Time Up:八.真実(上)
戸塚区上倉田町。東海道線と並行する道路を左折、蛇行する坂道を東に登った脇に早紀のアパートはある。駐車場代わりの空き地にパトカーが停車していて、到着した中川に二人の男が近づいてきた。
「中川巡査部長だね?」
「はい」
「この部屋に任意立入り調査の指示があった。奥さんが所在不明なので、代わりに立会ってもらいたい」
「……と言っても、拒否はできないのでしょう?」
「まあ、そうです。鍵は、今お持ちですか?」
「はい……」
「開けて下さい」
二人に倣い手袋を嵌めると、部屋に入りぐるりと見まわす。流しにユニットバス、六畳の和室にはカラーボックスが数個。しんと澱んだ初夏の気だるい空気が、人の気配のないことを示していた。
「君が最近、ここに来たことは?」
「先月十三日です。それ以降はずっと外泊です」
「そうか。その後彼女が立ち戻ったかどうかだが」
「所在不明が一昨日深夜で、戻ってきたとしたら昨日以降ですが、見た限りその形跡はないですね」
箪笥の最上段には貴重品が入っていた筈だがめぼしい物はなく、閉めかけた中川の手が奥の、がさっという音に止まる。手を突っ込み取り出した茶色い封筒には、黄ばんだ古便箋に、早紀とほぼ同い年のカップルが写った一枚の写真。戸塚署の捜査員が後ろからのぞきこみ
「奥さん……ではないですね」
「違います」
「そうですか……おや?どこかで見たような……」
「え?」
県警本部の捜査員も手を止めのぞきこんできた。
「そう言えば……だめだ、思い出せない。中川巡査部長、心当りは?」
「さあ。でも確かに、何か見覚えはありますね」
「有名人かな?奥さんにそういう知り合いは?」
「そういう話を聞いたことはないですね」
首をかしげてからもう一度目を落とす。一緒に写っている男性には全く見覚えがなく、ただ何となく自分に似ているなと中川は思った。便箋には十一桁の数字。電話番号と思われたが、先頭数桁を見ると近県のものではなさそうだ。期待半分不安半分でダイヤル、しかし電話口に出たのは、案に相違して中年の男の声だった。
――はい、片桐ですが。
「突然お電話致します。私、神奈川県警の――」
――警察?
男の声が一オクターブ跳ね上がり、三人を驚かせた。
――幸子が見つかったんですか?
「幸子――さん?」
――違うんですか?
中川は混乱した。
「もしもし……そちらは、片桐さんと仰るんですか?」
――そうですよ。どちらにおかけですか?
片桐と名乗った男の声は明らかに硬くなっていた。単に機嫌を損ねた風ではなかった。
「〇二五―XXX―XXXXですが、違いましたか?」
――いえ、それなら確かにうちの番号です。どういうご用件か、差し支えなければお伺いできますか?
「幸子さんというのは?ご家族ですか?」
――娘です。
片桐は、ようやく声のトーンを戻し話し始めた。
――片桐貞夫(さだお)といいます。タクシーの営業所をやっております。勘違いしたようで申し訳ありません。
「いえ、こちらこそ突然お電話しまして……」
中川の頭の中で何かが引っかかった。片桐幸子。どこかで聞いたような……
――それで、あの、今日お電話いただいたご用件は?
「実は……私事で恐縮なのですが、一昨日家内が失踪……」
――失踪?
叫びに続く数秒間の沈黙。相次ぐ不可解な反応に三人は顔を見合わせた。
「もしもし?」
――ああ、失礼……どうぞ続けて下さい。
心なしか片桐の口調が改まったように思えた。
「滞在中のホテルから姿を消しまして、今アパートを捜しましたらこの番号が見つかり、こうしてお電話したのです」
――そうでしたか。それはご心配ですね。ええと……中川さまと仰いましたね?
「はい。家内は早紀と申します。旧姓は松嶋、香川県高松市出身、現在は横浜市在住。どうでしょう、お心当りは?」
――松嶋、早紀……申し訳ないが私ではちょっと……ただ娘と同い年になりますから、お友達かもしれません。東京の短大におりましたので。
「なるほど……家内も大学以降首都圏在住なので可能性はありますね。差し支えなければ娘さんにもご確認……」
――ここには居りません。
「あ、では現在もまだ東京にお住まいで?」
――いや、そうではなく、幸子は……
「……あっ!もしかして……」
やっと思い出した。
「あの、行方不明になった片桐幸子さん――ですか?」
――その通りです。
あらためて手にした写真を見る。肩で切り揃えた髪、造作の小さい顔。数年前新潟で失踪した、あの女性に相違ない。意外な展開に、聴いていた二人も顔を見合わせた。
「それは……大変失礼しました。もしお心当りがありましたら、いつでもご連絡ください。番号は、O四五―XXX―〇一一〇です。港北警察署刑事課の中川と言っていただければ通じますので、よろしくお願い致します」
挨拶して受話器を置いた中川は言いようのない疲労を覚え、その場に座り込んだ。
「奥さんがあの片桐幸子と知り合いとは……そういう話をお聞きになったことは?」
「いいえ、全く」
「変だねえ?かなり大きく報道された事件だから、奥さんに心当りがあれば普通、君や周囲に話すと思うが?」
「確かに、そう言われますと……」
中川もそれ以上は何とも言いようがなく、ただ、ひどく胸騒ぎがした。
部屋を出てから、近所に聞込みをかける。中川と面識のある住人もいて協力的だったが、ホテルに移って以降彼女を見たとの証言は得られなかった。
早紀を捜しに行きたいのを我慢し署に戻った中川に、小声で喋っていた刑事課の捜査員達が黙り込んだ。不自然な反応に戸惑う間もなく柳沢が現れ、射るような加藤の視線に送られながら中川を捜査本部に引っ張っていった。
「奥さんは戻っていたか?」
「いいえ……?」
なぜ急に、早紀の行方が問題になっているのか?尚子の死とも何か関係があるのか?渦巻く中川の思考は工藤の次のひとことで中断された。
「これ以降君は連続殺人と黄副主席警備から外れてもらう」
「!――」
「奥さんのアパートとホテル・グレコに被疑者不詳で家宅捜索を申請した。君、何か持ち帰った物は?」
中川が震える手で取り出した便箋と写真を、柳沢は手袋を嵌めて受け取る。証拠品扱いなのだ。
「……理由を伺ってよろしいですか?」
「新潟県警から問合せがあった。行方不明の女性、片桐幸子宅にここの警察官で中川と名乗る電話があったと」
「……」
「事実なんだな?」
「彼女の部屋に、知らない電話番号があって……」
「つまり、片桐家と気づかず電話したと?」
「はい。最初は誤解されたようでしたが、事情を説明して納得してもらいました。それが何か?」
理由もわからぬ立入り調査と任務解除に反発する中川を、工藤はじろりと睨み返した。
「昨日早朝、ホテル・グレコに現れた不審車の特徴が、昨夜目撃されたミニバンと一致した」
「……本事案に、家内が関与していると?しかし、それだけの接点では……」
その言葉を待っていたように、工藤は一枚のモンタージュを机上に置いた。
「鄭のアパートの、以前の住人が、当時出入りしていた女性を今月三日に新港地区で目撃していたんだ。こちらに来てもらい、さっき作成したモンタージュがこれだ」
「――」
先日のダブルデート、斎藤の死、尚子のアパートからの失踪、そして尚子の死。ここ数日の疑問の答えを眼前に突きつけられた中川は真っ白になった頭で、早紀そっくりのモンタージュを見つめた。
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