Time Up:九.攻勢(上)
中川の、報告書のペンはさっきから一行も進んでいない。
尚子は斎藤が残した口座の名義を、振込みという手段で特定。鄭が勘づくとまで計算したか否かは永遠に謎だが、とにかく同夜東戸塚に直行、銀行に張り込んだ。彼女がそれきり応援を要請しなかった理由がずっと捜査陣の疑問だったが、銀行に現れたのが早紀なら説明はつく。
あの時点で早紀は捜査線上に浮かんでいなかった。だから尚子は怪しみながらも、単身あのビルに足を踏み入れたのだろう。となると、稲生課長補佐殺しや斎藤殺しも実は……
不意にコーヒーの紙コップが置かれ、気づくと柳沢が立っていた。照れを隠す時の癖で口をすぼめている。
「すみません」
「いいんだ。それより、額の傷、どうした?」
「階段で転びまして……」
嘘だった。家宅捜索戻りの加藤に屋上で一発殴られ、以降ひとことも交わしていない。中川とだけでない、唄を忘れたカナリヤのように私語を受け付けず、食事も碌に摂っていない。署内一饒舌で大食漢だった彼の異状が、署内の空気を重苦しくしていた。一昨日以降の事態の急変は中川や加藤だけでなく、警官達が直ちに嚥(の)み下すにはあまりに過酷だった。
「告別式、行かなくてよかったのか?お前、事情聴取で通夜も行ってないだろう?」
「……柳沢課長こそ、よろしかったんですか?」
「私は昨夜行った。今日は留守番だ」
空いていた席に柳沢が腰を落とす。部屋の隅のテレビでは、羽田に降り立った黄副主席が、タラップ上から笑顔で手を振っていた。
「空港周辺は厳戒態勢なのでしょうが、警護する側から見るとどうも心配で……」
「まあな。SATが配備に就いているから大丈夫の筈だが」
「SATですか……」
各都道府県警では誘拐・人質事件に備え特殊捜査班「SIT」を配備しているが、それと別に警視庁ほか七都道府県警機動隊がテロ対策に配備しているのが特殊急襲部隊「SAT」である。
一九七七年、ダッカハイジャック事件を契機に西ドイツ(当時)の対テロ特殊部隊を手本にして、警視庁と大阪府警に特殊部隊を創設。当初は極秘だったが一九九六年五月、神奈川を含む五道県警への増設を機に公表。二十名編成の一個小隊が数班に分かれ、ハイジャック・立籠り事件や今回のような要人警護に出動するが配置情報は原則極秘。
だが何より彼らを他の警察官と区別しているのは「名前削除」の制度だ。SATを拝命すると警察官名簿から名前を削除、外部からは所在が全くわからなくなる。隊員をテロから守るのと、任務で犯人を死傷させた隊員の刑事訴追防止が目的で、今なお彼らは名を持たぬ、警察内でも秘密に包まれた存在なのだった。
「片桐幸子の件……昨夜監察官から聞きましたが、まだ……」
「半信半疑かね?わかるよ」
「監察官もそう仰っていましたが……急展開と言うか、どうやって同一人物だと?」
「偶然の一致だろうが……北朝鮮関与説浮上以降、片桐家には一部方面から嫌がらせの電話やメールが未だにあってね。それで新潟県警がここに照会、ピンと来た捜査員が新幹線に飛び乗った」
「そう言えば最初は、警戒するような口調でしたが……」
「馴初めは去年、だったな?」
「丁度一年前です」
「その時点では総書記訪日計画自体なかったし、最初から計算ずくだったわけではなさそうだ。しかしその後、何か指令……」
二人は思わず顔を見合わせた。無言電話、ホテルへの移動、鶴見川の死体に始まる連続殺人……
「あの無言電話が?」
「シグナルだったのかもな」
「でも、ホテルには……」
「それなんだが実は、外線から男の声で一度だけあり、フロントが名前を訊き返したら黙って切れたそうだ。直後、携帯に着信があった。用心したか室内に目ぼしい遺留品はなし」
「備付けのメモ帳にも?」
「斎藤警部の手帳にあったような跡もなかったよ」
「上の何枚かが破り取られていませんでしたか?」
「そう言えば確かに……じゃあ?」
「メモした後下の紙も破り取り、筆跡を隠したか……」
「下敷き代わりに何か挟んだか……」
「ただ、手帳には残っていた筆跡が……」
「いや、その説明もつく。手帳は下のページを取り忘れた、ホテルでは注意していたか昨日の朝回収した」
「でも事件当夜、彼女はホテルから……」
「出ていないと言うんだろう?」
「そうです。ロビーや通用口……」
「それは確認したが、訓練を受けていたなら他にも……」
「窓――」
「だったようだ。窓枠に細い物でこすった痕があった。客室は隣のビルの裏手に面していたから、夜間なら目撃されず、ロープでもあれば充分可能だった筈だ」
「――」
「無言電話だが……録音したと言っていたな?テープは?」
「はい、席の抽斗にあります」
「多分提出することになるが、今聴いてみようじゃないか。通信室でデッキを借りよう」
再生したテープには、最初は中川や早紀の「誰だ?」「何か言って下さい」という声しか聞こえなかったが、BGMのように流れる重低音に気づいたのは、デッキを操作していた通信室の警官だった。
「あれ?」
「どうした?」
「この音、早送りすると話し声に聞こえませんか?」
二人はヘッドフォンに飛びついた。早送りしながら再生すると、重低音が読経にも似た発声に聞こえてきた。
「この部分だけ、増幅できるか?」
「できますよ。ちょっと待って下さい」
増幅すると、それは中年の男が読み上げるアルファベットの羅列だった。中川はそれを紙に記してみた。
BJJXJEAH
YKHM
KR
SW
KWMR
「これは……暗号でしょうか?確か斎藤警部のメモ帳にも……」
中川の声はかすれていた。先日コンビニで見かけた、鄭の顔が脳裏に浮かんでいた。
「それと、ホテルのメモ帳……斎藤警部が見つけたのは口座番号だったが」
「……YKHMは、横浜でしょうか?」
「なるほど、母音だけを抜いた、か。では他の行も……」
「同じ暗号の可能性が高いですね。何が入るんだろう?」
そこへ、喪服姿の加藤が姿を見せた。
「柳沢さん、こんな所で何してるんですか?」
「加藤、こいつの奥さんち家の無言電話の話、覚えてるか?」
「ええ、それが何か?」
加藤は相変わらず中川と視線を合わせようとしない。
「どうやら暗号だったらしい」
「えっ!本当ですか?」
「二行目以外が解けなくてね。平文(ひらぶん)から母音を抜いたのと思うが……」
「あっ、わかった!」
叫び声を立てたのは、入口から覗き見していた山崎だった。
「本当か?」
「多分、こうだと思います」
彼女はそう言ってペンを取り上げ、余白に追記した。
BJJXJEAH
YOKOHAMA
KIIRO
SAWA
KIWAMERU
「きいろ、さわ、きわめる……何だそれ?」
「この三行を漢字に直してみて下さい。わかりますか?」
「漢字……あ、黄沢究か!」
一同は色めきたった。
「一文字ずつ訓読みにして暗号化したか。だが一行目は?」
「これは数字じゃないでしょうか?一、二、三を、アルファベットに置き換えたのではないかと」
「Bは二か。そうするとJが〇、Eが五……」
置き換えた数字を含め、全文字列があらためて書き出された。
200X0518
YOKOHAMA
黄沢究
警官達はしばし無言だった。あの無言電話ではこの日付、場所と同時に、つまり金総書記訪日中止発表のずっと前から名代・黄沢究副主席の名前もやりとりされていたことになるが……
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