【転載】伝え続けたい
舞鶴引揚紀念館
歴史を繙く時、時に心が引き裂かれるような悲しみに襲われ
時にそれは怒りにすら変わります。
終戦後65年が経過しても、我々日本人は父祖のなしたとされる謂れなき暴虐の数々を飽く事ないまでに宣伝され、声高に非難され、それに反論することさえ許されないばかりか、同じ日本人が自らの父祖を貶めて恥じません。
では、我々日本人の婦女子、民間人は誰もが天寿を全うしたのでしょうか。
本土にあっては、米軍の国際法を無視した広島長崎への非人間的原爆投下すら、日本軍の蛮行を懲らしめる神の鉄槌であるかの様に喧伝され、焼夷弾を投下して日本各地を焦土とした米軍の無差別絨毯爆撃に非を鳴らすことは勿論、終戦直後の米軍の暴挙すら今だ闇の中です。
「真相箱」は「真相」を隠して日本を闇社会にし
戦後65年が経過した今も日本人の目を塞いでいます
たとえ苦痛を伴い、涙を流しても
歴史の事実をしっかりと受け止め
語り伝えなければなりません。
冒頭の「母子地蔵」は、東京の浅草寺の境内にあり、
別名「まんしゅう地蔵」とも呼ばれます。
通常、お地蔵さんといえば子供の姿をして一人路傍に佇んでいるものですが、この変わった名前のお地蔵さんは、子供を背負い、今一人の子供を抱きかかえた母親と思える女性の姿をしています。そして、なぜか子供に力はなく、母親の顔は悲しみに満ちているように思います。
昭和16年12月8日に始まった長い長い戦いは、昭和20年8月15日に先帝陛下の御聖断によって収束しました。しかし、日ソ中立条約の有効期間中にも拘らず、終戦を懼れるかのように、火事場泥棒のごとく満州に、樺太に、千島に土足で踏み込んできたソ連軍は、瞬く間に満州国を蹂躙し、武装解除した日本軍の武器共々中国共産党に譲り渡し、日本領土を強奪して支配下に置いて今に至っています。その間の彼らの暴虐の魔の手から日本婦女子を守ろうとした女傑「お町さん」のお話は以前に紹介させて頂きました。ソ連の満州占領はまもなく終わり、変わって中共軍が支配者となって満州国全土を蹂躙し、今も満州を理不尽に占領しています。
彼ら中共軍もまた、ソ連軍同様、日本の婦女子を陵辱し、物品を略奪し、男女を問わずに徴用して使役し、日本人の子供はその優秀さ、勤勉さ故にでしょうか、略奪、売買の対象にさえされたといいます。そんな中共軍にとって「お町さん」のような女傑は目障りだったのでしょう。終に処刑されてしました。
しかし、惨劇は、これだけでは終わりませんでした。
終戦時、海外にいた660万人を超えるとされる日本人たちの内、半数が一般人であったといいます。軍人が武装解除と捕虜・収容所生活を余儀なくされる中、一般人は、営々と築き上げた財産を持ち帰ることも許されず、日本が投下した膨大な資産は全て没収され、まさに石持て追われる如く家屋も、商店も、工場も田畑も全てを奪われた上に、自力での帰国を余儀なくされました。苦難の道、満州からの帰還者の一部は、舞鶴に帰り、多数の日本兵、日本人がシベリアの極寒の地に連れ去られた史実があの「岸壁の母」を生みました。しかし、満州だけではありません。朝鮮半島にも、中国大陸にも南の国々、島々にも数多の日本人がいました。満州を不法に進撃してきたソ連軍は、満州のみならず現在の北朝鮮にまで進んできます。その地でも暴行が日本人に加えられました。そして、南朝鮮においても日本国内においてさえもその惨状は変わることはありませんでした。
外地に取り残された同胞を速やかに本国に帰還させることは当時の政府の急務でした。海外の日本人は、失意と恐怖に体を震わせながら廃墟の祖国に帰ってきました。中には大陸で、もしくは半島で生まれ育った人もいたでしょう。初めて祖国の土を踏んだ人もいたでしょう。しかし、彼らの誰もが着の身着のままでした。財産を強奪され、生命の危険に晒されながらの帰国。そんな帰還者を受け入れたのは舞鶴だけではなく、博多港にも、佐世保港にも連日鈴なりの海外在留邦人を乗せた船が到着しました。
二日市保養所
浅草寺にある「まんしゅう地蔵」と同じように、九州の地には「水子地蔵」が立っています。母親と思しき地蔵さんの胸には、この世の生を享受することなく闇から闇に葬られた水子が抱かれています。
命からがら祖国の土地を踏んだ同胞婦女子の中には異様な姿をしている人がいたといいます。疲労と栄養不良で痩せ衰えながらもお腹だけは異様に膨らんでいる女性。女性の命ともいえる黒髪をばっさりと切り落として少年のように「坊主頭」の人もいたようです。
多くの同胞日本婦女子は、ただ日本人であるという、ただそれだけの理由で辱めを受けました。辱めを受けただけではなく、命を奪われた人も決して少なくはないでしょう。中には、数え切れないほどの陵辱に耐えかねて自ら命を絶った婦女子もいたでしょう。そして、昨日まで友人と信じていた朝鮮人が突如として襲い掛かり、時として暴虐の徒、ソ連兵を案内してきたというのです。裏切られた彼女たちの失望はいかばかりでしょうか。そんな中の少なからざる人たちは、屈辱を胸に秘めて祖国に戻ることに一縷の望みを抱いて帰還船に乗りました。その帰還船の中でも外地で受けた陵辱に耐え切れない人の中には祖国を前に海に身を投じた人もいたといいます。
「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」
「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」
「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」
本国を目指す帰還の人たちを満載した船中でこのようなビラが配られたといいます。ビラを手にじっと見詰める女性たちはどのような思いでこの文章を読んだでしょうか。
「不法な暴力」「体の異常」「健全な体」こうしたキーワードを彼女たちはどのような思いで読んだでしょうか。これが、強姦にあったのみならず、憎い犯罪者の子供を心ならずも宿してしまった女性にとってそれは一縷の希望の光であったかもしれません。
優生保護法が施行されたのは、昭和23年のことで、この当時はまだ断種法とも呼ばれた国民優生法が有効であり、単なる中絶は違法行為(堕胎罪)以外の何者でもありませんでした。しかし、このビラは、京城帝大医学部の医師たちのグループが「妊娠中絶の手術をします」、ということを女性たちに伝えているのです。その外にも性病に罹患した女性もおり、その治療も施されました。
「厚生省博多引揚援護局保養所」・・・その診療所には、こう記された看板がかけられていたと言います。福岡県筑紫野市にある二日市温泉にあった愛国婦人会の保養所跡がその診療所でした。かつての教え子の惨劇を知った京城帝大医学部の医師たちは、朝鮮人を始め、ソ連兵、中国人などに陵辱された日本人婦女子の窮状を救う決意をし、その願いがやがて公的な診療所として開設されることになりました。終戦の翌年昭和21年3月超法規的措置で、非合法な中絶手術を実施する施設ができました。それが通常「二日市保養所」と呼ばれるところです。
浴室を改造した手術室、麻酔もない時代、女性たちは激痛に耐えました。
こうした女性たちの悲実を埋もれさせてはいけません
当時の大陸で、朝鮮で我が同胞婦女子が受けた陵辱は、口にするのも恐ろしい悪夢にも似ています。当時の日本軍、日本政府、日本国を非難する前に日本人婦女子、抑留され、酷使された同胞の受けた惨劇の実態を知って下さい。昨日までの隣人の豹変と、禽獣にも等しい暴挙に遭った彼女たちのことを想い、闇から闇に葬られた水子たちの霊を弔う為に立てられたのが「水子地蔵」であり、「仁」の一文字を刻んだ石碑です。
世に蔓延る従軍慰安婦なる被害者面した売春婦に諂うことなく、陵辱に死を選ばざるを得なかった日本女性、生き永らえながらも我が子を堕胎しなければならなかった日本人婦女子の存在を忘れないで下さい。日本人婦女子が半島で、大陸で受けた言語に絶する惨劇は、声なき彼女たちに代わって、歴史にはっきりと記し、永久に語り継がれなければならないのではないでしょうか。
ある日本人女性は、自らの目で見た朝鮮で我が同胞婦女子が受けた陵辱の様子をほぼ実話のままに小説化しました。その書籍がその教育的価値の高さからアメリカの学校で副教材に指定されるや、何一つとして事実を知らない在米の韓国人少女は狂ったように叫び、在米韓国人団体は不当な圧力をかけてその書籍を学校から葬り去り、あまつさえ、著者の父を誹謗中傷さえしています。
今も精神的陵辱を受け続けていることを肝に銘じるべきです
こうした事実を知っても尚陵辱に耐えろといいますか
辱めを受けた同胞の為にも沈黙は出来ません
昭和12年の通州事件
通州の丘 結城道子(超希少盤?)
= 我々こそ最大の被害者であることを忘れないで下さい =
参照サイト:
二日市保養所
舞鶴引揚紀念館
竹の森遠く
知らずに死ねるか!
朝鮮人による我が国の被害(石根せいいちろう)
本当の日本の歴史(歴史)
飯山達雄「敗戦・引揚げの慟哭」より
転載元: チエンマイの原風景
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