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2008年4月13日 (日)

Time Up:七.暗転(中)

 中川達が現場に急行すると、既に鎮火したビルは外壁が半ば焦げ、末期の虫歯のような情けない姿を月夜に晒していた。爆発と火災に驚いた住民が、初動捜査班の張り巡らしたロープの外側から不安げに廃墟を見上げている。最も損傷が激しい五階フロアーが爆発現場と思われた。
 遺体は四階から五階への階段で発見、その前に加藤が立ち尽くしていた。被せられたシートを中川がめくった下に、尚子は一番見たくない姿で横たわっていた。
「建替え……プレートには一九九四年十月竣工とあったが、十年余りでか?」
 柳沢が初動捜査班の警官に事情を聴いているところに、戸塚署の捜査員が割り込んできて補足を始めた。
「実はこのビル、竣工と同時に二階から四階に入った居酒屋チェーン店が周辺住民とトラブル頻発、そして昨年末、酔った客が向かいのマンション住民を刺殺。それで終わればまだよかったのですが……」
「と言うと?」
「放火です」
「え?」
「殺された住民の遺族が、居酒屋に放火したんです」
「――」
「一月中旬、客や従業員計十名が死亡、放火犯は直後自殺。居酒屋は修繕・営業再開したものの三月に閉店、店長の自殺を経てチェーンは放火犯の遺族と和解、他のテナントも気味悪がり立退き。一応建替えと言っていますが資金繰りは全くついておらず、ビルが建つ前の駐車場に戻るとの噂です」
「確かにそんな事件があったな。チェーンは倒産、社長は自殺未遂で植物人間……」
「そうです。当事者の殆どが悲惨な末路をたどっていて、以来このビルは呪われていると言われています」
「銃声を聞いたという情報は?」
「聞込みを始めていますが、今のところそういう供述は出てきていないですね。この通りビル自体もぬけの空で、周囲は住宅地と言っても深夜ですし、目撃者も今は爆発と火災で失念している可能性があります」
「サイレンサー(消音器)付きの銃だったかな?だとすると銃声での死亡時刻推定は……」
「難しいですね。爆発の傷に生活反応はないので、それ以前だと思いますが」
 会話を背中で聞きながら死体を見下ろす。至近距離からの銃撃。尚子は何の目的でここを訪れたれたのか?最後に洩らした確認したいことと関係があるのか?まだ連絡が取れない早紀のことが一瞬脳裏をかすめ、中川はそれを慌てて振り払った。
 覆面パトカーの目撃時刻は午後七時前後。彼女は県警本部から真直ぐ乗りつけ、数時間頑張っていたのだ。付近の住人からは、十時過ぎに銃声らしい音を聞いたとの証言。近辺で深夜若者が鳴らす爆竹とその時は思ったようだが同時刻そういう騒ぎはなく、これが殺害時刻と推定された。
 爆発の発生は十時半。その約十分前、現場付近から走り去るナンバー不明の黒っぽいミニバンが目撃されていた。戸塚警察署に設置された捜査本部はこのミニバンに注目、緊急配備を発令した。
 焼け焦げたフロアーの窓は全て紙とガムテープで目張りされていたが、隣接マンションの住人が夜間、室内から漏れる光を目撃。目撃時期は以前入居していた歯医者が立ち退き数ヶ月後の今年初め。そして翌日事情聴取を受けた歯医者は、そんな目張りはしていないと供述した。
 フロアー隅からは半分焼け残ったビニールの断片が見つかり、捜査員達は色めきたった。外部には微量の乾いた泥が付着。斎藤が殺されたグラウンドの土と成分が一致すれば、同一犯の可能性が強まることになる。凶器の銃は見当たらず、犯人が回収し逃走したものと思われた。
 港北署へ戻ったのは午前二時過ぎ。能面のような無表情と化した加藤を、柳沢の意を受けた中川はホテル・グレコに誘った。一抹の期待も空しく依然無人の客室で、男二人缶ビールを空ける。普段なら饒舌になる加藤が一言も発しないので一向に酔えないまま、三十分後早々にベッドに潜り込んだ加藤がひとこと言った。
「ぶっ殺す」
「え?」
「政治的配慮なんて糞食らえ」
 加藤は毛布を頭から被ると、手だけ伸ばして灯りを消した。
 目を覚ますと、カーテンの外は白み始めていた。寝息を立てる加藤の枕に、涎でない染みがついていた。
 早紀はどこへ行ったのか?いや、生きているのだろうか?ふと喉の渇きを覚え、サイドボードのコップに手を伸ばした中川の目が備付けのメモ帳に止まった。昨日は全く手付かずだった筈の用紙が、数枚なくなっている。
(破り取られた?まさか……)
 中川は暫時、残されたメモ用紙を呆然と見つめた。

 数時間前。
 鄭が運転するミニバンは環状二号線から打越交差点を右折、横浜伊勢原線に入った。
「さっきは、よくやった。お蔭で助かった」
 車内の沈黙を破ったのは鄭だった。早紀は返答しない。
「口座番号から足がついたか……間一髪だったが」
「……」
「その銃は処分する。予備を手配しておいてよかった……」
「――」
「やはり、今のうちに殺(や)るしかないか」
「――あたしが殺る」
「お前には無理だ」
「……」
「大体、お前があの刑事を始末した時証拠を消し忘れたのが原因だろう?いいか、この作戦に……」
「失敗は許されない。わかってるわよ」
「なら、なぜこうなったんだ?これが朝鮮人だったら、最悪の場合処分……」
「……」
「もういい。終わったことだ……予定より早いが、夜が明けたら別行動だ。合流場所と日時はわかっているな?」
「あたしを殺して」
 鄭が思わずぎょっとして見ると、早紀の目には涙が浮かんでいた。
「……」
「いっそ処分したらどう?もう、人を殺すのはいや」
「……それは言うなと言った筈だ」
「……」
「やはり最初の指令通り……」
 早紀が鄭をきっと睨んだ。
「もしあなたが彼を殺したら――」
「……そうだな。お前の腕なら私も殺られるかもしれない。だがその時はお前も、いやそれだけでなく新潟――」
「やめて!」
 早紀は泣いていた。鄭は苦悩に顔を歪めた。
「お前は黙って任務を実行していればいいんだ。それで犠牲も最小限ですむ」
「あの約束はやっぱり嘘だったのね?」
「何?」
「両親に会わせてくれるって」
 鄭の視線が動揺に泳いだ。
「……嘘ではない」
「これじゃ意味がない。やっと日本に帰ってきたのに……」
「……」
「……もういいわ。その代わり約束して。彼を殺さないと」
「……いいか、忘れるな。あの男はお前の正体を……」
「わかってるわ。でも……」
「何だ?」
「あの人は、本当にあたしのことを愛してくれた」
「それは、松嶋(まつしま)早紀としてのお前をだろう?」
「――約束してくれるの?どうなの?」
「しなければ?」
「世界中にばらすわよ。あなたがしようとしていること全部」
「やめろ、本当に殺し合うことになるぞ」
 鄭の言葉が脅迫半分告白半分と気づいたか、早紀は黙り込んだ。
「あの女刑事のように、いずれあの男とも対決することになる……お前はその手で殺せるか?」
「……」
「無理だろう?だから脅されようが私がやるしかないんだ。お前のためにもな」
「選択の余地はないんでしょう?」
 鄭のほうがぞっとするくらい冷ややかな早紀の言葉を最後に、車内を再び沈黙が支配した。
 国道一六号から金沢逗子線を経て金沢区を抜け逗子市に近づいた頃、鄭に押しつけられた紙片を早紀が開くと、アルファベットで始まる二行の文字列が書き連ねてあった。
「?」
「当日事前に潜入、入場する同志からこの席のチケットを受け取る。北スタンド席の、座面裏の空洞に拳銃を隠してある」
「……」
「もうすぐ下車地点だ。用意しろ」

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