
「それでダフ屋も暗躍するわけだ……」
 その時電話が鳴り、応対した捜査員が小田を呼んだ。
「何だ?」
「警備局長からお電話です」
「用件は?」
「それが……」
 言葉を濁す捜査員から受話器を受け取った小田は、数分後厳しい表情で電話を切り顔を上げた。
「皆聞いてくれ。約十分前、官邸に脅迫電話。電話の主は左翼過激派組織『日本紅衛兵』。要求は留置中の、徳田信枝の釈放。拒否すれば今月十八日、横浜国際総合競技場で開催――」
「狙撃ですか?」
「爆破すると言ってきた」
 捜査員達は息を呑んだ。
「死人が出るとも言ったそうだ。要求は他に現金一〇〇万米ドル。チューリッヒの銀行口座を指定、二〇万ずつ五回に分け、四十八時間ごとの振込みを指示してきた」
「逃亡資金……でしょうね。総書記観戦への言及は?」
「それはなかった。タイムリミットは試合終了、つまりタイムアップ時点。キックオフは午後二時だったな?」
「二時丁度キックオフ、前、後半各四十五分と二十分のハーフタイムで、終了は早くて三時五十分。これにロスタイムが加わり、三時五十五分前後といったところでしょう」
 小田はそれを、ホワイトボードに書き込んでいった。
「タイムアップは、三時五十分から五十五分の間か……」
「政府の対応は?」
 神奈川県警本部の夏木功(なつきいさお)警備課長が質問した。
「硬軟両面。一応犯人には『前向きに検討』で対するそうです」
「まさか、おおよど号の時と同じ超法規的措置……?」
「これはあくまでポーズで、警察としてはもちろん確保を最優先。ただ確かに、政治的判断で最終的にどうなるかはわかりません。狙撃計画との関連は、偶然にしては出来すぎの感もありますが確認中です」
 言葉を切った小田に促され、警視庁外事課長代理の原が立ち上がった。
「政府側スナイパーの情報。ナタリー・江(カン)。中国系アメリカ人。プロの世界でのコードネームは『サロメ』。先月、スイスにある銀行口座に、一〇〇〇万米ドルが振り込まれています」
 捜査員達はまた顔を見合わせた。
「十数億円ね。べらぼうな額というのはわかりますが……」
「ただ、首脳クラスの暗殺報酬としてはこれでも安すぎるそうで、標的は魚前国防相で間違いないようです」
「政府側のスナイパーは、女性か……」
「あの……」
 磯貝が挙手して発言の許可を求めた。
「相手側の狙撃犯も女性じゃないでしょうか?」
「……根拠は?」
「異性だといざという時に逡巡の可能性があるのではと。一流のプロならあまり関係ないのかもしれませんが、クライアント側が万全を期すつもりなら……」
「男は助平だと?」
「まあ、そういうことです」
 小田の発言は聞きようではセクハラだが、磯貝はにこやかに返し小田も微笑、空気がようやく和んだ。
「サロメはノーマークというわけにいきませんか?」
「……彼女に始末させる、と?いや、既に入国していればあくまで我々が対応すべきだ。仮に今回解決しても、一度こういうことを認めては悪い前例になる」
「しかし、どこから狙撃犯の情報を?」
「知っている者も多いと思うが、工作員と言っても殺人・拉致など凶悪行為を実行するのは一部で、監視・情報収集などは在日朝鮮人が担当する場合が多い。そしてその元締が……」
「総聯ですか?」
「そうだが狙撃計画の存在を平壌が認めていない以上、当面は独自に情報を収集するしかない」
 小田はそう言い、再び原を促した。
「実は先日遺体が揚がった稲生課長補佐が失踪直前、或る人物を追っていました。本多正勝、四十六歳、横浜市港南区在住。中華街の北京料理店『十全閣』のコックですが所在不明」
「北京も絡む可能性あり、か……よし、総聯横浜支部に加えそこにも張り込みだ」

 五月二日。
 総聯横浜支部に張り込んだ捜査員が或る人物の出入りを察知。中堅不動産会社・極東興産取締役だが、この極東興産は県内に拠点のある暴力団・相竜会のダミー会社で、彼自身相竜会幹部だった。
「相竜会というと、東京に本部のある山川連合の構成組織……総聯とマルB(暴力団)の癒着、か」
 工藤は唸った。
「間違いありません。それとこの幹部ですがここ一年、定期的に中華街の或る店に出入りしています」
「……『十全閣』か?」
「本多という男を雇い入れたのとほぼ同時期です。やはり、只のコックではないですね」
「原警視に外事の情報と照合してもらおう。相竜会と言えば例の振り込め詐欺にも関与していたな?ありもしないアダルトサイト料金や示談金をでっちあげ……」
「その通りです」
「それだ。相竜会は県下で山川系振り込め詐欺の元締らしいが、その収益も北に流れていた、かな?」
「恐らく。それと、捜査二課からも情報をもらってきました」
「二課というと知能犯・経済犯担当だな。詐欺の類か?」
「はい。先年ニュースにもなった時間外株取引で、極東興産にかなりの金額が流れていました。これが被害企業と金額のリストです」
 捜査員が机上に並べた数枚のFAXを、夏木が隣からのぞきこみ
「どれも外資系……か?」
「全て米国資本系です」
「これは……」
 工藤は、目の前に並んだ被害額とその合計に驚いた。
「合わせると小さな島一つ買えますね……相竜会が背後に居るのは間違いないのか?」
「確かです。警察庁も早期にマーク、内偵していました。厄介なのは外資ばかり狙っていることで、国内系の同業他社は、表面上捜査に協力的ですが……」
「ナショナリズムか?」
「内心は満更でもないようです。北朝鮮が一枚噛んでいるとすれば、それも目的でしょうね」
「だが、それならなおさらこの件は何としても摘発しなければ。工作の資金源を絶つためにもな」
 工藤は横浜での総聯と暴力団の関係を、電話で井出に報告した。
――左翼はともかく暴力団と手を結ぶとは……しかし立証できない限り、突破口としては弱いな?
「まだ裏は取れておらず、事実無根と否定されれば現時点ではお手上げです。小田さんに相談しますか?」
――いや、今夜都内で会うから直接伝えておく。会わせたい人物がいてね。明日詳しく話すよ。

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2008年3月15日 (土)

Time Up:二.狙撃計画(下)

 徳田信枝、左翼過激派組織「日本紅衛兵」リーダー。十年前死者二十三人が出た大手町菱和ビル爆破の主犯。拘置中に一味が東京発宮崎行きJAL「おおよど号」をハイジャック、超法規的措置で釈放後北朝鮮、そして中東に渡り、湾岸戦争ではイラク義勇兵として参加、戦後も複数の反米テロに関与していると見られていた。
「取締りを強化したヨルダンから脱出、日本に帰っていたのは今日わかったばかりです」
「――そう言えば、公然と滞在していた某活動家も、最近身柄を拘束されたとか……彼女はどこへ向かうつもりでしょう?九州、いや……」
「新下関まで走らせろと要求しています。海路、北朝鮮を目指すつもりかと」
「所定の停車時間(三十秒)は過ぎています。犯人も気づいている筈ですが、人質は大丈夫でしょうか?」
「彼女は、逃走を最優先に考えている筈です。よほどのことがない限り、手は出さないでしょう」
「そうですか……」
 駅長は、ホームに停車中の列車を見遣った。自分も、彼女らをみすみす逃したくはない。乗客を人質にするという卑劣な手段を取っているとなると、なおさらだ。だが彼には、乗客の安全を守るという使命がある。それは一命をかけても守らねばならない、鉄道マンとしての鉄則だった。
「犯人に呼びかけることはできますか?」
「できると思いますが……何を?」
「人質の交換です。何としても乗客だけは危険から救いたい」
「わかりますが、しかし、誰と?」
「私が行きます」
「駅長!」
 駅員達は悲鳴をあげた。永井は駅長の顔をじっと見た。
「お気持ちはわかりますが、相手は筋金入りの過激派です。人質の人選は慎重さを要します」
「……」
「現在、候補を政府がピックアップ中で、あなたには安全確保にもご協力いただかなければなりません。もちろんその前に解決できればベストですが」
 駅員が飛んできた。「のぞみ八七号」から連絡が入ったという。駅長は事務室に駆け込みマイクを握った。永井もついてきた。
「こちら新横浜駅長」
――こちら八七A車掌長。犯人が話したいと言っていますが、どうしますか?
 駅長は無言で永井の顔を見、永井も無言で頷いた。
「替わって下さい……もしもし、私が駅長だ」
――初めまして。
 中年の女の声に、駅長は思わず唾をのみ込んだ。列車を占拠した徳田信枝だろう。
「用件は何かな?」
――すぐに列車を発車させなさい。
「新下関に行きたいそうだね?」
――東京の総合指令室にさっきから言ってるけど、言うことを聞かないの。
「人質を解放しなさい。話はそれからだ」
――それはだめ。逃した途端に突入するつもりでしょう?
「一部の乗客だけでも解放して欲しい。そしたら私が、無理に突入しないよう説得する」
――やっぱり警察もいるのね?
「警察を呼ぶなとは聞いていないが?」
――それは、一本取られたわね。
 スピーカーが低く笑った。落ち着いている様子で、どうやら当分人質に危険はなさそうだ。永井がその調子ですよと言うように微笑して見せた。
「思案のしどころじゃないか?今のままでは、列車はずっと動かないぞ」
――そんなこと言ってるより、人質の安全でも考えたら?
「人質の安全?」
――十分以内に動かなければ三十分ごとに一人殺す。料金の払戻しどころでは済まないわね?
 駅長は、思わず無線機を睨みつけた。
――最終期限はこれから二時間後。その時は全員……
「私が、代わりに人質になろう」
――悪いけど、あなたの冗談に付き合うつもりはないわ。
「私では不足かね?こちらは大真面目なんだが?」
 永井が童顔の女性捜査員に何か耳打ち、捜査員は事務室を飛び出していった。
「乗客を人質に取った行為が我々鉄道マンにどれだけ卑劣に映っているかわかるかね?そういうやり方を続けているから世界中に見放され、居場所もなくなったんじゃないのか?」
――……
「新下関に何をしに行くつもりかね?」
――……
「また北朝鮮か?あそこが地上の楽園どころかこの世の地獄なのは君も知っている筈だが?」
――共和国こそ反米の砦。金将軍は……
「食い扶持は減る、国際社会では孤立する、人民が気の毒と思わないかね?」
――……
「君も気づいた通り警察が包囲しているし、マスコミも嗅ぎつけたらしい。もう逃げ場所はないぞ。役不足と言うなら私と引換えとは言わないが、君がただの殺人鬼でないなら、せめて車内にいる乗客は解放しなさい。そうすれば私も君の要求が通るよう協力しようじゃないか」
 その時、事務室に戻った女性捜査員から耳打ちされた永井が手帳にメモ、無言で駅長に示した。
――線路上に警官を入れ、床下から突入します。
 駅長はその下に書き足した。
――乗客の安全を第一に、お願いします。
 一読した永井は無言でオーケーのサインを作り、女性捜査員を連絡係に残して退室。駅長はマイクを握り直した。あとは徳田信枝の注意を一秒でも長く、無線に集中させることだ。
「どうだ?君にも悪い話ではない筈だ」
――信じられると思う?
「それはお互い様だろう?君がずっとそういう態度だと、列車も事態も動かないぞ」
――……
「まず、乗客の一部を解放しなさい。それで警察も要求を呑みやすくなる筈だ。そして最後に、替わりの人質と引換えに全乗客を解放、要求通り新下関に向かう。どうだね?」
――でも、そうするという保証――
 会話が途切れ、怒号、そして破壊音と共にスピーカーは沈黙。駅長はホーム上に飛び出すと、慌ただしく行き来する駅員の一人をつかまえて訊いた。
「突入したのか?」
「そうです」
「そうか。乗客は無事か?」
「被害は出ていないようですが、まだ確認できません」
 駅長が人ごみを掻き分け九号車付近にたどり着くと、一気に環を狭めた機動隊の間を、手錠をかけられた男女が連行されてくるところだった。
 周りを固める捜査員の先頭にいた永井が、駅長に言った。
「全員身柄を確保しました。港北署に連行します」
「乗客は無事ですか?」
「ええ。全員怪我もありません。完全解決です」
「よかった……」
 その時、連行されていく中年の女性がきっと振り返り、凄い目で駅長を睨んだ。
「裏切ったな!」
「え……?」
「この借りは、きっと返してもらうからな!」
 さっきの無線機から流れてきたものと同じ声だった。その女――徳田信枝も、今の会話から自分を、無線で話した駅長と特定したのだろう。
 十三時十七分、二十七分遅れで動き出した「のぞみ八七号」を敬礼で見送りながら駅長は彼女の台詞を反芻、ぶるっと身震いした。

 港北警察署に留置された徳田信枝らの所持品中に、新大阪までの人数分の切符があった。新下関行きの要求との矛盾に戸惑いながらも、捜査本部は急ぎ大阪府警に連絡、新大阪駅を中心に不審者の捜索を依頼した。
 徳田ら日本紅衛兵幹部逮捕のニュースは、夕方には全国を駆け抜けた。十年前の残虐な無差別爆破殺人事件は彼らこそ民衆の敵と世間に知らしめ、その後当局が攻勢に出る端緒となったが、それでも最大のカリスマである徳田を検挙し一つの区切りをつけるまで、何と多くの年月を要したことか。
 港北署もしばらくは、不祥事続きの警察の面目を久々にほどこしたこのニュースで持切りだったが、重大任務を目前に控える警備本部の捜査員達は、その余韻に浸っている余裕はなかった。それどころかこのテロリズムのカリスマがなおも演じる悪あがきが任務を最後まで悩ますとは、この時誰も予想していなかった。

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2008年3月14日 (金)

Time Up:二.狙撃計画(中)

 同日正午前。
 食堂で早めの昼食を摂っていた中川は、民放のニュースに箸を止めた。鶴見川で上がった死体の身許が判明したのだ。稲生正賢、五十九歳。外務省アジア大洋州局北東アジア課長補佐。食事もそこそこに刑事課に戻ると、加藤が同じニュースを見ていた。
「鶴見署(よそ)の事件に口を出すと面倒だが……関連ありなら放っておけない」
 二人が階上の会議室に上がると、工藤と話し込んでいた小田が振り返り
「何だ?」
「鶴見川の死体ですが、身許をテレビで言っています」
「何?」
 小田はテレビをつけ、画面を睨みつけた。民放と同じニュースがNHKで放映されている。
「どこから漏れたんだ?」
「わかりません。今は鶴見署の単独捜査ですが……」
「流域の地図はないか?新横浜から芦穂橋までカバーできる物が欲しい」
 居合わせた生活安全課の山崎智子(やまさきともこ)巡査部長が、港北区と鶴見区の地図を取ってきて机上に広げた。
「なるほど……何個所かで蛇行しているのか」
「そうですね。東から北、そして新羽(にっぱ)橋の先で東に折れた後も左右に……」
「それに途中数ヶ所で支流が流れ込んでいるから、そこから投下された可能性もあるな。最初の川浚いは、このS字より下流だけだったが……」
 工藤と話し込んでいた小田は、そこで顔を上げた。
「鶴見署に進言しよう。捜査範囲を拡大。それでいいな?」
 井出に電話で報告。脇で聞耳を立てる工藤が浮かべる冷笑を小田は見逃さなかった。一流とはいえ私大出の小田は、井出ら東大法学部出身者の眼中にない。中でも工藤は事ある毎にそれが言動に表れ、小田が不愉快な思いをしたのも一度や二度ではなかった。
――マスコミに出てしまったようだねえ。
「は……」
――まあいい。想定はしていた事態だ……他に、怪しい動きは出ていないか?
「所轄管内には異状なし。県下では数件殺人が報告されていますが関連ありとの報告もありません。ただ、地理的条件を考えると放置も不自然で、鶴見署と連動を開始します」
――いいだろう。何か動きがあったら、教えてくれ。
 同日、稲生正賢殺害は総書記警備と同一事案扱いが決定。但し狙撃計画が極秘のため表向き捜査態勢は変更なし。尚子が鶴見署に常駐、死体投棄時刻前後の不審者を捜索することになった。

 やはり同日。
 十二時三十三分、岡山行き「のぞみ八七号」は東京駅を静かに発車した。かつて東海道・山陽新幹線の代表列車は長い間博多行き「ひかり」だったが、それも二〇〇三年秋「ひかり」の看板を降ろし再出発。その前から既に「のぞみ」と同じ車両を投入しスピードアップしていたが、「ひかり」時代のシンボルだった個室や食堂車は姿を消していた。
 黒崎麻由美(くろさきまゆみ)は八号車の座席にもたれ、後方に流れ出した都心の風景を眺めていた。京都で時代劇の衣装合せを済ませたら直ちに帰京、夜には都内でドラマの打上げ。若手実力派女優として分刻みの日程を消化する彼女には、移動時間も貴重な休息の時だった。
 三列程前の席に、サングラスや帽子姿の男女が数名座っている。カジュアルな服装と暗い雰囲気がちぐはぐで、それにしてもどこかで見た顔だがと思いながら、麻由美は彼らをしばらく観察していた。品川発車後しばらく並走していた横須賀線と分かれた後、短いトンネルを幾つか潜りながら再び減速すると、間もなく次の停車駅、新横浜である。
 その時、デッキに現れたスーツ姿の男達に気づいた男女は、麻由美が予想しない反応を見せた。前触れもなく爆竹のような破裂音が車内を貫き
「伏せろ!」
 という声に、乗客は訳がわからぬままうずくまる。なおも断続的に響く破裂音が銃声と気づいた時には、スーツ姿の男達の姿はなく、あの男女が拳銃を手に客室を制圧。麻由美が座席の陰(かげ)でマネージャーと顔を見合わせる中、鶴見川を渡った列車は最後のトンネルを抜け、新横浜駅にのろのろと進入していった。

 新横浜は一九六四年の東海道新幹線開通と同時に、横浜線を跨ぎ開業した駅を中心とする、比較的歴史の浅い町である。一九八七年の国鉄分割民営化で新幹線がJR東海、横浜線がJR東日本の管轄になって以降ここには二人、否、地下鉄も含めると三人の駅長がいることになる。
 二〇〇二年のワールドカップ日韓大会以前から、横浜国際総合競技場や横浜アリーナを中心に観光・産業拠点の顔を持ち始めていたが、その後決勝戦招致を契機に競技場周辺は再開発中、駅も毎時最大五本の「のぞみ」が停車し、県東地区玄関の貫禄を備えつつある。来月十七日の北朝鮮総書記来訪も、そういう歴史の一ページとして残っていくのだろう。
 数次のダイヤ改正で広島・博多直通「ひかり」がなくなり、その代わり従来全席指定の「のぞみ」に自由席を新設。それらは利用者側からの変化だが、JR側の利点は全車両が三〇〇系以降の新型に統一、性能上の区別がなくなりダイヤが引きやすくなったことで、スピードアップにも何よりの好条件だった。一方、数年前の品川駅開業で県東の一部客層は移行。首都圏の玄関口分散も、地味ながら着実に進行していた。
 十二時四十分、駅長は東京の総合指令室から、驚くべき連絡を受け取った。十三分後に到着する岡山行き「のぞみ八七号」に、重要事件の容疑者が乗り込んでおり、車中で確保、新横浜駅で降ろし連行するという。
 十二時四十七分、港北署に続き現れた県警本部の捜査員が、列車を待つばかりの下りホームに駅長の先導で上がり、物々しい雰囲気に包んだ。
 十二時五十分、岡山行き「のぞみ八七号」定刻通り到着。車両はJR東海・JR西日本が共同開発した七〇〇系。正面から見るとスリッパのような、空気抵抗を極限まで減らした設計だ。「のぞみ」も今はこの七〇〇系などを充当、初代「のぞみ」用三〇〇系は「ひかり」や「こだま」に役割をシフトしていた。駅長は警官と共にホーム上で待機したが、列車が完全に停止しても扉は一向に開かず、時刻だけが容赦なく過ぎてゆく。
「どうした?」
 駅長は他の駅員に無線で確認した。
「九号車です。警察が、列車を動かすなと……」
「何だって?なぜ、急に……」
 九号車が停まっているホーム中央に急行すると、おろおろしている駅員の一人をつかまえて訊く。
「どういうことだ?」
「それが、人質がとられて……」
「人質?」
 血の気を失った駅長に、駅員と一緒にいたスーツ姿の、髪を七三に分けた男が話しかけて来た。
「あなたが、ここの駅長ですか?」
「そうです。あなたは……県警の方ですか?」
 駅長の問いに男が差し出した名刺の、肩書きの一番上には「警視庁」の文字があった。
「公安部第三課長補佐の永井(ながい)といいます」
「公安?……どういうことでしょう?」
「我々が追っていた左翼活動家が乗車、との情報があり、身柄を確保する予定が失敗、容疑者が隙を突き、乗客の一部を人質に取って九号車に立て籠りました」
「そういう情報は早めにいただきませんと……」
 駅長は抗議した。捜査上の秘密だったのだろうが、乗客