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2008年8月 6日 (水)

キングスクロス:プロローグ(9)

 東京・ヴェトナム大使館。
「只今戻りました」
「ご苦労だったな。しかし思わぬ展開になったものだね。フランスから事が公になるとは……」
「正直に申し上げますと、我々も少なからず困惑しています。これで余計に動きにくくなりました」
「そうだな……日本の警察と手を結べる望みはないのか?」
「今のところ、形跡はないですね。こういう事態になっても、どういうわけか未だ本気で真相解明に動く形跡がありません。望みは新たに立ち上げられた調査委員会ですが、顔ぶれを見るとキャリアのボンボンばかりで……」
「日本の警察は優秀だと進言したのは、君だった筈だが?」
「表現が不適切でした。いや、一人一人は間違いなく優秀な人材ですが、どうも最終決定権・捜査権を与えられてはいませんね。内外の批判をかわすため、形だけ立ち上げたものと言うのが、情報通での共通認識です。日本政府そのものが黒幕ではと将軍は仰った、あれは冗談半分だと認識していますが、ひょっとしたら冗談では済まないかもしれません」
「おい、おい……」
「敢えて言えば、気になる人物がいるにはいるのですが……」
「誰だね?」
「工藤義将。警視庁公安部付ですが、先日まで外事課担当。東大法学部卒で日本警察内ではエリート中のエリートでしたが、二年前或る事件に事実上連座、以降ラインを外れていました」
「エリート中のエリート……君がそう言うからには、余程の切れ者と思っていいのかね?」
「そのつもりです。ワールドカップ直前の、北朝鮮副主席狙撃未遂事件は覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、訪日中のことだったね……あの後副主席は亡命、日本では警備局長が急死、平壌でも粛清の嵐が吹き荒れたという……」
「そうです。この工藤と言う警察官は、副主席警備本部のキーマンでありながら、狙撃グループにも利用されていたと見られています。事件後雌伏を余儀なくされていたのはそれが原因ですが、その間表には立っていませんが二件の外国人犯罪捜査に参加、事実上彼の功績で解決に導いています。それが今回、名目上とは言え重要案件の調査担当としてカムバック……気になります」
「わかった……その人物をマークしていれば、何かわかるかも、ということだな?」
「そうです。彼自身の意思なのか、誰かの思惑が働いたのか、そしてその真意は?今はまだ霧の中ですが、少なくとも痴漢詐欺が警察を巻き込んだ大掛かりな謀略の一環であることだけはこれで間違いありません。いずれ、尻尾をつかんでみせますよ」

 二〇〇七年九月十七日、ルアーブル。
 戦後、「全てを鉄筋コンクリートで」という、当時としては画期的な工法で復興した、典型的な現代計画都市である。市庁舎や美術館の並ぶ中心地から歩いて十分ほどの距離に、そのアパートはあった。設計したのは建築家オーギュスト・ペレ。当時としてはあまりにも前衛的なそのデザインは、石造住宅に馴染んだ住民からは当初不評で、わざわざモデルルームを用意して意識改革から始めなければならなかったという。半世紀以上経った今なお前近代的に見えないその棟の一角が吹き飛び、焦げて崩れた断裂面から、血管か神経のように醜くひん曲がった鉄骨が突き出していた。
「……つまり、爆発元はその女性の部屋なんだな?」
「そうです。最近になってイギリス人の姪が同居を始めています。遺体はその、伯母と姪の可能性が大です」
「素性は?」
「伯母は数年前に図書館の司書を退いて、今は年金生活。姪のほうはパリで調剤師として働き、週末だけこのアパートに泊まっています。本人については、それ以上詳しいことはまだわかっていませんが……」
「何だ?」
「弟が、ルーアンの選手だそうです?」
「リーグ・1(アン)か!」
「そうです。現在遠征中ですが、クラブと連絡が取れました。間もなく駆けつける筈ですよ」

 ムンバイ。

 モスクワ・クレムリン大統領執務室。
「妙なことになったな……ミャンマーの件がつながっていたとは」
 ストロガノフは呟いた。イラクの某宗教指導者を通じての、チェチェン外交筋からのコンタクトに、クレムリンは仰天した。しかも背後に、アメリカとヴェトナムがついているとは。
「北京は何を考えているんだ?チェチェンを使っていると言うことは、明らかに我々を巻き込む意図があるということだ。それで、今になっても挨拶一つないというのは……」
「二つ考えられます。一つは、この計画自体が我々の国益と真っ向から矛盾する場合。しかし、台北や東京相手ならともかく、不用意に手を出せば火傷もしかねないことは彼ら自身よく自覚している筈ですから、これはあまり考えられません。過去の歴史を忘れ厚顔無恥に陥ったのなら話は別ですが」
「君に言われては、彼らのほうが気の毒だな……まあいい、二つ目は?」
「作戦を指揮すべき、北京で意見の相違が発生している場合です」
「仲間割れか?」
「それはわかりません。作戦遂行の是非そのものを争っているのか、単に作戦指導部内の主導権争いなのか。尤も、作戦そのものの目的すらつかめていない現時点では、推測の域を出ませんが」
「その通り。今は何より、それをつかむのが最優先だ。でないと我々も対応策を考えようがない。と言ってもワシントンが既に一枚噛んでいるとなれば、ある程度選択肢は限られるが」
 情報提供者はこれがクレムリンへ伝わることを計算の上か否か、デリーと連絡を取り合うことを示唆していた。デリー。第二次世界大戦後、国境問題で早くから北京とは火花を散らせていた仲で、冷戦が終結した今も、アメリカとヴェトナムのような関係修復への途はまだまだ遠い状態だった。
「二キータと話してみるか……」
「ロストフ大使ですか?」
 FSB長官の露骨な不満顔に、ストロガノフは苦笑した。印中ほどではないが二人の不仲は、今やクレムリンで知らぬ者はいない。
「気持ちはわかるが、本気でインドを動かすとなると、彼抜きで話を進めるわけにはいかない。それにインドは先日、カシミールで中国の国境侵犯未遂以降、神経過敏になっているらしい。最終的に組むかどうかは別として、つんぼ桟敷で進めるのは利口じゃない。私が大使館に電話をかけよう。口実は君が適当に考えてくれ。頼むよ」
「わかりました」
「それと……後は、チェチェン経由で持ち込まれた『荷物』の足取りだ。ミャンマー経由計画をアメリカが潰しに来たと言う事は、ただの衣装ケースなどではあり得ないという事だ。中身も勿論気になるが、どこからどう入って来て、今も我がロシア領にあるのか、それとも既に第三国へ運び去られているのか。どういう対応を取るにせよ、状況を少しでも正確に把握しないことには始まらない。出来るな?」

 十一月一日、ニュルンベルク。
 ホテル火災で消防に続き駆けつけた警察は、焼死者の身許を知って大騒ぎとなった。
 ウィルヘルム・ヘス。職業・サッカー審判員。公正なジャッジングでドイツ国内のみならず世界中に知られ、ワールドカップの決勝戦を捌いたこともあるあるベテランだが、過日の北京オリンピック最終予選でのジャッジを巡って或る疑惑が浮上、FIFA(国際サッカー連盟)の事情聴取を受けることになっていた。現場から発見されたのはウィルヘルム始め家族と特定されたがただ一人、同居していた筈の次男だけ遺体がなかった。フリードリッヒ。ヘス。かつては代表入りも確実とまでその才能を認められ、自らは叶わなかった父親の夢をも担っていたが、あの九・一一に居合わせたばかりに負傷、選手としてのキャリアを棒に振ってからは酒、薬とセックスに溺れる一家の厄介者になっていた。さらに捜査を進めていくうち、この若者がある小規模な右翼団体の一員であることが判明した。
「鉄の騎士団」。ご多分にもれずネオナチの流れを汲むが勢力・規模は小さく、各国当局の監視対象リスト中でも優先順位は下のほうとされていた。彼の入団は約半年前。警察はこの次男を重要参考としてマーク、捜査を全国に展開した。FIFAでの事情聴取の理由になっていた疑惑は、いつの間に捜査線上から消えたも同然になっていた。

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