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2008年3月 5日 (水)

Time Up:プロローグ(上)

 二〇〇六年十月十八日。
 新潟県警察が或る女性の捜索願を受理。片桐幸子(かたぎりさちこ)、三十二歳。東京から帰省中で、前日夕刻に外出したきり失踪。同日東京の恋人から彼女へ、会いたいとメールが送られていた。待合せ場所は市内北部の高台を抜けた海岸線近くの林。だが恋人は数日前携帯電話を紛失したと供述、アリバイも判明。迷宮入りの可能性が出てきた一年後、北朝鮮(朝鮮社会主義人民共和国)からの所謂脱北者が彼女らしい女性を目撃したと証言。彼女の或る経歴から関係者が抱いた忌わしい直感は……一年後、最悪の形で的中した。

 二〇〇七年五月二十日。
 神奈川県警察が或る女性の捜索願を受理。浮田秀美(うきたひでみ)、三十一歳、横浜市青葉区あざみ野南二丁目在住。数日前、中国旅行中に同室の客が急死、帰国後もショックで自宅に籠っていたという。
 五月二十一日、東急田園都市線あざみ野―江田間に架かる陸橋から女性が落下、通過列車に轢かれ即死。浮田秀美の家族が同日、本人と確認。他殺・事故の形跡はなく、警察は発作的な自殺と断定。

 二〇〇八年二月十九日、北朝鮮政府は、軍の重鎮で対外強硬派でもあった魚珍禹(オジンウ)人民武力部長(国防大臣)の解任を発表した。
 初代国家主席・金一成(キムイルソン)は息子・金正一(キムジョンイル・現朝鮮労働党総書記兼軍事委員長)の後継者指名に際し、三人の補佐役を就けた。金正一の妹婿・黄沢究(ファンテクグ)、政治学者の王長耀(ワンジャンヨプ)、そして金一成の戦友でもあった魚珍禹。金一成と同世代の魚・王はこの国の実情に通じ、また黄は若年ながら恩師である王の薫陶を受け、有能な政治家に育っていた。
 だが老衰した金一成の判断力が低下、実権を握った金正一の許で黄と魚が対立。同時多発テロ以降の国際情勢にも翻弄される折しも年明け早々、アメリカで政権奪回を狙っていた民主党であるまじき醜聞が発覚。大統領候補本命のビル・ケイン上院議員が、同性愛の経歴を隠していたのだ。致命的なのは前回の選挙で現大統領の娘が同性愛者だとの噂をばら撒いたことで、人権団体にも手法を非難された民主党はそれまでの追上げも失速し敗退。そういう失策の上塗りとなるこの醜聞も宥和政策復活に望みを託す平壌を追い詰めたと思われ、金正一の後継者問題まで絡み武力抗争の憶測も出ていた中、このニュースを周辺諸国は程度の差こそあれ歓迎した。
 二月下旬、日本・北朝鮮は両国サッカーA代表の親善試合開催を発表。日時は五月十八日、開催地は神奈川県・横浜国際総合競技場(横浜市港北区)。
 三年前のワールドカップドイツ大会最終予選では日本が連勝、しかも二戦目の結果日本の本大会出場と北朝鮮敗退が同時確定と、平壌には散々の結果だったが、それでも政治的難局下での対戦実現という事実は残った。今回は年明けのニュースのお蔭もあって、親善試合実現への障害と日本国内の抵抗感は、主催者が拍子抜けしたほど小さかった。
 三月、魚前国防相が政府の許可なく出国したとの情報を韓国国家情報院(NIS)がキャッチ。北朝鮮政府はこれを否定、情報の真偽も確認できない状態がしばらく続いた。
 同中旬、北朝鮮政府は、金正一総書記が日本を訪問したいとの意向を伝達、日本政府はその真意を測りかねながらもこれを受諾。日程は五月八日から二十一日。実現すればもちろん、北朝鮮建国後初のことだ。
 先年の総選挙では対朝強硬外交を標榜する与党が過半数を確保する一方、従来の親朝方針を貫いた社会党は壊滅的惨敗。先年成立していた改訂外国為替法・改訂外国貿易法・特定船舶入港禁止法も一部施行。この動きを北朝鮮は時に「宣戦布告だ」、また時に「共和国(北朝鮮)の農業生産は高く実効性はない」と非難していたが、某NGO(非政府活動組織)が推測した今冬の餓死者は九十万人。そんな中での総書記訪日の真意が全面制裁阻止なのは明らかだった。
 同下旬、CIAが魚前国防相の香港滞在確認を発表。先年の王長耀亡命を思い出させるニュースに、平壌から暗殺部隊出動の情報も流れ中朝国境は緊張、周辺各国は緊迫する情勢に神経を尖らせていた。

 四月十三日早朝、横浜市港北区。
 神奈川県警察港北警察署は環状二号線に面した、三階建の平凡な建物である。周囲には区役所やスポーツセンターなどしかなく、ホテルが建ち並ぶ駅前に比べ、まだ郊外の静けさを残していた。
 飯田尚子(いいだなおこ)巡査部長は仮眠室で目を覚ました。二日酔で鉛のように重い頭蓋骨を抱えて洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗うと、靄が晴れてきた脳裏に昨日の情景が嫌でも甦る。薄暗いチャペルに浮き上がるヴァージンロードに尚子は、自分がこの日をいかに恐れていたか初めて認識した。新郎の手を取り、古い映画のように逃げ出せたら……そんなことをすれば間違いなく、全てを失うだろうが。
 正面の入口から、父親にエスコートされた新婦が稲光りを背景に入場。純白のヴェールがゆるやかに背後へ広がり、オルガンの音色に乗って眼前を流れていく。黒い大きな瞳はここ数日の心配事も忘れたように、人生最良の時を迎え喜びに輝いていた。尚子は周囲に合わせ笑顔で通過を見送ったが、その目は掠奪者への形容しがたい感情を湛えていた。
 オープンテラスに階上の新婦が投げたブーケを女性が黄色い声を上げ奪い合う中、尚子は金縛りにあったように動けなかった。手にしたのは後輩の交通課・斉木美奈子(さいきみなこ)巡査だった。

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