自衛隊の中国寄港に嫌がらせ、江沢民の二男が軍要職に就任ほか
胡錦濤「親日路線」で甦った人民解放軍「抗日遺伝子」
(2008年10月6日(月)0時0分配信 SAPIO
掲載: SAPIO 2008年9月24日号
文=ジャーナリスト 山村明義)
中国の今後の政情を見極める上で、党とともに注視すべきは約230万人の兵力を抱える人民解放軍の動向である。胡錦濤国家主席は、抜擢人事などにより権力掌握に努めているが、現状に不満を持つ江沢民派の軍人達が狼煙を上げ始めている。
いま、北京五輪後の中国情勢で、「大きな危険要因」と専門家が指摘しているのが、中国人民解放軍の今後の動向である。
「実は中国人民解放軍の現役幹部が、防衛交流などで大勢日本に来日してきている。夜の会合などで彼らは、中国人民解放軍の軍人の不満が北京五輪後も高まっていくのが心配だと本音を漏らしている。胡錦濤政権で腐敗する一方の共産党幹部に比べ、普通の軍人にはほとんど利権もなく、退職後の手当もない。将来、江沢民派の復権に乗じて軍部内の暴動など、暴発が起きる可能性は十分あり得る」
中国人民解放軍の動きに詳しい、日本のある軍事評論家がこう予測するように、解放軍の中国共産党幹部への不満は今後、「江沢民派への回帰」をもたらす可能性があるのだ。
確かに北京五輪のテロ対策では、中央軍事委員会主席を兼務する胡錦濤国家主席は、積極的な号令を次々と下した。郭伯雄・中央軍事委副主席を組長、陳炳徳・総参謀長や呉勝利・海軍上将ら、軍上層部を副組長とする「北京オリンピック軍事防衛工作領導小組」を創設。北京市街と近郊に8個師団を進駐させ、北京市内には地対空ミサイル「紅旗7号」を38組配備、第1級レベルの警備体制を敷き、大規模なテロを力で封じ込めた。
一方で最近までの胡錦濤は、自らの権力基盤を確かなものにするため、人民解放軍内に根強く蔓延る江沢民派を一掃し、50代前半の少将クラスの軍幹部を次々と抜擢してまで、軍指導部の若返りに躍起になってきた。
まず、昨年9月、第17回党大会直前には、総装備部部長だった陳炳徳を、軍機構のトップとなる総参謀長に格上げする異例の人事を行なった。中国共産党の中央軍事委員会の下は、大きく総参謀部、総政治部、総後勤部、総装備部の4つの機構に分かれ、中でも総参謀部は最も格が高いとされる。
「江派」で前任の梁光烈(現中央軍事委員)からの抜擢人事となった陳の人事には、07年の総装備部長時代の「アメリカの人工衛星へのミサイル破壊実験への論功行賞」という理由もあったが、かつて江派に近かった陳が「最近は胡錦濤に忠誠を誓ってきたことに対する評価」という側面もあるとされた。
さらに軍部の若返りでは、北京五輪直前の7月上旬、胡自らが劉振起・総政治部副主任、黄献中・瀋陽軍区政治委員、氾長龍・済南軍区司令員という50代の3人の子飼い軍幹部を上将(大将)に推挙した。この人事は、江沢民が総書記に任命されて以来の13年間で、合計62名の軍のトップを入れ替え、解放軍内部の掌握に成功したことを意識したものとされた。しかし、いまだに胡は上将クラスのトップを20人程度しか押さえておらず、さらなる組織の引き締めに迫られている。
このような軍事的な引き締め策と実績を積み上げても、なぜ胡錦濤への軍部の不満や不信は残ったままなのか。それは、反日色の強かった昔の江沢民時代への懐古主義という背景もあるが、人民解放軍の中に江派の人脈と遺伝子が根強く生き残っているからだ。
04年の第16回党大会で江沢民が引退に追い込まれてからも、江派の重鎮であった曹剛川・中央軍事委副主席(当時)を始め、前総参謀長の梁光烈、第2砲兵司令員の靖志遠ら、中央軍事委の委員数は江派が過半数を占めてきた。常に胡錦濤に対する忠誠を誓う表向きの姿勢はともかく、彼らはいつ寝返るかわからない。
胡錦濤は実権を掌握するため、07年に開かれた第17回党大会では、曹剛川副主席を引退に追い込み、「子飼い」の常万全・総装備部長を委員に迎えるなどし、中央軍事委員数を11人に増やした。だが一方で、反日反米姿勢で有名な朱成虎・空軍副司令員らも出世し、その後も江沢民の息がかかっていた「残党」たちはしぶとく生き残っただけではなく、その人脈が「復権」の兆しを見せ始めてさえいる。
資金源確保と不満吸収で軍部で再び力を増す江派
直近の象徴的な出来事は、江沢民の2人の子息のうち、現在人民解放軍総政治部副部長の任に就いている二男・江綿康の周辺で起きている動きである。
江沢民の長男・江綿恒と2つ違いの江綿康は、54年に生まれ、上海第二大学を卒業後、ドイツ語に堪能で独シーメンス社に勤務、その後に総政治部副部長に就任した。これはいわば江沢民の威光で送り込まれた典型的な「太子党(二世)軍人事」で、現在は上海郵電局副局長の肩書を持っている。しかし、注目すべきなのは、最近、江綿康の夫人である李玉丹(文化広播集団総裁)が、江沢民の娘である江丹、江派の馬凱・国務院秘書長、李長春・政治局常務委員らとともに、韓国の「三星手機企業」と提携し、「中国TMMB手機電視産業」という通信会社を上海で設立したことだ。
江派は、中国での情報拠点を欲した韓国大企業と手を組んでまで資金源獲得に乗り出したわけだが、これは解放軍の一部のバックアップがなければ不可能な話である。この通り、江沢民周辺の人脈は再形成されつつあり、これは江派が復権に蠢いている証拠だろう。
実際、胡派の軍司令官の数は増えても、時折、江派に近い派閥が猛烈な不満を示す。
「今年6月24日に海上自衛隊の護衛艦『さざなみ』が広東省の湛江に入港した際、中国軍が国際軍事常識である国旗と艦旗を前方に揚げさせなかったのは、胡錦濤と福田首相の相互訪問加速に反対する人民解放軍内勢力が存在するからだといわれた」(海自関係者)
また、軍部の反対で中途で立ち消えになったといわれる四川大地震への自衛隊輸送機による支援物資輸送構想の例を見ても、胡錦濤の「親日路線」には、「抗日」が存在理由だった昔の解放軍幹部にとって、強い抵抗感があるのがわかる。
実は四川大地震直後、中国共産党と中国人民解放軍の内部で起きた事件で、中国国内でも不可解で大きな謎が2つ残されていた。
1つは、なぜ温家宝首相は、あれほど早く現地に出かけられたのか。もう1つは、最も早く駆けつけるべき地元・成都軍区の解放軍部隊は、なぜ現地の救援出動に48時間近くもかかったのかという謎である。
だが最近、この謎はほぼ解けている。
まず、温家宝の迅速な行動については、四川大地震が起きた5月12日、温家宝は偶然、黒龍江省から河南省へ食糧事情視察に行く途中だった。一方、5月10日までの日本訪問で疲れがピークに達していた(香港の月刊誌『前哨』は、胡錦濤はその時間帯に睡眠中だったと指摘)胡錦濤へは、秘書が遮って連絡がつかず、仕方なく胡の代わりに、温家宝が河南省から北京経由で成都に飛んだ、という。ところが、中央軍事委のメンバーに入っていない温には、軍を動かす権限はなく、実際胡の指揮を待つだけの成都軍区の張海陽・政治委員は、指揮命令系統上、救援に動けなかった。そのため、駆けつけた温は、携帯電話を叩き付けるほどの勢いで張を怒鳴りつけたというのだが、鄧小平元総書記や江沢民にも近かった張震・元中央軍事委副主席の息子である張の側にも、温への深い不信感が残った。
この一連の人民解放軍内部の事件で見て取れるのは、いまだに軍は「共産党の軍隊」という意識が根強く植え付けられ、表向き胡錦濤には忠誠を誓うが、自らを立ててくれる江派への期待が残っているという実態だ。
現に胡錦濤が軍内部で若手を抜擢すればするほど、退役した軍幹部OBたちが、日本の歴史問題に対する訴訟組織を立ち上げている。
江沢民時代に戻るような反日的な動きが、復活し始めているわけだが、いま、軍の不満は巡り巡って日本や、胡錦濤の政治姿勢に行き着く危険性が膨らみつつある。
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