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2008年3月 8日 (土)

Time Up:一.親善試合(上)

 四月十九日。
 斉木は、横浜国際総合競技場の北側一階スタンドにいた。隣席には港北署交通機動隊の伊東秀昭(いとうひであき)巡査部長。共に今日は非番で、上半身には横浜マリオスのジャージを着込み、Jリーグの観戦。試合は既に後半ロスタイム、〇対〇ながら相手チームがゴール前で攻勢をかけている。斉木は周囲に負けず黄色い声を発し、チャンスやピンチに一喜一憂していた。
 ディフェンダーと接触した相手フォワードが転倒、ファウルの宣告に北側スタンドからブーイングが起こる。
「レフェリー、どこ見てるのよ?」
 斉木は口を尖らせたが、伊東は少し冷静だった。
「シミュレーションの可能性もあるが……」
 南北スタンド後方の大型スクリーンに、今のプレーの録画が再生される。スタンド天井やコンコースに並んだテレビ受像機にも、同じ映像が流れている筈だ。
 フリーキックを蹴るのはブラジル人のテクニシャン。そしてキーパーの裏をかいたボールがゴール隅へ吸い込まれた次の瞬間、右背後の悲鳴に振り返るとスタンド一角から閃光と白煙。警備員が駆けつける騒ぎを尻目に、後半終了のホイッスル。場外へ流れ始めた観客に混じり二人がコンコースに出ると、火の消えた発煙筒片手に興奮気味の男を警備員が囲んでいた。
「どうしました?」
 話しかけた伊東を男の仲間と思ったか、胡散臭げに振り返った警備員は、示した手帳に態度をがらりと変え、男は大人しくなった。
「頼まれたんです、一万円で」
「嘘は言ってないと思います。時々馬鹿もするけど、発煙筒なんて初めてだもの」
 側にいた長髪の女が助け舟を出す。
「じゃ、どういうこと?」
「試合前、知らない男に発煙筒と一万円を渡され頼まれたんです。理由は言わなかったけど、金も貰えるし……」
「金を貰えば何でも引き受けるのか?これがダイナマイトだったらどうする?」
 伊東がそう言うと、男の顔色が変わった。
「付き合ってもらうぞ?男の特徴を教えて欲しい」

 中川は、都筑ニュータウンに近いワンルームマンションでテレビのスイッチを切った。Jリーグ、横浜―島田戦の生中継が終わったばかりだ。部屋着のままのTシャツにGパンを穿き、夕食に出る。市営地下鉄を挟み広がるのは、まだ造成が進む港北ニュータウン。先日その一棟に一室を契約、駅からは五分ほど近くなる。
 壁に胡麻油の匂いが染み付いた中華食堂で、定食を摂りながら夕方のテレビニュースを見る。都内ではまた中国人による強盗殺人事件が発生、自他共タカ派と認める都知事が記者会見で強い憤りを表明していた。
 帰途コンビニに立ち寄った中川がふと視線を感じ屋外を見ると、男がこちらを向いていて、目が合った途端くるりと背を向けた。気づかぬ風で中川が店を出ると、男の姿は消えていた。

 三浦達哉(みうらたつや)、二十一歳。大正学院大学経済学部三年生。彼の供述によればその男は黒っぽいダウンジャケットと帽子、白髪混じりの口ひげにサングラス姿。
「……もし誰か火傷してたら過失傷害だよ。わかる?」
「すみません」
「だってあいつ、代表からも外れてるのよ?そんな奴に……」
 斉木はマン・オブ・ザ・マッチ(その試合の最優秀選手)をこき下ろしている。服装と言い、これでは誰が警官かわからないなと、伊東は思いながら言った。
「まあ、ブラジルはそれだけ選手層が厚いってことだろう……君も危ないことはやめようや。な?」
「だって、外国じゃよくやってるじゃん?」
「外国は外国だよ。何でも真似してどうするの?」
「それは、まあ……」
「まあ、今日は調書をとっておしまいだけど、怪我をした人とかいたらまた来てもらうよ。いいね?」
「はい。すみませんでした」
「よし」
 三浦という学生に頷くと、当直の警官が苦笑し用紙を取り出す。若者達を帰すと、二人もやっと時ならぬ公務から解放された。
「今日はうまく処理したわねえ」
「大概は話せばわかるんだよ。外国のフーリガンも、捕まえてみたら大学教授ってこともあったらしい」
「こういうことがあると心配になるわね。ゲートの検問だけで大丈夫かとか」
「スタンド内側に溝があるから、グラウンドに乱入することはない筈だが……茨城では逮捕者も出たらしいし」
「代表戦でもこういうことなかった?確か、中継で……」
「二〇〇一年の対パラグアイ戦だ。その後しばらくここで中継をやらなくなったしな」
「知らずにユーゴ戦の日に来たりしたしね」
 日が落ちた駅前に近づくと、観戦帰りのサポーターがまだちらほら流れていく。左に視線を転じると、新横浜プライムホテルの円筒形ホテル棟が夕闇の町並を見下ろしていた。

 帰宅した中川は、しばらく灯りも点けず考え込んでいた。先刻の男の顔が瞼の裏から離れない。自分には全く人相に憶えがなく、しかしでは早紀が目当てだったのか。
 香川県高松市出身、都内に住む弁護士の卵だが、昨年交通事故で療養中の病院を偶然中川が訪れ、どちらからともなく恋に落ちたのだった。挙式を待つかのように管内は連休の特別警戒を控え、ともあれ警察官としては普通の新婚生活が始まる……筈だった。
 異変の始まりは一週間前の未明、中川の部屋に響いた電話。相手を確かめ受話器を取った……最初の数秒の空白が早紀の、恐怖の大きさだと中川は解釈している。その後中川が一度応対してからは一旦止んだが留守番電話には入っており、アパートを空けることにしたのだった。
 あの無言電話の記憶が脳裏を走る。尤も顔も声もわからない今、それはこの数年で培った、いわば刑事の勘だ。どうにも気になった中川は受話器を手にした。
――はい、XXXX号室です。隆行?
「早紀か?どうだ、変わりはない?」
――ええ。
「明日、顔を出すから。大体昼頃になると思う」
――待ってるわ。どうかしたの?
「え――どうして?」
――ううん、何となく。
「いや……俺も何となく、急に声が聞きたくなっただけだ。じゃあ、お休み。ちゃんと部屋にロックしろよ」
 電話を切った後も、中川はその場をしばらく動かなかった。新たな異変はないようだが、無言電話の正体が不明な事実に変化はない。週明け、上部にまた相談すべきか……

 プライムホテルの客室フロアーは中央の吹抜けを囲み、奥に行くにつれて間口が広がる、切り分けたバウムクーヘンのような平面の客室が並んでいる。
 斉木が浴衣を羽織り浴室を出ると、先にシャワーを済ませた伊東は裸体の腰にバスタオルを巻き、競技場を見下ろしていた。斉木はその背中にもたれかかる。彼女のサッカー初観戦は数年前、そしてホームゲームで偶然競技場警備任務中だった、幼馴染の伊東と再会したのだった。
「上から見て気づいたけど、ここってプールもあるのね」
 窓の真下、駐車場棟屋上にプールがある。ライトブルーに塗った水底が水中照明に照らされ、真っ暗な夜景に浮かび上がっていた。
「この次はプール付きで来たいなあ……二〇〇二年は大会直前の時期で、満室だったわねえ」
「閉幕後は観客も関係者も一斉に引き揚げて、逆に静かになったけど……」
 ともあれ今は日々、各自の職分を全うするだけだ。間近の親善試合が世界中を震撼させるとは、そして夕刻の騒ぎがその前兆とは二人共知る由もなかった。
 背後から斉木の肩を抱いていた伊東の手が包み込むように体の向きを変えさせ、唇を重ねる。斉木の肩から浴衣が滑り落ちると、伊東のもう一方の手がカーテンを引き、二人の体はゆっくりとベッドに沈んでいった。

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