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2008年5月 3日 (土)

Time Up:十.両刃の剣(上)

 小田がプライムホテルで大野の電話を受けたのは、成田で全てが終わった数分後だった。
――サロメが死んだと聞いたが、本当かね?
「成田に捜査員を遣り確認中です。部長がもうご存じとは……」
――局長もご存じだ。また別ルートらしいが、指揮系統の混乱も甚だしい。
 小田は苦笑した。まるで自分が叱られているようだ。
「自分の監督不行届きです」
――通報では片桐幸子となっていたとか?どうなってるんだ?こんなガセネタに振り回され……
「ガセネタでは済まないかもしれません。と言うのも、実は遺留品中に台北行き中華航空一〇一便と、同日台北発香港行き同六一九便の航空券があったそうです」
――つまり香港を目指していたということか。しかしこのタイミングで……いや、それより問題は、通報者が彼女の正体を知った上で片桐幸子と言って来たのなら……罠か?
「我々にサロメを片づけさせようと。だとすれば、残念ながら我々はまんまと乗せられたことに……」
 その時、割込みの電話がかかってきた。
――局長かな?どうせまた嫌味だろう。君も大変だねえ。
「仕事ですから」
 小田はそう言い挨拶した後、回線を切り替えた。
「小田です」
――井出です。電話中だったようだね?
「申し訳ありません。ご報告が遅れましたが……」
 小田の報告に、井出の反応は案の定厳しかった。
――まんまと逃すよりはましだが、これで重要な手がかりがまた減ったのも事実だ。大体、すぐ空港にも連絡していれば、この結果は防げたんじゃないかね?
「出国の可能性は低いと考えましたので。結果責任は認めますが、確保できても情報を得られた可能性……」
――もういい……で、どうするつもりかね?
 警備本部となった会議室に居合わせる捜査員を気にして、小田は声をひそめた。
「李芳姫を起動しましょう。サロメの線が消えた今は、唯一の対抗策です」
――わかった。一旦切るが、そのまま待っててくれ。
 小田が大野に電話を入れたのは一時間近く後。一階上の大宴会場では、市長が主催する夕食会の最中だ。
「李芳姫の起動が決定しました。間もなく別途指令が出ます」
――では、さっきの電話はやはり……
「局長です。観戦が公になった点は気にしていないと黄副主席は言ったそうです。尤も、我々に気を遣ったのだろう、と局長は仰っていましたが」
――相変らずひとこと多い人だ……李芳姫をやはり使うのか。両刃の剣になるおそれはないのかな?
「先日、局長も全く同じことを仰っていました」
 大野が電話口の向こうで噴きだした。井出と、小田や大野の意見が一致することは珍しい。
――それにしても奴らはどうやって、サロメの動静を……
「コインロッカーかもしれません」
――コインロッカー?
「殺された柳慶国が川崎駅前のホテルに番号を残していたのですが、発見時は空でした。その数時間前、つまり殺害翌早朝に何者かがこのロッカーを物色した形跡があり……」
――そうか。その中にサロメの情報が?
「ニューヨークでサロメと接触していたとの情報をCIAがキャッチしました。柳はサロメとのパイプ役として、彼女の動きも把握していたのでしょう」
――では、殺害してロッカーの中身を奪ったのも……
「監視カメラの映像では、鄭とは別人だったようですが、状況から十中八九共犯者でしょう」
――しかし、次々と面倒が出てくるな。片桐幸子の件を聞いた時は……いや今もまだ信じられないが……
「事実関係を確認するまでは、自分も半信半疑でした」
――そうか。しかし君も貧乏くじだったな。かと言って今更替えにくいし……
「お気遣いありがとうございますが、これは今指揮を執っている自分の責任に変わりはありません。然るべき命令がない限り粛々と任務を遂行するだけです」
――よく言った。君がその覚悟なら私も腹をくくろう。こちらも可能な手は打つが、結局は現場の君達次第だ。
 午後十時、黄副主席の就寝を待ち集合した警備陣は、ナタリー・江死亡の報せに当惑した。
「これで狙撃は我々の手で阻止する他ないが、相手は既に警官他複数の人間を殺害している。そこで最後の手段に、毒を以て毒を制することにした」
 小田の言葉で部屋の隅から立ち上がったのは通訳の姜警部補。いつもの黒縁眼鏡はなく、おかっぱの前髪もピンできっちり留め、額を生え際まで見せていた。
「姜警部補が?確か、京畿道警察外事所属……」
「そう。だがこれは今回特に用意した仮の肩書きで、本当の身分は、朝鮮社会主義人民共和国九〇七特殊部隊付偵察小隊長、許貞恵少尉だ」
 それに合わせ彼女が一冊の赤い手帳を取り出して見せた。表紙には金字で後光付きの人民共和国旗、内側には折返し襟の、軍服姿の彼女の写真。日本の捜査員は顔を見合わせた。
「九〇七特殊部隊、ええと……」
「部隊付偵察小隊長。任務は警察で言えば監察、と言ったところだ。コードネームは李芳姫。鄭から直接訓練を受けた経歴もある。今後は別行動で……」
「射殺する、と?」
「最悪の場合」
 李芳姫こと、許貞恵少尉はそう答えた。朴課長が照れ臭そうに頭を掻いた。
「最悪の場合と言ったが、説得も試みるということか?」
「はい」
「できるのかね?」
「お答えしなければいけませんか?」
「いや、結構」
 彼女の哀しげな目に夏木は質問を引っ込め、隅では捜査員がひそひそ話しこんでいる。
「そういうことだったか……」
「あれ、お前、何か気づいていたのか?」
「裵中佐だよ」
「え?」
「来日当初から北朝鮮側の捜査員が数名、裵中佐の周囲に張り付いているだろう?」
「ああ。実質的な護衛……いや、監視かな?」
「多分な。ただこういう時必ず女性、今回は彼女が入る筈と思ったがそれがない。理由がわからなかったが、いつでも別行動を取れるようにしていたんだ」
 私語をたしなめるように小田は咳払いし
「以降は、片桐幸子の所在確認。不審者は任意同行。同時に京都、大阪、福岡の各府県警にも連絡。以上」

 許と朴はホテル最上階の、バーのカウンターにいた。来日当夜、小田らと初めて会った場所だ。
「とうとう少尉の出番が来てしまったな」
「……」
「後々のことを考えると避けたかったが、致し方ない」
「わかっています。そのつもりでやってきたのですから」
「うむ……」
 朴の吐く煙草の紫煙がフロアーの空調に渦巻きながら、沈黙の中をゆっくりと天井に昇って行く。それを目で追っていた朴が、思い出したように再び口を開いた。
「この後は、自室に戻るのかね?」
「……それって、お誘いですの?」
「ドアを閉めた途端お陀仏は御免だがねえ。尤も少尉から誘って来たら、なおさら要注意だが?」
「まあ!随分ですのね。これでも恋人の一人くらい……」
「いるんだろう、近くに?」
 朴のそのひとことで、許の笑顔が凍りついた。
「隠していたつもりらしいが、一応私も刑事だからね」
「――」
「鄭栄秀。図星だろう?」
 許は無言で頷いた。
「いつからだね?訓練以来か?」
「ずっと前からです……私が初めて入隊した時の指導員でした」
「なるほど。しかし、それでは辛いだろう?」
「任務ですから」
「そうだな。我々は上の判断を信じ、遂行するしかない」
「ええ……お先に失礼してよろしいですか?」
「その前に一つだけ、いいかね?」
 許は振り返った。笑顔を浮かべる余裕はなくなっていた。
「彼は元気だったかね?」
「……」
「説得には応じなかったか……引き止めて申し訳なかった」

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