Time Up:四.工作員(下)
五月十一日。
横浜国際総合競技場は時ならぬ人の群れで溢れていた。新横浜駅周辺の商店会が毎年主催している行事で、五月に入り日中は汗ばむ気候とて、来場者の中には半袖も目立っていた。
競技場のゲート内側はスタンドに接した数層のコンコース。その外側は地上に達する吹抜けで、周辺には主催者や後援企業のブースや出店が所狭しと並んでいる。警備本部と別に港北警察署も東ゲート広場隅に設置した広報ブースに尚子が加藤と座っていると、斉木達交通課の警官がやって来た。交替の時刻である。
「ご苦労様です。どうですか、人の出入りは?」
「お隣に食われて閑古鳥だよ」
加藤が顎で指した消防署のブースには、荷台に家屋の模型を組んだトラック。模型が地震そっくりに揺れる、防災訓練の実演用だ。内外で災害が相次ぐ近年は関心も高く、体験見学者の長蛇の列が絶えなかった。
ブースを離れると東ゲート手前、警備本部付近の出店でたこ焼きと飲み物を買い、広場中央の大階段に腰を降ろす。正面の仮設ステージ上ではアマチュアバグパイプ愛好家グループの、ゆるやかな演奏が流れていた。
「中川のカミさん、結構気晴らしになったみたいだな」
「そうね」
尚子は言葉少なに答えた。彼女が以前中川と付き合っていたのを加藤は知らない。
観客席の中から時ならぬシンバルの音。次の演目である韓国民族音楽の演奏だ。白と黒に赤、青、黄のラインという、五色で構成した衣装、そしてシンバルを交えた独特のリズム。打楽器だけで構成されているが、大陸的というべきか、和太鼓より開放的で流れるような旋律だ。
「外国人も目立つわね」
「まあ、さすがに六年前程じゃないが」
欧米系と思われる金髪の白人、黒髪のラテン人、肌の露出が少ない中近東らしい女性、そして黒人。日本を始め各国代表チームのジャージ姿も目立つ。
会場のあちこちをビールの販売員が巡回している。背負ったサーバーから伸びるホースの先に注ぎ口があり、注文を受けるとコップに注いで売るのだ。試合で彼らが場内を売り歩く姿は今や風物詩となっていた。
このイベントに合わせ港北署が今年「一日署長」として招いた若手女優、黒崎麻由美もまもなく競技場へ巡回に来る。今朝の朝礼で制服に全身を固めた彼女は、全署員を前に用意された原稿を読み上げた。
「本日は『港北パフォーマンス二〇〇八』警備任務ご苦労様です。去るワールドカップでは地域の皆さんとも協力、各国チーム関係者、観戦者の安全と円滑な大会進行を確保した労を大とするところであります」
ここまではお決まりの素人スピーチだが、彼女はその後にこう続けた。幹部署員やマネージャーが急に慌てたのは、当初の原稿になかったのか。
「なお先日も当署管内で立籠り事案が発生、幸い速やかに解決しましたが昨今の情勢の中、テロ他の事案発生は充分予想されます。今後も各員が、あらゆる事態で職務を完遂されるよう期待して本日の訓示と致します」
訓辞を結ぶと、全署員の敬礼に本物顔負けの機敏さで答礼。あの新幹線ジャックで思うところがあったようだが、彼女も知らない、否、決して公表できない任務を抱える警備任務関係者には一層重い「訓辞」だった。
次の演目が始まったのをしおに、東ゲートをくぐり場内へ。外部の喧騒が嘘のように静かなコンコースからは、入口越しにグラウンドが見える。今日開放している入口の一つからスタンドに入る。各入口脇に立つのは私服ながらスーツに無線のイヤホン、見る者が見れば警官とばればれだ。加藤がエスコートを気取り肘を開いたが尚子は気づかず、取り残された加藤に警官の一人が吹き出し、睨まれると慌てて真顔になった。
収容人員七万二千人のスタンド内側には陸上競技用トラックに囲まれた、長さ百七メートル、幅七十三メートルのグラウンド。四隅の仮設フットサルコートではアマチュアチームが試合中。このスタンドが無料開放される機会は滅多にないが、チーム関係者や休憩をとる来場者くらいしかおらず閑散としている。二人は入口に近い座席に腰掛けた。
「あそこで総書記が観戦するのね」
尚子が指した先、二人が座った丁度向かい側の一階西スタンドの中央だけ、座席の色が淡いピンクとなっている。さらにその中央奥、半透明の仕切りに半ば隠れVIP席が並んでいた。仕切りは防弾ガラスで、万一の時はその陰で身を護るのだ。
「この距離で、例えばここから狙ったりできるか?」
「うーん、私は無理ねえ。美奈ちゃんならできるかな」
「腕前の問題かあ?いくらなんでも拳銃じゃ遠すぎるよ。やはりライフルとかでないと」
「あ、でも銃とは限らないかも」
「と言うと?」
「UAEのアトランタ五輪予選だったかな、バックスタンドからグラウンドに撃ち込まれた照明弾がVIP席の来賓に命中して、耳が取れる重傷になったんだって」
「嘘だあ」
「中近東のサポーターも過激らしいわね。やっぱりアトランタ五輪予選で、ホーム側のシリアがクウェートに負けてた試合の最中、グラウンドに何が投げ込まれたと思う?」
「さあ……」
「コンクリートの破片」
「へ?」
「シリアサポーターが座席を壊して投げ込んだの。クウェートの選手にぶつけて無効試合になるのを狙ったみたい。でも審判が倒れた選手に『勝っているんだから立て』って言ったら、起き上がって競技に復帰したんだって」
「フーリガンか。サポーターが座席の上に立っているのはよく見るが……」
二人の会話を裏付けるように、一階北スタンドで業者がブルーの座席を取り替えている。出店で買った烏龍茶を加藤が差し出すが、狙撃計画で頭が一杯の尚子は礼を言い受け取ったきりで、それ以上の反応を期待していた加藤は仕方なく仕事の話に戻る。
「今の照明弾の話さあ……事故を装った計画的テロということはないのかな?」
「それなら間違いなくニュースになってたと思うけど……暗殺じゃなくて実は脅迫とか、別の目的だったのかもね」
「どの程度警戒すべきか、情報量が少ないからなあ……例えば西スタンドからなら拳銃でも狙えるし」
「でも、入口の金属探知機でチェックできる筈よ?」
「そうだけど、今は非金属のものもあるとか……」
「そう言えば、映画で見たけど……どうかなあ?至近距離ならともかく、ある程度火力も要る筈だし。そんな代物が出回っているのかどうか……」
「今はなくても、じき現れるだろうけどね。いたちごっこさ」
加藤はそう言いながら、あたりを見廻した。
「でもこうして見ると、大きいよなあ」
「試合でスタンドにもっと観客がいると、見た目にはそんなに感じないのよ。その分、迫力がすごいけどね」
「ふうん……」
それにしても彼らはどうやって計画を実行するのか。自分達はそれを防ぐことができるのだろうか?
五月十二日。
新横浜駅前から環状二号線を北上、製材所のある角を左折すると、港北消防署所有のグラウンドが広がっている。その中央に大きな矢倉が組まれていた。救助訓練用で鉄骨に板張り、高さ十メートル近い物だ。
定期点検に来た消防署員が、内側にぴんとぶら下がった男の脚を発見。板の陰で、遠くからは気づかなかったのだ。恐る恐る懐中電灯を向けると、男は安眠妨害を咎めるように両目を剥き睨みつけた。首にロープを巻き、四肢を垂らしたまま。消防署員は悲鳴をあげ、這うようにその場を離れた。
消防署からの連絡に警察が急行。地上に横たえた遺体のシートをめくった港北署の刑事は息を呑んだ。
男は斎藤だった。
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