Time Up:十四.守るべきもの(下)
五月二十五日。
小田は、横浜市西区みなとみらいの警友病院に入院中の工藤を見舞った。
「処分が決定したんですね」
小田が無言で渡す書類を工藤は受け取り、一読して驚きに目を見開いた。
「県警警備部管理官……横滑りですか」
「それのお蔭じゃないか?」
小田が指した右腕の包帯を工藤は見た。もしあのナイフに毒でも仕込まれていたら、二階級特進だったかもしれない。だが、それをカウントして横滑りということは……
「まあ、解釈は自由だが、今の警察に人材を遊ばせる余裕はない。競技場に銃を隠した人物、当日西スタンド席を買った朝鮮人……君達もずっと寝ていられては困るんだ」
「我々……そう言えば所轄の斉木巡査……」
「復帰したよ。今日は競技場警備の筈だ」
「ああ……今日から再開でしたね」
工藤は競技場の方角に視線を向けた。背後の窓外では、西日を受けたベイブリッジが朱色に輝いていた。
「井出さんは色々動いていたらしい。亡くなったのはショックだろうが、それで君も助かったんだよ」
「わかりました。本日はご足労さまでした」
照れ隠しか工藤の厄介払いに苦笑をこらえた小田は、しかしドアに手をかけたところで呼び止められた。
「何だ?」
「そのポーカーフェイス、やめたらどうですか?」
振り向いた小田は微苦笑を返し、敬礼を交わして廊下に消えた。
横浜国際総合競技場周辺は一週間ぶりに賑わっていた。一ヶ月余り中断したJリーグの再開初戦で、サポーターが列をなす開門間近のゲート前では手荷物検査。北ゲート担当の斉木にとって、私的観戦はお預けということでもあった。
背後の声に振り返った斉木は、サポーターの一団が中央に掲げた三浦達哉の遺影に胸が詰まった。抱える川上貴子が長髪を肩の所でばっさり切っているのが、痛々しかった。
「あなた達……ごめんね、お葬式にも行けなくて」
「知ってます。ニュース見ました。大変だったんでしょう?」
そこへ非番で現れた中川に気づき、斉木は姿勢を正した。
「どうした?……あ、その写真……」
中川の反応に、川上が怪訝そうに首をかしげた。
「あの、こちらは?」
「三浦君の敵を討ってくれた刑事さん。お礼を言いなさい」
斉木の言葉に若者達も姿勢を正す。川上は目を潤ませていた。
「ありがとうございます。彼も喜んでくれると思います」
中川は咄嗟に返す言葉が浮かばず、曖昧に頷き返した。
「僕だけじゃない。彼女も活躍して、今度昇進が決まってるんだ」
「おめでとうございます」
今度は斉木が照れる番だった。彼女には巡査部長の内示が下りている。事件の後始末はオフレコとて説明するわけにもいかず、曖昧にうなずいた若者達は、入場を待つ列へ去っていった。数人が去り際に残した敬礼に応えて見送り、二人はしばらくそこにたたずんでいた。
「あ、あの、ご苦労様です」
「ああ。怪我はもういいのか?」
「はい、だいぶ」
斉木は制帽を脱いで見せた。派手に包帯を巻いていた額にはコースター大の絆創膏が貼ってあった。
「なるほどね。あ、そうだ、このたびは昇進おめでとう」
「ありがとうございます。あの……実はSITに誘われてるんです」
「……そうか。伊東君は知ってるの?」
「はい。希望してできる任務ではないし、引き受けるべきだって……でも本心じゃないってくらい、わかります。あたし自身、今回の任務も全然想像してなかったし、それに……」
「『氏名削除』か?」
「それはSATです。それよりあたし、怖いんです。また人を撃つのが。今回も、凱通訳の発砲で反射的に彼女から銃口を逸らしてしまって……あたし、今度銃を握れるかどうか自信ない。SIT以前に警察官失格ですよね」
「気持ちはわかる。俺も、辞めようかと思ったが……あの後加藤に言われたんだ。やり逃げは許さんってね」
「……」
「全部終わったわけじゃない。俺が今後何ができるかわからないが、今辞めたら早紀にも、尚子にも顔向けできない気がするんだ。誰かが果たすべき任務に指名されたなら、全力を尽くすべきだろう」
「ありがとうございます……よく考えてみます」
狙撃発生後の数日間は、その後の急展開もありマスコミが先を争って事件を追跡、早紀の悲しい正体に関する緘口令がなければ、今はひっそり悲しみに耐える片桐家、浮田家、松嶋家は餌食になっていた筈だ。
斉木には守るべきものがある。守られるというべきか。加藤が今後誰かとやり直せるか否かは加藤次第だが、中川が今後何を守っていくべきか、早紀がそのヒントを遺したのではないか。
一階北スタンド席の座面裏にはビデオテープ大の空洞。捜査の結果この座席はJリーグ中断前最後の試合時に破損、修理を依頼していたと判明、業者に捜査員が急行したがもぬけの空だった。
当日、一味からチケットを受け取った早紀は拳銃を手に西スタンドで待機。北スタンド席も使ったのがカモフラージュか、当初西スタンド席が手に入らなかったのかは不明。去年のチケットは不注意と上層部は見ていたが、中川は早紀がわざと落としたと確信していた。保土ヶ谷への車中では「信じてる」と言っていたが、既に状況は察知していた筈ではああ言うしかなかったのか、それとも一縷の望みだったのか。
メールにあった訓練所だが、元拉致被害者の証言では敵地工作地という区域があり、他の区域と厳しく隔離していたと言う。訓練と言えば凱通訳も、相当に具体的な指令を受けていたと見られており、鄭の遺志に反し早紀を守りきれなかった捜査員の、静かな憤りをかきたてていた。朝鮮人、安智鉄が入手したチケットもゲートでの半券回収を確認。関与は疑いなく口封じの可能性も大だが、首謀者を摘発し根を絶つまで、斉木に語った通りこの事件に完全解決と言う名のタイムアップはない。彼が退官を断念した、それが一番の理由だった。
午後五時、定刻通り開門。オレンジや青、緑のライトアップで夕闇に浮かび上がった競技場が行列を飲み込んでいく。それを見届けた中川は斉木の敬礼に見送られ、駅の方へと戻り始めた。
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