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2008年5月 1日 (木)

Time Up:九.攻勢(中)

 徳田信枝逃亡の一報に、井出は羽田へ向かう車を急遽Uターン。小田が彼から電話を受けたのは、黄副首席国会訪問の最中だった。
「民間に犠牲が出たのはまずいですね」
――それはわかっているよ。
 小田の反応を皮肉と取ったか、井出の口調は厳しかった。
「ただ攻勢のチャンスかもしれません。彼女は自ら正体を暴露、国内に逃げ場をなくしました」
――気楽なものだな。
 井出は皮肉を返してきた。
――爆破予告にあった口座には確かまだ二回分、四十万ドルが未振込みだが、どうすべきかな?
「払い続ける意味はありません」
――逆効果の危険もあるが……片桐幸子にもそうするんだろうね?
「――」
――黙っているつもりだったのかね?
「遺留品を科捜研(科学捜査研究所)でDNA鑑定中で、同一と確認できてからご報告の予定でした」
――確認結果は後として、すぐ報告すべきだったな。不祥事続きで世論も厳しい。君が疑われる可能性もあるんだぞ。
 井出はねちねちと続けてきた。
――一年前、横浜市内で一緒にいた女性とも同一人物かな?
「やはり遺留品の鑑定待ちです。ただ一味の可能性は大です」
――その捜査員が共犯の可能性は?
 小田は暫時瞑目、考え込んでから言葉を継いだ。
「聴取した心証はシロですが断定はできません。以降警備任務からは外しました」
――当座はそれでいいとして……情報もそこから漏れたか?
「捜査員の死亡はいずれも中川早紀の周辺で、辻褄は合います。現在は失踪、今後情報漏れの心配はありませんが、警備は見直しが必要です」
――間に合うのかね?黄副主席も明日横浜入りだが……その捜査員に接触してくる可能性は?
「泳がせると?しかしそれは囮捜査になりませんか?」
――民間人でなければ問題ない筈だが……ただ、行過ぎだけはするなよ?君は否定的だったがサロメという選択肢もある。盧氏は今日日本を離れ連絡が取りにくくなるが、一応考えておいてくれ。じゃ。
 情報が下りなかったり正規のルート外で報告を受けたり、今回の井出の動きは不自然すぎる。もう看過できないと小田は思い、切れた携帯電話をしまった。

 二時間後、所沢のダイナマイト紛失で埼玉県警から報告。この業者のワンマン経営者が借金していた事業者金融が、極東興産の子会社だったのだ。
 その時、パソコンを叩いていた捜査員が叫んだ。
「ネットに、徳田信枝を名乗る書込み!」

 再度日本政府に告ぐ。指定した口座に要求した金額を振り込め。期限は五月十八日、サッカー朝日親善試合終了時。さもなければ共和国副主席他、観客の安全は保証しない。

――日本の警察も随分舐められたものだな……中央の対応はどうだ?
 受話器を通した大野刑事部長の声は、うんざりしているように小田には聞こえた。
「広報が対応中です。佐々木長官は立腹されていたそうです」
――そりゃそうだろう。しかしどうしたものか……
「局長から伺ったのですが、中国に楔を打ちます」
――中国?
「現情勢下で北朝鮮への直行は難しく、韓国も国際テロリズムには神経質です。そこで先手を打ち、領内通過拒否を要請するそうです」
――相手がウンと言うかな?
「台湾の元総統がまた訪日を希望しているとか?前回は当時の田宮(たみや)外相が今後認めないと発言しましたが、その田宮外相も更迭されているし、カードになるんです」
――元総統訪日……確かに強いカードだが、このところ日中関係も冷え込み気味だし、切り方が難しいな?
「最悪ODA(政府開発援助)見直しのカードもあります。当然北京は反発するでしょうが、テロ支援国と見なされれば五輪どころではなくなる。日本はただ毅然と対応すればいいのです」
――ノーと言えない日本の警察官僚としては頼もしい意見だねえ。まあ君の口から出すのはリスキーだが、上から意見を聞かれたら私から進言してみよう。
 効果はすぐ現れた。中国政府は外交部が臨時に記者会見、魚前人民武力相が亡命を希望しても受け入れないと表明。徳田信枝のとの字も出なかったが、彼女が聴いていればノーの意思表示と理解する筈だった。
 夕方、脱走事件の犠牲者が無言の帰宅。ダンプカーに轢かれた大学生の父親は、徳田信枝は人間の屑だ、政府は威信をかけ検挙、厳正に処断すべきと語った。護送車運転手の、小学生の息子はカメラに向かい、革命なんて糞食らえと叫んだ。世論は、殺人を犯して『闘争』を続ける彼女に反発、都内では総聯幹部宅に火炎瓶が投げ込まれ、知事が冷静な対応を呼びかける事態となった。
 余波は国内にとどまらなかった。北京では、当初こそ緩やかだった北朝鮮代表チームのマスコミ対応が一変、インタビューでも顔を曇らせる選手の背後に、厳しい顔の関係者がフレームインするようになった。
 早紀を診察した脳外科医死亡の状況も判明。同時期被害者宅付近で連続放火があり、捜査中だが犠牲者はこの脳外科医一人。これだけなら偶然だが、直後、助手に脅迫電話があったのだ。内容は「秘密を漏らすな」。助手は心当りがなく、家族に危害が及ぶともあったので黙っていたのだ。警備本部は記憶喪失の件と推測、事件の再調査を要請した。
 事態は依然予断を許さぬながら警察は一連の事件発生以来、ようやく攻勢に転じようとしていた。

 同日深夜、新横浜プライムホテル。
 或る電話を受けた小田は、工藤を廊下に呼び出した。
「何ですか?」
「夕方局長に電話したら、徳田信枝の件で雷を落とされたよ」
「そうですか」
 世間話など絶対にしない小田の言葉に、工藤は戸惑った。
「片桐幸子の件ももうご存じだったよ。どうやら私より前に誰かが報告したらしい」
 二人の視線が鋭く交錯し……先に逸らしたのは工藤だった。
「そうですか……戻ってよろしいですか?」
「待ってくれ、実はその話じゃないんだ……」
 小田がひたと当てた視線に、工藤は嫌な予感がした。

 客室に戻った崔と李は、無言で窓外の夜景を眺めていた。黄副主席が宿泊予定のスイートルームと数室隔てたここからはみなとみらい21地区の、赤く瞬く警戒灯を遠く臨むことができた。
「何を考えているの?」
「考えることはない。すべきことは決まっているのだから」
「そうね……」
 空間を支配した短い沈黙の後、気配も見せず崔が襲いかかり、しかしそれを見切った李がかわす。
「何をするの!」
「あと数日で、全て決着する」
「……死ぬつもりね?」
「!……お見通しか」
「私を甘く見ないでよ」
「軍人の、か?それとも女の?」
「……」
「すまない……兄は、本当は」
「『冷たい人間じゃない』。あなたを見ればわかるわ」
 合法・非合法の人・金品が行き交い、誘惑と危険に満ちつつ充実した国境警備任務は十年前、隊の通信兵に耳打ちされた家族の連行で突如打切り。持合せの小金だけを手に豆満江を渡り、中国から韓国にたどりつくまで半年、厳しい取調べの後の再就職まで半年、全てのその後を知ったのは出国から二年後だった。その後、選抜された軍人を特訓、しかし最高点をつけた李を副官にあてがわれ、華燭の典も挙げたのは同胞への心遣いか、無期限の監視か。
「だから彼女も辛いばかりじゃなかった筈……一挙に解決なんてできない、今は努力を重ねるだけ。違う?」
 崔の顔がやっとゆるんだ。
「死体に抱かれて喜ぶ女とは、思わないでね」
「今夜は私の負けだ。喉が渇いたな」
 崔は苦笑して立ち上がると冷蔵庫に向かい、ビールを二本取り出して一本を李に投げ与えた。

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