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天安門事件20年 進む風化 民主運動再燃を警戒 格差拡大、一党支配に揺さぶり
(2009年5月28日(木)8時0分配信 産経新聞)
民主化を求める学生、市民を武力鎮圧した天安門事件から間もなく20年。事件の代名詞の「六四」も知らない世代が増える中で、人びとは、当時の熱狂も怒りも悲しみも記憶の奥に封じ込め、市場経済の海を泳いできた。事件の風化がいわれて久しいが、中国当局は今日の経済発展などを理由に武力行使を正当化する一方、事件に関する報道や言論を圧殺し続けている。民主運動が再燃したら、共産党体制は今度こそ危機に陥ると警戒してのことだ。(北京 伊藤正)
■「五四運動」90年
1919年5月4日、北京の学生が日本の侵略に反対するデモをして始まった「五四運動」。その90周年の今月4日、北京の人民大会堂で、胡錦濤国家主席以下中国共産党のトップ9人全員が出席して記念大会が開かれた。
党を代表して李長春政治局常務委員が演説、「愛国、進歩、民主、科学」の五四精神をたたえ、「90年来、青年は常にわが国社会の最も積極的で、生気に満ちた力であり、祖国と民族の未来だった」と述べた。
20年前の同じ日、同じ会場で開かれた70周年大会では、趙紫陽総書記(肩書は当時=以下同)が演説した。それより前、4月15日に急死した胡耀邦前総書記を追悼する学生デモが起こり、趙氏の北朝鮮訪問中にデモは市民の声援を受け拡大していた。
その最大の原因は、学生デモを「反党、反社会主義の動乱」と断じた4月26日付「人民日報」社説だった。社説は、最高実力者のトウ小平氏の講話に基づいていたため、学生らは民主化要求を強め、党との対立姿勢を強めていた。
趙紫陽氏は五四演説で、事態収拾を図るべく、学生デモを五四運動と同じ愛国の熱情の表れと評価、民主化への努力を約束した。人民日報社説の否定に等しく、デモは沈静化に向かったが、トウ氏や李鵬首相ら強硬派との対立を招いた。
その後、学生が天安門広場でハンストを開始、市民、労働者も参加した数十万規模のデモが続く中で、トウ氏ら強硬派は趙氏を排除して戒厳令を決定、6月3日夜から4日未明にかけての血の弾圧になった。
トウ小平氏は問題の社説の撤回も修正も拒否し、最後には武力行使を指示した。青年層が変革を目指した点では、「五四」も「六四」も同じだった。しかし李長春演説は、天安門事件はむろん、89年を含め過去の民主運動にも触れていない。党への異議申し立ては党の敵対者という社説の精神は引き継がれているのだ。
■監視逃れシンポ
今月10日、北京市西郊の香山の某施設に、19人の知識人が集まり、「2009北京六四民主運動シンポジウム」を開いた。天安門事件関係の討論会はタブーであり、当局の監視を逃れるのに苦労したようだ。
討論記録によると、参会者の一人は、五四運動以来、国家権力によって個人の権利が弾圧された歴史を振り返り、強権政治の通弊とした。特に共産党が政権を握った後、55万人が弾圧された反右派闘争(57年)をはじめ、毛沢東時代の「暗黒」を指摘。
それは多分に毛沢東の独裁者的資質と極左主義に起因するにせよ、それだけではない。
76年4月の第1次天安門事件は、北京市民による極左路線への異議申し立てが「反革命」とされ、トウ小平氏は「黒幕」として公職追放になったが、翌年、事件は「大衆の革命的行動」と名誉回復され、トウ氏も復活を遂げた。
そのトウ小平氏に国民は絶大な期待を寄せ、それにこたえるように78年末に権力を握ったトウ氏は改革・開放とともに政治改革を打ち出した。しかし翌春には78年秋以来の民主運動を弾圧、その旗手的存在だった魏京生氏の逮捕を命じた。
毛沢東と違ってフランス留学経験を持つトウ小平氏は、国際感覚があり、西洋の合理主義にも通じていたが、権力掌握後は、毛沢東同様、体制や自分への批判に非寛容だった。それは権力の源泉である一党独裁堅持への執念でもあった。
そのためトウ氏は、西側のブルジョア思想を敵と見なし、86年の民主運動も弾圧、長年の同志だった胡耀邦氏を断罪した。その文脈でみれば、89年の学生デモも、学生に理解を示した趙紫陽氏も許容しなかったのは当然だった。
■腐敗の権貴体制
いま中国では、トウ小平氏の功罪が論議されている。中国に市場経済を持ち込み、今日の経済発展の基礎を築いた功績は大きい。国民の大多数は、その恩恵を受け、マンションやマイカーを持ち、海外旅行を楽しむ人も少なくない。
その半面で、貧富の格差は拡大、官僚の腐敗も深刻化、社会には不公平感が広がり、治安の悪化、紛争や暴動の頻発を招き、環境破壊も深刻さを増す。これは、トウ小平氏が目指した社会ではなかった。彼は引退後の93年、弟のトウ墾氏に対し、格差拡大への強い懸念を表している。
しかしその種をまいたのはトウ小平氏自身だった。天安門事件で趙紫陽氏ら改革派指導者や知識人、学生たちが追求した政治改革と民主化をつぶし、一党独裁下で資本主義化を図った結果である。
中国ではいま、権貴体制という表現がある。エリート支配層の党官僚と資本家が手を結び、労働者、農民を搾取して富を得る体制を指す。そこに汚職は付き物だが、腐敗は司法やメディアにもおよび、監視システムは十分に機能していない。
しかし、この20年間の経済・社会の発展は、共産党の支配体制を揺さぶり始めた。携帯電話、パソコンの普及によってネット情報が行き来し、一党支配を支える情報と宣伝の独占力は著しく低下した。党の宣伝を人びとは信じなくなった。
昨年12月、知識人たちが政治改革を求めた08憲章は、そうした社会変化を背景にしていたが、影響は限定されていた。多くの知識人、学生は格差社会の上級階級に属し、政治改革の必要は認めても、リスクのある行動には消極的だ。
その一方で、数億人いる労働者、農民ら社会的弱者層による暴動や当局襲撃事件が急増した。中国当局が警戒するのは、弱者層の不満を組織化し、人権や民主化の運動と連動する動きという。当局が天安門事件を再評価する道はなお遠い。
◇
■中国と天安門事件の動き
1949年10月 中華人民共和国成立
66年 5月 文化大革命始まる
76年 4月 第1次天安門事件
9月 毛沢東主席死去
10月 江青氏ら「四人組」逮捕
78年12月 改革・開放路線に転換
79年 3月 魏京生氏逮捕
89年 4月 胡耀邦氏死去。天安門広場で学生らによる民主化要求運動
5月 北京に戒厳令
6月 軍が天安門広場を制圧(第2次天安門事件)。
趙紫陽総書記解任。後任に江沢民氏
92年 1月 トウ小平氏、南方講話で改革加速促す
97年 2月 トウ小平氏死去
7月 香港返還
2002年11月 胡錦濤氏、党総書記に就任
08年 3月 チベット騒乱
5月 四川大地震
8月 北京五輪開催
12月 民主派勢力、「08憲章」発表
今日のクローズアップ現代でも取り上げられていたのだが、下記末尾「08憲章」の中心人物は逮捕、名を連ねた著名人も事情聴取などを受けたと言う。
そして今日は犠牲者の遺族を拘束、厳戒下でこの日を迎えたとか。番組に出演していた活動家の言葉では「民主以下には数十年、いや百年かかる」。それだけの時間をかけて本当に民主化が達成されるか、その前に流血を伴ないながら中華人民共和国が崩壊するか。
日本と世界の平和の為にも、その日が一日も早く訪れることを切に願う。
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