Time Up:十一.試合当日(上)
同時刻、三十五階スイートルーム。
ソファーに座った黄沢究の正面に小田と原、脇に朴課長、彼らを左右に見る位置に裵。そして黄の通訳である凱哲洙(ケチョルス)がソファーの真後ろに立っていた。小田が話し終えて数秒、躊躇した凱の不自然な沈黙を黄が怪しみ振り返る。案の定朴に促された凱の言葉に、彼は蒼白となった。
「いや……いつかこうなるかもと予感はしていた」
黄の沈んだ声が客室の天井に響く。裵は無言。小田も無言で黄の、次の言葉を待った。
「私の意見に義兄は時々いやな顔をしていた。私は義兄のためにそうしてきたまでだが……」
しばしの沈黙の後、原が進み出た。
「黄副主席、最近の微妙なお立場で、充分手は尽くされたのでは?最悪のシナリオが現実となれば物流は決定的途絶、そうなれば……お分かりですね?」
「……」
「ご家族がご心配ですか?」
「それはない。子供はいないし、私の親兄弟ももう亡い。だが、部下やその家族は……」
「ご心配はわかりますが、恐らく今の状態もそう続かない。その時平壌が武力に訴えでもすれば……」
「……考える時間が欲しい。せめて、あと一日」
黄の言葉を最後に、小田らは客室を辞した。
「言質は得られませんでしたね……力不足でした」
詫びる原に、小田は微笑を返した。
「あちらにはあちらの事情があるからな。ともかくあとは、我々の任務を全うするだけだ」
五月十八日、未明。
国際総合競技場は全ての入口を閉鎖、警官と民間の警備員が警戒していた。日没以降、サイレンの鳴りをひそめ車両が続々と集合。工藤は防災センターでコーヒーをすすっていた。昼間の再チェックに井出は満足したようだ。小田は特にコメントしなかったが、万全を期すという大義名分がある以上文句のあろう筈はない。
異変発生は、東の空が白みかけてきた午前四時。
――ホテルで異臭!
無線からの通報に、工藤は飛び上がった。
「状況を報告!」
――よくわかりません。
「何を言っている!至急確認しろ」
指示を出した後、室内を苛々と歩き回る工藤を警備主任が見上げ
「工藤さん、落ち着いて下さい」
「わかっていますが……」
その時、サイレンの音がして工藤は再び飛び上がった。
「今度は何だ!」
――西ゲート付近に不審車!
「何っ!どこだ?特徴は?」
――黒っぽいミニバン。新横浜元石川線を、港北インター方面から接近中――
黒っぽいミニバン。無人駐車場の不審車では?工藤は逗子の崖下でスクラップになった盗難車のことも、現場からの報告待ちもすっかり忘れ、防災センターを飛び出した。
「全員、亀の甲橋南側交差点に集合!封鎖だ!」
競技場周辺は移動を始めた車両で慌ただしくなった。駆けつけた工藤が見ると、往来のない高架道をミニバンが一台進んでくる。
「ライトも点けてないな……乗っている人間はわかるか?」
「無理ですね。暗い上にこの距離……」
「狙撃班!」
駆けつけたSAT一小隊が一斉に、アメリカ製レミントンM七〇〇狙撃銃を構えた。
「いや、待て。そのスコープは赤外線だったな?」
「?……はい」
「運転席をチェック」
「――無人です」
「――見せてくれ」
小隊長が差し出した暗視スコープをのぞきこんだ工藤は背筋が凍った。ハンドルの向こうに並んだ座席に、人影は見当たらない。
「どういうことだ?」
「遠隔操作でしょうか。まさか爆発物……」
「とにかく停めるんだ。狙撃だ、タイヤを狙え!」
一斉に火を噴いたレミントンM七〇〇の銃声が寝静まった平野に響き渡り、ミニバンは蛇行しながら路肩の縁石に乗り上げ停止。爆発物処理班が駆けつけたのはその三十分後だった。
「ホテルの異臭騒ぎの状況は?」
「駐車場五階、宿泊客の乗用車のトランクで時限発煙装置が作動。処理は完了、人的被害もなしです」
「それだけか?……車の持ち主は?」
「捜査員が客室に赴いたらもぬけの殻だったそうです。どうも計画的だったようですね」
「駐車場五階……訪日団の車両がある九階は?」
「大丈夫です。陽動かとも考えましたが客室も異状なし。黄副主席以下、全員無事を確認しました」
「そうか……」
小田が対応したなら遺漏あるまい。職務遂行の完璧さで工藤の知る限り彼の右に出る者はなく、私大出ということで軽く見ている工藤が脅威を感じたのも一度や二度ではない。処理班は機動隊の盾に援護されながら接近、破壊した窓ガラスから腕を差し入れ開錠、数人の技官が上半身を車内に突っ込み調べていたが、数分後一人が両腕で頭上に大きな丸を作る。危険なし、の合図だ。皆がほうっと息をつく中、責任者が工藤を手招き。ハンドルの下、運転席の床にナイロン製のバッグが転がっていて、ジッパーが半分開いた中身は……割れた風船だった。
「これで動かしていた……のか?」
「トリックは簡単です。ブレーキペダルの上に押し込み、その状態でエンジン始動、希望時刻にタイマーで風船を割りブレーキを解除すれば自動的に発進します。AT車ならエンストの心配もありません」
「この道を狙ったのは、急カーブを避けたかな?」
「多分。最初に計算してハンドルを固定しておけば、かなり長距離を走らせることができます」
「乗り捨てたのが直線区間の始点とすると約三十分前……」
工藤は急に不安になった。何かおかしい。ホテルの異臭もだが、この騒ぎの、本当の目的は何なのか。ひょっとしたら、何かの陽動……?そこで工藤ははっと周りを見渡し……
「おい――なぜ皆集まってるんだ?」
「えっ?それは……」
「馬鹿者!持ち場の警備はどうした?全員戻れ!」
工藤は怒鳴り、自ら呼び集めた警官と車両を元に戻させた。何も起こっていなければいいが……
その二十分後。
余人を退けた署長室で受話器を置いた酒井は、何とも表現しがたい微笑を浮かべていた。
午前七時半。
鄭と早紀はその部屋を出た。南側から数時間前に潜入、夜明けを待っていたのだ。床に落ちた小さな紙片に、鄭は気づかなかった。
港北署内で夜を明かした中川は、シェーバーを手に洗面所に立ったが、途中でバッテリーが切れ往生。その時真横から別のシェーバーが突き出され、見ると加藤が隣の鏡に正対していた。白のシャツにグレーのネクタイ。滅多に見ない地味な身形だが、それにしても外で一仕事終えてきたような……
「……許したわけじゃないからな」
「わかってる」
午前八時半。
身支度と朝食を済ませ、本番前最後の警備会議。競技場から一旦戻った工藤もいる。小田は、任務を解いた筈の中川を一瞥したが何も言わなかった。
「まずNISから連絡。本日未明、北京滞在中の北朝鮮・盧康徳通商部副部長が急死」
「急死……ですか」
「同地の韓国大使館筋の情報では、北朝鮮大使館での心臓発作。例により詳細は不明。本警備との関連有無も現在不明なのでさて措き」
小田はそこで一旦言葉を切り、再び中川を一瞥してから言った。
「科捜研から片桐幸子の生体鑑定の報告。結果は、クロだ。それと昨夜、外事から新たに報告」
小田は原を促し、昨夜受けた報告を繰り返させた。
「浮田秀美の鑑定結果も恐らく同じだろう。これで片桐幸子失踪、一年前の交通事故、全て辻褄が合う。当警備本部は鄭栄秀および、中川早紀こと片桐幸子を狙撃実行犯と断定。捜査員は直接の接触は極力避け、遭遇しても絶対に単独判断で行動せず、指示に従うこと」
中川は唇を噛んだ。
「それと、試合だが……小宮山総理が来られる」
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