Time Up:一.親善試合(下)
四月二十六日。
桜田門交差点の向こうに皇居を臨む警察庁警備局に、小田裕(おだゆたか)は井出順(いでおさむ)局長を訪ねていた。この第二合同庁舎には警察庁の上級機関たる国家公安委員会を含め複数の省庁が入っているが、連休初日とて一帯に人通りは絶えてない。
「総書記訪日警備だが、本部設置を繰り上げるぞ」
「理由は?」
「政治的判断……と言っても、君は納得しないんだろう?」
警務局監察官のまま警備局付を拝命したばかりの小田には直属の上司となる井出は微笑したが、目尻の下がった細い瞼の向うの眼差しは冷たかった。
「狙撃計画の通報(タレコミ)でもありましたか?」
笑顔にも眉一つ動かさない小田に、井出も真顔に戻った。
「……ま、図星だ」
「要人警護で珍しい話ではありませんが、それが何か?」
「そうだが今回はちょっと複雑なんだ。黒幕が……ね」
井出は言葉を切ると身を乗り出して肘を突き、小田を上目遣いに凝視した。
「詳しくは話せないが、平壌の政争絡みらしい。ソースは勘弁してくれ」
「わかりました……例えば政治的動機なら、一番危険なのは横浜の親善試合でしょうか」
「ただ、特定できる材料はまだないし、君には東京から福岡まで及ぶ全日程を担当してもらうから、横浜には代わりに工藤(くどう)君を詰めさせるよ」
「工藤……(神奈川)県警の刑事部管理官でしたね?」
「警備部出向の手続をとったところだ。何か問題でも?」
「いえ……ところで、鶴見川で挙がった銃殺体も本件絡みでしょうか?」
「まだ判断しかねている。工藤君も同じだ。君はどう思う?」
「現時点で無関係と断じるのは不自然です。ただ、現場にどこまで情報を下ろすかですが、狙撃計画の件はまだオンリミットですね?」
「そうだ……総書記の試合観戦自体オフレコ予定だから、そのつもりで頼むよ」
「わかりました。それにしても稲生氏は、そういう重大な情報をどこで嗅ぎつけたのでしょう?」
「……」
「大まかなスケジュールは公表されていますが、狙撃となれば下見も含め相応の準備が必要です。それを、例えばオフレコの親善試合で……」
「それはこちらで調べる。情報は君にも共有してもらうが、当面は予定通り準備を進めてくれればいい」
幾分上がった声のトーンに、共有させたくない情報を井出が他にも握っていると小田は確信した。必要となれば独自に調べるしかないが井出もそれは折込み済らしい。神奈川県下の責任者に自分の腹心である工藤を指名したのも明らかに小田への監視だ。限られた時間とその監視の中での任務遂行は容易でないなと思いながら、小田は局長室を辞した。
明日は神奈川県警と最終調整、明後日には警備本部が発足する。賽は投げられたのだ。
四月二十七日、横浜市栄区長沼町。
JR東海道・横須賀線と、並行して流れる柏尾川に挟まれたこの土地は、菜園の間に駐車場や町工場が点在している。やたら細長い地形が災いして長いこと再開発の手が入らずにいたが、それでも近年、大手建設会社によるマンションが竣工している。
午前五時十一分、小田原発東京行き上り始発電車が何かを轢いたような衝撃を感知し急停車。以前この付近では菜園を荒らすカラスの置き石でダイヤの乱れが相次いだことがあり、乗務員も、報告を受けた運転所もそのケースと考えた。乗務員が線路を調べたがその時は何も発見できず、列車は十五分遅れで運転を再開した。
午前九時過ぎ、待機していた保線区員が現場を再度点検、路肩からぺしゃんこになった金属片を発見、回収した。最初は何かわからなかったが若い区員が見て、携帯電話の着脱式バッテリーと気づいた。本体も間もなく付近で発見。だが作業中、線路上に点々と続く血痕を別の区員が発見し、警察に通報した。
午後一時前後、携帯電話の機種と製造番号から持ち主が判明。三浦達哉、二十一歳、大正学院大学経済学部三年生。現住所は港南区下永谷の同大学港南寮。一昨日以降行方不明で、現場付近に立ち回り先の心当りはないと友人は供述した。そして日没直前の午後六時過ぎ、柏尾川の約百メートル下流から若い男性の死体を発見。三浦の家族へ直ちに連絡されたが、真っ先に駆け付けてきたのは一人の若い女性だった。
「あなたは?」
「川上(かわかみ)といいます。大正学院大学の者です」
彼女はそう言い学生証を提示した。後刻聞いたところでは大学に現れた捜査員に不穏を察知、栄署で様子を見ていたそうだ。捜査員が川岸に横たえた死体の所に案内したが、上を覆ったシートがめくられた次の瞬間彼女は昏倒、救急車がもう一台駆けつける羽目になった。鑑識は死後約一日と推定した。
運河を挟んで新港埠頭に臨み、すすけたビルに囲まれた駐車場に、黒塗りのセダンが一台停まっていた。
白レースのカバーの後部座席にいるのは神奈川県警刑事部長、大野武史(おおのたけし)警視長。運転手には因果を含めて遠ざけたか、車内には他に誰もいない。
馬車道方向からサングラス姿の長身の男が駐車場に現れた。車のナンバーを確かめると周囲を気にしながら接近、ノックに応え内側から開いた後部ドアに、無言で滑り込む。
「お待たせしました」
そう言い男はサングラスを取った。小田だった。
「妙な場所に呼び立てて済まない。しかし、ここまで用心の必要があるのかね?」
「お手数をおかけします。それとなく注意していましたが、やはり……」
「監視……か。今日は大丈夫かね?」
「はい。これ以降予定は入っていません。理由をつけて車は先に帰しました」
「そうか……喫(す)っていいかね?」
「どうぞ」
「失礼するよ。庁舎は全面禁煙でね……どうだった?」
「稲生課長補佐の件は、県警本部長もご存じないようでした」
「やはり……君、井出局長の意向と思うかね?」
「確証はありません」
「まあ、真相は多分そんなところだろう。尤も、そういう小細工主義も最近の警察不祥事の一因だが……」
「自分も、その中に入っているのでしょうか?」
「それは、これからの君次第だよ」
そこで二人の警察官僚は苦笑を交わした。
「とにかく殺された稲生氏だけでなく、局長も狙撃計画の核心をつかんでいる。問題はこの情報が現場に下りずにいる理由だ。局長なりの方法で対処するつもりか、まさか、直接計画に関わっているということは……」
「さあ、どうでしょう?」
「おいっ……君も随分いびられてるようだねえ」
「しかし、可能性はゼロではないでしょう?」
「だが……もし予想通りなら、これはもう不祥事どころでは済まないぞ」
「不祥事……港北署長の経歴にもその文字がありましたね。尤も、色々事情があったようですが?」
「……」
「まあ、局長とあの酒井(さかい)署長との関係は知る人ぞ知るです。あちらにご迷惑がかかるおそれはありますが、昨夜部長も仰った通り、カードとしては有効かもしれません」
「そうだな。君には大学の先輩にあたるから、複雑なところだろうが?」
「……」
「まあいい。署長には私が返事する。君は知らん振りをしててくれ。できるな?」
「はい、今回は一個所に詰めきりとはいかない分、その点は問題なさそうです。ただ前もって申し上げておきますが、このことで今回の警備任務に支障が出ることだけは避けたい、どうかそこはよろしくお願いします」
「まあ、今後の展開次第でどうなるかわからないが……ご苦労だった」
大野が煙草を揉み消すのを合図に、小田は無言で会釈して再びサングラスをかけた。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント