命の尊さ?
教育者のトップが…恐喝いじめ隠しの校長首つり(夕刊フジ)
金銭をたかるいじめがあった福岡県内の小学校校長が12日午後、自宅近くの山林で首をつって自殺した。校長は前日、「市教委に(たかりを)金銭トラブルと報告したのは怠慢だった」と陳謝したばかりだった。いじめに未履修、タウンミーティングやらせ問題と大揺れの教育界。生徒たちに命の大切さや社会ルールを教えるべき現場のトップはなぜ、次々と自らの命を絶つのか。
12日午後3時ごろ、北九州市八幡東区の林で、市立小学校の男性校長(56)が木の枝に掛けたロープで首をつり自殺しているのが見つかった。 市立小学校では5年生の女子児童(10)が約1年間にわたり、同級生8人から現金計約10万円を脅し取られていたことが発覚。校長は市教委に事態を「金銭トラブル」と虚偽報告し、「適切ではなかった」「隠すつもりはなかった」と11日に謝罪したばかりだった。
いじめ、未履修と教育現場でのトラブルが次々と表面化するなか、現場トップの校長の自殺が相次いでいる。
10月30日、茨城県大子町の山林で、県立佐竹高校(常陸太田市)の校長(58)が首をつって自殺しているのが見つかった。同校では3年生計80人が必修科目が未履修で、校長は生徒に「悪かった。卒業できないようなことは絶対にない」と説明していた。
今月6日には、愛媛県有数の進学校、県立新居浜西高校の校長(60)が自宅で首をつって死んでいるのが見つかった。
校長は必修科目の未履修問題が論議されて以降、同校の地理歴史の履修方法や、推薦入試などで大学に提出する調査書の記載方法について悩んでいたという。校長の遺書には、「わたしの認識不足、優柔不断の責任です」との文言があった。
現場のトップは、なぜ死に急ぐのか。
「校長の顔が子どもたちに向いてないのが一番の問題」。社会評論家の芹沢俊介氏は教育者としての姿勢を問題視する。
「(自殺は)気の毒だ」と前置きし、「酷な言い方かもしれないが、逃げたとしか言いようがない」と語る。「今回の校長の自殺は市教委への虚偽報告が直接的な原因だが、これは市教委と校長との閉じた関係の中で起きたこと。そこには子どもが不在だ」とみる。
「責任を現場に押しつけるだけの教育委員会はいらない」と、そのあり方を批判するのは、ジャーナリストの大谷昭宏氏。「子どもたちに命の尊さを訴えていかなければならない校長が自殺してしまっては、元も子もない」と社会への影響を危惧(きぐ)しながら、「教育界の構造にも問題がある」と、教育委員会が校長に責任を押しつける現状を指摘する。
「校長は学校ではトップだが、実質は現場と教育委員会の間で板挟みになる中間管理職のような存在。権限は与えられないまま責任だけは問われる。汚職などで企業の中間管理職が自殺するのと構図は同じだ。会見でも教育委員会の責任者が出てくるのを見ないし、きちんと責任と権限の所在を明確にできない教育委員会に存在意義はない」と批判している。
[産経新聞社:2006年11月13日 17時25分]
結局こうなった。
この記事は教育委員会など上部の責任にも言及。それはそれで誤りでないが、個人的にはそれでも「把握できなかった」「処置は尽くした」と言い逃れてのうのうと生きているトップよりずっとましかの、とは思っている。それより、真因が個々の「イジメ」にあるのがわかっているのに、それに対して適切な処置がなされたというニュースは、「イジメ」が社会問題化して以来とんと聞いたことがない。
指導と言わず、敢えて処置と書くが、他人の心身の安全を傷つけた者が何の償いもなく生き長らえる、こんな本末転倒が許されていいのか?
まして、死という最悪の事態を招来したケースまでが?
現在改正が論議に挙がっている教育基本法だが、これはそれよりむしろ少年、刑法の問題になりはしないか。日本に限らないが、「犯罪者にも人権ありき」という思想が結局犯罪の凶悪化に至っている。ようやくそれに歯止めをかける試みも始まっているが、それに加害者の年齢は関係ない筈だ。
豊島区で、予告された自殺と、同級生全員の「詰腹」という事態はなかったようだが、現時点でまだ、というだけで危険は去っていないのかもしれない。学校なりが適切に「処置」したのであればと願うしかないが、全国で根本的な問題は置き去りにされている現実は変わりない。
時間はあまりない。
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