【北京五輪】福原選手へ
長野聖火リレー乱入のあのチベット人を独占直撃
「中国の人たちのダライ・ラマ法王への悪口だけは我慢できなかった」
(2008年6月20日(金)0時0分配信 SAPIO
掲載: SAPIO 2008年6月11日号
取材協力/ペマ・ギャルポ 聞き手/西村幸祐)
長野の聖火リレーで卓球の福原愛さんの走行中に飛び出し、威力業務妨害罪に問われた台湾国籍の亡命チベット人、タシィ・ツゥリン氏。20日間という異例の長期拘留にチベット支援団体などから抗議の声が高まるなか、5月16日に釈放された。支援団体が募った義捐金から罰金50万円を払ったのである。今回の拘留について、支援活動について、そしてチベットについて、いま何を思うのか。翌日に帰国したタシィ氏を、釈放当日に独占インタビューした。
――異例の長期拘留でしたが、どんな取り調べを受けましたか。
最初はここまで長くなるとは思いませんでしたが、警察は私のことを多少調べていたようで、それを確認していく形でした。私はチベット青年会議の一員として、チベットのための抗議行動や自分たちの伝統を主張する活動をしています。日本にはバンコクの聖火リレー(抗議)に行ってから来ましたし、インド、ネパール、ドイツにも抗議活動に行きました。恥じることも隠すこともないので積極的にお話ししました。最後には平和的な活動をしていることを納得してくれたと思います。
――それらの費用はどこから捻出したんですか。
そこは警察が一番聞きたかったことのようです。誰かが金を出してやらせているんじゃないかと。台湾の仲間からカンパをもらって行ったこともありますが、今回はひとりで来ましたし、全部自分のお金です。10年前に、正直なところお金を稼げるんじゃないかと思ってインドから台湾に来たんです。古物商をやって、お金を貯めました。すべてはダライ・ラマ法王、チベットへのお布施のつもりなんです。今回のことも修行のひとつだと考えています。
また、支援してくれた皆さんのカンパには本当に感謝しています。私はよく片手では音が出ない、両手だから音が出ると言うのですが、こうして出てこられたのは、私が中で頑張っていたときに外で皆さんが頑張ってくださったおかげです。日本人はただチベットを支援するというのではなく、正義を支援してくれている、日本人には正義感があります。
――日本にも仏教文化が根ざしています。
聖火リレーの前日はお寺に泊めていただいたんですが、今度日本に来るときはそこで瞑想したいです。また、聖火リレー当日には善光寺にも行きました。在日チベット人の方々もいましたし、インドの亡命チベット人が居留するキャンプのような雰囲気でした。私は名前を知らなかったんですが、(飛び出した時の走者が)福原愛さんという(後で来日した)胡錦濤主席と卓球するほど中国と関係の深い有名人だったのも、善光寺でお祈りしたおかげかもしれません。
――長野で中国人との接触はありましたか。
聖火リレー当日の朝には普通に会話を交わしていたんです。「チベットは中国の一部だ」「チベットの人権のために来たんです。あなたは民主主義を認めますか?」「認める」「チベットの人権を認めなければ民主主義はありえませんよ」というようなやりとりをして、最後には手を取り合い握手したんです。
ただ聖火リレーのときは違いました。私がデモしているときに、後ろから中国の人たちが挑発的な言動をしてきたんです。私には「ダライ・ラマ法王万歳」と言う癖があるんですが、中国の人たちに「ダライ・ラマは頭がおかしい」と悪口を言われ、カッとなってしまったんです。ダライ・ラマ法王の悪口だけはどうしても我慢できなかった。
――北京オリンピックについてはどう思いますか。
地震の被災者を1人でも多く救う方がオリンピックより大事なのではないでしょうか。中国政府はチベットに害を与えていますが、中国の人々には同じ人間として幸せになってほしいと思います。
――家族について教えてください。
1959年のチベット動乱の際、私の兄3人が殺されました。捕虜になった父親も死刑宣告を受けていましたが、その前日に脱走しました。父と母はお寺に入っていた幼い兄を連れ、昼間はどこかに隠れ、夜になると走ってというふうにしてネパールに逃げました。その後、インドに渡ったのです。私はインドで生まれましたが、両親は現地の言葉もわからない状態で私たちを育ててくれました。
父は5年ほど前に亡くなりましたが、いまは姉が1人、妹が2人います。アメリカ、ドイツ、インドにいます。ドイツに行ったときには、妹と久々に会うことができました。また、台湾には妻がいます。妻もチベット人ですが、私の活動についてはよく理解し、信頼してくれています。
――チベットについてはどう教わりましたか。
チベット語も仏教も両親から学びました。父からは、「チベットは宗教のある国で、宗教のある国には慈悲がある。その慈悲は公平に分かち合われるものだから、平和で幸せだった」と聞きました。父の世代は「必ずチベットに戻ろう」「チベットを取り戻そう」と思っていたんです。「自分たちの夢をつないでいってほしい」と言っていました。その言葉を思い出すと、私は自分を制御できなくなってしまうんです。
――今後の活動はいかがですか。
チベット独立は私ひとりの力ではできません。でも私が頑張ることによって、また次の世代が頑張ってくれることでしょう。私は私ができることをやるしかないんです。
…こ れ で も 出 場 し ま す か ?
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