憂国
「悲観的悲観論者」だった中川一郎・昭一親子の「憂国の死」
(SAPIO 2009年11月25日配信掲載) 2009年11月30日(月)配信
文=ジャーナリスト 河内孝
10月6日、中川昭一氏急逝の報を受けた多くのメディア関係者は「自殺」を疑った。26年前の1月9日、父・一郎氏が57歳で札幌のホテルで自殺。「怪死」と騒がれた事件と重ね合わせたからだ。
毎日新聞記者として、死の直前まで中川一郎氏を取材した河内孝氏が「中川父子」の知られざる人物像を語る。
中川一郎が73年7月に結成した政治集団「青嵐会」は、6年足らずの活動期間にもかかわらず、日本の戦後政治史のなかでも強烈なインパクトを残した。会員名簿に「血判」を押しての発足にマスコミは「極右集団」と大騒ぎした。渡辺美智雄、浜田幸一、石原慎太郎ら錚々たるメンバーも、当時は若手。担当記者になったときの彼らの印象を一言でいえば「日常的躁状態」であった。胸倉をつかみあいながら口角泡を飛ばして議論していた姿を思い出す。
当時、人気絶頂だった田中角栄の政治への反旗を掲げ、日中国交正常化1周年記念にぶつけて台北へ「中華民国断絶1周年訪問団」を送る。自民党議員の北朝鮮訪問団は体を張って阻止した。机をけり倒す、瓶を投げるなどの行動が顰蹙を買う一方、集会では武道館を一杯にするほどの人気を博した。
「青嵐会趣意書」には、「自由主義国家群との親密なる連繋を堅持する」「物質万能の風潮を改め、教育の正常化を断行する」「自主独立の憲法を制定する」など、6つの項目が記されている。「カネがすべて」の社会風潮の中から生まれたナショナリズム。それを体現したのが青嵐会であり、一郎は日本人の精神が失われていくことを嘆く「憂国の士」だった。
だが、結成当時からことあるごとに〝極右集団〟として激しい批判を浴び、韓国・台湾からの資金流入疑惑もささやかれた。〝北海のヒグマ〟の異名をとった一郎だが、非常に繊細な一面もあり、こうした批判を気にしていた。私の記事の「てにをは」にまで口を挟んだ。
中川一郎は1925年3月、北海道の開拓農家に生まれた。10人きょうだいの長男で、両親を助けて幼い弟や妹の面倒を見るのが日課だった。学費免除の特待生となり、宇都宮高等農林、九州大学の農学部を卒業、北海道庁から同開発庁へ。当時北海道開発庁長官だった大野伴睦の秘書官となった。63年に衆議院に初当選。韓国を訪問したとき、東西冷戦の最前線、38度線に立ち、「反共の闘士」を決意した。
77年に農林大臣となるが、この頃から渡辺との確執が始まり青嵐会は瓦解へと向かう。そして79年、一郎は石原慎太郎らを結集して中川派(自由革新同友会)を結成。派閥の長となった。
82年11月、鈴木善幸首相の再選を阻止するため、自民党総裁選にいちはやく名乗りをあげた。その後、中曽根康弘らも出馬を表明したことで鈴木は退陣に追い込まれた。この段階で中川の目的は果たされたが、選挙に打って出、予備選で最下位の惨敗を喫した。
しかし、惨敗のショックは相当なものだったのだろう。一郎の票数が読み上げられた時、後ろに座っていた中山正暉は「首の後ろの血管がガッと盛り上がって見えた」という。その後、一郎の車に〝ハコ乗り〟して驚いた。車の天井が焼け焦げだらけになっている。後で運転手に聞くと、一郎が呆然とタバコをふかし、天井に当てて焦がしてはまた新しいタバコに火をつけるのだと教えてくれた。それほど憔悴していたのである。
83年の元旦、中川家を訪れた時、一郎はいつも通り迎えてくれた。中川家の新年会は、一郎がグラス片手に各部屋を動物園の熊のようにぐるぐる回り、客が帰るのが嫌で引き止めるので、本人が酔いつぶれるまで続くのが常。だがこの日は夕方の散会となった。私が挨拶をすると、一郎は絨毯にあぐらをかいたまま軍隊式に敬礼して「グッドバイ」と答えてくれた。これが最後の言葉になった。
1月9日、札幌市内のホテルのバスルームで死んでいるのを夫人に発見される。第一報は急性心筋梗塞だったが、2日後に自殺に訂正された。
この死を巡って、他殺説、謀殺説、背景も秘書・鈴木宗男との確執から家庭不和、借金までさまざまな憶測が噴出し、多くの記事や書物が書かれた。それぞれに「一端の事実」があることは確かだが、私はそれらを読んで、「中川一郎の外見の裏にある弱さを知らないな」と感じた。
あの最後の新年会の夜、一郎が「お前、俺を殺す気か」と鈴木宗男を殴打したのは事実である。「中川家の長男坊」とまで呼んだ鈴木宗男の参院選出馬を「裏切り」と感じ、それが「殺す気か」との発言になったのかもしれない。でも2日後には鈴木に電話し、北海道での新年会に同行するよう念押ししている。
総裁選での敗北に加え、同じ時期に多くの心労が重なっていたことは確かだ。でも私が思い出すのは、晩年、「もう、日本はダメだね」「いやになっちゃったよ」とつぶやいていた一郎の姿だ。今の日本をどうにかしなければならないという熱い思いは、次第に深い絶望となっていったのかもしれない。
ゴルフ場で知った 父親の死
「怪死」といわれた死が、息子・昭一にとって大きな衝撃であったことはいうまでもない。最後まで死の真相を手繰り寄せようとしていたが、「自分の父親は自殺するような弱い人間じゃない」という思いからだろう。
父・一郎の繊細な部分を昭一は色濃く受け継いでいた。昭一は自著で、精神科医と雑談したとき「あなたは〝悲観的悲観論者〟ですね。政治家には珍しい」と言われたと書いている。私見だが「悲観的悲観論者」はそのまま父親にも当てはまる。
83年、父の後を継いで初めて立候補した時、昭一は第一声で「父親にはやり残したことがある」と述べた。以来、父親とずっと「二人三脚」だったのではないか。彼が作った「真・保守政策研究会」の設立趣意書を読むと、青嵐会のそれと「同じ血」でつながっている。
一郎が亡くなった日、昭一はゴルフをしていた。その日は8ホールまで2アンダーで、自己最高のスコア。そこに場内アナウンスが入り、マーシャルカーが猛スピードで迎えにきた。彼はゴルフウェアのまま羽田から飛行機に乗り、札幌に向かった。以後、私の知る限り、ゴルフクラブを握ることはなかった。
印象に残るのは、昨年10月、衆議院議員勤続25年の表彰を受けたときの演説である。昭一は「この喜びを両親、家族、何より地元の皆さんに謹んで捧げたい」と語った。彼のなかで一郎はまだ生きていることがわかった。昭一の政治家としての25年は、父親のために生きた25年ではなかったか。区切りをつけ、やっと自分の政治を始めようとした矢先の死だったのではないかと思うと残念でならない。
昭一が懸命に取り組んでいたのは、拉致、水や地球環境、東シナ海のガス田問題だった。彼が生きていたら、八ッ場ダム建設中止に激怒していたことだろう。食料自給率を上げようとすれば最初に必要なのが利水。水資源の重要性が増すなか、中国系の集団が日本の水利権や山林を狙っていることに、危機感を募らせてもいた。「中国」を睨んだ国益の追求は、まさしく父譲りの信念だった。庶民に慕われ、葬儀に大勢の人が集まったのも同じだ。2代にわたる不運な死には抗し難い運命を感じる。(談・文中敬称略)
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