キングスクロス:三.アレキサンドリア~バルセロナ(五月二十一日~六月二日)(3)
スペイン・バルセロナ郊外モンセラット修道院。
カタロニア信仰・民族意識の聖地であるここは、奇抜な建築物の目立つバルセロナとは対照的に、ストイックなまでの佇まいを見せていた。
磨き上げた真っ赤なBMWのクーペが一台、地中海に面する切り立った崖道を滑るように登ってきた。入口から少し離れた駐車場代わりの空き地に停車すると、降り立ったのは一人の、背の高い男。明らかにアフリカ系を示す目つきや厚い唇と、ラテンの血を受け継いだ高い鼻梁、そして今なお長々と背後に束ねた黒髪の、しかし所々抜け落ちていることはごく少数の関係者しか知らない。
泉水盤で口と手を清めてから聖堂に入ると、紙幣を喜捨箱に捩じ込んでから蝋燭を灯し、身廊の会衆席に跪いて祈りを捧げる。
無人と思われた聖具室から現れた一人の修道士が近づいてきて、聖堂の隅に導く。カトリック教会なら万国共通、その位置にあると決まった聴悔室に入ると、固く扉を閉ざしてから仕切りの格子にはまった引き戸が引かれた。
「何の用だ?市内の酒場でもいいじゃないか。よりによってここ……」
「今からする話は、絶対に誰にも聴かれてはならないからだ」
「神が聴いておられる」
彼の言葉に相手は、神の僕にあるまじき冷笑を浮かべた。
「帰る。本物に会って……」
「だったら破滅してもらうことになる」
「何のことだよ」
「君のチームメイトのことだ……ただの物盗りとは君も思っていまい?」
「……あんたが殺ったのか?」
「違うが、殺させた人間が誰かは知っている。お前が今、私の話を聴かず立ち去れば……言いたいことはわかるな?」
「言うとおりにすると思うか?」
「神のお導きだ」
「軽々しく神の名を口にするな。わからないぞ。今『はいわかりました』と言っておきながら、帰ったらその足で警察に駆け込むかもしれないぞ」
「そして殺人の主犯として逮捕される」
「そんなことはできない。俺には世界がついている」
「三年前ならな」
「……」
「一昨年のドイツでは宿舎で連夜のセックス三昧の結果コンディションを崩しベスト八止まり。コロンビアの何とかという選手みたいに鉛玉を食らっていたほうがよかったかな?クラブもチャンピオンズリーグ敗退、おまけにリーガでは報復行為で一発退場の挙句無冠、背番号一〇だけは保持しているがベンチを暖めるだけの聖像だ。断言してもいいが今度何かやらかせば、お前のキャリアはブラジルでもヨーロッパでもジ・エンドだ。お前の嫌いなフランス人のFIFA新会長は躊躇せずお前を斬り捨てる。レアルのサポーターは、ミサを挙げて喜ぶだろうな」
「……」
「言うとおりにすれば最大限の便宜は図ってやる。何兆ユーロ積んででも補強し、お前の大好きなユニセフにもがっぽり寄付がもたらされる。お前はテクニシャンと言うだけでなく、永久に全世界の子供たちの救世主として永遠の名声を手にする。どちらがいいか、考えるまでもあるまい?」
「……で、何をすればいい?」
「しばらくして、ここにもう一度来てもらう。東のほうから、或る荷物が届くことになっている。お前はそれを受け取り、港から或る船に乗ってもらう。荷卸先はアメリカ。詳細はまた知らせるが、面倒な手続は我々が皆済ませるからお前は心配しなくていい」
「俺の名前で何か運ぼうってことか……薬なら御免蒙りたいが。新会長体制になって薬物にうるさくなったのは知らないのか?表沙汰になれば、それこそあんたの言い草じゃないが俺は終わりだ。あんたのボスが誰かは想像が……」
「それ以上は言わないことだ。さもないと……」
「わかったよ」
「……まあ、お前の心配も尤もだから教えてやろう、心配するな、荷物は水でとけるものじゃない。他に質問は?」
「ないよ」
「賢明だ。神のご加護を」
「糞食らえ」
リバウジーニョはそう吐き捨てると踵を返し、ファサード真下で祭壇に一礼してから前庭のBMWへと駆け下りていった。
ベルリン・内務省。
「主審を脅迫していたのは中国?」
「辻褄は合う。あの時点で最終予選突破絶望だった所為で、日本国内のオリンピック熱は一時冷え込んでいた。どんな手を使ってでも日本に最終予選を突破してもらわねばと、北京が考えたとしてもおかしくない」
「……」
「そもそもネオナチ犯行説が浮上したところで、当のネオナチが動き出した。やったのは自分たちではないというわけだが、それをどこに持ち込んだと思う?」
「さあ?」
「ミュンヘンのイスラエル領事館」
「ええっ?」
「謂わば一番の仇敵……意味はわかるな?総領事は、言い分に偽りはないと直感したそうだ。捜査本部も方針を転換、一から調べ直しに入っている」
「ネオナチ説はガセか。しかし、メディアではまだ優先マークしていると……」
「カモフラージュさ。ネオナチだけじゃない、多くの左右過激政治組織が内々に連絡を受けている。当分目立った行動はしないように、とね」
「だとすると、日紅の採掘権打切りでは日本も被害者ですね。それを中国が狙うなど、マッチポンプもいいところだ」
「ああ。実現しなかったのは単に、中国の関心が薄かっただけと思っていたが、こうなると理由は違ってくる。真相に気づいたサウジアラビア側が突っぱねたんだ。採掘権がインドに行ったのも当てつけだろう。北京が反発しなかったのはおかしいと思っていたが、後ろめたいから何も言えなかったのさ」
「それで、日本に八つ当たり……ですか」
「……舐められたのさ。政治がその気になれば事情は違ったろうが、戦後一貫して去勢者並の弱腰外交では……な」
「なるほど。それでもここ最近は、何とかしようという試みがあったようですが、去年の政変で水泡に帰していましたね。アジアは、いや世界はこれからどうなって行くのでしょう?」
「それは……」
フランツがそこまで言いかけた時、電話が鳴った。交換台は、ピレウス駐在の領事館からだと言う。何事かと首を捻る同室者を前に数分間話していたフランツは、眉を寄せて受話器を置いた。
「ギリシア南部の運河で、一人の女性の死体が揚がったそうだ。持っていたパスポートはギリシアだが名義は架空。ギリシア警察が捜査したところ、正体は……MI六だったそうだ」
五月二十五日 コルチュラ。
バルカン半島の、アドリア海に面した西岸を守るように並ぶ細長い島の一つで、それ自体リゾート地であるだけでなく、交通の便から他の島々への、重要な観光拠点にもなっていた。有名な中世ヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロはここの出身であるという、未確認の伝説も持っている。
彼は旧市街の入口であるトミスラフ広場脇、郵便局の向かいにある空き地にいた。ここでは毎年夏の夜、モレシュカと呼ばれる民族舞踊の催しが行なわれている。キリスト教徒とイスラム教徒を表す赤、黒の衣装を着けた二組の集団による剣舞で、かつては地中海沿岸の各地で見られたという。あらすじはイスラム教徒の「黒い王」がキリスト教徒の「白い王」の婚約者を誘拐、戦いを挑んだ「白い王」は七回の勝利の末、婚約者の奪回に成功したと言う。
時間になっても待ち合わせの相手が現れないなと思いながら、背後に異様な気配を察知し振り返ると……一人の司祭が立っていた。山高帽の下に、見覚えのある顔が乗っていた。
「何の仮装大会だ?」
「大真面目だよ。荷物を持ってきた」
「どこだ?」
何処から見ても身一つの相手を見て、彼は訊いた。ポケットに隠せるような大きさの代物だとは聞いていないが……
「目立ちすぎるから、ここで直接の受渡しはしない。この封筒に入っているパスポートと切符で、すぐにここを離れてもらいたい」
彼は封筒の中身を改めた。イタリア国籍のパスポート、明日のバーリ行きフェリーの乗船券。紙片には、船舶ターミナル近くの私書箱の住所と鍵。
「中身を受け取ったら鍵はどうする?俺が持っていても仕方ないだろう?」
「バーリからは、列車でジェノヴァへ向かってもらう。そこで次の連絡員に、荷物と一緒に渡してくれればいい。ついでに、私書箱には荷物と一緒に携帯電話が入っている。その後の行動は、すべてそれで指示するから電源を常に入れておいてくれ。くれぐれも、無駄遣いしてバッテリー切れにしないことだ」
「わかった」
「今夜の宿は?多分まだ決めていないと思うが?」
「そうだ。指示があれば言ってくれ」
「海岸のリゾートホテルを取ってある。都心からはちょっと離れるので不便だが、ゆっくりできる。退屈ならナイトライフに出てきてもいいが、最近は物騒だから気をつけたほうがいい」
「一番いいのは部屋に缶詰、か?」
「我慢できなければ出張サービスを頼むのも選択肢だ。ただ、下手な相手はやめたほうがいい。その気になったら言ってくれ。希望の時間に、こちらで選んだ好みの女性がお前の客室のドアをノックする。支払いはこちらに回してくれていい」
「女?」
「どちらでもいいが。ここはアラブじゃない、何でもありだ」
「まあ、気が向いたらそうするよ」
彼はそう言い、カフェの勘定書を持って席を発った。
デリー・首相官邸。
「ミャンマーが想定ルート……そう言えば、国交を回復していたな?」
「そうです。日本ではそれに反発して投資が減少、同時にアメリカの制裁検討で他の国も投資を自粛。対朝密貿易のトンネルにしたい中韓は逆に増やしているようですが、全体としては急激に落ち込んでいます。その分、内情も今まで以上につかみにくくなってはいますが」
「それでヴェトナムがよく察知したな?やはり地の理か?」
「と言うより、昔から仲はよくないんですよ。二国間と言うより東南アジア全体が互いにね。タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、そしてミャンマーとヴェトナム。千年以上も前からあの地域での主導権を争っているんです。北東アジアと同じで、隣人同士はうまくいかないということですよ」
「しかしASEAN……」
「だからASEAN、なんです。日本や中国が主導権を握ろうと干渉しているようですが上手くいかない。いやそれで紛糾する可能性だってあるのだから、個人的には、そっとしてやってはと言いたいところですが、中国が考えを改めない限り……」
「手を引くわけにはいかないわけだ。尤も確かに、ヴェトナムと中国は今でもギクシャクしているな。そうするとこの情報も信憑性があるわけだ……となると、ミャンマーから中国へ引き返したのもネピドーの暗殺事件が原因かな?」
「ひょっとしたら、オリンピア寄港中止もね」
「本当か?」
「根拠はありませんが、タイミングが合うのは事実です。先入観を排除して確認中ですが、内務省のスタッフは皆疑っていますよ」
「そうか……」
ミャンマー政変との因果関係はともかく、中国がこのクルーズで何かを企んでいるのは間違いない。幸か不幸かムンバイでは何事もなく去っていったが、それが解明されない限りこの事案が解決されたとは言えない。スエズを通過してアジアからヨーロッパに入った船は北岸を西進、その先には二つの大洋を分かつ新大陸が横たわっている。
中国が何かを考えているとすれば、新大陸であるように思えてならない。ターゲットがアジアだとすれば、ムンバイに来る前に何かあった筈だからだ。アメリカとはこのところ摩擦の絶えないベネズエラの影がちらついているが、その背後に中国がいるなら大問題になる。上手く処理できなければ、現在の平和も破れることも想定せねばなるまい。北京と何かと距離を置いているロシアも、いざとなれば立場上どこまで味方になってくれるか。遠ざかっていく船影とは裏腹に、その船底に積まれた危機は膨らむ一方であるようだ。
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