Time Up:七.暗転(上)
三人が上階の捜査本部に行くと、斉木が戻っていた。鄭と思われる人物が競技場に現れていたと言う。
「やはり!いつの試合だ?」
「試合じゃありません。見学ツアーです」
「見学……何ですって?」
磯貝が目をぱちくりさせた。
「見学ツアー。普段立入りが出来ない施設の一部を、専属スタッフの案内で見学できるんです。休日を中心に月数日、一日数回の実施で、四月の担当スタッフが、似た見学者を見たそうです」
「似ているだけじゃねえ……裏付けは?申込みの記録とか」
「記録はないそうです」
「はあ?」
「前売券は販売していますが、申込みは不要なんです。東ゲート前の売店がツアーの出発点と受付を兼ねていて、見学者はスタッフの案内でVIP席や正面玄関……」
黙って聞いていた工藤が、急に険しい顔で割り込んできた。
「ちょっと待て……どこの誰ともわからない人間に、そんな所まで見せているのか?」
「は、はい」
工藤の剣幕に斉木は萎縮、とりなすように磯貝が話を戻す。
「四月と言ったわね?正確な日付は?」
「十三日の日曜、十三時の回を担当したスタッフの証言です」
「丁度一ヶ月前ね。正確な見学ルートは?」
「東ゲートから入場、南スタンドを通り西スタンドのVIP席・記者席・選手控室・正面玄関、そしてグラウンドから北側コンコース経由で東ゲートに戻る。特に事情のない限りこのコースだそうです」
「しかし、一ヶ月も前だろう?その担当者の記憶は確かなのかな?」
「それが実は三日前、全く同じ聞込みをした警官がいたそうです。しかも鄭の写真を持って」
「三日前?私はそんな指示……」
工藤は首をかしげ、そして声を上げた。
「あっ、斎藤警部か?」
「そう名乗ったそうです。いつ勘付いたかは不明ですが」
「下見かな……その人物が途中で姿を消したり、ということはなかったんだな?」
「最初に人数をチェックの上、スタッフが前後に付くので異状があればすぐわかるそうです。それに当日は業者の出入りなどもあり、そういう隙があったとは思えません」
「わかった。念のため、その見学ルートも再チェックの重点個所に加えておく。栄署に報告は?」
「はい、今とりあえず電話を入れ、これから戻るところです」
「よろしい……で、お前達は何だ?」
工藤はそこでやっと、まともに柳沢達のほうを見た。
「斎藤警部ですが、中川の夫人とホテルから外出していたことがわかりました」
「……殺しとの関連は?」
つまらなそうだった、工藤の表情が変わっている。
「不明です。事件当夜のアリバイはあります」
「いや……そもそも奥さんが何で同じホテルにいたんだ?」
柳沢は、無言電話の件から全て話す羽目になった。
「……わかった。保土ヶ谷署に所在確認を手配しておく」
中川が刑事課に戻ると、加藤や山崎達も川浚いから戻っていた。
「栄署の事件も、やっぱりあの男が絡んでたって?」
「ああ。そっちは?」
「見つかったよ、一発」
「銃弾か?」
「実は川の中じゃなくて、橋桁に落ちてたんだ。前回はそこまで思いつかず見逃していたわけだが」
加藤はそう言いながら、ブランド物のズボンに付着した草を取り除いている。管理職らしく土手で叱咤激励にとどまらず、自ら草地に入り捜索に加わっていたようだ。
「そんな所に証拠を残すとは、らしくないが……」
「土やゴミが溜まっていて、音がしないので気づかなかったんだろうな。それと今朝現れたミニバンだが、実は先月十九日の夕方、亀の甲橋付近で似た不審車が目撃されていた」
「本当か?」
「ああ。二人程で大きい荷物を運び出していたそうだ。午後五時頃だから死体が挙がる約半日前。銃弾のほうは早ければ今夜中に鑑定結果が出るそうだ。殺害現場も決まりだろう」
「そうか……」
「どうした?もっと喜べよ……あ、カミさんのことか」
「いや、それは保土ヶ谷署に捜してもらうことになった」
「そうか。尚子も安心するだろう……もう鶴見署に戻ってる筈だな。知らせてやろう」
加藤がそう言い受話器を取ったが、数分後困惑顔で電話を切り
「あいつ、一時間半前に、県警本部からこちらへ向かったらしい」
「午後六時頃……帰宅ラッシュに捕まったとしても遅過ぎますね?横羽線から第三京浜にしろ、一般道にしろ」
「それだが実は、県警本部を出る時、確認したいことがあって寄り道すると言っていたそうだ」
「確認したいこと?」
「詳しくは言わなかったそうだ。ただ昼間ATMに寄った後しきりに考え込んだり、電話をかけていたらしい」
「ATM……何かしら?」
山崎達が首をかしげる中、中川は急に胸騒ぎをおぼえた。早紀に続き、尚子までどこかに消えたような……
尚子の運転する覆面パトカーは、日の落ちた横浜新道を南下していた。県警本部からは、港北署と逆方角だ。
川上ランプから蛇行する細道を通って東海道線の高架をくぐり東戸塚駅東口。元々人家もなかったこの地も駅に続き大型商業施設が開業、高層マンションも次々新築中だ。車を駅付近の路肩に停め数時間後、或るものを見つけた尚子は、駅前ロータリー北側に面した武南銀行脇の路地に入っていった。
路地の向かいには荒れ果てたビル。吹晒しの階段を登っていくと、家財道具を運び出しがらんとしたフロアーはプールの底のようにしんと静まり返り、床の一部が窓からの月明かりに照らされ、蒼白い多角形となって夜闇にぼうっと浮かんでいた。
五階フロアー扉に足音を忍ばせ近づくと、室内からかすかに男の話し声。一旦六階との間まで上がると、拾ったコンクリート片を投げ落とす。乾いた音に話し声が止み、人の気配が近づいてきた。ドアが勢いよく開いてから二呼吸おいて尚子は拳銃を真直ぐ室内に構え、銃口の先でやはり拳銃を構えた男と、暫時そのまま睨みあった。
「鄭栄秀ね?」
尚子は訊ねたが、常時携帯の写真と照合するまでもなく、鄭栄秀はなぜここが突き止められたのかという風に目を見開き、やがて獲物を狙う獣の目になった。
「……そうか、銀行に妙な電話をかけたのはお前か?」
「鶴見川の死体もあなたの仕業ね?総書記狙撃計画も?」
「……」
「初めから全部計画だったの?彼女の結婚も?」
「お前には関係ない」
「ならいいわ、直接訊くから。ここにいるんでしょう?」
その時背後に音もなく立った人影が尚子の後頭部に硬い物を押し当て、唇の端を吊り上げた鄭が、眉間に狙いを定め近寄る。その一瞬の隙を突いた尚子が失神したように膝から崩れ落ち、次の瞬間鄭と人影の銃口は、あろうことか互いの眉間を向いていた。そして尚子は人影の背後からその側頭部に銃口を押し当て――
「やっぱり早紀さんね?」
「……」
「どうしてあなたがここにいるの?」
返事はなかったが、早紀の手にある斎藤の拳銃が何より答えになっていた。一転守勢に立った鄭の顔から笑いが消えた次の瞬間、早紀は室内に身を投げ、尚子は咄嗟に覆い被さる。体を離さなければ撃たれない、その判断は正しかったが次の一撃は予想外の所から放たれた。早紀が肩越しに発射した銃弾は尚子の顔を三分の一吹き飛ばし、余勢で階段の踊り場まで転げ落ちた尚子は、手すりに後頭部を思い切り打ちつけて止まった。
階段を降りた鄭が、尚子の絶命を確認して戻ってきた。そして、まとめてあった荷物をつかみあげると、茫然と床にうずくまっていた早紀を引っ張って階段を降り、近くの路肩に停めたミニバンで走り去った。その約十分後、ビルは轟音と共に火を噴いた。
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